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2020年9月13日 (日)

イ. 被告発人安田繁克と被告発人大網健二との接点(平成2年春か秋)

(ア). 中古のBMW  余り具体的な話として聞いていなかったと思うのですが,後に被告発人大網健二は,被告発人安田繁克と思われる男が,中古車販売の話し合いをする喫茶店に彼女を同伴させていたと私に話しました。その車というのが中古のBMWになります。

 私は1,2回,金沢市場輸送の駐車場でそれらしいBMWをみています。洗車機の横辺りと思いますが,駐車場でも奥の方に他の車と横に並んで駐車されていました。スポーツタイプに見えたBMWですが,ずいぶん古いもので,遠目にもかなりのポンコツに見えました。

 私が小学校6年生の頃になると思いますが,スーパーカーブームというのがありました。その1,2年後になるのかもしれないですが,週刊少年ジャンプに「サーキットの狼」という漫画の連載がありました。ちょうどその頃に玩具屋のプラモデルでみたBMWの型になります。

907:2020-09-10_13:35:30 * 《参考資料》昭和50年代初めのスーパーカーブームと週刊少年ジャンプの連載「サーキットの狼」,その当時のBMW https://hirono-hideki.hatenadiary.jp/entry/2020/09/10/133528

 被告発人安田繁克の名前を知ったのは,平成3年6月22日頃になるかと思います。被告発人安田敏と同じ名前と知ったのも,市場急配センターに掛けた電話で,電話口に出た被害者安藤文さんが「どちらの安田ですか?」と聞き返したからです。

 なお,この電話の少し前に私は被告発人安田繁克と会って話をしており,そのとき被告発人安田繁克は市場急配センターをやめており,フリーで仕事を請け負っているなどと話していました。ただ,その話をした場所が,今思い出せなくなっています。

 中古のBMWの売買の話は,これも被告発人大網健二から聞いていて,直接名前など聞いていなかったはずですが,私は被告発人安田繁克のことに間違いがないと思いながら話を聞いていました。

 あとで考えると芝居じみた不自然な点も感じられるのですが,似たような話で不自然さが際立ったのが,別の項目として取り上げる,笹田君のことです。これには被告発人安田繁克と親しくしていた可能性もあるS藤も絡んできます。

(イ). ほぼ同じ頃に入社した西口君と名古屋の元暴力団員S藤 /告発の事実/市場急配センター/被告発人安田繁克/松浦さんの愛人の息子として入社した被告発人安田繁克(平成元年9月?)/ほぼ同じ頃に入社した西口君と名古屋の元暴力団員S藤

 西口君は,金沢市場輸送の古参運転手,山田さんの娘婿あるいは婚約者として,被告発人安田繁克は堂野さんの愛人の息子として,ほぼ同時の入社となり,盛り上がった話題となっていました。平成元年の9月頃と思うのですが,あるいは昭和63年かもしれません。

 秋口というのか9月頃というのはなんとなく憶えています。名古屋の元暴力団員S藤も同じ頃と思うのですが,同じ頃だとすると昭和63年になると思います。これは被告発人松平日出男の登場とも近い時期でした。

 同じ頃に,被告発人松平日出男とは中古車購入の話をし,被告発人松平日出男が金沢市場輸送に新型車のカリーナを私に試乗させるために持ってきたことがあり,同じ頃,S藤とは,彼が乗っていた400CCクラスのオートバイの話をしたと記憶にあります。

 私はかなり長い間,被告発人安田繁克の母親の愛人を堂野さんと思い込んでいました。なので松浦さんが母親の愛人と知ったときは,かなり驚き,自分の勘違いを恥辱のように思っていたのですが,最近では勘違いではなく,そのように吹き込まれていた可能性を考えるようになっています。

 堂野さんの場合も金沢市場輸送や市場急配センターの社員ではなかった可能性があるのですが,イワシのシーズンも終わりに近づいた頃に,イワシ運搬のダンプの持ち込み運転手として仕事をするようになりました。

 これは私の2度目のイワシの運搬だったので,2月頃というのは平成2年になります。これだと被告発人安田繁克の入社も平成2年になります。堂野さんが先に仕事をするようになっていたことが前提になるからです。

 堂野さんの愛人の息子と聞いた被告発人安田繁克ですが,これも主に金沢市場輸送の輪島の運転手に聞いたと印象にあります。一人を除き,大型保冷車の運転手で主に鮮魚を運んでいました。仕事上の接点は考えられないのですが,夕方に麻雀を堂野さんがしていたのが,知り合うきっかけとは考えられます。

 私の知る範囲で,堂野さんが鮮魚の仕事をしたことはなかったのですが,配車係の本恒夫社長が無理な配車をして,たびたび自分で運行に出ていると聞いており,堂野さんにも頼んだことがあったのかもしれません。

 頼むとすれば東北便ですが,鮮魚だけではなく練り製品など扱う種類が多く,慣れないと出来る仕事ではなかったと思います。可能性として輪島の運転手に堂野さんの協力を頼んだとは考えられ,それで親しくなったとは考えられます。

 実際に聞いた話ではないですが,東北便の荷物だけを堂野さんに運んでもらい,金沢中央卸売市場に待機した輪島の運転手が,率先して荷降ろしの手伝いをし,荷降ろしの完了後には,堂野さんのおごりで酒を飲んだことも想定は出来るところです。

 私としては堂野さんとは一緒に食事をしたこともなかったと思いますが,松浦さんには食事に連れて行ってもらい,おごってもらうこともありました。一つ強く印象に残っているのが,金石のバスターミナルで,廃車になったバスが焼き鳥屋になっていたと思います。夜遅くに行きました。

 そのときに見た,松浦さんの指輪も印象に残るもので,銀色で大きな平面上の指輪でした。それと同じような指輪を平成3年3月に被害者安藤文さんがつけているのを見たのですが,3月5日は細い指輪で,清水市行きのミールを積んだ日が,その指輪だったと思います。

 記録には記憶も清明な状態で繰り返し記述していると思いますが,イワシの運搬は昭和63年12月から始まった1回目と,平成元年12月から始まった2回目でメンバーががらりと変わっていました。同じだったのは松浦さんと私だけだったと思います。

 繰り返しますが,堂野さんの愛人が入社する,あるいは入社したという話を聞いた頃,一度,被告発人安田繁克の姿を近くで見ているはずなのですが,その後,会社で姿をみることは少なかったと思います。

 特に,一番,運転手の集まる夕方の時間帯に被告発人安田繁克の姿を見たという記憶がない気がします。笹田君と峰田君は,割とちょくちょく,仕事が終わった後も金沢市場輸送の運転手の休憩室で,ぶらぶらとしていました。テレビを見ることもあったかもしれません。

 被告発人安田繁克のことではっきり印象にあり,直接,言葉を交わしたのが2月頃のことでした。たぶん平成3年になると思うのですが,これもまだ記憶が清明だったときに記述したものがあると思います。

 午前中,金沢市場輸送の駐車場には雪が積もっていて,市内配達の2トン車だったと思いますが,被告発人安田繁克がスリップをさせて動けなくしていたので,運転を代わり,雪の轍から出したということがありました。

 ワンデフの大型車は雪道に弱く,新潟や東北の豪雪地帯もよく走るので,こつのようなものはつかめていました。上り坂の雪道でいったん停車すると,そのまま発進できないことも普通にあったので,乗用車の運転とは比較にならず難しいものがありました。

 西口君は,当初より新車の4トン保冷車の持ち込み運転手となっていましたが,やはり山田さんの存在が大きいという話でした。山田さんは途中で名前が山田さんに変わったのですが,古参といっても昭和59年の10月にはいなかった運転手で,昭和61年の8月にはいたはずです。

 西口君の4トン保冷車は新車で,それもフルモデルチェンジをして間もない頃の日野のトラックだったと思います。運転手の間で話題になることはなかったですが,日野の4トン車はモデルチェンジ前の昭和59年当時の車種も同じで,英語でレンジャーという名前があったと思います。

 平成3年には1月と10月に2回,日野の大型車の新車に乗務をしていますが,その当時のことは記憶にないものの,昭和59年当時の金沢市場輸送の新車の日野の大型車が,ドルフィンという名前であったことはよく憶えています。平成3年10月もフルモデルチェンジにはなっていませんでした。

908:2020-09-10_14:59:57 * 《参考資料》日野レンジャー 4代目(1989年〜2001年) https://hirono-hideki.hatenadiary.jp/entry/2020/09/10/145955

 「1989年7月登場」とありました。平成元年7月です。西口君とも会う機会は少なかったと思うのですが,その4トン保冷車で仕事をする姿は見かけていました。早い段階で話もしていると思うのですが,同じ能都町の瑞穂の出身で,金沢市の尾山台高校を卒業したと聞きました。

 この西口君も平成3年の秋から私の前に姿をあらわすようになり,被告発人多田敏明とともに工作活動っぽいことをやった形跡があり,私に被害者安藤文さんに関する偽りの情報を吹き込んだ可能性もあります。

 S藤ですが,最初に姿を見た頃にバイクの話などして,それから長い間,姿を見かけずにいました。市内配達の仕事をしているとは聞いていましたが,仕事をする姿を見ることはなかったような気がします。そして久しぶりに姿を見たのが,平成元年12月のことでした。

 これが被告発人大網健二と笹田君の車の売買を巡るトラブルになります。

(ウ). 長く勘違いしていた,入社のきっかけとなった被告発人安田繁克の母親の愛人  すでに書いていることですが,私は長い間,被告発人安田繁克のことを堂野さんの愛人の息子だと思っていました。実際は,堂野さんを金沢市場輸送のイワシの運搬の仕事に紹介した松浦さんの愛人の息子だったのですが,この間違いにいつ気がついたのか現在思い出せなくなっています。

 繰り返し愛人と聞いていたのですが,松浦さんは金沢市場輸送で仕事を初めてすぐの頃,若い妻が家出をしたという話でした。それでも1度は,その妻という女性の姿を金沢港のイワシの仕事の現場で見かけています。髪が長く,顔ははっきりわからなかったのか,印象に残っていません。

 離婚をしたとは聞いていなかったので,新たに入籍も出来ず愛人となっていたのかもしれません。近年は愛人という言葉自体を見かけなくなっていますが,平成の前後にはテレサテンの「愛人」というヒット曲もあり,身近によく聞くような言葉ではありました。

 当時,松浦さんは45歳ぐらいと聞いていたように思いますが,妻は若く,20歳過ぎかあるいは10代と聞いていたかもしれません。子供が二人いてどちらも男の子ですが,上の子は昭和61年生まれの私の長男より1つほど年上と聞いていました。下の子は,まだ満足に話が出来ない年頃でした。

 私が市場急配センターで市内配達の仕事を始めたのは,平成3年の6月23日になります。私の記憶では5月だったのですが,金沢市場輸送の運行表に6月分の運行記録がありました。

 母親を通じて金沢刑務所の拘置所に差し入れられた一部だったのか,頼んでいなかったはずの,金沢市場輸送の運行表があり,疑問に思いました。あるいは,斐川雅文弁護士から郵送で差し入れがあった一部になります。

 感覚的に一月ほど先に被告発人安田敏は金沢市場輸送で市内配達の仕事を始めていましたが,すっかり打ち解けた様子でした。すぐに繰り返し聞かされたのが,大野君のことです。被告発人安田敏は私に,当時16歳という大野君のことを堂野さんの愛人の息子だと話していました。

 当時はそれほど深く考えなかったと思うのですが,被告発人安田敏は堂野さんのことをよく知る人物のような口ぶりでした。堂野さんは金沢市場輸送の社員運転手ではなかったはずで,会社に来ることも少なかったと思うのですが,考えられるのが金沢市場輸送での夕方以降の麻雀です。

 しかし,朝早く夕方早めの時間に仕事が終わる市場急配センターの市内配達の仕事をしていた被告発人安田敏が,夕方に金沢市場輸送の事務所に行くとは考えられず,被告発人安田敏が麻雀の話をすることもなかったと思います。

 私が見たのは一度だけだったと思いますが,群馬県の中国化薬に,堂野さんが金沢市場輸送の大型トラックで荷物を運んできていました。ウィング車だったと思うのですが,なぜか平ボディ車を見たような記憶になっています。荷物が爆弾か魚雷だけに,シートを掛ける平ボディ車とは考えにくいのですが。

 他にも金沢市場輸送の長距離の仕事をしているような感じでしたが,ミールやダンベを運ぶのも見たことがなかったと思います。持ち込みのダンプも,一般の土砂積みのダンプに比べかなり小型に見えました。

 古い型の三菱ふそうの大型車だったと思います。色がバイクの塗装のようなワインレッドで,色の具合で小さく見えるとは考えていましたが,普通の大型車のキャビンには見えなかったと思います。

 10トン車と6トン車の間に別の大きさの車種はなかったと思うのですが,そもそも何を運んでいたのか不思議なダンプでした。土砂積み禁止のダンプになっていたと思いますが,通常,土砂積み禁止のダンプは木材チップなど軽くてかさばるものを運ぶので,車体は大きくなる傾向がありました。

 大野君は大人しく無口でしたが,体の大きな少年でした。仕事中もヘッドフォンをつけて曲など聴いている様子でした。何度か市内配達で同乗させたことがあるのですが,話しかけると割合,普通に話していました。

 夏休みになると高校生の大野君の友人も,市内配達のアルバイトをするようになり,彼も同乗させることがありました。名前は今も憶えていますし,なんとなく姿や顔も記憶にあるのですが,細身で割と背が高く,大人しく素直な少年でした。

 被告発人安田敏がやたらと積極的に,私にこの堂野さんの愛人の息子という大野君の話をしていたのですが,堂野君の家は,金沢市内の涌波だと言い,安田敏が住む花里のすぐ近くになります。アルバイトの少年も家が近くと聞いていましたが,どの辺りに家があるのかは,聞かなかったように思います。

 この涌波には,ウェルマートというスーパーがあり,近年出来たスーパーで,私の知る範囲で他に,保古店と,玉鉾店があったと思います。保古店には,東力2丁目のアパートから買い物に行くこともありました。ただ,平成9年頃には全滅をしていたと思います。

 他に,七尾市に本部を置く,昭成会という暴力団の組事務所がありました。大通り沿いで周囲はほとんどが住宅地だったと思いますが,特に問題になっているとは聞いていませんでした。珠洲市のKという被告発人安田敏の友達が所属したのもこの事務所だったと思います。

 珠洲市のKに最初に会ったのは昭和58年の秋頃のことでしたが,昭和61年の12月に被告発人安田敏が私のアパートに訪ねてくるようになった頃は,暴力団員になったといい,被告発人安田敏はそのKから借りてきたというカマロという大型のアメリカ車に乗ってくることもありました。

 たぶん,その後も付き合いはあったと思うのですが,平成3年には珠洲市のKの話を,被告発人安田敏がすることはたぶんなかったと思います。珠洲市のKと被告発人安田敏の間には,他にもいくつか接点があったのですが,その辺りも記録には洗いざらい徹底した記述してあります。

 被告発人安田敏の花里のアパートについても,Googleマップで場所を確認しておこうと思いながらやっていませんでした。前に官舎があったので,たぶん今でも場所の特定はできそうに思います。

909:2020-09-10_16:38:39 * 《参考資料》被告発人安田敏の平成3年当時の花里のアパートと,金沢市涌波周辺 https://hirono-hideki.hatenadiary.jp/entry/2020/09/10/163837

 堂野さんの愛人のことですが,大野君の話を聞く前に,母親とは会っていました。大同生命だったと思いますが,生命保険の勧誘で,堂野さんが引き合わせたのが,その女性だったからです。時期は春か秋だったと思います。

 堂野さんが勧誘をする前に,生命保険外交員の女性から私の妻に接触があった様子でもありました。東力のアパートの駐車場に堂野さんが車を停め,車の中で待っていた様子が記憶にあります。女性が一人でアパートの中に入り,契約の手続きをしたように思います。

 妻から何度かその女性の名前は聞いていたのですが,余り話をしなかったと思います。生命保険の加入も不本意でした。たぶん同じ頃になると思うのですが,堂野さんに頼まれて,寺中町まで車で送ったことがありました。涌波とはかなり離れた場所です。これもマイマップに追加しておこうと思います。

910:2020-09-10_17:17:00 * 《参考資料》堂野さんを送った寺中町の大体の場所と,同じ寺中町の中西運輸商の事務所,それと近くの金沢西警察署 https://hirono-hideki.hatenadiary.jp/entry/2020/09/10/171658

 堂野さんの乗用車というのは見た記憶がなく,東力のアパートに来たときも,保険外交員の女性の車を運転しているような感じでした。堂野さんについては,どこに住んでいるのか,また,家族のことも話を聞くことはなかったように思います。妻子がいるような話も聞いていなかったと思います。

 堂野さんを金沢市場輸送に引き入れた松浦さんですが,元暴力団員で,いかにもそれらしい雰囲気で,昭和の時代の仁義なき戦いの映画の感じでした。一度,本当にその時代の映画に出てくるような,古いポンコツのベンツに乗って,乱暴な運転をする様子を目の当たりにしたことがありました。

 大野という女性の名前は聞いていたと思いますが,保険の契約をした当時,堂野さんの愛人とは聞いていなかったかもしれません。ただ,堂野さんの妻と考えることはなく,それは大野という違った名前を聞いていたからだと思います。

 堂野さんと最初に会ってから,生命保険の契約まで半年ぐらい間があったように思います。暑くもなく寒くもなく過ごしやすい季節だったと記憶にあるので,やはり平成2年の秋になりそうです。その後,大野という女性に会うことはなかったと思いますが,どこかで一度,顔を合わせたような気もします。

(エ). 被害者安藤文さんを市場急配センターに紹介したともされる,笹田君と峰田君  この二人は,私の判断で実名としますが,事案解明の鍵を握るかもしれない人物であります。ほぼ同時期の入社でいつも一緒に行動をしていた二人です。入社の時期ははっきりしませんが,金沢市場輸送の事務所が西念町リの1にあったとき,事務所が一つだけの頃はまだいなかったと思います。

 高田さんが市内配達の責任者で,金沢市場輸送以外にも石川日通,小林運送などが市内配達をしていた頃のことです。高田さんが竹沢俊寿社長を激怒させるかたちで失踪し,それからまもなくだったと思いますが,同じテナントビルの並びにもう一部屋賃貸したらしく,市内配達の社員がそちらに移りました。

 被告発人梅野博之が代行の責任者をやっているという話も聞きましたが,余り姿を見かけることはなかったと思います。興味本位に部屋を覗くと,決まって女子事務員が一人いました。名前を出すつもりはないですが,ちょっと思い出せなくなりました。半年ほど前には憶えていたはずです。

 大西真さんのおごりで片町に飲みに行ったとき,被告発人池田宏美と一緒にいた女性です。20代後半と聞いていましたが,ずいぶんと落ち着いていて,かなり年上に感じていました。

 金沢市場輸送の事務所が二口町に移ってからもしばらくはいたと思いますが,姿をみなくなったあと,社員運転手Tさんとの不倫関係で首にされたという話を聞きました。二口町に移ったのは昭和63年の7月の初めと記憶しています。なぜか7月の初めということをしっかり憶えています。

 それから金沢市場輸送の長距離と市内配達が,また同じ事務所と運転手の休憩室となったわけです。これは平成2年の春,市場急配センターの新事務所が出来るまで続きました。

 笹田君と峰田君の姿を見るようになったのも,その二口町の事務所に移ってからだと思います。そういえば,少し思い出したのですが,大久保くんの場合は,逆に二口町に事務所が移ってから姿を見なくなったかもしれません。

 大久保という名前もはっきりとは憶えていないのですが,ありふれた名前ですし,一応そうしておきます。石川日通の運転手だった,こちらも名前が思い出せないですが,確か私の一つか2つ年下で家が小立野にあると聞いていましたが,その運転手の後輩として金沢市場輸送に入ったような話を聞きました。

 その大久保君が笹田君や峰田君と彼女の交換をしていたという話を被告発人多田敏明から吹き込まれたと思うのですが,被告発人多田敏明というのは,金沢市場輸送と市場急配センターが同じ事務所だった頃には姿を見ていなかった運転手なので,なぜ大久保君の名前をしっているのか不思議でした。

 そして同じ頃,被告発人多田敏明に,被害者安藤文さんを市場急配センターに紹介したのが笹田君か峰田君と聞かされたのです。どちらかはっきりしないのは,私の記憶がはっきりしないためです。たぶん峰田君と聞いていたと思うのですが,確信は持てません。

 笹田君と峰田君の年を19歳と聞いていた記憶があるのですが,それは平成4年の2年ほど前のことで,被害者安藤文さんと同じ年と聞いたように思います。被害者安藤文さんは8月生まれで,平成4年の誕生日を迎えるまでは21歳でした。昭和45年生まれです。

 とにかく笹田君と峰田君は会社にいるときいつも一緒にいました。何度か直接会話をしたことがあったのですが,二人とも家は金石と話していたように思います。金石は金沢港の近くでもありますが,犀川の河口に金石港があります。大野とも隣接していますが,北前船などの古い歴史があるところです。

 といっても金石は広く,金沢西警察署に近い辺りほど住宅地が多い感じでした。昭和56年当時は,暴走族が多いとも聞いた金石ですが,平成4年当時は,金石海岸がナンパのスポットともなっていて,金沢西警察署の警察官も「ちゃんかい」と読んでいました。方言を直すと「セックス街道」のようなものです。

 昭和58年当時,「ちゃんぺ街道」のような露骨な表現はなかったですが,ナンパのスポットは繁華街の片町から少し離れた香林坊から南町でした。夜にその辺りを若い女性が歩いていると,ナンパされるのを目的にしているとみなされ,声を掛けられていたものです。

 被告発人安田繁克は暴走族のリーダーだったとも聞いていましたが,2月1日の夜にグループ名を尋ねると,「狂走恋命」だと言っていました。昭和56年頃にも暴走族の落書きとして見かけていたものですが,具体的な暴走族のグループ名としては聞くことがありませんでした。

 被告発人多田敏明も暴走族に入っていると話していました。平成4年に入ってからではと思いますが,新聞に暴走族の死亡事故のニュースがあり,当日だったと思いますが,昨夜の死亡事故は自分も参加した集団暴走と話していました。金沢東インターの近くで福久が事故現場になっていたと思います。

 仲間が事故を起こしたのを置き去りしたという話もありました。トラックの仕事で夜に運転をすることも多かったですが,平成3,4年頃には,暴走族は余りみなかったと思います。長距離も同じでしたが,昭和57年の9月から12月に名古屋の港区にいるときは,逆走する大きな集団暴走を見ていました。

 なお,被告発人安田繁克も被害者安藤文さんと同じ21歳で,そのとき被告発人多田敏明は19歳でした。2つ年下になります。被告発人安田繁克は,被害者安藤文さんが泉中で,自分が高中だったので,話をしていたとも言っていました。高中は,高岡中学校のことです。

金沢市立高岡中学校 - Wikipedia https://t.co/pcjdTjyjXC 石川県金沢市新神田1丁目10番1号

 被告発人安田繁克の家が東力,被告発人多田敏明が間明と聞いていました。供述調書で被告発人安田繁克の住所を見たのだと思いますが,その後の大型書店が出来た駐車場の前辺りに家があったようです。入江の交差点の近くにもなりますが,平成4年当時は何があったのかよく憶えていません。

 笹田君と峰田君に関しては,他にも話を聞いたことがありました。守田水産輸送の古参の運転手で松ちゃんと呼ばれていた人ですが,同じトラックの中で話をしていたとき,二人とも自分の息子の親しい友達だと話していました。

 ただ息子といる家は,金石ではなく金沢港の近くと話していたように思います。金沢港でも戸水町の辺りと聞いたように思います。これも記録には記述したことがあると思います。

 少し思い出したのですが,大久保君や笹田君と峰田くんが彼女の交換をしていたという話は,被告発人多田敏明ではなく,被告発人梅野博之の口から出た話かもしれません。あまりはっきりとは思い出せないのですが,これも記録には,しっかりした記憶で記述したものがあるはずです。

 なお,被告発人梅野博之の入社は昭和61年12月頃になると思います。被告発人池田宏美と同時期でしたが,被告発人梅野博之は,けっこう長い間,目立たぬ存在でした。平和町の県営住宅に住んでいるような話を聞いていて,供述調書にもその住所がありました。

 笹田君と峰田君は,平成3年の2月頃,姫のNさん,珠洲市大谷町出身のYSさんが,竹沢俊寿会長に不義理をするかたちで市場急配センターを去ったとき,一緒に行動したとも聞きました。宇出津のK村さんもそうだと思います。

ひまわりチェーン - Google 検索 https://t.co/VjHrS21sZU

 意外に思ったのですが,ひまわりチェーンというのは今も金沢市に存在するようです。ただ店舗数は少なそうです。平成3年当時は,金沢市内のあちこちで店舗を見かけていました。いずれもスーパーというよりは,食料品店に近い感じでした。

加盟店情報 | 全日本食品株式会社(全日食チェーン) https://t.co/WpxGbZWFsE

 ひまわりチェーンは,「全日本食品株式会社(全日食チェーン)」の加盟店のような情報を見かけました。全日食チェーンというのは,平成4年より前にもどこかで見かけていたような気がしますが,ひまわりチェーンとは関係がないものと思っていました。

飛騨運輸 金沢支店 - Google マップ https://t.co/muLEZuqYjV

 住所は金沢市湊4丁目となっていますが,この飛騨運輸金沢支店の場所の辺りに,ひまわりチェーンの配送センターのような倉庫があったと思います。けっこう新しい建物でした。近くには糧食,カナカンと大きな,似たような商品を扱う倉庫があって,北都運輸の市内配達をしているときの配達先でした。

 たぶん,ひまわりチェーンだったと思うのですが,会社の内容が変わっているとも考えられます。平成3年の春,被告発人大網健二の引っ越しの手伝いで,2トントラックを返しに行ったのも,その金沢港に近いひまわりチェーンの倉庫でした。

 詳しい話は聞かなかったですが,宇出津のK村さんらは,市場急配センターを見限るかたちで,ひまわりチェーンの仕事を始めたようです。

 市場急配センターでの市内配達中,笹田君か峰田君,たぶんその両方と,他の能登の顔見知りの市場急配センターの仕事をしていた運転手とも同じ場所で顔を合わせたことがありました。ひまわりチェーンの店舗だったと思います。ややこしい場所でしたが,だいたいの場所は記憶にあります。

長土塀 - Google マップ https://t.co/svRWwcU64R

 ちょっと意外には感じたのですが,住所は金沢市長土塀になりそうです。被告発人大網健二兄弟とも縁のあった豊蔵組の会社がありますが,その並びの道路からやや斜めで古い商店街に入る道路がありました。その奥の方にひまわりチェーンがあったと思いますが,道路が折れ曲がっていたとも思います。

 自分の受け持ちだった小立野・片町コースの受け持ちのようでしたが,余り配達に行く店ではありませんでした。ずいぶん久しぶりに姿を見たとも思ったのですが,そこで笹田君や峰田君と出会ったのです。忙しそうに真剣に仕事をしていたので声を掛けることはなかったかもしれません。

 笹田君と峰田くんとは,その後にも一度会っております。同じ焼肉店で食事をしたのですが,その場には被告発人浜口卓也,被告発人多田敏明,西口君がいましたし,被告発人多田敏明が手引きをしたような成り行きで,被告発人浜口卓也のアパートに行った後のことです。平成3年の年末です。

(オ). 宇出津のK村さんと姫のNさんという被告発人大網健二と市場急配センターの接点  よく考えてみると,金沢市場輸送で被告発人松平日出男を見るより,宇出津のK村さんと姫のNさんを金沢市場輸送でみたのが少し早かったかもしれません。被告発人松平日出男に関しては8月の終わりか9月の初めと記憶にあります。金沢市場輸送の事務所が移転した昭和63年のことです。

 宇出津のK村さんと姫のNさんは,8月の20日過ぎに姿を見ていたようにも思います。見かけただけではなく,その場で話もしているはずかと思います。もともとK村さんのことは知りませんでした。今も被告発人大網健二から聞いていた話以外に,K村さんの話を聞くことはありません。

 前後がはっきりしないのですが,宇出津のK村さんと姫のNさんについて,被告発人大網健二から魚の移動販売の仕事をしていると聞かされました。姫のNさんとは,昭和56年の12月から昭和58年とよく顔を合わせ,一緒に行動することがありました。昭和60年にも会っています。

 その後,姫のNさんとは会うこともなく,話を聞くことも余りなかったと思います。少し聞いたのは野々市の運送会社のことでした。昭和59年の10月に私が金沢市場輸送をやめた後,すぐに金沢市場輸送に入社して,けっこう長く4t車で長距離の仕事をしていたとも聞いていました。

 これもはっきりした時期は憶えていないですが,最初に金沢市場輸送で宇出津のK村さんと姫のNさんの姿を見かけてから,1,2ヶ月後,だったと思いますが,魚の移動販売に使っていたというトラックを,金沢市場輸送の給油機の前の駐車場に停めて,話をしたこともありました。

 二人はかなりポンコツの青い色の2トントラックで市内配達の仕事をしていたと記憶にあります。そのままスクラップ工場に置いてあるような中古車でした。その持ち込みのトラックが古かったことも印象的でしたが,金沢市場輸送での2t車の持ち込みはK村さんとNさんの二人が初めてだったと思います。

 K村さんについて,被告発人大網健二は昔からよく知っている話しぶりでした。宇出津のどの辺りに家があるとか,話を聞いたようにも思うのですが,ほとんど記憶に残っていません。ただ,消去法を交えて,宇出津の「いわいまち」とは聞いたような気がします。

 「いわいまち」というのは口伝なので,発音にも個人差があり,最近は聞かないのですが,宇出津の町内の下岩屋と上岩屋を合わせて,「いわいまち」と中学生の頃に聞いていました。近年,祭礼委員の関係で知ったことですが,川原町も下岩屋と上岩屋と同じ区分になるようです。

 新村三町内というのは,その前から聞いていたのですが,近年,これも祭礼委員の関係で,新町三町内というのも聞きました。もともと宇出津の新町といえば,上町と中町ということは知っていたのですが,大橋組を合わせて新町三町内とのことです。被告発人大網健二が住んでいたのは,この大橋組でした。

 大橋組は川原町とも隣接し,川原町は新村と隣接しています。この宇出津の町内は地図の住所にはないものになります。小さい町内は十数戸,大きい町内は100戸を超えます。この区割りや数は,祭礼委員の仕事をすることでよくわかったのですが,地元でも他の町内のことは知らないことが多いと思います。

 今,手元にある「のと町テレホンガイド」で調べたのですが,K村という漢字の名前は宇出津にありませんでした。たぶん平成16年4月発行のものです。表紙にはないのですが,中にそれらしい記載がありました。2,3日前に必要があって引っ張り出したのですが,住宅地図入りの電話帳です。

 たぶん平成9年ですが,その頃にはK村という漢字の名前が宇出津にあり,私の母親の当時の知り合いにもそれらしい名前がありました。漢字の異なるK村は今でもけっこう宇出津にあるのですが,私は早い段階で,母親から漢字のことを含めて知らされていたと思うのです。K村さんのこととは無関係に。

 疑って掛かるわけではないですが,当初,K村さんのことは余り意識せずにいました。ちょっと事情が違うように感じたのは,平成11年の2月頃のことで,金沢市役所で被告発人大網健二が,私とK村さんを引き合わせたことでした。ただK村さんとはその場で,言葉を交わすこともありませんでした。

 商工会の融資のような話だと被告発人大網健二は私に説明をしていましたが,余り実態のありそうな話には思えませんでした。それでもK村さんは,思い悩んだ様子で,被告発人大網健二を頼りにしていると映りました。しかし,今考えても電話で済みそうな話です。

 印象的だったのは,その時,K村さんが乗ってきたという車の話で,車体が大きすぎて金沢市役所の駐車場には駐車が出来ず,石川県庁の駐車場に停めてきたというような話をしていました。ベンツとは聞かなかったですが,ヨーロッパの外車の大型車のようでした。

 この宇出津のK村さんと姫のNさんは,被告発人松平日出男と前後して金沢市場輸送で市内配達の仕事をトラックの持ち込みで始めたことになります。そもそも被告発人松平日出男というのは,市内配達のトラック運転手の仕事などは知識も経験も皆無の様子で,右も左もわからなかったはずなのです。

 被告発人大網健二の話では,K村さんは以前に,車のブローカーをやっていたという経歴がありました。

 これが被告発人松平日出男との共通する接点になりそうとは考えたのですが,被告発人松平日出男がK村さんと話をする様子は,余り見た覚えがなく,そもそも被告発人松平日出男の姿は麻雀以外に見かけずにいました。

 金沢市場輸送の事務所に被告発人松平日出男の机というのはなかったと思います。昭和63年の9月から平成2年の4月頃までの間のことです。2年以上の間ですが,思い返しても,被告発人松平日出男が机を前に椅子に座って何かをしているというのは見た憶えがありません。

 被告発人松平日出男がどんな車に乗っているのかもわからなかったのですが,平成3年には竹沢俊寿会長が乗っていたベンツに乗るようになっていました。竹沢俊寿会長がシルバーの2枚ドアのジャガーに乗るようになったあとのことと思いますが,けっこう前にベンツから乗り換えていたはずです。

 平成3年の春頃には,ほとんど車の運転をしなくなっていたと思う竹沢俊寿会長です。夫人のエスティマで送り迎えをされている様子でした。会社に顔を出すこと自体,少なくなっていたかもしれません。あのエスティマも一番初期の頃のモデルだったと思います。

トヨタ・エスティマ - Wikipedia https://t.co/CekszsCCo5 それから約半年後の1990年5月12日に市販化され、その卵をイメージさせる未来的なスタイルで「高性能ニューコンセプトサルーン」として注目を集めた。

 わかりやすい時期のことが書いてありました。平成2年5月12日に市販化されたとあります。そういえば,昨日辺りに被告発人安田繁克と雪のスリップのことを書きましたが,ちょうど同じ頃に,金沢市場輸送の事務所前で,同じく積雪の状態でベンツを移動させたことがありました。

 ギアを高めに発進させたのですが,さすがにすごいパワーだと思いました。それから少しして,雪が降らなくなった時期に,ジャガーにかわったとも思います。ジャガーもけっこう長い間,金沢市場輸送で見かけていた印象があります。おそらく見かけなくなったのは,竹沢俊寿会長の体調悪化なのでしょう。

 もっとも竹沢俊寿会長の健康状態に関しては,ずいぶん前から詐病の疑いもありました。糖尿病で石川県立中央病院に通院していたことは事実のようですが,主治医でもないと実際の健康状態のことはわからなかったと思われますし,疑いの目で見る人もけっこう周りにいた感じでした。

 まだ金沢市場輸送で長崎県の長与農協にミカンを積みに行っていた時期で,昭和63年の正月前後になるかと思いますが,だいたいその時期のことで,金沢市場輸送の運転手の武田さんが,竹沢俊寿社長の還暦祝いに赤いチャンチャンコを贈るような話をしていました。

 昭和63年に60歳だとすると,平成3年の秋には63,4歳と推定されますが,杖をつきやっと歩いている状態となっていました。12月には夫人が介添をするようになっていました。今より糖尿病に関しては,目が見えなくなるとか色々と深刻な話を聞く時代ではありました。

 最後に竹沢俊寿会長と話をしたのは,電話でしたが,平成9年の2月頃のことになります。弁護士を紹介してやるといい,しきりに私に会いたがっていました。電話の声を聞いた感じでは,平成4年当時と変わりがなかったと思います。

 最後に竹沢俊寿会長と会ったのも,はっきりとは思い出せないですが,夕方,外が暗くなった時間に,夫人と二人で食事に誘われたことがあり,そのあとにも1回ぐらいは姿を見たような気がします。

 食事に誘われる少し前には,被告発人東渡好信と浜上さんが,子供のいない竹沢俊寿会長夫妻が,私を養子に迎えて会社を継がせたいと考えている,というような話を私にしたことがありました。真偽はともかく,私より被害者安藤文さんに影響を与えそうな話だとは思いました。

 竹沢俊寿会長夫妻に食事に誘われた数日後とも思うのですが,同じような時間に,被告発人松平日出男の誘いで食事に行くことになりました。被告発人東渡好信と浜上さんもいたと思います。他のメンバーは今思い出せないですが,全部で6,8人だったように思います。

 最初に中橋の陸橋の下の焼き鳥屋のような店に行ったのですが,満席で断られたように思います。車の中に乗ったままでいました。そのあと金沢駅の西口に行き,そこで食事をしたと思います。開発されたばかりの金沢駅西口でした。これも調べれば情報が見つかりそうです。

金沢百番街 - Wikipedia https://t.co/mCRe0qKQY6 合計で100店舗を超えるテナントが集積している。JR西日本の子会社である金沢ターミナル開発が1991年(平成3年)3月20日に開業させた。

 「JR金沢駅西口ビル(あんと 西)」とあるので間違いはなさそうですが,金沢百番街という聞いたことのある名称が,西口とは結びつきがありませんでした。平成3年3月20日開業とあります。

 平成16年か17年に,電話で被告発人梅野博之が意味ありげに,宇出津のNという名前の話を始めました。姫のNさんと同じ苗字ですが,電話帳で調べたところ,同じ小棚木の町内に家があったので,直接,その家を訪ねて,市場急配センターとの関係を確認したということもありました。

 被告発人浜口卓也の場合も,姫に隣接した集落の真脇でしたが,金沢では宇出津の出身と話していたようです。

 インターネットも普及していなかった平成4年以前は,能登の宇出津だと言っても通じないことがありましたが,当時の鳳至郡能都町で役場もあったのが宇出津なので,宇出津と説明をしていても不思議はない話です。

 ただそのときの被告発人梅野博之の口ぶりが,かなりあざとく感じられるもので,気になって調べておくことにしたのです。

 まだ金沢市場輸送にいた頃,そのときも給油機の前辺りでしたが,見慣れない人に声を掛けられ,しばらく話をしたのですが,持ち込みの市内配達をしているといい,松任市で宇出津のK村さんや姫のNさんと同じアパートの部屋に住んでいて,紹介で仕事をするようになったと話していたと思います。

 全体的に記憶の方が薄れているので断定は出来ないのですが,少なくとも姫のNさんと同じアパートの部屋に住んでいるという話で,宇出津のK村さんも一緒のようにも聞こえました。どちらかの名前を出し,「ら」という複数形にしていたのかもしれません。

 ずいぶん変わった名前だったので,今でもよく覚えているのですが,今年の春辺りに名前を検索で調べたところ,七尾市の近くによくある名前のようでした。簡単にはみつからなかったのですが,歴史遺産にもなっているような旧家の名前のようです。

 市場急配センターに移ってからも,裏駐車場で一度は顔を合わせているのですが,その後は姿を見なかったように思います。平成4年の1月4日だったと思いますが,市場急配センターの2階事務所で新年の顔合わせがあり,意外ほど大勢の運転手が一同に集まっていましたが,姿は見なかった気がします。

 持ち込み運転手の場合は特に,用事以外に市場急配センターの会社に姿を見せない運転手がいる様子でした。2t車なので,乗用車と同じ通勤にも使っているので,なおさら顔を合わす機会が少なかったのだと思います。金沢中央卸売市場の仕事もけっこう時間にばらつきのあるものでした。

 姫のNさんが松任市に住んでいることは,最初に被告発人大網健二から魚の移動販売の仕事の話を聞いた頃から聞いていたと思います。松任市としていますが,会話では,「まっとう」とだけ呼んでいました。現在は白山市の一部になって白山市全体の範囲が大きく広がっています。

 平成15年の1月,関係者KYNの会社事務所で彼と話をしたとき,話の最後に彼が姫のNさんとの付き合いを語りだしたのはずいぶん意外でしたが,そこには大きなものが秘められていると感じ,姫のNさんや宇出津のK村さんに対する注目度を大きく高めたことは確かです。

 松波のAKさんとも会うことがなく,どこに住んでいるのかも聞かなかったことも大きな意味があると感じていました。いしかわ動物園のアザラシ館の水槽の基礎工事で,松波のAKさんらしき人の姿を見ていたことも記憶には記述があると思います。人形のように黙って座り,目を動かさなかったのも異様でした。

 色の濃い眼鏡かサングラスを掛けていたので表情は読み取れず,横に3人ほど並んで座り,おばさんも一人いたと思います。少なくとも3人はいましたが,同じような行動なのが演目を演じているようにも感じられました。とても松波のAKさんに似ているとは思いましたが,確信にまでは至りませんでした。

 その人たちは型枠大工のようでしたが,その少し前には松波のAKさんが,被告発人大網健二の兄関係者OSNの鳶職の会社をやめ,型枠大工の仕事をしていると聞かされていました。被告発人大網健二に聞いたとも思いますが,そういう話はしたのに,どこに住んでいるのか話さなかったのが気になりました。

 松波のAKさんの妻とは,平成3年12月21日の夜,片町のオーロラ会館の5階ぐらいの飲み屋で会っています。被告発人浜口卓也に連れられて入った店でした。これも記録には繰り返し詳細に記述してある事実のはずです。

 金沢駅の近くに全日空のビルがありますが,松波のAKさんが被告発人大網健二の兄関係者OSNの鳶職の会社で仕事をしている頃,高い階層から足場組立の材料を大量に落下させる事故があったと被告発人大網健二に話を聞き,別かもしれないですが,太ももに鉄パイプが突き刺さったような話も聞きました。

 金沢市場輸送で姫のNさんと顔を合わすようになってからもほとんど会話をした記憶はありません。不思議なほど寡黙でした。他の誰かと会話をしているのも見たことがないのですが,夕方近くに金沢市場輸送の運転手の休憩室の机で,真剣に伝票の整理をする姿は何度か見かけていました。

 少し言葉を交わしたのは,一度,金沢市南新保の被告発人浜口卓也のアパートで会ったときです。被告発人安田敏も一緒にいました。たぶん被告発人浜口卓也に誘われてアパートに行き,しばらくして姫のNさんが来たように思います。言葉は少なかったですが,ずいぶんと穏やかで思慮深く感じられました。

 これは市場急配センターで市内配達の仕事をしている頃のことで,夕方だったと思いますが,早い時間で16時台だったように思います。それより前に,被告発人浜口卓也のアパートに行ったことは,今のところ思い出せません。そこで姫のNさんに出会ったのは,偶然とばかり考えてきました。

 ここでは特定を避けるため曖昧にしておきますが,共通の友人・知人にKという女性がいて,被告発人安田敏とも関わりのあるTさんと結婚していたのですが,平成元年の1月,そのTさんが松波港で新車の赤い軽四で海に飛び込み自殺をしました。

 平成3年の9月,20日頃だったと思いますが,共通の友人・知人にKという女性が再婚したとか再婚するという話を聞き,再婚相手も金沢市大場町東の被告発人大網健二の家で会いました。そのときも松任市と聞いていたように思います。

 その後,2億とも聞いた保険金の話がありました。億の単位でしたが1億ではなく端数はなかったように思いますが,だいぶん前から正確な金額が思い出せずにいます。3億ではなかったと思うので,2億円の可能性が最も高い気がします。端数のことも完全には否定できないです。

 松任市で重機を扱う会社というような話も聞いていました。保険金の話はある場所で,ある人から聞いていますが,それ以外には一切耳にしたことのない話です。これも知っていることのすべては記録に記述があるはずです。今でも名前は憶えています。

 松波港で新車の赤い軽四で海に飛び込み自殺をしたTさんは,高校卒業後に金沢市場輸送で長距離の運転手をしていたとも昭和59年より前に聞いていましたが,昭和61年の12月頃には免許取り消し中でしたが,再度,金沢市場輸送に入社し,ミールの倉庫移動など一緒に仕事をしていました。

(カ). 笹田君と被告発人大網健二の中古車販売を巡るトラブル  記憶が薄れていますが,この笹田君と被告発人大網健二との車のトラブルは,中橋陸橋の下の商店街のような場所のことが強く印象に残っていて,そこで昼に被告発人大網健二と会っていたように思うのです。

 このあと《参考資料》としてGoogleで調べたいと考えているのですが,今記憶のまま書いておきます。六枚の交差点から金石方面に向かうとすぐに中橋の陸橋がありましたが,被告発人松平日出男に食事に誘われ最初に向かったのは,陸橋手前の右側でした。

 被告発人大網健二と会ったように思うのが,六枚の交差点から金石方面に向かう方向で,陸橋の右手の奥になります。そこに本当に商店街があったのかも定かではないのですが,滅多に行くような場所ではなく,行ったのもほんの数回だったと思います。

 今考えると,時期的に北都運輸の市内配達の仕事をしていた時かもしれません。北都運輸の市内配達ではずっと金沢市場輸送の古い4トン保冷車でした。車番は6526のような感じだったと思います。昭和59年当時にも乗務していたトラックでした。このナンバーは「石」になります。

 北都運輸の市内配達は,業務用のマヨネーズ,ドレッシング,ジャムなどが主な荷物でしたが,ほぼ金沢市内全域が受け持ちのコースになっていたと思います。それでもだいたいの範囲は決まっていて,配達の最後が金沢港の周辺であったようにも記憶にあります。

 戦災を受けていない金沢市内は,狭い路地が多いという特徴もあるのですが,4トン保冷車での市内配達でもそれほど難儀したという記憶はありません。卯辰山の上り口,天神橋を渡った先のカーブで,無理なUターンをしていたことは,よく憶えています。

911:2020-09-12_10:38:19 * 《参考資料》金沢市内,中橋陸橋付近と,大和町 https://hirono-hideki.hatenadiary.jp/entry/2020/09/12/103818

 平成元年当時とは町並みも変わっていると思いますが,まじまじと中橋陸橋周辺の地図を見たのは今回が初めてかもしれません。中橋町とありますが,これも初めて目にするような金沢市内の住所です。

 今回,Googleマップを見て,六枚の交差点から中橋陸橋を渡った先の,初めの大きな交差点の名前が中橋の交差点ということをずいぶんと久々に思い出しました。

 中橋の交差点で金石街道と交差するのは,Googleマップで県道60号線と見えますが,大豆田大橋方面が「まめだ大通り」,諸江方面が「もろえ通り」ともなっています。どちらも余り聞いたことのない道路の名前ですが,よく通行する道路でした。

 中橋陸橋は,金沢駅から最も近い陸橋になると思いますが,昭和55年当時からあったと思います。金沢駅から歩いて,被告発人大網健二が住んでいた大和町のアパートに行った記憶があり,六枚の交差点から中橋陸橋が見えたような記憶もあって,その風景は平成に入ってからも変わらぬものでした。

 金沢駅に近いだけあって賑わいは感じられましたが,店などはほとんどなかったと思います。入ったことはなかったですが,中橋の陸橋の下の道路には飲食店がありそうな雰囲気でした。六枚の交差点から増泉の方に向かうと,右手に婦人会館のビル,左手に職業安定所がありました。

 職業安定所の住所は芳斉だったと思います。Googleマップで確認すると前の道路が昭和大通りとなっていました。これは聞いたことのあるような道路の名前です。よく婦人会館と聞いていた建物は石川県女性センターとなっています。

 少し手前に金沢中央郵便局とありますが,平成4年には出来ていた新しい建物で,市場急配センターの仕事で行ったことがありました。イヨカンを積み込んだような気もするのですが,それを金沢中央卸売市場で降ろした時かもしれません。

 石川丸果の課長という人物がいて,被害者安藤文さんとよく似た年頃の娘と思われる人を連れていました。この課長については他にも話を聞いたのですが,被告発人松平日出男と昵懇でよろしくやっているという話でした。

 この告発状の本文には書いていないかもしれないですが,平成3,4年当時,市場急配センターの事務所の横の空き地に,いつも郵便局の大型トラックが駐車していました。いつも2台いたような気がします。金沢中央卸売市場との間になる空き地です。

 その空き地はずいぶん前から市場急配センターの給油所になっていて,Googleマップで確認が出来ると思います。平成3,4年当時はただの空き地ではなく,草が生えた放棄地のような空き地で,舗装などもされていなかったと思います。不思議と郵便局のトラックの出入りは見たことがありませんでした。

 金沢中央卸売市場やその周辺で,郵便局の大型車が仕事をするのも見たことがなかった気がします。新車のような新しいトラックで,いつもピカピカに洗車されているような状態だったのも印象に残っています。ときどき不思議に思っていたのですが,余り話題になることはなかったと思います。

 一度誰かに,郵便局大型トラックの疑問をぶつけ,何か話を聞いたような気もするのですが,忘れてしまったのか思い出せません。あの土地の所有というのも不可解でした。角地になりますが,そこを残して,賃貸か売買かはわかりませんが,市場急配センターが事務所と駐車場を作ったことになります。

▶▶▶ kk_hironoのリツイート ▶▶▶

  • RT kk_hirono(刑事告発・非常上告_金沢地方検察庁御中)|s_hirono(非常上告-最高検察庁御中_ツイッター) 日時:2020-09-12 11:25/2020/09/12 11:24 URL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1304606916518191109 https://twitter.com/s_hirono/status/1304606795097276416
> 2020-09-12-112109_平成4年当時の市場急配センターの事務所と給油所になった空き地の場所.jpg https://t.co/Ukr7ZkWlO8

 スクリーンショットを作成しましたが,あらためてGoogleマップで給油所となった空き地を見ると,平成4年当時の記憶より倍ほどにも感じるほどの広さがあります。金沢中央卸売市場横の道路の角地ですが,すぐ近くに金沢中央卸売市場の立体駐車場の出入り口があります。

 ストリートビューでみると金沢中央卸売市場の建物は4階建てですが,売り場のある1階が,そのまま2階分ぐらいの高さとなっています。2階には一部事務所があって,用事で行ったこともある記憶ですが,他の階などはデパートによくある立体の駐車場となっていました。

 大きな駐車場で,何度か行ったことがあるのですが,広く大きな駐車場だったわりには,車の出入りを見かけることが少なかった気がします。市場急配センターの裏駐車場の横がその出入り口になりますが,特に夕方から夜は,車の出入りを見ることがなかった気がします。

 中橋陸橋の話に戻します。商店街があるようにも,あったようにも見えないのですが,当然ながら陸橋を渡らずに,向こう側には行けず,踏切りがあったという記憶もありません。割と広い道路で,それが一直線に長くなっていたとも記憶にあります。

 中橋の陸橋周辺ではなかったと思えてきたのですが,他にそれらしい場所というのも思い当たるものがありません。なぜ中橋陸橋の周辺として記憶していたのかもわからないのですが,かなり衝撃的に焼き付いた記憶となっています。

 なぜその場所で被告発人大網健二と出合ったのかも不思議でした。それだけではなく,いきなりの興奮状態で私にまくしたてたのは,笹谷君に対する不満でした。同じ金沢市場輸送の会社だから知っていて当然という思いが彼にあったことは否定できないですが,私の立場ではずいぶんと意外でした。

 何度か言葉を交わしたというのもたぶん笹田君ではなく峰田君だったと思います。いつも二人でぴたりと一緒にいたので,どちらとも話をしている感覚ではありました。女子ではよく見かけた仲良さですが,男では他に今まで見たことがない気がします。思い当たる人物がありません。

 背格好も似ていたと思いますが,峰田君の方が細身であったような気がします。笹田君は中肉中背だったと思いますが,どちらかといえば小柄であったような印象があります。

 笹田君も峰田君も他の社員とは,余り話をするのを見たという記憶がありません。今考えると,何か時間をつぶす必要があって夕方に割と遅めの時間まで金沢市場輸送の運転手休憩室に残っていたのかもしれません。他の運転手には見られない行動でもあったので,余計に印象に残っています。

 なぜ被告発人大網健二があそこまで感情をむき出しにして怒っていたのか,今考えられる結論は演技です。当時もおかしいとは思い頭をひねっていたのですが,思い当たることがないまま漠然としていました。

 これまで重要視する事実関係の1つとしながら深くは考えてこなかったのですが,被告発人大網健二と出合った場所が思い出せません。当然ながら携帯電話など普及していなかった時代で,ポケットベルというものはありましたが,持ったことも使ったこともありませんでした。

 昭和58年の春にポケットベルをもたされたことはあったかもしれないですが,私個人ではなく二人以上はいて従という立場だったと思います。

 松元組という暴力団の組員で,北友会の幹部と聞いていました。当時の石川県の暴力団の多くは,山口組一会の傘下に北友会があって,北友会の事務所は中央通りにありました。事務所に入ったこともあったのですが,片町の繁華街のすぐ側で,まるで警察の交番のような雰囲気があったと記憶にあります。

 秋田県の能代の浜に死体で上がり,入れ墨で身元が判明したような話を聞いたのも,最後に会ってから1〜3年後のことだったと思います。白菊町のFNさんのアパートでよく会ったのですが,姫のNさんに対して本気で怒っていたことが印象的でした。理由は聞いていません。

 被告発人浜口卓也も同じ松元組の元組員だったのですが,不思議とそのMUという暴力団員と接点のある話は耳にしませんでした。私はそのMUという人物のつてで,金沢市松村町のダクトの会社で仕事をするようになったのですが,先にMUという人に紹介されたDDさんの紹介だったのかもしれません。

 ダクトというのは空調設備のことですが,仕事をしたのは長くて2ヶ月ぐらいだったと思います。そしてその会社をやめたすぐ後に,金沢市場輸送に入社しています。昭和59年1月のことです。やはりMUさんの直接の紹介ではなかったと思います。MUさんに最後に会ったのは遅くても夏のことだと思います。

 DDさんですが,昭和58年の8月の終わり,宇出津のDDさんの家で,被告発人安田敏に会ったことがきっかけで,被告発人安田敏の金沢市観音堂のアパートに居候することになりました。居候は11月の10日頃まで続き,その後に出雲町の運送会社とダクトの会社で仕事をしたように思います。

 出雲町の運送会社では,社長に,他の社員に無事,正月を迎えさせたいので辞めてくれと言われ首になりました。だいぶん普通ではなかったのですが,これはその後の金沢市場輸送でも問題児扱いされることになります。

 昭和59年の1月から10月まで金沢市場輸送にいて問題を起こし問題児扱いされたことは確かなのですが,そのギャップが大きかったことで,昭和61年8月の入社以降は,自分でいうのもなんですが,大きな信頼と実績を残すようになりました。とりわけ評価してくれたのが竹沢俊寿会長夫妻になります。

 出雲町の運送会社にいたことを考えると,ダクトの会社にいたのは一月より短い間だったのかもしれません。和倉温泉の美湾荘に仕事に行ったことと,民宿での泊りがけで富山県黒部市のYKK吉田工業の大きな工場の現場に行ったことが印象に残っており,富山に通ったのは雪の降る時期でした。

 夜になっていましたが,金沢に帰る北陸自動車道で,ちょうど有磯海サービスエリアの出口からの側道が交わる辺りのカーブで,北海道の地図を象った模様と,札幌と書いてあったと思いますが,高速で雪を巻き上げて走る姿に感銘を受け,長距離トラックの運転手になりたいと思ったのです。

 平成元年ですが,北都運輸の市内配達の仕事を始めたのは5月か6月だったと思います。金沢市場輸送の給料の締切日と給料日が思い出せないのですが,25日締めの翌月5日払いという市場急配センターの給料日とは,違っていたような気がします。考えられるのは月末締めですが,確信は持てません。

 いずれにせよ,北都運輸の仕事は11月一杯となっていたと思います。私にとって続けて2回目のイワシのシーズンでしたが,前年は12月21日辺りに出発した運行を大型保冷車での長距離の運行の最後としました。YTを同乗させ,宮城県石巻市のハローマックに向かった運行です。

 到着した石巻での冷房のこともあるので,ハローマックに間違いはないと思うのですが,この行きの荷物は富山県高岡市の古くて大きな倉庫のような場所で夕方暗くなった時間に積み込んだような記憶があります。

 ハローマックの仕事は他に,高知県高知市と宮城県岩沼市あるいは名取市が記憶にあるのですが,いずれも金沢市内の浅野本町の辺りで荷物を積み込んだ記憶があります。金沢駅から鳴和に向かうと右手でした。道路の名前は東大通りとなっていましが,右手に1本か2本入った通り沿いでした。

 当時,テレビCMがよく流れていた子供向けの人形の会社だったと思います。端午の節句の人形などです。荷物は箱詰めされ中身はわからなかったと思いますが,ハローマックは全国展開する玩具店で,金沢にも八日市辺りに店舗がありました。

 1年目は,そもそもイワシを運搬する水槽が出来るのに,シーズン開始を過ぎていたかもしれません。ほぼ同時に5台の大型平ボディ車が納車されました。いすゞは2台で,三菱ふそうが3台だったと思います。

 5台ともそうだったのかは記憶にないですが,トラックの運転席と助手席のドアの横には,社名を入れることが決まりになっていると聞いたのですが,そこには金沢市場輸送ではなく「両合物産」となっていました。

 蛸島の浜田漁業の関連会社の社名です。おそらくは税金対策ですが,関連はよくわかっていません。浜田漁業は,濱田が正確なのかもしれません。トラックは浜田になっていたと思うのですが,濱田という社名もどこかで見ていたように思います。

 なにか行政処分のようなものを受け,新車の納入が出来ず,それで両合物産の名前を借りたと聞きました。原因は北陸自動車道の新潟県,糸魚川インターでの重量オーバーの摘発でした。運転手が会社の指示で嫌々積んだような話をしたため,大事になったと話を聞きました。竹林から聞いたように思います。

 イワシの水槽は竹沢俊寿会長が調べ上げて業者に発注をしたという話で,和歌山県田辺市の工場でした。一回だけだったと思いますが,水槽を載せたトラックを,これから水槽を載せるトラックに乗って引き取りに行ったのです。たぶん1月の年明けだったように思います。

 しかし,それをイワシの運搬のスタートと考えると,12月21日頃に大型保冷車での最後の運行をした意味がなくなります。大型の平ボディ車の新車もまだ秋のような季節,11月中に入っていたような記憶もあります。工事中で通り抜けできない道路に,その平ボディ車を駐車していました。

 石7599号での最後の運行は,とりわけ印象に残るものだったので大体の日付もよく憶えています。たぶん出発が12月21日ですが,20日という可能性もあるかもしれません。

 2年目のイワシの運搬の仕事の始まりは,日付が特定しづらいのですが,ずっと前から12月の15日頃という記憶になっています。まだ正月やクリスマスが近づいたというあわただしさもなかったという感覚が残っています。

石川県(漁協) 金沢港支所 - Google マップ https://t.co/YRT10LUhsL

〒920-0331 石川県大野町4丁目イ - Google マップ https://t.co/WR3zEIUr5G

 Googleマップで見ると,「4丁目イ」となっていますが,たぶん1年目のイワシのシーズンは,ずっとこの場所でイワシの船の水揚げから運搬をしていたと思います。

 割と最近になってGoogleマップで気がついたのですが,橋があってずっと川だと思っていたものが海の通り道で,大野の地域自体が出島のような地形になっているのだと知りました。起訴状などでは大野埠頭となっていたかもしれません。

 Googleマップでは「石川県(漁協) 金沢港支所」ですが,運転手の間では県魚連と呼んでいたように思います。魚市場のようなものですが,Googleマップには市場とは書かれていないようです。近くにもう一つ魚市場があって,そちらは南浦と呼ばれていたように思います。地名とは関係なさそうです。

石川県漁業協同組合かなざわ総合市場 - Google マップ https://t.co/xrWpIA3NET

 Googleマップでは,これも聞いたことのない名前になっていました。県魚連の市場の方が荷物も多かったですが,だいぶん前から建物の一部が海産物の直売所になっている話はテレビで聞いていました。Googleマップでは次の名称となっています。

金沢港いきいき魚市 (株)新田商店 - Google マップ https://t.co/vhlJViXzMb

 そういえば,新田商店は昭和59年当時,河北郡七塚町に会社があると聞いていました。被告発人松平日出男の出身地と聞いたのも同じ七塚町ですし,今考えると年齢もだいたい同じぐらいになりそうです。昭和59年当時は4トン保冷車が4台で,白ナンバーでした。

 昭和59年当時,金沢市場輸送は丸中水産の仕事で,金沢港からスルメイカを積んでいたのですが,それとは別に2,3度,茨城県の今の鹿嶋市行きのあさり貝を積み込んだことがあり,それが新田商店の仕事でした。

 金沢市場輸送は昭和59年当時,丸中水産で新潟の定期便をしていたのですが,昭和61年の8月に私が二度目の入社をした頃にはなくなっていて,代わりに守田水産輸送がするようになっていました。もともと丸中水産は金沢市場輸送と手を切りたかったという話です。

 昭和59年当時の丸中水産は若社長で,先代から引き継いだばかりとも聞いたように思います。まだ20代という感じだったので,今だと9歳前後になるのかもしれません。これまで余り考えたことがなかったですが,当時の金沢市場輸送や竹沢俊寿社長の実像をよく知る人物となるのかもしれません。

 もともと腐れ縁で,金沢市場輸送が丸中水産の仕事をしているという話もありました。金沢市場輸送は朝から人足を出して魚の積み込みを手伝わせていたのに,なぜそこまで悪く見られるのか不思議でもありました。大きなミスや悪さを運転手がしたという話もなかったように思います。

 昭和59年当時の金沢市場輸送は,大型運転手は別かもしれないですが,朝8時か8時半の出社で,決まって金沢中央卸売市場の鮮魚の売り場に行き,丸中水産の新潟便の積み込みを手伝わされたのです。気楽な面も大きかったですが,この辺りはしっかりと徹底したものが規律のようになっていました。

 夜中に長距離を走ることを前提とした朝8時か8時半の出社でした。それで給料が固定で20万円。まだ不景気という時代でもありましたが,市場急配センターの市内配達でも固定給で20万円と聞く時代に,数年後には変わったことになります。

 Googleマップに「石川県(漁協) 金沢港支所」とある場所ですが,今のGoogleマップには見当たらないものの以前は「無量寺埠頭」となっていたように思います。人工的に作られたと思われる埠頭ですが,この奥に向かって中央から右端辺りが,もう一つの別のイワシの水揚げ場所となりました。

 1回目のイワシのシーズンに1回もなかったとは断言できないですが,2回目のシーズンから始まったとすると,その初日だったと思います。水揚げ場所が増えたのは,北陸ハイミールの仕事が増えたからで,イワシを捕獲し水揚げをする船団も浜田漁業お抱えの蛸島丸に,輪島丸が加わりました。

 余りはっきりとは憶えていないものの浜田漁業金沢工場のイワシの処理は一日で600トンと聞いていたように思います。北陸ハイミールはそれが1600トンで日本海側最大という話でした。北陸ハイミールは北海道の釧路の会社らしく,愛国運輸もイワシの運搬に加わりました。

 3週間か4週間ほど前,テレビで大阪府の岸和田市の辺りでしたが,イワシ漁の紹介をしていました。大きな網で漁をしていましたが,はっきりとは記憶していないものの,運搬船の大きさなど2,30トンという話であったように思います。浜田漁業の運搬船は大きなもので400トンでした。

 浜田漁業の運搬船は4隻ぐらいだったと思います。輪島丸の方が少し多かったような気もしますが,小型でした。

 12月の金沢は17時半になるとすっかり夜の暗さになっていたと思いますが,19時から21時の間の時間だったと思います。ちょうど決められた集合時間頃だったとも思うのですが,トラックの運転席にいたところ,下から声が掛かりました。大型車の運転席なのでけっこう高いです。

 これもいきなりの興奮状態で,受け取り次第では喧嘩腰にも思える勢いがあったのですが,突然にわけのわからないような話を始めたのが笹田君でした。たぶんすぐには誰なのかわからなかったと思いますし,普段は無口で大人しいだけに,まるで別人のようでもありました。

 すぐに被告発人大網健二の名前が出たので,だいたいの用件というのは理解ができましたが,一緒にいた若者がチンピラヤクザ丸出しで,短いパンチパーマでした。

 本物のヤクザというか暴力団員を連れてきたものと思ったのですが,しばらくしてそれがS藤だとわかったときは驚きました。前は長髪だったので見た目もずいぶん違っていました。

 二人が乗ってきた車は笹田君の車で,トヨタのレビンかトレノだったと思います。どちらも確かカローラの仲間で,テールランプの形状など外観の少しの違いがあるだけだったと思います。新車のようでしたが,新車と聞いたかもしれません。

ファミリーマート 金沢みなと店 - Google マップ https://t.co/lDMrw0j1QW \n 石川県金沢市大野町4丁目ヲ31−1

 上記の「ファミリーマート 金沢みなと店」となっている場所には,かなり遅くまでやっている今のコンビニのような酒店がありました。どこに行ったのか思い出せないのですが,笹田君の車に乗って,その店の前辺りを走行していた記憶があるのですが,たぶんその店に買い物に行ったのだと思います。

 いくらか前の時期の話に戻りますが,11月一杯で北都運輸の市内配達の仕事をやめたとして,そのあとイワシの運搬の仕事が始まるまで,どんな仕事をしていたのか思い出せないのです。12月の20日頃までは,イワシの水揚げが,量と回数ともに少なく,仕事は回転も早いダンプが優先となっていました。

 被告発人大網健二から話を聞いたのが先だったのは間違いないと思いますが,笹田君が私に被告発人大網健二に対する苦情をぶちまけにくるまで,どれぐらいの日数があったのか,今は思い出せなくなっています。そもそも私に何かを言って解決するような話ではなかったはずです。

 今は,笹田君が何を言葉にしていたのか思い出せないですが,「いったい,あの人(あるいは,あの男),どうなるがけ!」というような感じだったとは思います。怒りと驚きが入り混じったような様子でした。普段大人しい人ほど,怒ったときに爆発するとは聞いていましたが,尋常ではなかったです。

 特段とりなしたり,なだめたつもりもないのですが,これも何を話したのか記憶にないものの,受け答えをすると笹田君はすぐに落ち着いたように思います。要するに注意をしてくれという話であったと思いますが,具体的に何をしてくれという話はなかったはずです。

 ちょうど同じ頃,被告発人大網健二のアパートに遊びに行きました。たぶん初めて行ったときだと思います。そこで笹田君の話をした記憶はないのですが,終始穏やかで上機嫌だったような印象が残っています。ようやく神戸から戻ってきた金沢での生活が落ち着いたという,安堵感も感じられました。

 S藤は,見た目とは異なり,最初から大人しい感じでした。笹田君が話す,被告発人大網健二とのトラブルも理解しているようには思えず,不思議そうにもしているとも感じられました。

 その場で,市場急配センターを辞めたような話は聞いた憶えがないのですが,ずいぶん長く顔を見ていなかったので,辞めていたと考えられます。ただ,最初に続けて何度か会った後は,ずっと会うことがなかったと思うので,他の運転手とは違った生活スタイルの仕事をしているようにも思えました。

 金沢市場輸送の仕事で昼に金沢中央卸売市場に入ることは滅多になかったということもありますが,このS藤や被告発人安田繁克が市内配達の仕事をする様子というのも見たことがなかったように思います。

 金沢市場輸送の仕事で昼に金沢中央卸売市場に入るのは,筍の仕事ぐらいで,それも長くて2,3週間だったような記憶です。ちょくちょく行ったのは,魚箱の発泡スチロールを捨て場所から拾ってくる用事で,これは鮮魚の積み込みをするとき,隙間に入れて固定するために必須のものでした。

 一番,市場急配センターの運転手と顔を合わせる機会が多かったのは,金沢市場輸送に一台だけあった給油機かもしれません。給油機には鍵があって,最初のうちは金沢市場輸送の事務所で,女子事務員に借りていたようにも思います。

 金沢市場輸送と市場急配センターは給油機の鍵が別になっていたのですが,9月には被害者安藤文さんが預かるようになっていました。8月中にも一度,二階の窓から落としてもらったような記憶があるのですが,それは市場急配センターにある洗車機の鍵だったかもしれません。

 この金沢市場輸送の給油機の鍵というのも,私と被害者安藤文さんと接近するきっかけの1つとなっていました。おそらくは仕組まれたものです。この給油機の鍵のことだけでも色々とあったのですが,今は全体がぼやけわずかに思い出せる程度となっています。

 12月中にも金沢市場輸送で給油をしていた記憶があるのですが,市場急配センターから鍵を持っていった記憶はなく,金沢市場輸送の女子事務員の預かりとなっていたような気がします。年が明け平成4年となると,今度は金沢市場輸送に給油に行ったという記憶自体がなくなってきます。

 なにか指示を受けたという記憶はないのですが,かなり面倒に思いながら津幡町の太陽鉱油まで行って給油をしたことは,何度か記憶にあります。往復だと30分以上は時間が無駄にかかったと思います。こういう無駄な走行というのは,かなり苦痛に感じていました。

 被告発人大網健二と笹田君の間でトラブルになったという車は,アルトワークスでした。軽四でしたがツインカムターボのマニュアル車でした。これも時期がはっきり思い出せないのですが,4月か5月だったと思います。その笹田君が乗っていたというアルトワークスを私が買うことになったのです。

 きっかけは,それまで乗っていたホンダのプレリュードの故障でした。春と記憶にあるのですが,いきなりギアがおかしくなり,どこかの自動車工場でみてもらうと,ミッションの載せ替えで,ずいぶんと修理代が掛かるようなことを言われました。このプレリュードもマニュアル車です。

 ちょうど同じ頃に,被告発人大網健二は別の人とのトラブルめいた話を私にします。はっきりした記憶ではないのですが,私が査定0の下取りに出したプレリュードの転売が,その原因と聞いたような気もします。相手ははっきりしています。

第58回 1974年 昭和49年 石川水産(石川) [source:]歴代優勝校・優勝者|高等学校相撲金沢大会 https://hk-event.jp/sumou/winner/

歴代優勝校・優勝者|高等学校相撲金沢大会 https://t.co/4Zz0Zb42BO \n 第58回 \n 1974年 \n 昭和49年石川水産(石川)

 高等学校相撲金沢大会とありますが,卯辰山の相撲大会として知られています。昭和49年に石川水産が優勝していますが,この大会の関係者として,ずっと前から何度か名前は聞いたことのある人でした。全国優勝と考えるとずいぶん小柄にも思え,勘違いがあるのかと考えもしました。

 被告発人大網健二からもはっきりした話は聞いていなかったと思うのですが,被告発人大網健二からその人の話を聞く前に,私はその人と出会って,直接,会話をしていました。会話の内容も話をした場所も思い出せないのですが,たぶん守田水産輸送の大型保冷車の運転席だったと思います。

 重なる時期ではなく,たぶん前だったと思いますが,同じ守田水産輸送の大型保冷車の運転手として,宇出津の小棚木のNさんとも出会っています。被告発人東渡好信の知人として市場急配センターに来ていたことを,すでにこの告発状本文に記述済みと思います。

 宇出津の小棚木のNさんの場合は,宮城県の石巻港の魚市場の前で,駐車した守田水産輸送のトラックで話をしたという記憶が,割合はっきりと残っています。同じような状況で話をしたのが,息子が笹田君,峰田君の友人という松ちゃんと呼ばれる運転手で,その人とは複数回似たことがあったと思います。

 笹田君のときほど猛々しいことはなかったと思いますが,負けないぐらい強い調子で,その人に対する不満を被告発人大網健二は私に話していました。たぶんですが,守田水産輸送には長くいなかったと思われ,その後,姿を見ることもありませんでした。

 何月ごろから始まったのか思い出せないですが,ちょうど丸一年ぐらい,守田水産輸送の青森定期便の仕事が続きました。守田水産輸送の自社便とは一日交代でしたが,青森の運送会社に帰り荷として仕事を出すこともあったようです。漢字が思い出せないですが,「しんせい運輸」だと思い出しました。

青森 新生運輸 - Google 検索 https://t.co/1acmNg8mGM

 昭和60年代に見ていたのと同じような青森の新生運輸の大型トラックの写真がぞろぞろと出てきましたが,後ろの扉に大きな赤い文字で港とあるのは,ちょっと見た記憶がないです。

 守田水産輸送は,金沢で三人兄弟がそれぞれ別の運送会社を経営しているとも聞いていましたが,大型保冷車の数は少なく,その割に長距離の運行が長いと聞いていました。同じ保冷車でも他の会社は冷凍食品など運んでいるという話でした。

 金沢から青森まで鮮魚を運ぶと,青森から帆立貝を積んで九州に行き,九州から荷物を積んで金沢に戻るのが,一運行のパターンだと聞きました。ただ,その割に九州方面で守田水産輸送のトラックを見たことはなかったか,少なかったと思います。対向車としてすれ違うこともなかったです。

 被告発人大網健二から売ってもらったアルトワークスの値段は50万円でした。笹田君からの買取価格と同じ値段と被告発人大網健二は言っていましたが,カーステレオのコンポなどを取り外したなどと言っていました。けっこういいのが付いていたような口ぶりでした。

 被告発人大網健二はそれを当然のことのように話し,それでも不満があるいう口ぶりでした。一方の笹田君ですがお金に関する不満は言っていなかったように思います。だからなおさら理解に苦しむ話だったのですが,いきさつはともかく笹田君も新しい車を買ったことで満足をしているようにも見えました。

 被告発人大網健二が神戸から戻った時期というのもすぐに思い出せないのですが,昭和63年のお盆には神戸から帰省していました。神戸から戻って最初の頃,車のブローカーをしているような話をし,福田自動車という名刺をくれたと思います。会社の住所は,金沢市高畠か,少なくともその周辺でした。

 その辺りを車で通りかかって,それらしい車を見たような気もするのですが,私としては余り関心もなく,自分から内容を尋ねることもなかったと思います。

 もともと車のトラブルであれば,被告発人松平日出男が出てこないのも気になっていました。笹田君として頼みづらいか頼みたくはない事情でもあるのかとは想像しましたが,それ以上のことはわかりませんでした。被告発人松平日出男が社員に車の売買をしたという話も聞くことはなかったように思います。

 平成3年12月28日頃,諸江の焼肉店で,笹田君もいたと思うのですが,峰田君のことしか印象に残っていません。笹田君の姿がなければ,なにかあったのかともっと印象に残っていたという気はします。峰田君は割合,社交的で,笹田君の方はいくらか内向的だったとも思います。仲はとても良さそうでした。

 平成3年12月28日頃ではと思ったのですが,この日は市場急配センターの仕事納めの可能性があり,だとすれば,違うような気もします。その日は,強い風で車のドアが歪んだこと,夕方にパチンコオークラに被告発人安田敏を探しに行ったことを憶えています。

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