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2020年7月18日 (土)

* 「松山事件 その後」というGoogle検索で,4番目に出てきた,「殺人事件の有罪判決をひっくり返した、勇気ある裁判官の告白 「徳島ラジオ商殺し」過ちの全貌」という記事

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:CATEGORIES: 再審,検察

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 「徳島ラジオ商殺し」は別冊ジュリストで見かけていたと記憶にあります。平成5年頃のことです。その後も,再審請求に関する文献のようなもので幾度か見かけてきましたが,こういうまとまった記事を読んだのは初めてかもしれません。2018年3月24日とあります。

 いくつかある著名な冤罪,再審請求事件の1つという認識でしたが,初めて知ることがいくつかあって,それもかなり気になる内容となっていました。警察が冤罪をでっち上げたという話は沢山見てきましたが,それが検察で,検事正の独自の判断があったようです。

そして「夫殺し」の濡れ衣を着せられた「徳島ラジオ商事件」の冨士茂子もまた、1985年7月、逮捕から31年目にしてようやく再審裁判で無罪判決を得た。 冨士茂子は「第五次再審請求」を申し立てたのち、腎臓がんの悪化から心神喪失状態に陥ったため、親族が引き継いだ「第六次再審請求」を提出した1週間後に死去している。 [source:]殺人事件の有罪判決をひっくり返した、勇気ある裁判官の告白( 岩瀬 達哉) | 現代ビジネス | 講談社(1/5) https://gendai.ismedia.jp/articles/-/54666
その再審開始決定を受けての再審裁判で無罪判決を言い渡されたのは茂子の死亡から6年後。ようやく雪がれた「冤罪」だった。 元最高裁判事の谷口正孝は、『裁判について考える』のなかで、「冤罪」は、捜査機関の強引な見込み捜査と、その見立てに沿った自白の強要など、「捜査構造の歪みにその原因を求めるのが一般」であると述べている。 だが、こと「徳島ラジオ商事件」に限っては、事情が違っていた。 [source:]殺人事件の有罪判決をひっくり返した、勇気ある裁判官の告白( 岩瀬 達哉) | 現代ビジネス | 講談社(1/5) https://gendai.ismedia.jp/articles/-/54666

 引用のため記事を読み返して気がついたのですが,「1985年7月、逮捕から31年目にしてようやく再審裁判で無罪判決を得た。」,「再審裁判で無罪判決を言い渡されたのは茂子の死亡から6年後。」とあります。5ページに分割された1ページ目です。

 この記事に注目したのは2ページ目以降だったと思います。「元最高裁判事の谷口正孝」という部分も最初に目にしたときは,気に留めていなかったようです。「大崎事件 その後」を目的に調べていたので意識もそちらに集中していたのだと思います。

その「不可思議な審理」への考察を重ねながら、秋山は、裁判長の安藝保壽と任官2年目の細井正弘裁判官との裁判体で再審請求審の審理にあたった。 [source:]殺人事件の有罪判決をひっくり返した、勇気ある裁判官の告白( 岩瀬 達哉) | 現代ビジネス | 講談社(2/5) https://gendai.ismedia.jp/articles/-/54666?page=2
冨士茂子の裁判がはじまってすぐの頃に徳島地裁に赴任。公判過程を裁判官として注視しており、この事件は「冤罪」との疑問を抱いていたという。 秋山は、約3ヵ月かけて訴訟資料を読み込んだのち、1978年7月のある日の夕刻、裁判所近くのデパート屋上のビヤホールで、安藝裁判長らとの最初の意見交換をおこなった。 当時を回想して秋山は、「あの日は、本当に楽しかった」と語った。 「安藝さんから、この事件どうしようと振られたので、これは冤罪ですから、なんとかいい開始決定をしましょう。ただ、マスコミが煩いから、できるだけ迅速に進めましょうと言ったら、安藝さん、ものすごく嬉しそうな顔をしてね。 ビールで乾杯したあと、飲みなおそうと言うので、いったん、荷物を置きに裁判所の官舎に帰ってからタクシーで繁華街に繰り出した。行きつけの店を3~4軒梯子しましたかね。飲みながら、やろうな、ということを何度も話し合ったものです」 この日の話し合いから2年半後、再審開始決定が言い渡されている。 [source:]殺人事件の有罪判決をひっくり返した、勇気ある裁判官の告白( 岩瀬 達哉) | 現代ビジネス | 講談社(2/5) https://gendai.ismedia.jp/articles/-/54666?page=2

 「1978年7月のある日の夕刻、裁判所近くのデパート屋上のビヤホールで、安藝裁判長らとの最初の意見交換をおこなった。」とあります。金沢市であれば香林坊109になりそうですが,裁判官の行動として想像したこともなかったシュチエーションになります。

 「蒔絵職人・霜上則男の冤罪―山中温泉殺人事件 (犯罪ドキュメントシリーズ)」を読んだときも,古い時代でありながら斬新に思える発見が多々あって,検事が現場近くの派出所に出向くなど,テレビドラマのような活動ぶりが具体的に記述されていました。

 昨日,読み終えたところの「死刑捏造: 松山事件・尊厳かけた戦いの末に」という本でも,再審公判での裁判官による現場の検証の様子が具体的にこまかく記述されていました。犯行時刻に月齢をあわせたなど,山中事件との共通性もありました。

地元紙が「迷宮入り」を報じるなか、「強気の田辺」と異名をとった徳島地検の田辺光夫検事正が、警察に替わって捜査を指揮することになった。 地検のトップである田辺は、「無能な警察に替わって犯人を挙げてみせる」と大見得を切っていたという。 司法修習を終えたばかりの村上善美検事を中心に、数名の検事と検察事務官で特別捜査班を編成。驚くほど「突飛な発想」で、茂子を犯人と想定した「内部犯行説」による捜査を開始している。 地検の見立ては、10年以上生活を共にし、実子までもうけているのに籍を入れてもらえない茂子の不安と不満が、犯行の動機で、凶器の刺身包丁は、茂子が、住み込み店員に命じて橋の上から川に捨てさせたうえ、外部犯行を装うため、電灯線と電話線をも切断させた。 [source:]殺人事件の有罪判決をひっくり返した、勇気ある裁判官の告白( 岩瀬 達哉) | 現代ビジネス | 講談社(3/5) https://gendai.ismedia.jp/articles/-/54666?page=3

 「地元紙が「迷宮入り」を報じるなか、「強気の田辺」と異名をとった徳島地検の田辺光夫検事正が、警察に替わって捜査を指揮することになった。」と始まっています。松山事件では権威のある鑑定人との対立関係も際立っていたのですが,裁判官による考えの違いも際立っていました。 

冨士茂子 - Google 検索 https://t.co/9GGeRazPsW

 再審請求の請求人だった人物の名前で画像検索をおこなったのですが,これまで見たことのなかったような写真が大量に出てきました。それもずいぶん異様に映るものがあって,顔写真を大きなプラカードにしているらしいと分かったのですが,今見ると万歳の光景と一緒になっています。

 冨士茂子という名前は見覚えがあったのですが,殺人事件の犯人にはみえない顔写真で,「徳島ラジオ商殺し事件」というものものしい事件名に対するイメージも,ずいぶん変わったような気がします。ざっとみたところほとんどすべてが白黒写真のようです。

第一審・徳島地方裁判所は1956年4月18日、冨士に懲役13年の有罪判決を言い渡し、控訴審・高松高等裁判所も1957年12月21日に冨士の控訴を棄却する判決を言い渡した。冨士は上告したが、裁判費用が続かないため1958年5月10日に上告を取り下げ、懲役13年の判決が確定した。 その直後に店員が「検事に強要されて偽証した」と告白し、真犯人を名乗る人物が沼津警察署(静岡県警察)に自首したが、後に不起訴処分となる。冨士は、模範囚として服役しながら再審請求を始めた(第1〜3次再審請求)。1966年11月30日に仮出所。姉弟や市民団体の支援のもと再審請求を続けたが、第5次再審請求中の1979年11月15日に腎臓がんのため死去した。享年69(歳)。 [source:]徳島ラジオ商殺し事件 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B3%B6%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%82%AA%E5%95%86%E6%AE%BA%E3%81%97%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 上記に引用をしましたが,昭和41年に仮出所,第5次再審請求中の1979年11月15日に腎臓がんのため死去とあります。昭和54年になるので,やはりカラー写真がないのが不思議です。私は昭和51年頃,白黒カメラを買ってもらったのですが,すぐにカラーが主流になっていました。

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