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2020年3月29日 (日)

### 金沢市場輸送の藤村さんについて

 これまでに一通りのことは記述してきたと思いますが,藤村さんについてまとめておきたいと思います。藤村さんは金沢市場輸送のことをよく知る人物でありますが,演技で騙されていた可能性もあるのかと想像する余地もあります。

 さきほど久しぶりに藤村さんのことを思い出しながら,最後に姿を見たのはいつのことかと考えながら答えは見つかりませんでした。いつの間にかずいぶんと影が薄くなっていき,運転手の間で話題になることもなくなっていました。会社とやめたという話は聞いたことがなかったと思います。

 金沢市場輸送の会社で姿を見なかったのは,浜田漁業金沢工場でミールの積み込み作業に専従していたことが考えられます。フォークリフトの運転になります。

 考えてみると,平成3年の12月以降に浜田漁業金沢工場に行った記憶というのはあまりなく,はっきり記憶にあるのは平成4年1月20日の月曜日になりますが,ミールの仕事ではなく,岐阜県可児市から古い木製パレットを運んできた時のことになります。

 そこで小野さんという金沢市場輸送の運転手の姿を見たのですが,免許停止中でミールの積み込み作業に専従していると聞いたように思います。他に記憶のない飯場のような場所で見たと記憶にあるのですが,泊まり込みで作業をしているとも聞いたように思います。

 小野さんは小柄で無口な人でした。かなり年配でしたが,人と話をするのも見かけた記憶がなく,私自身も言葉を交わした記憶がないのですが,たぶんその場で本人から話を聞いたのだと思います。他に知っているような人の姿はなかったと思います。

 小野さんの姿を見たのもずいぶん久しぶりだったと思うのですが,最初に会ったのはかなり前のことでした。金沢市場輸送で4トン保冷車の長距離の仕事を始め,すぐに4トン保冷車を横転させたのです。それが小野さんだったと思います。

 冬の一番寒い時期で,1月か2月だったと思います。1回だけでしたが,石巻市か塩釜市の東北陸運から新潟市の魚市場までの荷物を運んだことがありました。本当は河野秀美さんの仕事だったのですが,姿をくらまし連絡がつかなかったために,私に回ってきた仕事でした。

 当時の金沢市場輸送の給料は,荷物を積んで走った距離だけの歩合だったので,片道だけ宮城県から新潟市への仕事というのは,まったく割の合わない仕事で,私も強い不満を持ちながらの仕事でした。

 昭和59年当時は,丸中水産の定期便でよく行っていた新潟市の魚市場でしたが,そのとき以来のことでした。荷物をおろしてすぐに宮城県に向かったと思うのですが,早朝の明るい時間に,金沢市場輸送の4トン保冷車が横転しているのを目撃しました。

 国道113号線に入って,10分ほど走った辺りだったと思いますが,まだ山形県内に入ってはいなかったように思います。川沿いのような広い直線の道路であったように記憶にあります。ずいぶんと冷え込んだ早朝で,横転したのも路面凍結が原因のようでした。

 河野秀美さんは,次に会ったとき,自分も断ればよかっただけと笑っていました。その河野秀美さんも親不知の国道8号線で,保冷車の箱を橋梁にぶつけ大破させたという話があり,当時の竹沢俊寿社長が,ずいぶん腹を立て,快く思っていないという話を聞くこともありました。

 同じ親不知では,金沢市場輸送の6トン保冷車の運転手も大型車との正面衝突の事故を起こし,私もその現場で渋滞に巻き込まれたことがありました。高速道路に薄い雪が積もる中,ぎりぎり競りに間に合い,渋滞の後尾にいた他の東北からの荷物は競りに間に合わなかったとも聞きました。

 6トン保冷車の運転手の名前は越田さんではなかったかと思います。他の運転手との付き合いがほとんどなかったですが,金沢市場輸送の事務所では,竹沢俊寿社長と将棋をさすところを何度か見かけることがありました。

 その事故では,しばらく糸魚川市の病院に入院をしていたようです。2,3か月ぐらい仕事を休んでいたように思います。その越田さんもいつの間にか姿を見ることがなくなっていたのですが,越田さんが10トン車を運転するのは見たことも聞いたこともなかったと思います。

 昭和59年の1月に私が金沢市場輸送に最初に入社した頃は,6トン保冷車が2台あって,越田さんと武田さんが乗務していましたが,2度目の入社の昭和61年には,武田さんは10トン保冷車に乗務していたと思います。

 6トン車も10トン車と同じ大型免許になりますが,保冷車では6トン車というのは珍しくはありませんでした。宇出津の漁運会輸送でも見かけていましたが,被告発人大網健二が漁運会輸送で短い間仕事をしたのも6トン保冷車と聞きました。

 以前の大型車は正面のフロントガラスの上に3つのランプがついていました。3,4年前に気がついたように思いますが,今はそれがなくなっているようです。3つのランプは速度が上がると点灯の数が増えることになっていました。

 6トン車はタイヤの数が4t車と同じになるので,見分けがつきにくいこともあったのですが,その速度表示灯を見ればすぐに大型車と4t車の区別が出来ました。

 金沢市場輸送では,越田さんのみならず6トン保冷車の姿もいつの間にか見かけなくなっていたように思います。

 越田さんも自宅が小坂町の辺りだと聞いたように思います。藤村さんとは気が合う様子にもみえました。

 藤村さんは昭和59年当時の配車係でした。配車係はもう一人,蛸島の北浜さんがいたのですが,北浜太一と思っていた名前が,1,2年ほど前のネットの情報で,北浜泰一の可能性が高そうだと思いました。長期の免停か取り消しで,配車係をしていたようです。

 北浜泰一さんは,昭和61年8月には金沢市場輸送にいなくなっていましたが,蛸島の浜田漁業で配車係をしていると聞きました。蛸島港にイワシを積みに行き会ってもいます。

 北浜泰一さんについては,昭和59年,私が19歳のとき,27歳と聞いていたように思います。弟も金沢市場輸送の大型運転手をしていたのですが,私が入社してまもなく免許取り消しとなっていました。滋賀県今津町での事故が最後の違反となったようです。

 北浜泰一さんの弟は,当時24歳と聞いていたかもしれません。「おっさま」と呼ばれていました。ワンルームのアパートに遊びに行ったこともありましたが,私より被告発人大網健二の方が,気が合い仲良くしているようにも見えました。

» 波多野整形外科 - Google マップ https://t.co/ojoL0bY8f2 \n 石川県金沢市駅西本町1丁目3−12

 昭和59年当時と同じ金石街道沿いの場所になるのかと思いますが,ストリートビューで建物をみると,建物の大きさが記憶にある建物の大きさの半分かそれ以下となっています。

 おっさまのワンルームのアパートもこの波多野整形外科の近くで,金石街道から少し入ったところだったと思います。

 当時は7月の7日8日と決まっていた宇出津のあばれ祭りで,被告発人大網健二が城野町のキリコを担いで腰を痛めたと言い出し,社会保険で入院したのがこの波多野整形外科の病院になります。夜に見舞いに行ったことも記憶にあります。

 被告発人大網健二が私の紹介で金沢市場輸送に入社したのは4月に入ってからだと思いますが,波多野整形外科の退院後も金沢市場輸送に復帰することはなかったはずです。遊び回って,10月頃には,私のカリーナ1600GTを廃車にしていました。

 昭和59年の時点で,金沢市場輸送の最古参の運転手が後に金沢市場輸送の社長になる本恒夫で,それでも入社8年と聞いていました。当時の金沢市場輸送は,基本給が1年毎に1万円アップするという,当時の運送会社では余り聞かないシステムになっていました。

 8年の入社というのは普通は短い方だと思いますが,重量オーバーにスピード違反と免許の長期停止や取り消しのリスクの高い保冷車の仕事では,かなり長い方であったようです。

 藤村さんも以前は運転手をしていたと聞いたのですが,事故で大怪我をしたようです。かなり極端に片足を引きずって歩いていました。当時は,他にも戦争の傷病帰還兵で同じような歩き方をしたり,片足が根元からない人を見かけることがあったので,さほど珍しくは感じていませんでした。

 昭和59年当時の金沢市場輸送の事務所は,奥に机が6つ向かい合って並んでいたと思います。左側の一番手前の席が藤村さんでした。北浜泰一さんの席は,右側の真ん中だったと思います。たぶん6つの机があったと思うのですが,他に席が決まっているのは1つだけだったかもしれません。

 左側の奥,窓際の席に,小島という名前だったと思うのですが事務員がいました。保険の関係をやっているとも聞くことがあったのですが,運転手の経験はまったくなさそうでした。

 右側の一番手前の席には,竹沢俊寿の夫人がそろばんを弾いていたように思います。ただ算盤を弾くためにだけその席にいて,周囲と会話をすることもなかったと思います。事務所が二口町に移転したあととは別人とも思えるぐらいですが,それは当時の経営の厳しさの反映でもあったようです。

 この竹沢俊寿社長の夫人ですが,一度,藤村さんと同じ年だと聞いたことがありました。他にも話を聞いたように思うのですが思い出せなくなっています。年齢が同じというだけではなく,極端な場合は幼なじみのような多少の関わりがあったのかもしれません。

 金沢市場輸送については,以前は,金沢中央卸売市場の前にある派出所の裏辺りに,平屋の事務所があったような話も聞いたことがありました。もともと倒産した運送会社を竹沢俊寿社長が買い取ったという話であったかもしれません。

 昭和61年の12月だと思いますが,配車係をしていた藤村さんが長期の入院をすることになり,竹沢俊寿社長に頼みこまれて,しぶしぶ代わりに配車係をするようになったというのが本恒夫でした。その頃に年齢が50歳と聞いていたかもしれません。

 今考えると,藤村さんが同じ金沢市西念町リ一番地の金沢市場輸送の事務所に戻ることはなかったかもしれません。再び同じ事務所で藤村さんが配車係をやっている姿は見た記憶がないからです。

 金沢市場輸送の事務所が二口町に移転したのは,昭和63年の7月に入ってすぐだったと思います。そのあとに出来た離れた場所の市場急配センターの事務所の住所も同じ金沢市二口町でしたが,平成17年ぐらいには現在の金沢市駅西本町に変わっているようです。

 もともと金沢市駅西本町という地名はあったと思うのですが,その範囲が大幅に広くなったようです。前に調べたところでは金沢市二口町というのも別の場所ではそのまま残っているようでした。

 移転前の金沢市場輸送の事務所は,テナントビルの2部屋で,1部屋はそのまま竹沢俊寿の社長室となっていました。奥の半分ほどが壁のない繋がりになっていたのですが,当時は他に見ることのなかった分厚いアコーディオンのカーテンで仕切られていました。

 新しい二口町の金沢市場輸送の事務所は,平屋建ての民家のような建物で,開放感があり,敷地がパチンコ店の駐車場と隣接し,その境界も曖昧になっていました。明らかにパチンコ店の駐車場と思われる場所でも,大型トラックを駐車したり,荷物の積み替え作業をすることがありました。

 移転する前の金沢市場輸送の事務所のテナントビルは,現在もそのまま残っているようですが,先日の3月23日に見た時は,外壁が変わっているように思いました。溝のような凹凸があって色も違っていると思ったのですが,不思議とリフォームした新しいものには見えませんでした。

 テナントビルの1階には,人気と思われる寿司店がありましたが,働き方改革のため13時30分までの営業などと掲示がありました。14時少し前だったように思います。

 もともと金沢中央卸売市場というのは,14時ぐらいになると店も閉店し静かになっていたのですが,車がみっしりと駐車して慌ただしさが残っていました。昭和59年当時は,普通に前にトラックが駐車で並んでいましたが,今では考えられないことです。

 完全に一致するわけではないですが,昭和59年当時,金沢市場輸送の駐車場があった場所に,移転した事務所が出来たのです。駐車場と行ってもただの空き地で舗装もなく,ぬかるんだ水たまりもあったという記憶があります。

 その駐車場にトラックを駐車するのは,完全に仕事が終わって家に帰るときぐらいで,ほとんどは金沢中央卸売市場の中や,前の道路上に駐車をしていました。

 金沢市場輸送の駐車場の奥はT字路の突き当りで,右折するとすぐ左手に小林運送の会社があって,そのまま隔てるものがなく金沢中央卸売市場の青果の売り場が見えたと記憶にあります。金石街道から入ってすぐに,田畑が広がり,その中ほどに金沢市場輸送の駐車場がありました。

» 〒920-0025 石川県金沢市駅西本町3丁目17−17 - Google マップ https://t.co/0yCR2S26JO

 上記が金沢市場輸送のあった場所になります。建物はほぼそのまま残っているようですが,平成17年の時点で建物は無人となり金沢市場輸送は廃業していたと思います。

 もう少し時間に余裕があれば,現地を確認しておきたかったのですが,3月23日は近くを歩いて通っただけで,金沢市場輸送の建物があった場所は見えませんでした。

 その金沢市場輸送の事務所が出来て移転した昭和63年7月というのは,全国的に景気が良くなり,運送業も仕事が増えた時期でした。当時は2年ほど東京から遅れていると聞くこともありましたが,これが世に言うバブル景気になるはずです。

 新しい金沢市場輸送の事務所で入院から復帰した藤村さんの姿を見た記憶はあるのですが,思い返しても,机に座った姿というのは見当たらず,一体何をしていたのかと不思議に思えるぐらいです。

 新しい金沢市場輸送の事務所も机が6つ向かい合って並んでいたと思います。金石街道側の窓側の2つの席は向かい合って女子事務員が座っていたと思います。真ん中で運転手の休憩室側の席が竹沢俊寿社長の夫人の席でした。

 事務所の奥側で竹沢俊寿社長の夫人の机の左斜め前の机に被告発人池田宏美がいたことも記憶にはあるのですが,余り言葉を交わすこともなく,決まって姿を見ていたようなこともなかったような気もします。

 その被告発人池田宏美の入社というのも昭和61年の12月頃で,被告訴人梅野博之の入社とほぼ同じだったと思います。4回ほど結婚したと聞いた被告発人池田宏美ですが,昭和61年当時は名前が違っていたと思います。記憶に自信は持てないですが,吉村と聞いていような気はします。

 たしか,被告訴人梅野博之は自分の市場急配センターの入社を平成と供述調書に記載させていました。昭和を平成と間違えるとは考えにくく,平成にしておきたい意図があったとも考えられるのですが,彼は「梅じい」とも影で呼ばれていました。

 高田さんの失踪後,被告訴人梅野博之が青果の市内配達の事実上の現場責任者となっていたと思われます。

 高田さんの失踪後になると思うのですが,同じテナントビルの並びに市内配達の部屋が出来,長距離の仕事とは分離されるようになりました。その部屋には用事もなかったのですが,興味本位に中に入ることはあり,女性事務員が一人いました。

 名前がはっきり思い出せないのですが,大西真さんのおごりで片町に飲みに行ったとき,被告発人池田宏美と一緒にその場にいた女性事務員になります。金沢市場輸送の運転手との不倫が退社の理由という話を聞いていましたが,いつのまにか姿を見なくなっていたと思います。

 大西真さんのおごりで片町に飲みに行ったのは平成元年の1月か2月のことだと思います。前年の昭和63年の12月の20日過ぎから私はイワシの運搬の仕事を始めていましたが,ほとんどを大西真さんと行動し,よくおごってもらっていました。翌年はそれが竹林にかわりました。

 そういえば,竹林の婚約者というのも珠洲市の蛸島町の出身と聞いていたかと思います。一度も姿を見ることがなかった婚約者の女性になりますが,婚約が破談となったことで,それまで異常な倹約ぶりを見せていた竹林が,散財をするようになり,私もそれに同行し,いつもおごってもらっていたのです。

 蛸島のTSさんの松波港での入水自殺は,平成元年の1月の20日頃だと思うのですが,朝の金沢市場輸送の事務所では,大西真さんと竹林の姿があったと記憶にあります。大西真さんは,その時期のイワシの運搬の仕事が終わったあと,しばらくして会社を辞め,戻ることはなかったはずです。

 朝の早い時間だったと思うのですが,運転手の休憩室ではなく,事務所に運転手が集まっていたというのも珍しいことでした。事務員の姿を見ていないので,あるいは日曜日だったのかもしれないのですが,いろいろと偶然が重なって,その場の集まりになったのでしょう。

 その日の朝,自宅アパートの新聞で蛸島のTSさんの自殺を知りました。前に何度か書いているのですが,図書館の北國新聞ではその記事を見つけることが出来ず,最終的に気がついたのは,その時期,読売新聞を購読していた可能性になります。

 被告発人安田敏の友人で,これも珠洲市蛸島町の出身になるSMという男が,当時,読売新聞の勧誘員をしていて,一度だけしかたなしに契約したことがあったのです。3ヶ月か長くて半年の契約だったと思います。時期ははっきりせず,長い間,忘れていました。

 自殺した蛸島のTSさんと被告発人安田敏は,石川県立水産高校漁業科の同級生になります。実際はTSさんが1つ年上だったのですが,同級生で一緒に卒業したようです。

 自殺した蛸島のTSさんは,石川県立水産高校を卒業してすぐに金沢市場輸送で4トン保冷車の長距離の仕事を始めたと聞いたように思います。同じく,金沢中央卸売市場のウロコ水産で仕事を始めたのが被告発人安田敏になります。

 ウロコ水産は金沢中央卸売市場の水産部門で,石川中央魚市と2つありました。青果の部門は石川丸果だけでしたが,これは金沢中央卸売市場で仕事をしていたのでたまたま知っていることかと思います。

 昭和56年の7月か8月になると思いますが,自殺した蛸島のTSさんの車で,金沢市問屋町のガソリンスタンドの寮まで送ってもらったことがありました。被告発人大網健二の兄OSNが一緒にいたからですが,その場に車の助手席にいたのも被告発人安田敏でした。

 被告発人安田敏とは,それが初対面ではなく,昭和55年,高校1年生の夏休みに,友達の友達になる能都町鵜川の同級生の家に泊りがけで遊びに行ったとき,外で会ってバイクの話などしていたのが,2年先輩だった被告発人安田敏になります。話には聞いて知っていました。

 昭和59年,私が金沢市場輸送で4トン保冷車の長距離の仕事を始めた頃には,自殺した蛸島のTSさんは,新田商店の運転手をしていました。金沢港の鮮魚の仲買で白ナンバーのトラックでした。当時は4t車が4台と聞いていました。

 その後も,金沢市場輸送と新田商店は直接,仕事のやりとりがあったようです。昭和59年は荷主が丸中水産となっていたと思いますが,その後は新田商店になっていました。ほとんどは6月頃のスルメイカの時期だけの仕事でしたが,一度,夜の競りで大阪まで鮮魚を大型車で運んだことがありました。

 新田商店は,近年,海産物の販売としてテレビで見かけることがありますが,もともとは魚問屋で会社は,石川県河北郡七塚町と聞いていました。現在は,同じ河北郡だった高松町,宇ノ気町と合併し,かほく市となっています。

 河北郡七塚町だった頃から,私は七塚町の場所がよくわからなかったのですが,現在ののと里山海道,当時の能登有料道路の白尾インター付近が七塚町と聞いたことがありました。七塚町の中心部というのは今でもわかっていませんが,国道からは離れていそうです。

 市場急配センターの社長でもあった被告発人松平日出男の出身地とも聞いたのが,この旧河北郡七塚町になります。

 被告発人松平日出男に関する情報は,竹林から聞くことが多かったと思いますが,同じ石川トヨタの社員だったという話でした。直属の上司ではなかったとも聞いたかもしれませんが,競馬狂いの横領で会社をやめたという話は,誰彼となく触れ回っていたように思います。

 石川トヨタにいたこと,競馬狂いで横領をしたことは,被告発人松平日出男を知ってすぐに聞いていたとも思います。その被告発人松平日出男を金沢市場輸送の事務所で最初に見たのが,昭和63年の9月に入った頃だったと思います。

 最初に姿を見てからしばらくは姿を見ていなかったと思いますし,事務所にいたことのほうが珍しかったかもしれません。机に座っている姿も見た覚えがなく,まるで出入りの業者のようでしたが,市内配達の新しいまとめ役のような話はすぐに聞いていたと思います。

 今考えると,被告発人松平日出男が市内配達の運転手をした経験があるとは思えず,経験のない仕事の采配をどうやってやっていたのか不思議に思えますが,私が市場急配センターで仕事をするようになってからも,不在が多く,何か仕事らしいことをやっている姿は見ていない気がします。

 それでも営業や取引は得意だったのでしょう。自分でも顔の広さを自慢することがありました。金沢市場輸送を含めて,事故の保険処理も担当していたようです。私は事故を起こして世話になったことがなかったのですが,車の購入を勧められたことはありました。

 それも昭和63年の秋だったと思いますが,トヨタのカリーナの新型車が出た頃で,少し話をするとすぐに被告発人松平日出男が試乗車を会社に持ってきていました。市内配達の本業以外に精を出していたことがうかがえますが,これは同じ頃の被告発人大網健二とも共通していました。

 竹林もやや過去形の話にしていたかもしれないですが,車のブローカーで競りのようなものに参加していたとか,そういう話を私にしたいました。ブローカーという言葉も当時はまだ浸透していなかったかもしれません。

 私が最初に市場急配センターの事務所に入ったのも,金沢市場輸送の運転手の事故処理の付き合いでした。平成3年で3月か4月のことです。輪島のYAの事故で,事故の場所を新潟県の能町と聞いたように憶えています。

 藤村さんに対して同情的だったのも竹林になります。私としては余り記憶にないのですが,竹林もけっこう浜田漁業金沢工場で,ミールの運搬の仕事をした時期があったようです。

 竹林は新車の大型保冷車に乗務するようになっていたのですが,たぶん冷凍機付きだったと思います。冷凍機付きは88ナンバーだったとも記憶にあるのですが,ちょうどその新車の頃に,ナンバーが「石」から現在の「石川」に変わっていました。今は他に金沢ナンバーもあります。

 昭和62年4月に私が乗務した新車の大型保冷車が「石」ナンバーの7599でした。8000台のナンバーは見たことがなかったので,7000台のうちに「石川ナンバー」に変わっていたのかもしれません。

 竹林は大型保冷車の長距離でよく仕事をしていたようですが,まともな食事をとらないほどの倹約ぶりで,それが蛸島出身の婚約者との結婚資金のためだと聞いていました。一度,福岡市内で一緒に食事をしたことがありましたが,泊まりで一緒になることは少なかったかもしれません。

 その竹林も金沢市場輸送に入社したのが昭和61年の12月頃だったと思います。たぶん市内配達の仕事をすることなく,すぐに長距離の運転手をしていたと思いますが,半年ぐらいになるのか,けっこう長い間,4トン保冷車に乗務をしていたという記憶もあります。

 蛸島のTSさんが自殺したという新聞報道があった頃,竹林は蛸島のTSさんのことをよく知っているような口ぶりで,気になったことがありました。事務所で顔を合わせ会話をしていた可能性はありますが,一緒に仕事をする機会があったのかとなると疑問に思えたからです。

 自殺した蛸島のTSさんが金沢市場輸送でミールの仕事をしていた時期も短かったと思います。免許の取り消し中で,その前には河北郡宇ノ気町辺りの電子部品の工場で働いていたとも話していたと思います。

 ミールの原料となるのはイワシで,その運搬のほとんどは金沢港でした。12月の初めから4月ぐらいまでがイワシの運搬の時期でしたが,最初と終わりの方は穫れるイワシも少なく,金沢市場輸送では2台のダンプだけの仕事で,それも待機時間が多いように聞いていました。

 それというのも当時の話で,その後,イワシは以前のようにとれなくなってミールの工場自体が閉鎖となったようです。昭和59年にはなかった仕事で,昭和60年辺りに浜田漁業金沢工場が出来て,イワシの運搬とミールの仕事が始まったようです。

 浜田漁業金沢工場の場所は,仕事以外でも能登との往復でよく通行する道路の道沿いにありました。能登有料道路は白尾インターで乗り降りすることが多く,ほとんどの場合,浜田漁業金沢工場の前の道路を通行していたからです。

 昭和60年は,前年の12月から翌年の2月いっぱいまで,私は中西運輸商で長距離の仕事をしていましたが,その仕事の中心が金沢市木越の佐川急便で,そこから金沢東インターのトラックステーションに行き来することが多かったのですが,そこでもイワシの運搬のトラックを見かけていました。

 のちに竹林が八戸軍団とも呼んでいましたが,白ナンバーのイワシ運搬専属のグループで,トラックステーションを根城にしていました。トラックステーションもオープンして間もない頃で,その頃の食堂は,割烹唐沢でした。

 能登方面に仕事に向かう時は,浜田漁業金沢工場の前の道路を通行しましたし,そこでイワシの運搬のトラックとすれ違うことも多く,そのうち金沢市場輸送が蛸島の濱田漁業のイワシの運搬の仕事を始めるような話も聞くようになっていました。

 金沢市場輸送のイワシの運搬は最初,新車のダンプ2台で,松浦さんと連れの運転手がそれぞれ乗務していました。どちらもいすゞの大型車ですが,私が乗務した保冷車の7599号よりは納車が早かったはずです。

 少し記憶違いをしていた部分があるかもしれません。私は昭和62年の1月から4月に,ちょうど丸2ヶ月ほど,中西運輸商で大型車に乗務していた時期がありました。金沢市場輸送に戻ってすぐに7599号に乗務したのですが,その頃にダンプと松浦さんを見かけるようになっていたはずです。

 これだと昭和61年の12月には,浜田漁業金沢工場でミールの仕事だけを金沢市場輸送がしていたことになります。当時のミールの仕事は,倉庫移動が多く,移動先の倉庫も1つだけだったかもしれません。

 2度目に中西運輸商に入社する前のことですが,大型保冷車の空きがなく,オンボロの平ボディの大型車でミールの仕事をしたり,6トン保冷車で仕事をしたこともありました。大型免許を取得したのが昭和61年11月27日のことでした。誕生日の翌日なので日付はよく憶えています。

 自動車学校ではなく運転免許センターの試験場で一発試験を受けていました。9回目かあるいは13回目での合格でしたが,合格したその日に大型免許の交付があったと記憶にあります。いきなりでしたが,それですぐに市内配達の仕事をすることはなかったと思います。

 その年,昭和61年8月20日すぎの入社で市内配達をしていたのは,その一発試験での大型免許の取得も目的でしたが,取り消し寸前になっていた免許の点数を一年間の無事故無違反で満点に戻すのも大きな目的でした。満点に戻った時期は記憶にないですが,無事満点には戻ったはずです。

 ミールはイワシを原料にするものですが,イワシの運搬が終わってもミールの仕事はあったように思います。その後,例外も出てきましたが,ミールの仕事は名古屋方面が多く,インスタントラーメンのスープの原料になるとも聞いたことがありました。

 その後は,養鶏場の餌になるとも聞きましたが,養鶏場にミールを運んだ記憶は新潟県内の2箇所しか思い出せないところです。どちらも保冷車で運んだような気がします。頸城郡と蒲原郡でした。どちらかは山形県との県境に近いところでした。

 平成2年の5月か6月,金沢市場輸送での最後の仕事となったのもミールの仕事で,私はウィング車に乗務していたのだと思いますが,輪島のYAの保冷車と2台で,神戸でミールを荷降ろしし,帰り荷がないまま空車で帰ったという運行でした。

 ミールの仕事が一年中あったのか考えていたのですが,一年中なかったとすれば,金沢市場輸送の事務所で姿を見なかった藤村さんは何をしていたのか,すでに会社をやめていたのかという疑問がもたげてきたわけです。

 藤村さんについては,相当に足が悪い様子で,金沢市場輸送を辞めてしまえば,他に出来る仕事がないだろうという話も聞いていました。当時は余り姿も見かけなかったので深く考えることもなかったと思うのですが,信じがたい冷遇がそこにあったのかもしれません。

 一方で,それが金沢市場輸送の会社の本質を隠す擬態であったとすれば,すべては演出や演技だったのかもしれないと考えるようになりました。被告発人松平日出男と本恒夫の対立関係については,当時から疑いの目があったのですが,藤村さんのことを疑うことはなかったと思います。

 最後に竹林に会ったのは,金沢中央卸売市場の鮮魚売り場の裏手の奥で,新田商店の社員として仕事をしていました。平成3年の1月17日に新車のウィング車に乗務するまでは,保冷車でしょっちゅう金沢中央卸売市場の鮮魚売り場で仕事をしていたことになります。

 なにか久しぶりに鮮魚の売り場に行って,その場でたまたま竹林に会ったような記憶になっているのですが,それが正しいとなると平成3年12月の10日頃のことになり,山形県寒河江市からリンゴを運んできた時のことになるのですが,鮮魚の売り場まで行く用事はなかったはずです。

 裏門の出入り口が,ちょうど青果と鮮魚の売り場の境目になっていたと思いますが,裏門の横の塀沿いに,青果の方でも山水運輸の大型車が鮮魚の中継の仕事をしていました。鮮魚の方は夜中から小型のトラックが集まって作業をしていましたが,青果では見かけることがなかったことです。

 一月ほど前もテレビでやっていましたが,金沢中央卸売市場の鮮魚の売り場は日本で2番目に競りの時間が早いということで,午前3時半と紹介されていました。競りの時間が早いだけに集まってくる小型のトラックも多く,作業をしていたのかと思います。

 竹林と最後に会った時期についても,以前は記憶がはっきりしていて記述したものがあるように思います。寒河江市から戻った時は,都商事のYTとも一緒になり,あれも久しぶりの再会だったと思うのですが,荷降ろしを終えたあと,一緒に食事をしました。食事の場所は記憶になくなっています。

 過去のはてなダイアリーのエントリーを調べたところ,竹林と金沢中央卸売市場で会ったのは数回で,私が金沢市場輸送の保冷車に乗務していた時期のことのようでした。はっきり記憶にはないですが一緒に食事をしたともありました。

 同じく藤村さんについても,ボクサーをしていたという話はすっかり忘れていたもので,やはり平成3年の6月頃に金沢市場輸送を辞めた時点で,藤村さんが会社にいるのかわからないという状況であったと記述がありました。

 いずれも「hatena-diary_20060726」という記事として記録保存されたものです。これはタイトルが文字化けしたという事情もあって,その後にタイトル名を変更したものの1つかと思います。2018年9月20日の記事として,はてなのブログには保存されています。

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