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2019年11月28日 (木)

宇出津仙人町で記憶に残る甲斐バンドの「裏切りの街角」という曲:「少年時代」と「弁護士に向かって」

宇出津仙人町で記憶に残る甲斐バンドの「裏切りの街角」という曲:「少年時代」と「弁護士に向かって」

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:CATEGORIES: 石川県警察珠洲警察署御中 :TAGS: 深澤諭史弁護士

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 宇出津の住所というのは能登町宇出津、能登町宇出津新、能登町宇出津山分、能登町崎山で、四明ケ丘という町内が能登町藤波になると祭礼委員をやっていたことで近年しりました。能登町宇出津新港という住所もありますが、あばれ祭りには参加をしていないので、違うような気はしています。

 宇出津の40ほどに分かれた町内は、それぞれがあばれ祭りでのキリコの町内にもなるのですが、住所にはない町内名なので地元でないとわからないと思うし、地元でも町内の範囲がよくわからないところがあります。本人の希望で飛び地で別の町内に入る人もいると聞きます。

 宇出津の仙人町というのは宇出津小学校の近くで、宇出津小学校自体は田町の横町という町内と聞くことがありますが、宇出津の商店街の外れの方でもあります。昭和の時代は店も多くて賑わいがあり、9月の市の出店が並び、三番町に近い辺りは茶碗が多かったと記憶にあります。

 「おさいいち」と呼ばれていたように思います。Googleで調べたのですがそれと思われる漢字は見つかりませんでした。「お」はわからないですが、「さいいち」は「斉市」であったように思います。現在、北國銀行宇出津支店のある場所に、長楽寺がありました。

 その長楽寺では、9月のお斉市のとき、見世物小屋やお化け屋敷がありました。見世物小屋は身体障害者をお化けのように見世物にしていたのだと思いますが、入った憶えはないので実際のことはわからないものの、やはりそれだったらしいという話は年配の人に聞いています。

 長楽寺は、いつの間にか30メートルほど坂の上の方に移築されており、もともとあった小路の角には現在の北國銀行宇出津支店があります。小路の横には「ヒノマル」という婦人服の衣料品店があって、現在もありますが、これもいつのまにか店が改装されたか、建て替えがあったようです。

 宇出津小学校と宇出津病院の間には、現在もそのまま建物がありますが、公民館があって、数年前に旧宇出津駅前にコンセールのとが出来るまでは、その建物に宇出津の図書館がありました。その公民館も仙人町になると聞いたのは、3,4年ほど前のことでこれも祭礼委員のときにしりました。

 仙人町は宇出津の町内でもかなり範囲が広い方だと思います。ただ、個人的に仙人町の記憶の中心となるのは、昨夜取り上げたかと思う「いのひら」という床屋があった場所の付近になります。

 なぜだか憶えていないのですが、仙人町の方に余り行かなくなる前の頃に、甲斐バンドの「裏切りの街角」という曲が、当時の風景が記憶と強く結びついています。おそらく甲斐バンドが余りメジャーではなかった頃で、数年後の「HERO」や「安奈」の大ヒットで、身近な存在になりました。


「裏切りの街角」(うらぎりのまちかど)は、1975年6月5日に発売された甲斐バンド2枚目のシングル。

裏切りの街角 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%8F%E5%88%87%E3%82%8A%E3%81%AE%E8%A1%97%E8%A7%92

 2枚目のシングル曲だったということは、今調べて初めてしりました。昭和50年の6月5日の発売とあるので、その4月の初めに私は、辺田の浜から宇出津の小棚木に引っ越してきたことになります。

 辺田の浜に住んでいた頃は、宇出津の町に買い物や銭湯に行くときの通り道でもあった仙人町ですが、小棚木とは逆方向になるものの、宇出津小学校への通学には仙人町を通っていましたし、中学生の頃も仙人町には同級生の家に遊びに行くことがありました。

 宇出津小学校への通学には、当時の能都町役場の裏の方から、小路で仙人町に出ることがあったと記憶しますが、ちょうど仙人町の通りに出たところの角に、蒸し鮑の小さな店があって、店の横手にはいつも大量のアワビが地面に水に晒されていた記憶があって、独特の匂いもありました。

 となりには「かすや」という雑貨店もような店があったのですが、いつのまにか違った店の名前になっていて、雑貨店の頃の趣はなくなっています。新町通りの角には、古い北國銀行の建物があったという記憶があり、道路の向かい側の角には、肉屋がありました。

 その肉屋は、数年後に新町に移転し、当時は珍しかった鉄筋のような建物になっていたのですが、私が中学生の頃にガス爆発を起こしました。死人は出なかったとずっと記憶にあったのですが、2年ほど前の札幌での爆発事故の時、銭湯で話題となって、死者が出ていたと初めて知りました。

 その肉屋は、現在、北國銀行宇出津支店のある向かいにもなるのですが、私が羽咋市に住んでいた頃は「ばら寿し」という持ち帰りの寿しの店がありました。現在は宇出津新港のアルプというショッピングセンターのなかに店があるようですが、店の人が同じかは不明です。

 私が羽咋市に住んでいたのは平成14年の11月の25日頃から平成21年の3月15日までのことで、宇出津に帰った時に何度か「ばら寿し」で買い物をしたことがあったのですが、寿司職人のような年配の男の人がいて、それが川俣郡司の事件の記憶と重なることがありました。

[link:] » 深川通り魔殺人事件の犯人である川俣軍司の生い立ちや現在は?|エントピ[Entertainment Topics] https://t.co/lERGYQMMBF

 Googleで検索をした上記の記事は、2019年5月16日更新とあります。事件は1981年つまり昭和56年とありますが、私の記憶の感覚だと昭和40年代の終わりで、昭和50年代の初めとも思っていました。

 猿ぐつわで口に何かを押し込まれていましたが、下はパンツ1枚で包丁を手に持ち、異様な写真やあるいは映像をみたという記憶があって、社会に対する影響もとても大きな事件であったと思います。あの報道をリアルに見た世代と、その後の世代には、薬物に対する認識も違いがありそうです。

 とにかく大きな報道であったと記憶にあり、異様な事件でしたが、それでも通り魔の死者は4人だったようです。被害者に子どもと幼児が含まれていたという衝撃は大きかったと思いますが、被害者の数では、近年、はるかに上回る事件がいくつかあって、それも比較的報道が小さいと感じることがあります。

 甲斐バンドのボーカルだった甲斐よしひろさんは、長い間、テレビで名前を聞くこともなかったのですが、1,2年ほど前になるのか、週に1回ぐらいのペースで、お昼の情報番組バイキングで、コメンテーターとして姿を見かけるようになりました。

[link:] » 甲斐バンド - 裏切りの街角 - YouTube https://t.co/3GVqSmzsl3

 さきほど検索でみつけて視聴した動画になりますが、ずいぶんと若く見えて10代にも思われます。昭和50年代は、テレビに出ないことをステータスとする歌い手がけっこういたということもありますが、ファンクラブにでも入らないと、写真で姿を見ることも少なかったと思います。

 甲斐バンドはHEROがヒットした頃には、ザ・ベストテンのような歌番組で見たような記憶もありますが、そのザ・ベストテンも昭和50年代後半の番組だったと思います。昭和50年代の前半にも始まっていたような気もしますが、昭和55年が、私が高校1年生になります。

[link:] » 甲斐よしひろ - Wikipedia https://t.co/KXEj5MuAWh

 福岡県福岡市の出身というのはなんとなく記憶にあったので、やはりと確認したのですが、1953年4月7日生まれというのは意外で、昭和28年になりますが、私とは11歳ほど年の差があったことになります。私が小学生の頃のデビューらしいので、二十歳前後になるのかと思われます。

 「バス通り」という曲がデビュー曲だったらしく、YouTubeで視聴をしていますが、曲調自体は懐かしさを感じるものの、たぶん聴いたことのなかった曲かと思います。昭和40年代の終わりから昭和50年代の初めてという、当時の時代の空気感のようなものも感じました。

 昭和50年代に入ると世相も変わってきたように思いますが、昭和40年代というのはフォークソングや学生運動の時代でもあったようです。吉田拓郎も当時の代表的な存在感がありましたが、曲を聴いたり、ギターで練習をするようになったのは、昭和50年代に入ってからです。

 吉田拓郎については、久保利英明弁護士とのことで改めて取り上げておきたかったこともあるのですが、それというのも金沢市での婦女暴行事件で、金沢中警察署に逮捕されたという話です。ネットを始める前にも少し話を聞いていたように思うのですが、噂話のレベルで、ネットで詳しいことをしりました。

 吉田拓郎と久保利英明弁護士の対談というのがネットの記事となっていて、三ヶ月ぐらいか前にも久しぶりにみかけて読んでいたのですが、弁護士という職業の歴史においてもとても参考となる資料性がありました。

 吉田拓郎についても私の中では自然消滅のようなかたちで、テレビでもネットでも情報を見かけていないのですが、15年から20年ほど前には、日曜日の23時前後の番組だったと思いますが、キンキキッズとよく同じ番組に出演をしていた時期があり、ずいぶん丸くなったような印象もありました。

 昭和40年代や昭和50年代の広島が、特別な存在感でヤクザ映画の本場にもなっていましたが、吉田拓郎もその広島の出身だと聞いていました。まだ戦後の混乱も残る時代であったのかもしれません。漫画の「はだしのゲン」のイメージも強いですが、その町内会長にこだわるのも深澤諭史弁護士です。

[link:] » 吉田拓郎 - Wikipedia https://t.co/uHyhkozsOn

 吉田拓郎が昭和21年4月5日という戦後生まれで、現在も73歳というのは意外でした。数年前に大病を患ったという話はテレビで知っていましたが、もう長い間、名前も見かけずにいたので、訃報のニュースに気づかずに過ごしていたのかと、とりいそぎ調べたところです。

 森下愛子という女優の名前には、当時の姿にもなんとなく思い出せるところがあったのですが、吉田拓郎と結婚していたとは知らなかったように思います。昭和61年から区切りがないので現在も結婚生活が続いているようです。

 その前に吉田拓郎が結婚していた浅田美代子のことは、ずいぶん話題にもなっていたので記憶にありますが、結婚生活は昭和52年から昭和58年となるようです。浅田美代子も1年ほど前はテレビで見たように思いますが、最近はみかけないでいます。

[link:] » 浅田美代子 - Wikipedia https://t.co/TMvHFmbv3m

 もともと童顔で、年齢を重ねても若く見えるタイプと思っていましたが、浅田美代子が現在においても63歳と知って、ちょっと驚きました。福井刑務所の受刑中、日曜日の夜に、「さんまのからくりTV」というような番組で、毎週のように出演を見ていた時期がありました。

 デビュー曲が「赤い風船」で昭和48年4月21日とあります。辺田の浜の家での生活の終わりの方で、ヒット曲の替え歌が「あの子は、どこの子、神野のザイゴの子」と歌われていたことがありました。ゴミ焼き場の道の向こうには神野の集落があると話にだけ聞いていた時期のことです。

 このザイゴという言葉も長い間、能登の方言とばかり思っていたのですが、たしかネットで、「在郷」という言葉を見かけ、これがザイゴの本来の意味だったのかと考えたことがありました。地元ではかなりの侮蔑を含む差別語でもあったと思いますが、今では使われていない気もします。

[link:] » 能登町 衛生センター - Google マップ https://t.co/NTwOUFdOWW

 上記が通称ゴミ焼き場があったのと同じ場所になりますが、これもいつの間にか新しくきれいな建物に変わっていて現在に至ります。私が子どもの頃は、坂の斜面に分別もされないゴミが上から撒き散らしたような状態で置かれていました。今からは想像も出来ない光景であったように思います。

 このゴミ焼き場の横には、線路とトンネルがあって、トンネルの先には宇出津駅がありました。汽車の窓からゴミ焼き場を見ていたという記憶はないのですが、すぐ横にトンネルは今も残っています。線路は枕木が外されているかもしれないですが、それとわかるかたちは残っていると思います。

 その線路と汽車には、私の母親が孫になる長男や次男を乗せて金沢から行き来をしたこともあったのかと想像します。私が社会の汚物、ゴミ、汚染とみる弁護士の弁護士鉄道というテーマも、ここに原点の一つがあります。弁護士脳汚染除去装置です。

 時刻は23時05分です。テレビはつけていませんが、Twitterのトレンドでは特にニュースは見かけません。予定ではこのあと続いて、同じ甲斐バンドの「安奈」という曲について記述をするつもりでいたのですが、寝る時間のことも気になる時間になったので、軽めの記録にしておきます。

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