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2019年10月11日 (金)

昭和40年代、能登町波並の国道で起こったと聞く小学生の交通死亡事故と、宇出津小学校での自転車運転免許

昭和40年代、能登町波並の国道で起こったと聞く小学生の交通死亡事故と、宇出津小学校での自転車運転免許

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:CATEGORIES: 石川県警察珠洲警察署御中 :TAGS: 能登町

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 私は昭和50年4月に入ってすぐ、現在の能登町藤波(当時は、石川県鳳至郡能都町藤波)から宇出津の小棚木という町内に引っ越してきました。藤波と言っても3つの集落の1つ辺田の浜になるのですが、宇出津から近い順に、辺田の浜、柳倉、間島となっています。

 藤波は、これも宇出津から近い順に藤波、波並、矢波と3つの集落で三波地区とも呼ばれます。矢波の先には七見という集落があって、その先が鵜川という能都町では2番目に大きな町でした。被告発人安田敏はこの鵜川の出身になります。

 宇出津から鵜川は距離で10キロないと思います。間には信号機もわずかで、多少カーブはあるもののほとんど一直線で、ほとんどが海岸線になります。

 昭和の時代は、宇出津から穴水、七尾、金沢方面に行くのも国道249号線で鵜川を通るのが普通だったのですが、現在は能登町上町から珠洲道路で向かうのが多いと思いますし、宇加塚から桜峠に出る道路を選ぶ人も少なくないようです。

 私が能都中学校に入学したのは昭和52年だと思います。宇出津小学校、神野小学校、真脇小学校、三波小学校から集まっていました。三波小学校はその中でも最も早く廃校になったと聞きますが、同級生が三波小学校を卒業した数年後だったようです。

 なお、被告発人HTNは真脇の出身なので真脇小学校になります。この真脇小学校がけっこう最近まであったようですが、新校舎になって数年後に廃校となったようです。児童は、小浦、真脇、姫でした。現在は宇出津小学校に通学しているようです。

 児童数は宇出津小学校で127人と記憶しています。それが能都中学校になって同学年が204人となっていました。これは比較的多い人数で、2つ年下の学年は150人台でクラスも1つ減っていました。他の学年は5クラスでした。

 2,3日前のテレビで、何か不祥事のあった小学校だったと思いますが、都会の方で生徒数が570人台と言っていたように思います。6学年だと平均で1学年は100人未満ということになりそうです。

 三波小学校は、藤波の間島、波並、矢波の児童で、そのうち矢波の児童は鵜川中学校に進学すると聞いていました。中学校が違うと親戚関係でもない限りほとんど交流がなかったのですが、高校になると一緒になることがあって、いろいろと話も聞くようになりました。

 私の記憶では能都中学校の同級生は、間島が男2人、波並が男2人と女が4人ほどいたように思います。男子の方は記憶がしっかりしていると思いますが、女子のことは記憶があいまいで、よく憶えているのも1人だけです。

 波並の男2人は、どちらも付き合いがあり、同じクラスにもなったと思います。1人は相撲部で一年生の頃は同学年の部員が彼と私の2人だけでした。前に書いていると思いますが、能都中学校の相撲部は能都中学校で練習することがほとんどなく、石川県立水産高校の相撲部屋に通っていました。

 能都中学校の場所は四明ケ丘の山の上にありましたが、崎山を通って水産高校に行っていました。距離だとたぶん4キロもないぐらいと思いますが、けっこうな距離だと思いながら通っていました。練習が終わって家に帰るのも、魚市場の前を通っていました。

 能都中学校の数年前に取り壊しとなり、現在は宇出津高校があった場所に新築移転しています。ここも住所が藤波になるのだと思いますし、四明ケ丘という新興住宅地の町内も住所は藤波になると、3年ほど前に知りました。あばれ祭りにも宇出津の町内として参加しています。

 石川県立水産高校の建物は、そのまま現在、能登高校となっています。校舎と正面から右手にある体育館は昭和52年当時と変わっていないと思います。正面から左手にも大きくて比較的新しい体育館のような建物がありますが、いつの間にか出来ていたもので入ったこともないです。

 その能登高校の敷地も辺田の浜に近いので、地元でも辺田の浜か宇出津新港だと思っている人が多そうですが、住所は宇出津で町内も天保島になると聞きました。魚市場があるのも町内は天保島になります。江戸時代の天保年間の埋立地とのことです。これも近年知りました。

 能登高校には現在も石川県立水産高校の頃と同じグランドがあって、そのグランドの端が辺田の浜と宇出津の境になると聞きました。子どもの頃は、このグランドの道路から見て右端の方で、よく野球の練習などしていました。

[link:] » 字宇出津 - Google マップ https://t.co/XYKyu6B3Kd

 Googleマップで宇出津を検索すると範囲が色分けされますが、飛び地があったりかなり複雑です。これは同じ宇出津でも、宇出津新、宇出津山分が別になっているためかと思います。郵便番号も下4桁が違っています。

[link:] » 字藤波 - Google マップ https://t.co/SuBy34jTlA

 Googleマップの藤波に、辺田の浜という地名は見えませんが、バス停は辺田の浜となっているかと思います。宇出津新港との境もよくわかっていませんが、辺田の浜の浜辺を埋め立て出来たのが宇出津新港になります。昭和の終わり頃だったと思いますが、はっきりとは憶えていません。

 宇出津新港が出来た頃、不思議と関心がなかったので、近くを車で通りかかっても一瞥するぐらいで、中に入ることがなかったように思います。それで中に入ったことはあったと思いますが、出来た当時のことはかなり記憶が曖昧です。

 これまでに何度か書いていますが、私が宇出津の小棚木に引っ越した年を昭和50年と特定できたのは、20年ぶりとかで復活した春の神事があったからで「酒樽がえし」と呼ばれているかと思います。確か毎年4月2日で、夜は石川県内ニュースに出ていて、それで思い出すことが多かったです。

 4月2日と決まっていることも昨年あたりに初めて知りました。春祭りということになるのかもしれないですが、私が初めて見に行ったのも3年ほど前のことでした。テレビでは不思議とつけていたチャンネルのタイミングで、毎年のように見かけていました。

 辺田の浜の浜辺というのは、その神事のおこなわれる神目神社の前だったのですが、そこで春祭りが復活する話を聞きながら、引っ越しをする宇出津の小棚木に行くのを優先して春祭りを見ずに辺田の浜を離れたのが記憶にあります。

 辺田の浜の神目神社は、高台というか崎山台地の一角にありますが、階段の前の鳥居は道路沿いにあります。宇出津の天保島に行く道路です。この神社の鳥居の前の道路は、道幅がいくらか広くなっていて、そこで自転車に乗る練習をしたことをよく憶えています。初めは補助輪を付けていました。

 ようやく自転車に乗れるようになった頃だったように思いますが、宇出津小学校で自転車の免許証が必要となりました。宇出津小学校の運動場で実地の試験を受けたことも記憶にあり、合格したときはとてもうれしくて、定期券のケースのようなものに免許証を入れて自転車に乗っていました。

 宇出津小学校で自転車の免許証が必要とされたのは、波並の国道で死亡事故があったからだと聞いていましたが、詳しいことは能都中学校に入ってから波並の同級生に話を聞きました。死亡した児童も同級生で、大型ダンプに轢かれ肉の塊のような状態になっていたとのことです。

 よほど凄惨な交通事故で、小学生の自転車の免許制度を決めたのかと思いますが、私がまだ辺田の浜に住んでいた頃になるので昭和40年代の後半になるのかと思います。

 10年以上前とも思いますが、新聞に大きく同じ小学校での自転車の免許制度のことが記事になっていました。同じ石川県の河北郡内灘町となっていました。海に近く海水浴場もあって交通量も多い住宅地になるかと思います。

〈〈〈:Emacs: 2019-10-11(金曜日)12:13  〈〈〈

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