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2018年7月21日 (土)

# 先日、俳優加藤剛さんの訃報で知った「砂の器」という映画と、同じ松本清張の「日本の黒い霧」という短編集 #


松本清張『日本の黒い霧』と社会推理 http://www.qmss.jp/strategy/condition/blackmist-intro.htm>

 まず大枠の確認のため調べたのですが、書籍の通販の情報の他、上記のページでも上下二巻になっているように書いてあります。私が読んだ記憶にあるのは一冊の本でした。タイトルと同じように黒い霧のようなデザインで、その時点でかなり年季の入った本に見えました。

 金沢刑務所の拘置所で官本として読んだという記憶です。時期がはっきり思い出せないのですが、平成11年の事件での勾留であったように思います。平成4年のときとは、官本の借り入れ数が増え、借り入れの回数も増えていたかもしれません。一度に3冊になっていたとも思います。

 借り入れは少なくても週2回だったと思いますが、全体的に記憶が薄れているので、それ以上は思い出せません。なお、福井刑務所では図書室での借り入れとなっていました。金沢刑務所の受刑生活では、工場の食堂に本棚があり、免業日以外は、毎日、借り換えが出来ました。

 その本棚というのは、拘置所に回ってくるものとたぶん同じだったと思いますが、キャスター付きで手押しの出来るものでした。2ヶ月ぐらいで交換になっていたとも思います。

 独居房や雑居房も同じですが、通路の刑務官と物品のやり取りなどをする窓は、「食器口(しょっきこう)」と呼ばれていました。拘置所では2ヶ月に1度ほど、勾留期間の延長があって、帳簿のようなものに指印を押していました。

 その食器口の窓から本棚の本を選んでいましたが、内容の確認が出来ず、タイトル名と作者名だけで本を選んでいました。家庭にもありそうな本棚でしたが、キャスターの車が大きかっただけ、本の数も少し少なめだった気がします。

 刑務所や拘置所では、他にも施設や職員のことを「官」と呼ぶことが多く、貸与される物品のことも官物と呼んでいました。日用品の多くは私物として購入が出来ましたが、購入が出来ないかしない場合は、官物の支給となっていました。歯磨き粉も、本当に粉末の粉のものでした。

 購入できる物品というのは決まっていました。拘置所の未決と刑務所の受刑者に日用品の違いはなかったように思います。未決の場合は、菓子類や飲み物の購入も出来ました。私本の購入も大きな違いはなかったと思いますが、受刑者では月2回だったと思います。

 「日本の黒い霧」という本が、短編集だったことは記憶にあったのですが、はっきり記憶に残っていたのは「下山事件」ぐらいでした。他にあったかもしれないと記憶にあったのが、同じ国鉄の事件で「松川事件」でした。「帝銀事件」と「白鳥事件」は、他の本だったかもしれないと考えていました。

 「白鳥事件」は、再審開始の判断の基準として大きな判例でしたが、最近では見かけなくなっていると思います。確かに濃い霧につつまれたような、不可解さを印象づける事件でした。他も同じようなもので、それで「日本の黒い霧」というタイトルになったのだと思いますが特に疑問もなく読んでいました。

ゼロの焦点 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%AD%E3%81%AE%E7%84%A6%E7%82%B9>

 松本清張という作家のことは、昭和の時代から知っていたと思うのですが、上記の「ゼロの焦点」が代表作のように聞いていました。それも能登半島の富来を舞台にしたものと聞いていたので、身近に感じることもありました。

 今、上記のwikipediaのページに目を通すと、1961年と2009年に映画化とあります。一度、見たような気もするのですが、それはテレビの2時間ドラマだったような記憶です。ドラマの内容もさっぱり記憶にはありません。

 wikipediaのあらすじを見ると、終戦直後の米兵相手の売春のことが書いてあります。これもさっぱり記憶にはなかったものです。同じ官本で「ゼロの焦点」も読んでいたかもしれないと思ったのですが、どちらにしろ当時の私には難しい内容で、集中して読むこともなかったのかもしれません。

 ゼロの焦点が、能登の富来の景勝地を舞台にしていることは、ずっと前から知っていたのですが、「巌門」と「関野鼻」のどちらなのかもわかりません。数年前にバイクで、どちらにも行ったのですが、富来の町をはさんでずいぶんと離れた場所になっていました。

 巌門の方は「能登金剛」とも呼ばれているようですが、小中学生の頃、バス遠足で行ったような記憶もかすかに残っていました。駐車場付近の記憶しか残っていなかったのですが、それは昭和61年頃、妻子と一緒に車で行ったはずの福井の東尋坊も同じでした。テレビの景色で思い出すことはないです。

 富来は以前、羽咋郡富来町だったのですが、羽咋郡志賀町に編入されました。同じ能登半島でも、逆回りになるので滅多に行くような場所ではありません。正確な位置関係も近年になってようやく知りました。西海と福浦の違いです。

 富来の町の中心部というのは、海に近いものの大きな浜辺になっていて、増穂浦と呼ばれているようです。はずれの方に増穂浦の海水浴があって、その少し先に西海の漁港がありました。けっこう大きな漁港だと思ったのですが、以前に来た時の記憶がほとんど残っていませんでした。

 珠洲市の蛸島の漁港からイワシを運搬したのは、昭和63年のクリスマスだったと思います。クリスマスの当日だったことははっきりしています。富来の漁港であったという記憶はあったのですが、西海なのか福浦なのか区別が出来ませんでした。

 その時は、当時の能登有料道路の、横山インターあたりから峠道で、富来の町に入ったのですが、初めて通行する道だったので、地図を見ながら走っていたはずです。夜、慣れない道で凍結を気に掛けながらの走行でした。この続きも、また別に書きたいと思います。ずっと前からの予定の1つです。

 松本清張は、以前より2時間ドラマに名前をみることがたびたびありましたが、「鬼畜」というドラマを見て、それまでイメージしていた作風とは異なると感じました。十津川警部の西村京太郎の2時間ドラマとごっちゃにして記憶していたのかもしれません。

 最近は、以前サスペンスドラマとも呼ばれた2時間ドラマをテレビでみることが少なくなっているとも感じるのですが、以前はずいぶん数も多かったと思いますし、海の断崖といえばサスペンスドラマの最終シーンというイメージは、お笑いのネタとしても使われています。

松本清張 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E6%B8%85%E5%BC%B5>

 いつ頃の時代の人物だったのかと調べたところ、明治42年生まれで、平成4年8月4日に死没したと知りました。ずいぶん前から大御所のような存在だったので、存命とは考えていませんでしたが、平成4年の8月に亡くなっていたとは知らなかった気がします。自分の判決公判の翌日です。

 「砂の器」ですが、昭和の終わりから平成の初め頃、レンタルビデオ店で「パッケージ」を見ていた記憶だけがありました。棚のパッケージの数も多かったので、著名な大作ということはわかりましたが、手にとってあらすじを見るようなこともなかったと思います。似たものに「人間の条件」がありました。

 当時は考えも単純だったのか、器という文字から陶芸家の物語をイメージしていたような気もしますが、加藤剛さんの訃報のツイートで繰り返し、「砂の器」と見るうちに、いったいどんな内容の映画だったのかと、関心が出てきました。

 ネットで調べると、中国語の字幕付きのものでしたが、映画を視聴することが出来ました。時間をおいて2晩で視聴しました。まったく意外な内容と思いながら見ていたのですが、終わりの方になると、以前、少し見たことのある場面が含まれているようにも思いました。

 私は20代の頃も映画やドラマをみることは少なかったのですが、理由の1つに、落ち着きがなく集中して内容を理解することが苦手でした。それでもレンタルビデオ店には、ちょくちょく行っていて、洋画はほとんど借りずに、日本映画ばかりだったということもありました。

 スターウォーズなども一作もみた記憶がありません。話題作なので見てみたいと思うこともほとんどなかったと思います。刑務所の中で映画やドラマを見るようになってから、集中してみることで、ドラマの筋も理解できるようになりました。

 映画「砂の器」では、合掌造りの集落が出てきて、石川県の山中温泉の近くということになっていましたが、江沼郡ではなくそれに似た架空の地名となっていました。ネットで調べたところ、合掌造りの建物の集落は、白川郷などでの撮影のようでした。

 Googleマップで確認したところ、白川郷の白川村は岐阜県で、同じ合掌造りの集落でも五箇山が富山県となっていました。どちらも高岡市から岐阜県高山市への国道156号線沿いでした。この国道も何度かトラックで走行したのですが、実際に合掌造りの建物を見たという記憶はありません。

 以前は、合掌造りといっても、現在ほど有名ではなかったとも思います。世界遺産になったという話も聞いていますが、それも近年のことだと思います。織物の蚕のための建物だったということも、最近テレビで知りました。

 石川県の白山の近くから岐阜県の白川郷まで、白山スーパー林道という有料道路があることは知っていましたが、行ってみたいと考えることもなく、走ったこともありませんでした。現在は、名称も変わっているようです。白山に関心を持つようになってから調べる過程で知りました。

 小学校の社会科の授業だったと思いますが、石川県のはずれで福井県と岐阜県に近いのが、白峰村という話は知っていました。その白峰村も一度は、通行したはずなのですが、まったく記憶に残っていません。目的地が福井県の勝山市の繊維工場で、古い小学校の分校のようにも思える建物でした。

 地図を見ると福井県勝山市へは、国道157号線で白峰村を通過したはずなのです。白峰という地名は、辺田の浜の家のすぐ近くに「白峰」というレストランが出来たことでも身近なものでした。このレストランの建物は現在もそのまま残っています。

 レストランの白峰は「白峰村」の「しらみね」ではなく、「はくほう」と読むもので、富山湾越しに見えることの多い立山連峰をイメージしたものと考えられます。当時は、宇出津小学校の横の、現在、郵便局がある場所に、「牛湾」というレストランもありました。

 福井県勝山市に行ったのは、昭和58年の8月だったと思います。

 昭和59年に金沢市場輸送で4t車の長距離の仕事を始めてからも、金沢市内でちょくちょくと反物を積み込む仕事がありました。以前栄えた紡績の仕事の名残りで、ずいぶん衰退しているという話も聞いた覚えがあります。金沢市の古府のあたりだったとも思います。西インターの近くです。

 Googleマップで地名を確認すると、金沢市の古府というのは、思っていたより範囲が広く、やはり野田専光寺線にまたがっていたのだと確認しました。隣接して、KYNの自宅と会社があった黒田、そのとなりに保古町があり、保古町は川を挟んで、私が長く住んでいた東力です。

 当時は、犀川の土手沿いのような裏道で、高畠の方までほとんど信号機にかからずに行くことが出来ました。OSNは、昭和60年頃、その高畠のアパートに住んでいました。いつ頃まで住んでいたのか思い出せないですが、その後、一年ぐらいは東京で生活していたという話でした。

 昭和63年には、東京から戻り、増泉のアパートに住んでいたと記憶にあります。出張中の岡山県内で自動車事故を起こし、金沢市の入江の病院にしばらく入院していました。八幡のすしべん入江店、の裏にある病院でした。そこの住所は東力だったかもしれません。

 保険金などで融通がききやすい病院なので、それを目的にした若者が集まるという話も聞いていました。酔ってダンプカーにぶつかったというKYNが入院していたのも同じ病院でした。入院の時期がOSNと重なっていたかどうかは、はっきり記憶にありません。

 ちょうどレコード盤にかわりCDが普及し始めた時期だったということも当時の記憶として残っています。その当時、金沢市内ではレンタルのCDの店は少なく、武蔵ヶ辻の辺りまで借りに行ったようなことも記憶に残っています。

 金沢市内で、レンタルビデオが始まったのは、昭和59年の夏頃で、初めは2件ぐらいしかレンタルビデオ店がないと聞いていました。借りるのも1本が1500円という値段でした。1つは、金石街道沿いのサウナエバラの敷地にレンタルビデオ店がありました。

 そのサウナエバラも、ずっと前に取り壊しになったような話を聞いています。24時間営業で寝泊まりが出来るという話でしたが、同じような施設は片町にサウナオーロラがあるだけでした。

 その後、東力か入江の辺りにサンパリオが出来て、東金沢の方にルネスという温水プール付きのサウナが出来ました。さらに後には、西インターのそばに「テルメ金沢」が出来ましたが、そういえばここ数年、テレビのCMも見かけていないと気が付きました。

 Googleマップとストリートビューで見たのですが、八幡のすしべん入江店の裏にあった病院はなくなっていました。サンパリオの建物も嘘のように消滅していましたが、建物が出来たのは、私が昭和59年に東力に住み始めた、少し後だったと思います。総合病院のような建物でした。

 Googleのストリートビューでは、下の方に2017年7月撮影とありますが、八幡のすしべん入江店の建物は、昭和の時代から変わっていないように見えました。野田専光寺線の方から見ると、屋根や外壁は新しく変わっているようです。

 昭和58年当時、深夜に金沢市内で食事が出来る場所というのは、この八幡のすしべん入江店しかなかったのです。他に国道8号線沿いの松任市のはずれの方にも同じ八幡のすしべん、の店舗がありました。ドライブをかねてそちらの店の方によく行ったという記憶も残っています。

 松任市の国道8号線沿いの八幡のすしべん、のことで思い出したのですが、その少し先、同じ小松方面に向かって右手に、倉庫があり、そこにミールをよく運んでいました。その後、ミールを運ぶ倉庫は増えたのですが、当初は、そこともう一つぐらいだったと思います。もう一つが思い出せないですが。

 映画「砂の器」には、島根県の亀嵩(かめだか)という地名が出てくるのですが、そちらは実在する地名のようです。2,3日前、稲田神社がある奥出雲町を知ったのですが、調べると亀嵩も同じ奥出雲町でした。

 奇稲田姫命を祀る神社として櫛稲田、櫛名田でもない稲田神社を知ったのは、その夜が初めてだったのですが、きっかけは新潟県新発田市の連続強姦事件について、あらためて調べたのがきっかけでした。罪名は強姦致死となっていて、連続した同じような事件との関係も解明はされなかったようです。

 奇稲田姫命は、日本神話で、ヤマタノオロチの生贄、人身御供となるところを、スサノオに助けられ夫婦になったという話です。両親に娘として撫でるように大切に育てられたことから、それが大和撫子の語源となったような話もネットで見かけました。

 近年の殺人事件で、とりわけ強い愛情をそそいで育てられた娘と感じたのは、舞鶴の女子高校生殺害事件と名古屋の闇サイト事件でした。どちらも母親が一人で育てたような印象もあるのですが、詳しい確認はしていません。

 私が、とりわけ弁護士に対する不信感と脅威的な怪物性を感じたのも、舞鶴の女子高校生殺害事件であり、京都の弁護士会そのものが、魔物の巣窟のように思えました。光市母子殺害事件の弁護団に続いてのことです。

 光市母子殺害事件は、被害者の親子だけではなく、加害者となった元少年に対する呪い、呪詛の儀式のようなものを安田好弘弁護士をはじめとする弁護士に感じました。

 これは、昭和56年8月28日から、確か26日間、金沢市小立野にあった金沢少年鑑別所に入った経験と、平成4年に、金沢西警察署の留置場から金沢刑務所の拘置所に入った実体験が、取り返しのつかない間違いを起こした元少年の人生に重なるものでした。

 自分の子どもや孫にも同じような間違いは決して起こしてもらいたくない思い、それが怪物性の高い弁護士を封じ込め社会を守る「弁護士妖怪大泥棒神社」というテーマ性の1つになっています。

 映画「砂の器」は、ハンセン病の父親の迫害から流浪の乞食生活をした後、戦災孤児として戸籍を偽造した主人公が、音楽家として大成功し、忌まわしい過去を消すために、元巡査を殺したという物語でした。殺人の動機としてこじつけが強いようにも感じましたが、時代の違いが大きいのかもしれません。

 映画は、事件後の刑事の捜査から始まり、逮捕状の執行前に終わったように思います。最後の方が、お遍路姿で、父親との流浪の生活の回想シーンとなっていました。

 次は、そのお遍路について書いておきたいと思います。野球の清原元選手の保釈直後の劇的場面につながります。あれも弁護士、弁護士脳の凄まじさをみせつけられた刑事弁護の歴史的場面でした。

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