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2018年6月 2日 (土)

# 昭和60年当時、中西運輸商の仕事でよく行った東大阪市の佐川急便鴻池センター、被告発人大網健二との関係 #


 先程の小項目で「大阪桐蔭」について調べたところ大阪府大東市で、どの辺りなのか確認するためGoogleマップで調べたところ、東大阪市に隣接していることがわかりました。「花園ラクビー場」についても調べたところ、東大阪市でした。

 私は昭和40年代後半の小学生低学年の頃の記憶で、高校ラクビーの全国大会がある花園ラクビー場は京都市かその近郊と思い込んでいました。京都市内で花園という地名や名称を見たことはないとも思うのですが、京都のイメージに溶け込んでいたように思います。

 石川県でも花園という地名は聞いたことがないと思うのですが、記憶にあるのは大阪府西成区の花園という交差点と埼玉県の花園インターでした。関越道のインターで熊谷市の近くだったと思いますが、割りとよく乗り降りするインターでした。

 大阪府西成区の花園という交差点は、交差点の角に冷蔵庫があって、そこに仕事に行くことがあったのですが、トラックの下に潜り込みお金を払うまで動かないなど危ない人がいるので、気をつけろと指導を受けていました。昭和59年、金沢市場輸送でのことです。

 このところ毎日のように日大のアメフト部の問題がテレビで報じられています。新潟の小2女児殺害事件の被疑者が逮捕されて2,3日した頃だったように思いますが、悪質タックルの映像が繰り返し報道され、それ一色に塗りつぶされた感がありました。

 ルールの違いなど知らないですが、似た学生スポーツとしてラクビーのことを思い出す機会も多くなり、気になって調べたこともありました。射程に入ったものがたぶんあると思うので、ツイートのまとめ記事からここ数日の流れをご紹介したいと思います。

2018年06月01日14時50分の登録: #奉納\さらば弁護士鉄道・泥棒神社の物語 @hirono_hideki#のツイート/2018-05-30_1331〜2018-06-01_1448/法務検察・石川県警察宛参考資料/記録作成措置実行日時:2018年06月01日14時50分 http://hirono2014sk.blogspot.com/2018/06/hironohideki2018-05-3013312018-06.html>

150件目 ツイート: hirono_hideki(奉納\さらば弁護士鉄道・泥棒神社の物語) 日時: 2018-05-30 22:30 URL: <https://twitter.com/hirono_hideki/status/1001818151003226115>
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> スクール☆ウォーズ - Wikipedia https://t.co/za01XOSBp8 \n 『スクール☆ウォーズ』(School Wars)は、1984年10月6日から1985年4月6日まで、大映テレビ制作・TBS系で毎週土曜日2… https://t.co/TVcwCZgtty

 「スクールウォーズ」というテレビドラマについて調べました。この検索は前にもやったことがあると思いますが、この時は念入りに調べました。日大のアメフト問題の帰趨、影響が気になるからでもあります。

 時刻は16時12分です。5分ほど前になりますが、テレビで「スターウォーズ」の最新作の紹介がありました。テレビ金沢の「花のテレ金ちゃん」という番組です。月曜から木曜は「となりのテレ金ちゃん」なのですが、金曜日だけ番組名が少し違っています。気がついて一年は経っていないと思います。

 5月30日の夜になりそうですが、「スクールウォーズ」というドラマについて調べたところ、「スターウォーズ」を参考にしてタイトル名を決めたという話と、当初は「八時だよ全員集合」の後継として放送があったという話を見かけました。

 「スクールウォーズ」と「スチュワーデス物語」は、どちらも夕方の16時台ぐらいの放送として視聴した記憶だけが残っています。どちらも夜の人気ドラマの再放送だったようですが、夜の放送というのはどちらも全く記憶にありません。

 いずれも中西運輸商で4トン車に乗務していた時期のことでした。中西運輸商の事務所は金沢市寺中町の金石街道沿いにあって、同じ並びの少し先に金沢西警察署があったのですが、当初はトラックの駐車場もなく、金石街道沿いに駐車していました。たぶん駐車違反だったと思われます。

 その後、事務所の金石街道の向かい側に数台の大型トラックも駐車できる駐車場が出来たのですが、小さい駐車場でした。そのような駐車場の事情もあったので、日報の提出や運行費をもらうなど特に用事がない場合は会社事務所にいないことが推奨され、普通になっていました。

 中西運輸商のトラックの駐車場は、金沢市木越の佐川急便の敷地の向かいにあって、砂利道で舗装もされていなかったかもしれません。トラックを自家用車代わりに使うことが多かったので、駐車場に乗用車を駐車したという記憶もなく、そもそも乗用車を持っていない時期だったとも思います。

 もう一つ、中西運輸商には小さな駐車場がありました。地図でみると金沢市畝田中になるのかと思いますが、その桂町の近くでした。いちおう主要道路沿いになっていたとも思いますが、その駐車場の裏手にアパートがあって、昭和58年の春頃、よく遊んでいた場所でした。

 その時から中西運輸商のトラックは見ていたのですが、保冷車ばかりの水産会社という感じでした。社名も中西水産輸送でしたが、昭和60年当時もトラックと運転手の社員は中西水産輸送で、配車業務を主体とする中西運輸商の仕事を請け負うという体裁をしていると聞いていました。

 もともとは大洋マルハの仕事が中心であったとも聞きましたが、白ナンバーの摘発を受けて会社がつぶれ、再起を果たし佐川急便の仕事をするようになったのが中西運輸商と聞いていましたが、正確には佐川急便の仕事をする東広島市の西日本運輸興業の下請けでした。

 私は中西運輸商の社長に指示を受け、西日本運輸興業の会社までお米を届けたこともあったのですが、田園の広がる田舎には異様に見える大きな運送会社でした。しかし、その西日本運輸興業も数年後には倒産したと聞きます。

 中西運輸商がやっていた佐川急便の仕事というのは、富山、金沢、加賀、福井からの広島、福岡への定期便でした。当時、佐川急便は市内の集配だけが自社の仕事で、長距離の方はすべて外部の運送会社を使っているという話でしたが、見た目は佐川急便と同じカラーや飛脚のマークの運送会社もいました。

 飛脚のマークの佐川カラーではなかったと思いますが、関東方面への長距離運送を手がけるのが大東実業という運送会社でした。今のそのままの会社名で存在するのかもしれないですが、調べてはいません。

 当時の佐川急便の長距離の仕事というのは、他にはない決まりがあって、荷物を隙間なく満杯に積み込むのが原則で、荷物の隙間に拳が入ってはいけないと指導されていました。運賃は一車いくらと決まっていて、満載でも箱一つでも運賃は同じだと言われていました。

 実際に積み残しの荷物を1個だけ運ぶ仕事をしたことがありました。それも臨時でよそから頼まれたような仕事で、横浜市の佐川急便まで運びました。横浜市の南部市場の近くだったと思います。横浜市内でもずいぶんはずれた場所で、当時は空き地の多い場所でもありました。

 誰かの乗用車で4,5人でドライブ気分で行った記憶があり、夕方の明るい時間には当時住んでいた金沢市東力2丁目のアパートに戻っていました。その後、皆で豚肉をフライパンで焼いて食べたような記憶もその時のものとして残っているのですが、とても脂が多すぎたという記憶です。

 豚肉だけを焼いて食べたというのも当時の変わった生活の一面でしたが、面子にこだわったのかガス代を払うと言い出した同居者が支払いをせず、真冬に水風呂に入ったということも2,3度ありました。

 中西運輸商で仕事を始める前だったと思いますが、7人ぐらいでお金を出し合い、無料券が出るというカレーの大食いに挑戦し、店で一人がカレーを食べるのを見るだけで帰ってきたということもありました。野々市のターバンカレーで工大前店となっていたようにも思います。

 今では金沢カレーということで全国版の情報番組でもみかけることがありますが、個人的にはそのターバンカレーが元祖だったというイメージがあります。他にももう1店舗あるような話も聞いていましたが、見たことも行ったこともなかったと思います。

 野々市のターバンカレーにはよく行っていましたが、近くの金沢市馬替にたまり場のアパートがあったのが大きかったと思います。宇出津の一つ先輩のアパートでした。さきほどの畝田中と思われるアパートも同じ宇出津の一つ先輩のアパートでした。輪島市の町野高校行っていた先輩です。

 畝田中のアパートに住むTUさんは、出張のような仕事が多かったらしく、ほとんど不在で、そこに他の友人と泊まり込むような感じだったのですが、付近には店もなく不便でした。まだ普通免許を持っていない時期で、私は自動二輪で取り消し処分を受けていたので、同級生より半年以上遅れたのです。

 中西運輸商に入社したのは昭和59年の12月の20日頃だったと思います。入社したときは、宇出津のTSさんも大型の保冷車に乗務していました。年末に中西運輸商の社長の自宅で忘年会があり、一緒に出席したのですが、年が明けてからはそのまま出社せずやめていったように思います。

 宇出津のTSさんは、4つか5つ年上だと聞いていました。3つ年上ぐらいだと知っている人もいたのですが、それ以上の年上となると知らない人がほとんどでした。金沢市横川の大きな交差点の側にアパートがあって、そこにも2,3度遊びに行ったという記憶は残っています。

 なにか縁があったのか、私が初めに金沢市場輸送に入社したときも、宇出津のTSさんが金沢市場輸送で大型保冷車に乗務していましたが、私が入社してすぐに辞めていきました。乗務していたのは日野の新車の保冷車で、2台の新車がありましたが、もう一台の新車に乗務していたのが本恒夫でした。

 以前は被告訴人本恒夫ともしていた本恒夫ですが、私の記憶が薄らいでいることもあり、現在は被告発人からも外した扱いにしています。事件の鍵を握る関係者で、とくに重要なのが被告発人安田敏との関係です。

 私が金沢市場輸送に最初に入社したのは、昭和59年の1月で中頃か20日頃だったと思います。宇出津のTSさんがいるらしいという話も聞いてはいたのですが、飛び込みで電話を掛けて面接に行ったように思います。

 私は、昭和58年の3月から5月頃、正味で一月半ぐらいだったと思いますが、小林運送で長距離助手という仕事をしていました。寮で住み込みというような仕事でもありましたが、早朝に大型車の洗車をする仕事も多く、そのすぐ近くに金沢市場輸送の駐車場がありました。

 金沢の中央卸売市場の裏側から金石街道よりの場所で、当時は田んぼか畑が多かったのですが、その後、広い道路が出来たり、建物も出来て原型をとどめないほど様変わりしました。その中央卸売市場に一番近い辺りに出来たのが、市場急配センターの事務所でした。

 当時は、中央卸売市場の裏手、螺旋状の通路の辺りになりますが、そこから金石街道までは視界を遮るものがほとんどなく、田園風景が広がっていたように記憶にあります。一つだけやや大きな建物があって、それが小林運送の会社でした。

 連合赤軍が立てこもった要塞にもみえる古いコンクリートの建物でしたが、もとは病院の建物だったと聞いたようなこともあり、寮となっていた他に何もない殺風景な部屋のも病院にあるようなパイプのベッドがあったように思います。収容所のような雰囲気もありました。

 Googleマップでみると「石川県金沢市駅西本町5丁目6−18」というあたりが小林運送のあった場所かと思いますが、もう少し市場急配センターに近かったようにも思います。その市場急配センターの建物も現在は「市場急配センター研修室」などと表記されています。

 いずれも金沢市駅西本町となっていますが、平成4年当時は金沢市二口町で、平成16,7年ころに駅西本町に住所が変わっていたことに気がついたような記憶も残っています。小林運送の建物は平成11年頃の時点で更地になっていたような気もします。

 金沢の中央卸売市場の敷地内の建物というのは、Googleストリートビューでみたところ、昭和58年の春と変わっていないように思います。市場の正門付近から小林運送の会社の方に歩いたこともあったのですが斬新な建物で、銀河鉄道999の星の町に来たような気分になったことも憶えています。

 現在は変わっているのかもしれませんが、平成4年頃までの中央卸売市場の付近というのは、夕方になると物静かで明るいまま真夜中になっているような他ではみかけない不思議な雰囲気もありました。夜中から朝方、午前中とあわただしくなるのも市場の仕事の特徴が反映された光景でした。

 さきほど金沢市場輸送に初めて入社した時期のことを書いたと思いますが、だいたい1月の中頃だったと思います。早ければ10日頃、遅ければ20日ころかと思います。昭和59年のことです。

 4月に入ってからだったと思いますが、私の紹介というかたちで被告発人大網健二も金沢市場輸送に入社して4トン車で同じ長距離の仕事を始めました。当時はアルバイトというのも学生ぐらいだったので、会社で仕事をするということは、入社して社員になるということとほとんど同じ時代でした。

 被告発人大網健二が東京から戻ってきてすぐのことだったと思います。こまかい記憶は抜け落ちてしまっているので断片的ですが、まず二人でアパートを探しました。他にも迷う候補はあったのですが、東力2丁目の犀畔荘というアパートだったと思います。

 犀という字は、金沢を代表する川の一つ犀川からとったものだと思います。もう一つが浅野川でこちらの方が友禅流しなどで有名かもしれません。犀川は片町という繁華街のすぐ近くも流れています。

 六畳二間の水洗トイレの風呂付きで当初家賃は2万8500円だったと思います。その後、大家さんが2千円下げてくれたのですが、相場より安かったのは近くに滝本組司会という暴力団事務所があったのが大きかったと思いますが、その後しばらくして組事務所の人の出入りはなくなったように思います。

 前にも書いたことがあると思いますが、被告発人大網健二が金沢市場輸送で仕事をしたのは7月の初めころまでです。当時は7月の7,8日と日にちが決まっていた宇出津のあばれ祭りで、腰を痛めたと言い出し、そのまま入院したのです。

 当初は二度と起きがられないような話もしていたのですが、どこまで本当なのかはわかりませんでした。中学生のとき、第二体育館の天井が破れて落ちて、腰の骨を折る大怪我をしたのは事実でした。屋根裏に登って遊んでいたという話でした。

 被告発人大網健二は能都中学校の卓球部で、第二体育館では卓球部と剣道部が練習をしていました。講堂の体育館の方はバレー部とバスケットボール部がいつも練習をしていましたが、私は相撲部で石川県立水産高校の方に練習に行っていたので、放課後にいることが少ない時期だったと思います。

 被告発人大網健二が持木病院に入院しているとき、学校帰りに割とよく見舞いに行ったという記憶もあります。5階ぐらいの病室で、風船に水を入れて下に落とすという遊びをやっていて、風邪で訪れた女児の頭に直撃させ、問題になったこともありましたが、その場だけでおさまったと思います。

 金沢市場輸送にいた頃、私は60万円ほどで買ったカリーナ1600GTという車に乗っていたのですが、3台目の車でローンを組み換え、月々5万7千円ほど支払いがありました。3年払いだったように思います。150万円ほどのローンという認識でいました。

 そのカリーナの車を被告発人大網健二が事故で廃車にして、現金で10万円をくれたのです。まだ入院していた時期だったかもしれないですが、遊び回っていたようです。私に渡した10万円で片町に皆で飲みに行くことを期待するような感じもありましたが、私はそれで北海道に行きました。

 半月か3週間ほどで札幌から戻りましたが、現地の2人を連れて戻り、1人の車で小樽港からフェリーで戻ったので、夜行列車に乗ったのは行ったときだけだったと思います。早朝の明け方に函館に着いたような記憶も残っています。

 北海道にはその年の7月にも行っていました。ちょうど宇出津のあばれ祭りが終わった直後で、祭りには帰っていなかったのですが、急な仕事で富山から網を積んで根室の花咲港に行くことになったのです。

 富山の経田という漁港だったと思います。魚津市と黒部市の間でしたが、その漁港にはちょうど一年ほど前の秋口、真脇の一つ後輩の漁師に頼まれて、車で送ったことがありました。黒部駅の方から経田の漁港に行ったという記憶もあります。

 その黒部市には、昭和58年の12月頃、ダクトの仕事で泊まり込みの仕事をしたことがありました。現場はYKK吉田工業のなかでしたが、映画に出てくるようなレトロな雰囲気の民宿に宿泊をしていました。

 そのダクトの仕事をしていたのも2,3ヶ月程度だったと思いますが、泊まり込みの仕事は黒部市だけでした。北陸自動車道の有磯海サービスエリアの近くで、吹雪の中、走る大型保冷車の姿を見て、長距離トラックの仕事がしたいと真剣に考え、しばらくあとに金沢市場輸送に入社することになりました。

 小林運送で長距離助手の仕事をしたのは、職安で学歴不問となっていたのが大きかったのですが、自分でトラックを運転することは考えていなかったように思います。

 今考えるとダクトの仕事をする少し前にもなるかと思いますが、金沢市観音堂の被告発人安田敏のアパートに居候しているとき、たまに顔を出していた珠洲の三崎のHMに誘われ、中西運輸商の4トン車に同乗したことがありました。日産のポンコツの4トン車で幌がけのトラックでした。

 ブタマスクとも呼ばれていた古い型の日産ディーゼルの4トン車でした。行き先は山口県の小野田市だったと思います。その日のうちに広島県の港で帰りの荷物を積みました。三原市ではなかったかと思います。岸壁で大きな船から直接荷物を積んだような記憶も残っています。

 荷物の行き先は、静岡県清水市でした。国道2号線を走り、神戸の阪神高速から吹田インターで阪神高速に乗ったような記憶があり、朝方の暗い時間にそのあたりのパーキングに入ったような記憶があります。

 そのあと、静岡で荷物をおろした状況は霞んでぼやけているのですが、そこから山梨方面に向かい松本市から大糸線で新潟県の糸魚川の姫川で国道8号線に出た状況が、わりあい鮮明な記憶として残っています。

 小林運送の長距離助手の仕事では、愛知県の豊橋市、静岡県の磐田市付近からメロンを積んでくる仕事が多かったのですが、横浜市の本牧埠頭にドラム缶を運ぶ仕事がありました。東京や大阪への仕事は珍しいと聞いていましたが、今考えると選んでくれた仕事だったのかもしれません。

 時刻は22時44分です。夕方、19時を過ぎてからだったと思いますが、Aコープ能都店に買い物に行ってきました。

 小林運送の長距離助手で、横浜に行ったのはその時が初めてだったと思います。トラックで東京に行ったのもその時が初めてだったと思います。東京に初めて行ったのは能都中学校の修学旅行のとき、2回目にワゴン車で行ったのが、昭和57年の春で、被告発人大網健二の家の会社の慰安旅行の同行でした。

 横浜の本牧埠頭行きのドラム缶を積み込んだのは富山県の高岡市であったように思いますが、糸魚川の姫川から大糸線を走り、国道20号線から八王子市に入ったのもその時が初めてだったと思われます。

 金沢市場輸送でも東京に行くのに大糸線はよく走りました。鮮魚を積んで築地の魚市場に初めて行ったときは、上越市から国道18号線の長野市経由だったかもしれません。最短距離の安房峠を走ることもありましたが、松本市から先は大糸線と同じだったと思います。

 大糸線は、長野県の大町市から新潟県の糸魚川市という意味だったと思います。鮮魚を積んで急ぎの仕事の時は、諏訪南というインターから中央自動車道に乗ったことも記憶にあります。松本市からそのまま国道20号線で甲府市から八王子市まで出るという道も割りとよく通行しました。

 甲府市内はバイパスのようになっていて割合賑やかでしたが、その前後は山の街道沿いという感じで寂しい道を長い時間走ったという記憶があります。初めてのときは途中寝ていたような気もしなくはないのですが、山間の道をずっと走って、いきなり都会に出たという印象が八王子市でした。

 ワゴン車で初めて東京に行った時は、東名高速から首都高でした。銀座の辺りが特に賑やかに見えたことが印象的でした。その東京には夜のうちに着いたのですが、そのあとのことが記憶にありません。朝までの時間のことです。

 能都中学校の修学旅行では、箱根で一泊してから東京に入ったのだと思います。羽田空港での集合写真は今でも家に残っているはずです。京都、奈良、箱根、東京という4泊5日の修学旅行でした。宿泊先で記憶にあるのは初日の京都と最終日の東京だけです。

 東京での宿泊先は、東京大学の近くだと聞いていましたが、大きな旅館の大部屋で、お寺で寝泊まりをしたような印象が残っています。東京タワーの見学もありました。予定では皇居に行くはずだったと記憶にあります。

 今でも顔と名前を憶えている同級生の2人が、バスの窓から空き缶を投げ捨て車とトラブルになって、予定の皇居が中止になったという記憶もありますが、細かくは憶えていません。

 次に東京に行ったのは、昭和58年7月20日過ぎのことで、普通免許を取得してすぐのことでした。フジタ自動車のポンコツの代車を運転して被告発人大網健二の住む東京の浅草に向かいました。途中で待ち合わせをして、横浜港に行き、喫茶店に入ったことも憶えています。

 翌日だったと思いますが、東京ディズニーランドに遊びに行きました。開園して2,3ヶ月後のことでした。被告発人大網健二の案内でしたが、浅草の花屋敷に行ったことも記憶にあります。2泊したという記憶はないですが、夜に新宿に遊びに行ったことも憶えています。

 東京へは少女3人を同乗させていました。いずれも2つ年下でしたので、当時は16,7歳の少女でした。その一人がのちに被告発人大網健二の妻となった崎山のOMちゃんでした。当時は高校生で、石川県立水産高校の製造科を卒業したと思います。

 高校を卒業した彼女は大阪に就職しバスガイドの仕事をしていました。私の同級生が高校を卒業したのが昭和58年の春だったので、2つ年下の彼女の卒業は昭和60年の春のはずです。

 その昭和60年の秋、寒くなった頃だったので11月とも思いますが、被告発人大網健二は、ホンダのVT250というバイクに乗って、東力2丁目のアパートに来て、今から大阪に向かうと挨拶をして出発しました。仕事はあちらで探しとも話していました。

 そのあと、長距離トラックの仕事をしたとか、宝塚でステーキ店に働いたとも話していましたが、神戸で落ち着き彼女と一緒に住んでいると話していました。神戸市の北の方で六甲山の麓だとも話していたとも思います。一度遊びに行きたいと考えていました。

 金沢市場輸送の大型保冷車7599号に乗務している頃、宮崎県の都城市から特殊車両の大きなタイヤを積み込んで神戸市に行く仕事があり、その時、遊びに行く話をしていたのですが、途中で少し寝過ごしてしまい時間がなくなって行けなくなったということもありました。

 他にもタケノコやスイカを積んで徳島の市場に行く仕事が何度かあって、神戸市の須磨区ではなかったかと思いますが、淡路島行のフェリーがあって、そのフェリー乗り場から神戸市の被告発人大網健二の家に電話をして話をするということもありました。

 昭和63年の8月のお盆休みは、まだ神戸市に住んでいて宇出津に帰省していましたが、そのあとしばらくして神戸から石川県に戻り、その年の12月には金沢港の近くの無量寺のアパートで彼女と生活を初めていました。まだ長女は誕生していなかったかもしれません。

 いつ頃かはっきりしないのですが、宇出津の、のむら呉服店や漁運会輸送で仕事をしていたという時期もありました。金沢市の高畠の方で車のブローカーの仕事をしているとか、よく仕事を転々としていましたが、ようやく落ち着いたのが、後に営業課長にもなった本陣不動産株式会社でした。

 時刻は23時43分です。割り込みになりますが、テレビのZEROで、日大の田中理事長の経歴の紹介をしながら、日大は保育所から大学院まであわせるとおよそ11万6千人と解説をしていました。これまでのテレビでは、日大で7万5千人、7万6千人という話を見ていました。過去には10万人とも。

 この小項目は昭和60年当時の中西運輸商と被告発人大網健二との関係を中心にする予定でいましたが、あちこちに飛んでしましました。大網健二の金沢市場輸送での入社と退社時期のことはすでに書いたと思います。

 被告発人大網健二は、金沢市場輸送の世話で保険をつかい波多野整形外科に入院していましたが、その後職場に復帰することはなかったです。入院期間もよく憶えていないですが、10月頃には退院をして遊び回っていたと思います。

 翌年の昭和60年も同じような時期に、被告発人大網健二は私の紹介で中西運輸商に入社し、同じ4トン車で長距離の仕事をしていましたが、仕事をしていた期間も2,3ヶ月程度で、金沢市場輸送のときよりいくぶん短かったかもしれません。

 その後、しばらく姿を見せなくなっていたようにも思うのですが、先述の通り、突然姿を見せてそのまま250ccのバイクで大阪へと旅立って行ったのです。その場には私の前妻もいました。漫画で木枯らしが吹くような寒くなったような時期で、さみしげに立ち去っていったのも印象的でした。

 書き忘れていましたが、神戸市では車のブローカーの仕事をしているような話でした。シトロエンというフランス車で帰省していたこともあったと思います。同じ車で、神戸の市場の近くのバナナセンターで積荷の待機をしていた私に会いに来たこともありました。

 東京の浅草で生活をしていた頃も、中古の改造車というチェイサーという車に乗り、お盆休みにその車で帰省もしていたと思います。昭和58年のことです。東京では駐車場の料金だけで金沢市でのアパート代かそれ以上のお金がかかるとも話していました。駐車場は花屋敷の近くだったかも。

 ずっとあとのことですが、被告発人大網健二は、私に金沢市場輸送で仕事をしていた事実自体を否定し、被告訴人としていた竹沢俊寿をしらないとも返事を返したことがありました。金沢市諸江のそば店の駐車場での会話です。時期が今ひとつはっきり思い出せなくなっています。

 金沢市の諸江というのも東西南北あるいは上中下として分かれ、広い範囲の地名でした。前述の畝田もそうですが、同じ国道8号線バイパス沿いの藤江も同じでした。諸江の方がはっきりとバイパスにまたがっていました。

 蕎麦屋の場所は、北安江に近い場所で、アルプラザの敷地の道路をはさんだ向かい側でしたが、その隣に24時間営業の酒店がありました。実態は今のコンビニと同じだったと思いますが、まだ金沢市内にコンビニが出来る前から24時間営業をしていたように思います。

 昭和59年の時点ではコンビニはなかったかもしれません。それに近い店は少しあったようにも思いますが、コンビニという言葉自体がまだなかったかもしれません。有名だったのはセブンイレブンで関東や福島県内では店舗を利用していましたが、コンビニという言葉は浸透していなかったとも思います。

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