« 被害者AAさん原告代理人となった被告訴人長谷川紘之弁護士がもたらした市場急配センターの利益と発展 | トップページ | 平成3年11月25日の夜の電話から被害者AAさんの裏駐車場への駐車と自宅での電話対応の拒絶 »

2016年6月27日 (月)

金沢市場輸送から市場急配センターへ、平成9年春から夏頃の状況

金沢市場輸送から市場急配センターへ、平成9年春から夏頃の状況

2016-06-25 土曜日 04:37 >>[[ ←これからの記述範囲の開始時刻]]>>

 予定している告訴状(本書)の提出まで時間が差し迫っているので、駆け足で大まかな記述をしたいと思います。アウトラインを示すことで、後のことは来月以降に作成及び提出予定の補充書において調整をしたいと考えています。

 私が初めて金沢市場輸送に入社し、4トン車で長距離トラックの乗務をするようになったのは昭和59年1月のことでした。2度目に入社したのが昭和61年の8月。

 昭和61年の11月27日に大型免許を取得したものの乗務する大型保冷車の空きがなく、YTに誘われたこともあって、翌年2月から4月頃まで丁度2ヶ月間ほど、昭和59年12月から昭和61年2月頃までいた中西運輸商に戻り、大型車に乗務しました。

 昭和61年の12月頃に配車係になっていた被告訴人本恒夫に強く求められ、大型車の新車が入るということで、昭和62年4月に金沢市場輸送に戻り、大型保冷車のイスズの新車7599号に乗務しました。ちょっとこのナンバーの記憶にも自信が持てなくなっています。

 なお、大型免許を取得する前は、昭和61年の8月から11月まで、市場急配センターの前身となる市内配達の仕事をしていました。市内配達の仕事をしながら当時1回1500円程度だった大型の一発試験に通い、7回目か9回目で合格したと記憶しています。

 金沢市場輸送をやめることになったのは、平成3年10月頃に大型平ボディ運転手として入社してきた被告訴人東渡好信と輪島のHさんが中心となって引き起こしたストライキ問題が影響しています。

 平成3年4月から5月の連休にまたがった時期で、このストライキ問題のどさくさのような状況で、1年ぶりか2年ぶりに電話を寄越してきたのが被告訴人安田敏です。

 「参考資料扱いにした過去の告訴状の下書き」には書いたはずですが、小立野の洋風の飲み屋の前で、被告訴人安田敏が酔いつぶれ、タクシー代をもらって別れて以来の連絡でした。これもツイログで検索が出来ると思うので、やってみます。

告発-金沢地方検察庁御中ツイッター(@kkhirono)/「小立野」の検索結果-Twiloghttp://twilog.org/kk_hirono/search?word=%E5%B0%8F%E7%AB%8B%E9%87%8E&ao=a

 思ったより沢山の検索結果がぞろぞろと出てきました。

ツイート:kk_hirono(告発-金沢地方検察庁御中ツイッター):2015/07/2907:26:https://twitter.com/kkhirono/status/626156732847226880:ただ、小立野で別れた時の酔いつぶれた被告訴人安田敏の様子が尋常ではなかったので、あそこから復活して片町でバーテンをしていたというのも考えにくいという気もします。なにかバーテンという職業に挫折したように見えていたからです。

 上記のツイートを読んで思い出したのですが、被告訴人安田敏は、私と小立野で飲む以前、片町のラブロの裏辺りにある「ハートブレイク」という飲み屋で働いていたと話していました。正確に言うと、その店で働いていることはその前から聞いていて、その会った日には、暫く前にやめたと話していました。

 平成3年の初夏になって被告訴人安田敏が市場急配センターで市内配達の仕事をするようになってから聞いたのは、「ラバズバ」という飲み屋でバーテンをしていたという話で、店の場所は、金沢市役所の裏辺りだと説明していました。

 一緒に市内配達の仕事をしている頃、よく中央卸売市場の敷地内の高瀬商店に行っていたのですが、売り場へ戻る道すがら、前に新聞に出ていた片町の薬物事件とバーテンをしていた関係者が・・・なんとかと被告訴人安田敏は話していました。

 福井刑務所で服役していた時の2工場の班長は2代に渡って、金沢の薬物事件の関係者で、出所後に被告訴人安田敏の口からバーテンの関係の知り合いだったと聞きました。同じ工場の同じ班にされたのも偶然とは思えなかったし、薬物密売の関係者として被告訴人安田敏がマークされているとも考えました。

 被告訴人大網健二と共通の知人で、被告訴人大網健二の方が付き合いも多く親しくしていたと思いますが一時期一緒に遊んだことのあるOTという人物が、片町の薬物密売事件で逮捕されたというニュースもありました。私は被告訴人大網健二の結婚式の二次会で、片町の飲み屋で顔を合わせたのが最後だと。

 昨日の夕方になりますが、テレビのニュースで俳優が薬物事件で逮捕されたとやっていて、聞いたことのある名前だと思っていましたが、あとでやはり女優の高島礼子の夫だとわかりました。

 高島礼子といえば2時間ドラマで逮捕する側の警察の役柄が多かったという印象があるだけに、意外性の大きなニュースでした。

 OTという人物が逮捕されたというニュースは、私が福井刑務所を出た後の平成9年だったように思います。被告訴人KYNがその事件のことを話題に出したことも記憶にあります。

 被告訴人大網健二との間で、話題にした憶えはないのですが、「シャブのどこが悪い。中学生でもやっている。」などと怒った口調で言っていたことがありました。平成11年の4月頃のことで、場所は西金沢の西宅建株式会社の展示住宅の庭のような場所でした。道路沿いです。

 住宅の中にもいたのですが、外に出て話をしている時のことで、他に「親父とお前は、いつかでかいことをやると思っとった。」などと、2少年の殺人事件と同列に評価するようなことを言っていました。その時は悔し紛れと焦りのような態度も感じられました。

 その時はかなり久しぶりに会った時でした。私に対して誘いをかけるようなことを色々と言ってきていたのですが、私がまったく乗ってこないので苛立ちをおぼえ、不安にもなっている感じでした。

 現在記憶は薄れてしまっていますが、特に印象に残っているのは、被告訴人大網健二がもちかけた豊藏組という建設会社の東京営業所の話でした。最近ネットで調べたところによると、豊藏組は石川県外にすら営業所や支店をもっていないようでした。他に群馬県か埼玉県の山に、儲け話あるような話など。

 Nテックが終わった後、被告訴人大網健二に会ったのはその時だけだったとも思います。私が最大限に警戒レベルを上げたことは、彼も感じていたことかと思います。

 本書においてNテックについて詳しく書く余裕はなくなってしまいましたが、一つポイントを押さえておくと、月に20万円はいるな、などと話を持ちかけながら、始まると完全歩合制などと言い出し、私に渡したのは15万円の貸金だけだったと思います。

 平成17年頃の時点で、「ホームラン」という大きなパチンコ屋が出来て、すっかりと様変わりをしていましたが、金沢駅の東側の交差点の角に大きな雑居ビルがありました。

 内灘から七つ屋の浅野川沿いの主要道を通って、金沢駅近くの東大通に出る交差点の左側にある雑居ビルでした。その2階か3階に、確かアコムの貸出の機械があって、被告訴人大網健二は私をその場に連れて行き、目の前で機械から15万円を引き出して私に手渡したのです。

 平成13年12月31日に金沢刑務所を満期出所したあと、すぐに母親から被告訴人大網健二に15万円を返しておいたと言われました。母親は満足そうにその話をしていましたが、私の方から15万円借りたという話もしていなかったように思います。

 同じ頃、被告訴人大網健二からも15万円を返してもらい驚いた、というような話を聞きました。被告訴人大網健二と直接会ったのは平成13年12月31日が最後です。大晦日で正月休みのこともあったはずですが、先のことを何も話さずに別れました。

 「参考資料扱いにした過去の告訴状の下書き」には書いていると思いますが、何も知らされずに金沢刑務所の門を歩いて出ると、建設現場で使うようなワゴン車の運転席に被告訴人大網健二が一人で乗って、私を待っていました。

 被告訴人大網健二が本陣不動産株式会社に入社したのは平成1年ころだったと思います。昭和63年の8月のお盆休みの頃はまだ神戸で生活していたはずです。

 年内に金沢に来たと憶えていますが、半年ぐらいは職を転々として、金沢市高畑だったと思いますが、「福田自動車」という名刺を持っていたと思います。

 ブローカーという言葉を聞いたのもその頃が初めてだったように思います。「参考資料扱いにした過去の告訴状の下書き」に書いてあると思いますが、昭和59年の夏頃からの共通の友人であった羽咋郡富来町出身のOTの紹介で、被告訴人大網健二は本陣不動産株式会社に入社しました。

 被告訴人大網健二が笹田という市場急配センターの市内配達の社員と車の売買でトラブルになったことや、被告訴人安田繁克との間にもBMWの車の売買の話があったことなども「参考資料扱いにした過去の告訴状の下書き」には書いたと思います。

 被告訴人松平日出男も車の売買をやっていました。「参考資料扱いにした過去の告訴状の下書き」にはそこまで書いていなかったかもしれませんが、今思い出したことで、新型のカリーナに試乗したことがありました。少し話をするとすぐに試乗車を持ってきたので、その行動力にも驚きました。

 元は石川トヨタの社員で、競馬にのめり込み横領が発覚してクビになったと、初めて顔を見た頃から聞いていました。その後、金沢市内黒田あたりで、中古車店をやっていたとも聞きました。

 車のブローカーは金沢市場輸送で一緒だった輪島のMYや一緒にイワシの運搬の仕事もした竹林もやっていたと話しています。竹林はオークションに参加する権利を今でも持っているとも言っていました。母親が金沢競馬場で働き、被告訴人松平日出男とは同じ石川トヨタの社員であったとも話していました。

 被告訴人松平日出男と被告訴人大網健二の間に車の売買を通じた接点はあったとも考えられます。

 被告訴人大網健二が親しくしていたのは姫のNKさんと宇出津のカワムラさんでした。

 今、2015年の能登町の電話帳で確認すると、宇出津に河村という家は4件。川村という家は姫と松波に1件ずつあるだけでした。

 金沢市場輸送の会社で被告訴人松平日出男の姿を初めてみたのは昭和63年の8月の終わりか9月の初め頃だったと思います。だんだんと記憶が薄れていますが、二口町に移転した新しい事務所だったことははっきりしています。移転したのは7月の初め頃だった記憶しています。

 テナントビルの事務所から新築の建物の事務所に変わっただけではなく、金沢市場輸送の社長であった被告訴人竹沢俊寿の夫人が、それまで掛け持ちをしていたという片町の飲み屋をやめ、事務所に常駐するようになりました。

 初めに被告訴人松平日出男を見てから、一週間か半月もしないうちによく知る姫のNKさんと、宇出津の河村さんがポンコツの2トン車で市内配達の仕事をする姿を見かけるようになったのです。

 さきほど電話帳で調べると4件あったと書きましたが、そのうち一件は崎山でした。崎山は宇出津の町内で4丁目まであり、あばれ祭りにも参加していますが、住所は能登町崎山だと思います。

 そんなことより崎山は高台にあって坂もきついので、年寄りの人はタクシーでスーパーに買い物に行くことが多いとも聞いています。その点に、注目をしたのは被告訴人大網健二から河村という名前をちょくちょく聞いていた頃、私の母親もよく河村という人の名前を口にし、親しくしている様子でした。

 河村というのは宇出津にもっと数のある名前とばかり思っていたのですが、意外に少なかったので、被告訴人大網健二の知り合いの河村さんと母親が付き合いをしていた河村さんが家族である可能性も3分の1程度になるのかと考えました。

 角という珍しく感じる名前についても同じ2015年版の能登町の電話帳で調べてみました。能登町全体では19件もあったので驚きました。身近では表札も見たことのない名前です。

 その角という名前の人物も一月ぐらいだったでしょうか少し遅れて、市場急配センターで市内配達の仕事を始めていました。宇出津の人だと聞きましたが、聞いたことのない変わった名前だと思いました。馴染み深い角田ストアーが新町にあるだけに、角だけの名前をより珍しく感じました。

 角さんも河村さんと同じく社員ではなく持ち込みの運転手だと聞いていましたが、いつの間にか姿を見なくなり、すっかりと忘れていました。

 次に角さんの姿をみたのは、北都運輸の野々市の配送センターでした。トラックで作業している様子で、見たことのある人だと思ったのですが、そのあと被告訴人松平日出男が角さんのことで北都運輸にクレームを入れているのをたまたま見かけた記憶があります。

 電話で話しているのを見たように思うのですが、二つの余りないことが重なったと思いました。

 一つに被告訴人松平日出男の姿を会社で見かけること自体が珍しいことで、事務所に机や席というのもなかったと思いますし、事務所内で座っている姿も見た覚えがありません。それだけ不思議な存在感がありました。

 もう一つは、北都運輸の市内配達の仕事をしていた頃、私が金沢市場輸送の会社の事務所に顔を出すことが珍しく、給油のためなど週に1回程度だったと思いますし、滞在時間も長くはなかったはずです。専属というかたちで北都運輸の仕事をしていたので、会社に用というのは給油以外になかったはずです。

 北都運輸の仕事をしていたのは1度目のイワシの運搬のシーズンが終わったあとなので、平成1年の6月から11月ぐらいの間ということになるかと思います。北都運輸の仕事が決まる前は、平ボディの10トン車でローカルの仕事などもやっていました。

 その時に輪島の石材店に仕事で行き、帰りに宇出津の実家に立ち寄ったことも書いていると思います。母親にあずけていた大人の長男を履きながら長男が泣いて怒っていたときのことです。

 そのあとしばらくして、次男も一緒に宇出津の母親にあずけたのですが、二人ともとても喜んではしゃぎ回り、いたずらで出したばかりのコタツを分解して壊したと母親がぼやいていたことがありました。コタツを出すのは早くて10月の初めころかと思います。

 被告訴人松平日出男が角さんのクレームをしてから北都運輸で角さんの姿を見ることはありませんでした。

 そのあと1,2年後になるかと思いますが、次は金沢市問屋町のトナミ航空のホームとも呼んでいたと思いますが、集荷場で角さんの姿を見ました。ワゴン車で荷物を持ってきていました。ワゴン車からおろす荷物に書いてあったのだと思いますが、大脇昆布という社名で住所は宇出津山分だったと思います。

 宇出津で昆布を作っているという話は見たことも聞いたこともなく、宇出津山分で海に近いとなると大棚木の海岸沿いになると思いましたが、それらしい建物があるとは思えませんでした。城山にその工場があることは、平成9年に宇出津に戻ってから知りました。パソコン教室への道すがら目にしたのです。

 被告訴人松平日出男は、誘われて宇出津のあばれ祭りを見に行ったことがある、変わった祭りやな、と呆れたように話していましたが、誘ったと考えられるのは、河村さんか角さんのいずれかです。

 どちらも宇出津のどの辺りに家があるのかはっきりとわかっていませんが、聞いたことがあるようには思っています。記憶とイメージが混同していますが、河村さんは漆原の辺り、角さんは田町で宇出津小学校の辺りというイメージがあります。

 そういう話を聞いたのは被告訴人大網健二以外にはないと思っています。いろいろと話を聞いたように思うのですが、頭に入らなかったり、聞き流していた部分もあるかと思いますし、関わりのある話だとも思わず、被告訴人大網健二が話すままに聞いていました。

 当時、被告訴人大網健二と会う機会もそう多くはなかったと思いますが、彼は割合積極的に河村さんの話などしていました。子供の頃からの知り合いのようなことも言っていたように思います。

 私らが子供の頃は縄張り意識のようなものもあってグループで行動することも多かったと思います。私は気にせず、元は宇出津以外の辺田の浜から来たので、あちこち遊びに行っていました。

 被告訴人大網健二の町内は大橋組でしたが、隣接する新村の子供と交わるのは見たことがなく、下岩屋の方の子供とよく一緒にいるのを見ていた記憶があります。

 下岩屋と上岩屋は「いわいまち」とも呼ばれていますが、その奥にあるのが漆原で、八坂神社のある場所で、祭礼の運行も下岩屋の道から入るルートをカンノジと呼んでいます。

 車のすれ違いもままならない細い道ですが、それが柳田・町野方面に向かう主要道路のメインストリートだったと私も最近になって知りましたし、子供の頃はそういう話をするものもいませんでした。

 私も辺田の浜に住んでいた小学校の低学年の頃、年の離れた中学生とも一緒に遊ぶことがありました。それだけ縦のつながりが広かったといえますが、宇出津に来ると同級生も多い分、横のつながりが広がりました。

 他にも親同士が知り合いとか事情があったのかもしれませんが、被告訴人大網健二と河村さんは年が離れたものの幼なじみに近い関係性に見えました。ただ、私としては宇出津では縦のつながりが長くはなかったので、年の離れた河村さんのことは全くしりませんでした。

 私と被告訴人大網健二は同じ年で誕生日まで同じですが、姫のNKさんとも4つか5つ年が離れていたように思います。河村さんはそらにその年上と聞いた憶えもあるので、かなりの年齢差のある人だと思っていました。

 一方の姫のNKさんと初めに会ったのは昭和56年の12月頃のことで、場所は二つ年下のMKの大棚木の家でした。姫か小木の遠洋漁船から戻ってきたところだと聞いていました。彼はその年か、翌年を最後に遠洋漁船の仕事をやめているはずです。

 それから昭和58年の頃まで、友達の家で一緒になることが多く、一緒に行動することも多かったのですが、そのうち顔を合わすこともなくなり、ずいぶんと久しぶりに会ったと思ったのが、金沢市場輸送での市内配達の仕事でした。

 私は昭和59年の10月に金沢市場輸送をやめていますが、その直後に姫のNKさんも金沢市場輸送に入社して4トン車で長距離トラックの仕事をしているとは聞いていました。1年ぐらいいたという話を聞いたようにも思いますが、そのあと野々市の運送会社のトラックに乗っているとも聞いていました。

 初めに被告訴人大網健二から姫のNKさんの話を聞いた時、河村さんと二人でトラックに魚を積んで山奥で魚を売る行商のような仕事をしていると聞いたように憶えています。河村さんの話を聞いたのは金沢市場輸送に来たあとだったとも思います。

 魚の行商で使っていたというトラックを金沢市場輸送の会社の前で見たような憶えもあるのですが、トラックの買い手を探している、というような話だったかもしれません。

 被告訴人大網健二が本陣不動産株式会社に入社した時期のあたりから本筋から外れてしまいましたが、平成1年の頃に入社をして、平成2年ころには、社長も出席をして結婚式を挙げています。時期をはっきり思い出せないですが、春か秋だったと思います。

 半年から一年ほどして結婚式に出席していた東京のOさんが、独立してヤクザと言いますか暴力団の事務所を開いたということで、お祝い金を頼むと被告訴人HTNから直接話がありました。それでお祝い返しのような陶器製の灰皿をもらったような記憶もありますが、それが平成3年の春のことでした。

 被告訴人大網健二の結婚式には長女もいましたが、1歳以上あるいは2歳近くにはなっていたと思います。神戸から戻ってから生まれたように思いますが、どこの病院で出産したのかも聞いた記憶はありません。

 被告訴人大網健二は宇出津で、「のむら」とう呉服店と「漁運会輸送」で仕事をしているという時期もありました。神戸というか大阪に行ったのは昭和61年の秋だったので、やはり神戸から戻ってからしばらく宇出津で仕事をしていたことになるかと思います。

 漁運会輸送では6トン車に乗務していると聞いたように思います。宇出津や小木港では6トンのトラックが多かったという記憶もありますが、6トン車は大型免許が必要です。被告訴人大網健二は大阪の方でも平ボディの大型車の仕事をしていたことがあると話していました。

 昭和59年の春に彼女が石川水産高校の製造科を卒業して、大阪の方でバスガイドの仕事をしました。ちょうど大阪府と兵庫県の境辺りと聞いていましたが、どちらかははっきり思い出せません。伊丹という言葉を聞いた憶えもあります。その後を追いかけるように被告訴人大網健二は大坂方面に行きました。

 ちょうど木枯らしが吹き始めるような時期で、私のアパートの前で妻と被告訴人大網健二を見送ったことを憶えています。ホンダのVT250というバイクだったと思いますが、彼はそのバイクに乗って寂しそうに走り去って行きました。

 「参考資料扱いにした過去の告訴状の下書き」には書いたと思いますが、被告訴人大網健二は、その昭和59年の4月頃に私の紹介で金沢市場輸送に入社し、一緒に4トン車で長距離トラックの仕事をしていたのですが、当時7月7,8日だった宇出津のあばれ祭りに帰り、祭りで腰を痛めたと入院しました。

 城野町のキリコを担いでいたとも聞いています。城野町は数年前からキリコを出さずあばれ祭りに参加しなくなっていると聞いています。人出不足もありますが、上り坂がきつすぎるのもやめた理由だと聞いています。

 被告訴人大網健二はあばれ祭りで怪我をしたと言い出した直後から暫くの間、金石街道沿いの波多野整形外科という病院に入院していました。夜に一度、面会に行ったことは憶えていますが、病院にいた時期は長くなく、退院してからは車に乗って遊びまわっていました。

 そのうち貸していた私の車のカリーナ1600GTで事故を起こし配車にしたので、10万円の現金をもらいました。彼はその10万円で飲みに行く腹づもりでいたようにも見えましたが、ちょうど金沢市場輸送をやめた直後だったので、私は仕事を探すつもりで北海道に行きました。

 札幌でちり紙交換の仕事をやったものの月に2,3万円にしか給料をもらえないような話で、同じ宿泊施設にいた帯広の21歳の青年と滝川市の16歳の少年を誘って、21歳の青年の車で、小樽港からフェリーに乗って金沢に帰ってきました。

 戻ってからすぐに先ほどの富来のOTや当時の名前でNMらと、金沢市内出雲町の「北陸地建」という土建会社で土木工事のアルバイトをしました。

 ちょうど2ヶ月ほど土木工事のアルバイトをやって、その間に免停が明けたような気もしてきたのですが、年末の12月の下旬に中西運輸商に入社し、再び長距離トラックの仕事を始めました。

 同じく春頃でもう少し早い3月頃だったような気もしますが、金沢市場輸送の時と同じように私の紹介で被告訴人大網健二は中西運輸商に入社し、2,3ヶ月ぐらいだったと思いますが、一緒に長距離トラックの仕事をしました。富来のOTも同じぐらいかもう少し長く一緒に仕事をしました。

 富来のOTは、その後、中谷運輸という運送会社で仕事をするようになりました。1年ぐらいは長距離の仕事をやっていたように思いますが、そのうちトラックの仕事をやめて不動産の仕事をしていると聞いた時は、何があるかわからないものだと思いました。

 それが本陣住宅という会社で、あとに被告訴人大網健二が入社をした本陣不動産株式会社とは同じ本陣グループになっていました。他に本陣建設などもあって、本陣グループとしてよくテレビのCMに出ていました。彼らが不動産の仕事を始めたのは、ちょうどバブル景気の始まりに近い時期でした。

 不動産の仕事を始めた頃の被告訴人大網健二は、片町での接待の運転手で、車の中での待ち時間が長いとか、愚痴のようなことばかりこぼしていましたが、ある時期を境に仕事にとても積極的になりました。

 ヤングジャンプという出て間もない漫画週刊誌だったように思いますが、私らの世代には馴染み深い本宮ひろ志という漫画家が連載の漫画の中で、岩崎弥太郎を取り上げていました。若年にして交渉相手に侮れないよう髪の毛をむしりとって禿頭を装ったという場面がありました。

 岩崎弥太郎という人物のことを知ったのもその時が初めてでしたが、被告訴人大網健二は熱心にその岩崎弥太郎が髪の毛をむしりとったという話をして不動産の仕事に対する気概とともに心を踊らせていました。

 頑張った甲斐もあったのだと思いますが、平成9年には本陣不動産株式会社の営業課長になっていました。名刺ももらった憶えがありますし、疑うようなこともありませんでした。

 名刺といえば思い出しましたが、Nテックの名刺も作っていたように思います。その名刺を作る時だったか、話をしていると冗談なのかと思えるような虚偽記載を書き込むような話をしていました。

 名刺のこととは別だったようにも思いますが、金沢市の鳴和から森本方面に行く広い道路の道沿いに看板屋か印刷屋のような店があって、Nテックのことでその店に行ったことも断片的に憶えています。

 平成9年に被告訴人大網健二は本陣不動産株式会社の営業課長になっていたはずですが、父親の殺人事件のことで会社をやめたいと思ったが、結婚式の時の借金が残っているので、やめるにやめれなかったと話していました。

 平成3年頃の被告訴人大網健二は、年に2回の海外旅行で費用は全て会社持ちだと話していました。バブル景気で絶好調の時期だったのだと思いますし、昨今テレビを見ていても、空前のバブル景気で最もおいしい思いをしたのは不動産業だといっています。

 仮に300万円を借りたとしても平成2年の挙式で平成9年というのはおよそ7年間、一年12ヶ月にすると84回の支払いになるかと考えられます。月に3万円の支払いでちょうど7年間になりそうです。

 入社2年に満たないような社員に300万円を貸し出したとも常識的には考えにくいところですが、バブルという好景気の時代と不動産という仕事で考えれば、それくらいはあったのかもしれません。

 実際のことは本人でないとわからないと思いますが、そんなことより驚いたのは、Nテックの仕事を初めてすぐ、半月ぐらい経っていたようにも思いますが、被告訴人大網健二がいきなり本陣不動産株式会社をやめたと言い出したことです。

 初めにNテックの話を持ちだした時も、彼は金沢市駅西本町の本陣不動産株式会社の会社の中に私を入れ、そこで話をしました。それまでに2,3度見覚えのある社長夫人と思われるようないくらか小太りの品の良さそうな年配の女性の姿もありました。一般の事務員にはとても思えない女性でした。

 被告訴人大網健二はフリーで本陣不動産株式会社の仕事もする、というような説明もしており、不動産物件のデーターベースを本陣不動産株式会社の会社の中に入って印刷してきたこともありました。今考えると当時すでに正社員ではなくなっていた可能性もあるかと思いますが、本当のことはわかりません。

 時刻は11時22分になっています。数時間前から記述を始めたところですが、被告訴人安田敏の入社の話から大きく外れて、被告訴人大網健二の話が中心になってしまいました。

 被告訴人安田敏が入社をしたのは金沢市場輸送だったと思いますが、すぐに市場急配センターで市内配達の仕事をするようになり、大徳自動車学校に通っていました。大徳という名前だったと思いますが、松村町と観音堂町の間にある自動車学校でした。1回は一緒に自動車学校に行ったこともありました。

 被告訴人安田敏は、借金があって生活が苦しいということで、入社の条件として金沢市場輸送から50万円の前借りをし、私をその保証人にしていました。それなのに私の一発試験の勧めを聞き入れず、合格は確実ですが20万円ほどの費用のかかる自動車学校に行ったのです。

 相談もなく自動車学校に行くことも決めていましたし、入社の条件から被告訴人東渡好信が事を起こしたタイミングなど、金沢市場輸送の社長だった被告訴人本恒夫らと予め示し合わせた段取りとしか思えませんでした。

 「参考資料扱いにした過去の告訴状の下書き」には書いたと思いますが、被告訴人安田敏の妻となった当時、金沢市内花里で同棲生活をしていた彼女も、12月の22日の夜まで全く顔を見せないという奇妙な行動をしていましたし、私が借金の保証人になったことに対してもお礼など一切ありませんでした。

 被告訴人安田敏らは夫婦揃って非常識な振る舞いをしていたことになりますが、私を金沢市場輸送から市場急配センターに移動させるという先導役を果たし、被害者AAさんに非常識な行動をさせる下地を作っていたとも言えます。

 時刻は6月26日8時54分になっています。今日も用事があって出かけなければならないので、余り沢山書くことができませんが、時間を見計らって出来るだけのことは書いておきたいと思いますし、既に書いたとおり、あとは来月以降の補充書において調整いたします。

 細かいことは省きますが、被告訴人安田敏の金沢市場輸送への入社が決まったのが4月の終わり頃で30日頃だったと記憶にあります。2,3日後には市場急配センターで市内配達の仕事を始めていると聞きました。

 私が金沢市場輸送をやめて、市場急配センターで仕事をするようになったのは6月22日と推定されます。拘置所にいた頃の私の感覚では5月22日だったのですが、平成4年の秋頃か、頼んで入手した金沢市場輸送の運行表によると、私は6月中も金沢市場輸送で長距離の運行をしていたことになりました。

 金沢市場輸送の運行表に関しては、私自身今ここで数年ぶりに思い出したので、入手の経路など正確に思い出せなくなっています。それまで見たことないスタイルで書かれた運行表でしたが、内容まで疑うことはありませんでした。

 被告訴人OSNの宇出津まで持ってきてくれた市場急配センターの運行日報のことは、姫の漁港のことで先日書きましたが、明らかに不可解な点が多数ありました。私自身が書いて会社に提出していたはずの運行日報の筆跡が、明らかに複数の筆跡に置き換わっていたことなどです。

 本当に私が欲しかったのは市場急配センターの運行表でした。それらしい運行表は金沢西警察署で取り調べの時、谷内孝志警部補から見せられていたので、存在は確かなものだったからです。それを入手するため私は何度も手紙で、木梨松嗣弁護士に頼んだのですが、これも全く相手にされずに終わりました。

 より入手が困難とも思われた金沢市場輸送の運行表がなぜか差し入れられて来ました。他のものと一緒に差し入れられたという記憶もかすかに残っていますが、不意に思い出したことでもあり、記憶は不鮮明です。

 金沢市場輸送の運行表の記載が正しいとすると私は6月22日から市場急配センターで市内配達の仕事を始めたことになります。22日と特定できるのはわけがあります。

 当初、被告訴人松平日出男は私に、一日1万5千円のアルバイトを持ちかけました。次のあてもなく金沢市場輸送をやめており、土木のアルバイトでもいいとこ1万円の日当が相場だったので快諾しましたが、すぐに正社員になることが決まって、25日の締め切りまで3日間のアルバイトになったからです。

 時刻は13時55分になっています。午前10時からコンセールのと、であばれ祭りの合同会議のようなものがあり、出かけていました。参加者の質問から初めて知ったことで、七尾市の石崎奉燈祭りでの観光客の死亡事故で、キリコの責任者が刑事事件として在宅起訴され、有罪判決を受けていたという。

 責任ばかり追求していれば、責任者のなり手もいなくなり祭り自体が存続できなくなる、というような声もありました。

 数カ月前になりますが、弁護士らの間で組み体操の問題が取り上げられていた時期があって、その頃から取り上げておきたいと考えていたのですが、まだツイートのまとめも作ってはいなかったように思います。会議には今回も珠洲警察署の署員も参加していたので、より身近な問題に感じました。

参考資料: 「組み体操」をキーワードに含む(法クラ・弁護士・ジャーナリスト関連)のツイート・リツイート(15アカウント、41件)http://hirono2016k.blogspot.com/2016/06/1541.html

 今回のまとめで変に感じたのは(関西大学法学部 永田憲史)のアカウントで、リツイートが1件しかなかったことです。本人のツイートとして4,5件は最低あったように思います。データベースへの登録をしていなかったことも考えられるので、もう少し調べてみます。

 「組体操」になっていたのが検索漏れの原因だったようです。一つのアカウントのツイートのまとめとして、次のブログ記事を作成しました。

参考資料: 「組体操」をキーワードに含む「関西大学法学部 永田憲史研究室(@penology_nagata)」のツイート・リツイート「20」件http://hirono2016k.blogspot.com/2016/06/penologynagata20.html

 ブロックされていることも確認しましたが、どうも個別のツイートのURLを開いてもブロックされているとツイートの内容が表示されないという仕様変更になっていたようです。何時変わったのかわかりませんが、この機会に変更されていたことを知りました。

投稿者:s_hirono(非常上告-最高検察庁御中ツイッター)日時:2016-06-2614:34ツイート:https://twitter.com/shirono/status/746939707041284096
2016-06-26-143433_ブロックされているため、@penology_nagataさんのフォローや@penology_nagataさんのツイートの表示はできません。詳.jpghttps://t.co/YE9VkWG3ny

 関西大学法学部 永田憲史研究室(@penology_nagata)というアカウントについても、三重県の講演のことなどで、取り上げておきたいことがあったのですが、何かと手も回らず、限界を感じています。

 市場急配センターの話に戻します。市内配達の仕事をやめ、予定されていた大型車乗務の長距離の仕事を始めたのは8月の最終日あたりでした。つまり8月30日か31日の出発です。その運行は一台のトラック、被告訴人安田敏と二人で神奈川県への運行でした。たぶん厚木市だったように思います。

 帰りの荷物は東京の晴海埠頭からバナナかオレンジあるいはキウィのような外果を金沢まで運んできました。他に有明の倉庫もありましたが、9月、10月ころは割とよくある帰り荷の仕事でした。

 9月、10月に多かったのは金沢の市場から馬鈴薯やメークインの芋を大阪や名古屋の市場に持っていく仕事でした。夕方に出発をして、夜中の2時か3時頃に金沢に帰ってくるという日帰りのような仕事でした。芋はもともと船で北海道から金沢港に運ばれてきたものだと聞いていました。

 もともと市場急配センターでの長距離の仕事は、茨城県の古河市の青果市場内にある山三青果のレタスや白菜などの野菜を運ぶ仕事をメインにしていました。もともと金沢市場輸送でやっていた仕事です。それもイワシの運搬の仕事と同じく、市場急配センターの下請けで金沢市場輸送がする名目でした。

 山三青果の仕事は、同じ金沢の日栄運送から金沢市場輸送が奪い取った仕事だとも聞いたことがあります。昭和63年ころは、九州の熊本や長崎から日栄運送の仕事で、スイカやみかんを運ぶ仕事をよくやっていましたが、いつの間にか関係は断絶していました。

 日栄運送は九州から北陸まで野菜や果物を運ぶ仕事をメインにしていて、他に長野県からリンゴを運ぶ仕事もやっていると聞いていました。私も一度、U君を同乗させて、長野から滋賀県の大津市まで4トン車でリンゴを運んだことがありました。

 金沢市場輸送で山三青果の仕事を本格的に始めたのは平成2年の12月だったと思います。平成3年の1月になると5台の大型ウィング車が新車で納車され、私はその一台である2315号に乗務しました。日野のトラックです。日野のトラックが2台で三菱ふそうのトラックが3台だったようにも思います。

 ウィング車の導入はその時が初めてでした。4月頃だったように思いますが、さらに2台のウィング車が新車で入り、被告訴人東渡好信と輪島のHさんが乗務しました。被告訴人東渡好信の乗務したのは三菱ふそうのトラックでした。

 その被告訴人東渡好信が乗務していた三菱ふそうの新車のウィング車を、被告訴人竹沢俊寿会長が被告訴人松平日出男と話を決めて、市場急配センターに売っぱらおうとしたところ、被告訴人東渡好信が激怒をして包丁を振り回し、被告訴人松平日出男を追いかけ回すという珍事が発生したのです。

 当日のことは「参考資料扱いにした過去の告訴状の下書き」には書いてあると思います。北陸最大ともいわれる片町の繁華街で、丸西水産輸送の社長が拳銃で射殺されるという事件が起きて、新聞報道があった同じ日だったとも思いますが、被告訴人東渡好信はその事件のことも口走り、興奮していました。

 金沢市場輸送の4トン保冷車にスイカを積んで徳島に向かっていた被告訴人安田繁克から電話があって、被告訴人安田敏と二人で大型保冷車7180号に乗って、加賀市の尼御前サービスエリアに行ったことも書いたかと思います。

 走行が不安定だと被告訴人安田繁克が言ってきた4トン保冷車は、以前、金沢市場輸送で寺川さんが長く乗務をしていたもので、保冷の箱の長さが、一般の保冷車よりいくらか長かったと思います。古い日野のトラックで、まだ油揚げの仕事をしていた頃に、その目的で作ったものかもしれません。

 9月中にも10月中にも数回は茨城県の古河市の山三青果に行くことはありましたが、本格的に毎日の運行となったのは12月以降だったとも思います。

 11月の中頃からは、和歌山県のかつらぎ農協からミカンを積んでくる仕事が多くなり、手積みの手降ろしで嫌がる運転手の仕事だったので、私にはよく回ってきました。これも帰り荷がメインの仕事でしたが、同じ石川県、七尾市の丸一運送の仕事でした。

 9月、10月の頃は、大坂、名古屋方面と同じ馬鈴薯を東京の大田市場まで運ぶ仕事で、その帰り荷に山三青果に行っていましたが、11月頃からだったように思いますが、これも丸一運送の仕事で、七尾市の能登木材、林ベニアから製材とベニヤ板を関東方面に運ぶ仕事が行き荷のほとんどになりました。

 時刻は20時24分です。16時30分から20時までの祭礼委員の当番に行っていました。夜の当番はこれで最後とお願いしたので、ラストスパートの本書の作成にもこれまでより集中して取り組めそうです。

 これからは被害者AAさんとの関係をメインに記述をしたいと思います。弁護士や裁判官の法律家が、まともに取り合わず放置した事実関係でもあります。平成3年となると今は平成28年なので25年前ということになりそうです。ちょうど四半世紀前です。

 「参考資料扱いにした過去の告訴状の下書き」には書いてあると思いますが、金沢市場輸送のでの最後の運行は、金沢市場輸送の元社員で持ち込みの運転手(傭車)になっていた輪島のYAと一緒に、神戸市内にミールを運んで空荷で帰った運行でした。

 被害者AAさんの入社時期は、彼女の母親の供述調書でも時期が間違っていたと思いますが、小林健一さんがやめて群馬に帰った前後のことで、平成2年の春のことです。

 春といっても6月の初夏に近い時期かもしれません。彼女が入社をしていれば、小林健一さんがパソコンのデータ入力をすることもなかったはずです。

 もう一つ6月の下旬だったと思いますが、加賀市の片山津温泉のホテル長山で一泊の慰安会があり、すでに事務所で顔を見ていた被害者AAさんの姿はなく参加はしていなかったと思います。

 「参考資料扱いにした過去の告訴状の下書き」には書いたと思いますが、この慰安会では金沢市場輸送の輪島の海士町の連中と市場急配センターの姫のNKさん、珠洲市大谷出身のYさんらがトラブルになり、私は輪島の連中に寝ていたところを起こされて、夜の23時頃に金沢に帰ってきました。

 市場急配センターの側には被告訴人安田繁克も加勢していたような話もあとになって耳にしました。ケンカになったという話も聞きましたが、誰一人、顔にアザなど作っていなかったことは私の見た範囲ですが、間違いはなかったと思います。

 また、被告訴人HTNの姿はなく、まだ市場急配センターで市内配達の仕事は始める前だったと考えられます。輪島崎のOTを除くと、全員が小木港の遠洋漁船の経験があり、ほとんどが同じ小木港か姫で遠洋漁船の仕事をしていた被告訴人HTNのことは知っていたようです。

 はっきりと顔見知りだと話していたのは、MYとYAでした。MYは私の二つ年上で、YAは私の二つ年下でした。年齢的なこともありますが、MYが最も長く小木の遠洋漁船の仕事をしていたようです。金沢市場輸送に初めに入社したのもMYで、他は全部に近くMYの紹介のような入社でした。

 MYは当初、金沢市場輸送で市内配達の運転手として入社しました。昭和61年の秋のことです。9月か10月だったと思います。サンテラスユニーのようなスーパーで知り合いに顔を合わすのが嫌だといい、すぐに市内配達の仕事をやめて、4トンの長距離に乗務しました。

 一年近く4トン車に乗務していたようにも思いますが、大型車に乗務するようになり、愛知県のカワムラさんが新車で乗務していたイスズの保冷車7180号に最初に乗務したように思います。

 同じ平成2年の7月中か遅くても8月中には、被告訴人HTNは市場急配センターの2トン車持ち込みで市内配達の仕事をしていました。最初からワイドボディの保冷車の新車に乗務していました。300万ぐらいと聞いたように思いますが自分で購入したトラックです。

 市場急配センターで仕事を始める前に、相談するため私のアパートに電話を入れていたらしいのですが、電話を受けた私の妻は、他の誰かと勘違いしていたようでした。姫のNKさんと勘違いしていたようにも思うのですが、連絡先の電話番号も聞いていなかったので、折り返しの連絡はしていません。

 被害者AAさんの姿を会社にいる時はよく見かけるようになりましたが、当初、市場急配センターの事務員とは全く知らず、中央卸売市場の職員が来ているのかとも考えていました。名前を知ったのはさらにあとのことで、平成3年の9月に入った頃のことです。

 金沢市場輸送で被害者AAさんのことが話題になることは全くありませんでした。私生活を含め仲良くしていたのはほとんどが輪島の連中でしたが、彼らの性格もあってか、金沢市場輸送の事務員を含め女性のことが話題になることはなかったです。

 被害者AAさんの上の名前をしったのも、被告訴人松平日出男が「池田さんとAさんに、サンマを欲しかったら取りに来るように」と2階にあがる運転手に声を掛けたからです。

 下の名前まで知ったのはその半月ほどあとでしたが、出来たばかりの1階の休憩室の机の引き出しに、あいうえおの索引がある電話帳のようなものが置いてあったからです。そこには彼女の自宅の電話番号も記載されていたかと思います。

 ただ私は、10月12日の夜に初めて彼女の自宅に電話を掛けた時、聞いていた住所と上の名前で、10何番の番号案内で電話番号を聞きました。その金沢市内の町内というか住所には一件だけの登録でした。

 金沢市場輸送をやめると被告訴人竹沢俊寿に会長室で話したのは午前中だったと思います。しばらく仕事に出てこないでも給料を支払うからやめないでくれとも言われました。実質的にやめることにしたのは、被告訴人本恒夫の挑発に乗ったからですが、それが良い機会だと判断しました。

 金沢市場輸送をやめると決めたものの、被告訴人安田敏の50万円の前借りの保証人になったこともあるので、被告訴人安田敏に話しておこうと市場急配センターに電話を掛けました。市場急配センターに電話を掛けたのも初めてでしたが、対応したのは被害者AAさんでした。

 市場急配センターの事務所が出来たのは平成2年の春先で3月中か4月の前半だったと思います。平ボディ車によるイワシの運搬の仕事が終わった時期で、建物が建つ前の敷地は舗装のない駐車場になっていて、そこにイワシの運搬で使っていた10トン平ボディ車を駐車に行ったのでよく憶えています。

 その時は、配車係をしていた藤田さんとYTの3人で駐車場に行き、その時、藤田さんは中継場として使うらしいと話していました。その話を聞いて、一月は経っていなかったと思いますが、次に同じ場所を通りかかると、既に市場急配センターの事務所が出来上がっていました。

 鉄骨の仮設事務所のような建物だったので出来上がりも早かったのだと思いますが、工事中の現場を見たという記憶もありません。

 市場急配センターの事務所が出来上がると、それまで夕方になると金沢市場輸送の休憩室にいた市内配達の運転手の姿もなくなりました。

 市場急配センターという社名を聞いたのも平成1年の秋だったと思いますが、それまで金沢市場輸送の社長だった被告訴人竹沢俊寿が会長になり、配車係だった被告訴人本恒夫が金沢市場輸送の社長、被告訴人松平日出男が市場急配センターの社長になったと聞きました。

 被害者AAさんの姿を金沢市場輸送の事務所で見たのは午前中がほとんどだったと思います。ずっと事務所にいること、つまり一日中見ることはなかったので、当時は知らない言葉ですが、出向の別の会社の女子事務員かと思っていました。

 被害者AAさんが金沢市場輸送に行くことは、そのあともずっと続きました。金沢市場輸送の事務所にだけパソコンがあって彼女がデータ入力をしていたからです。パソコンと言っても平成3年当時のものなので、パソコンという言葉もまだ出ておらず、コンピューターと呼んでいたかもしれません。

 私が市場急配センターの2階事務所に初めて入ったのも平成3年の2月か3月頃のことでした。午前中で、雪など降りそうもない時期になっていたような感覚もあるので4月に入っていたかもしれません。晴天ではなかったですが、おだやかな天候であったと当時の状況が記憶に残っています。

 輪島のOTの用事の付き合いで行ったように思いますが、その場には輪島のYAもいて、彼は新潟県の能町辺りの国道8号線で接触事故を起こしたというような話をしていたことを憶えています。その時はOTの用事だったと思いますが、どちらも交通事故の保険の話で被告訴人松平日出男を訪ねたものです。

 幸いなことですが、私は昭和61年の8月に金沢市場輸送に2度目の入社をしてから一度も保険を使うような事故は起こさずにいました。それで事故処理の相談をしたこともなかったのですが、どうも金沢市場輸送と市場急配センターの事故は全て被告訴人松平日出男が担当をしていたようです。

 自分で中古車店を経営していたとも聞いているので、車の事故の保険のことはお手のものだったと考えられます。生命保険となるとどうだかわかりませんが、保険のプロだったことは間違いないかと思います。

 やはり2月ではなく、3月か4月中だったと思いますが、初めて市場急配センターの事務所に行った時、誰から聞いたか憶えていませんが、姫のNKさんと宇出津の河村さん、それに珠洲市大谷出身のYSがやめたという話を聞きました。

 一月ほど前に辞めたと聞いたようにも記憶していますが、それが2月頃だったとも思います。被告訴人竹沢俊寿に対して不義理をするようなやめ方だったとも聞きましたが、被告訴人竹沢俊寿の怒りも表立つほどのものではなかったという感じで、ほかにその話を耳にすることもありませんでした。

 被告訴人竹沢俊寿がひどく怒り、懸賞金まで出すと息巻いたのは、宇出津というか正確には辺田の浜のOTが辞めた時の話でした。彼は私の2つ年下でしたが、福井県内の国道365線の山奥で、4トン保冷車を崖下に転落させ、それを放置したまま逃亡したとのことです。昭和60年の春頃かと思います。

 初めて市場急配センターの2階事務所に入った時、被害者AAさんの姿を見たという記憶ははっきりと残っていませんが、事務員がいなかったという記憶もありません。

 市場急配センターの関係者の行動の大きなポイントの一つですが、私が市場急配センターで仕事をするようになったその日から被告訴人池田宏美の姿を一日中、市場急配センターの事務所で見るようになりました。その直前まではほとんど毎日の時間帯、金沢市場輸送で姿を見ていたものです。

 被告訴人池田宏美は、パソコンのデータ入力をすることもなかったので、ほとんど一日中、市場急配センターの事務所で机に座っていました。たまに車で出掛けることもありましたが、長い時間ではなく、銀行にでも行っていたという感じでした。

 もしかすると市場急配センターには別の女子事務員も働いていたのかもしれませんが、そうでなければ午後の大半の時間は、被害者AAさんが一人で事務所にいたと考えられます。金沢市場輸送にいる時も彼女は寡黙でした。脇目もふらずうつむき机に向かって仕事をしていました。

 彼女の声を聞いたのも市場急配センターに移ってからが初めてだったと思いますが、電話で声を聞いたのが先だったと思います。被告訴人安田敏のことで電話をした時のことです。

 安田を呼び出してくれるように頼んだのですが、被害者AAさんは「どちらの安田ですか?」と応答しました。その時は私もよくわからなかったのですが、もう一人の安田というのは、被告訴人安田繁克のことで間違いないと思います。

 市場急配センターで市内配達の仕事を初めてすぐの頃、顔見知りではあった被告訴人安田繁克が会社に来て、私に声を掛け、ずい分前に市場急配センターの仕事をやめたような口ぶりで、イワシの運搬の仕事が終わったあと、都商事や金沢市場輸送の仕事をフリーでやっていると話していました。

 被告訴人安田繁克が、小型の細長いダンプでイワシの運搬の仕事をしていたことは、その前から知っていましたし、その頃はまだ市場急配センターの駐車場に、そのダンプが駐車されていたかと思います。

 同じ平成3年10月6日の時点でも、何台か金沢市場輸送の大型トラックが市場急配センターの駐車場には駐車されていて、被告訴人本恒夫がそこに来て、トラックを移動させろと言ったのを、その場で断ったことを憶えています。

 この10月6日というのは日曜日で、前の5日の夜に電話で初めて被害者AAさんに交際を申込み断られた翌日で、午前中に被告訴人安田敏に同乗して名古屋北部市場に馬鈴薯を持って行って、午後に帰ってきた時のことです。まだ夕方とは言えないような時間帯だったように思います。

 日曜日のそんな時間帯に、被告訴人本恒夫が市場急配センターの駐車場に来たことも偶然とは思えないものがあります。少しあとになると思いますが、同じ10月中には、被告訴人安田敏の工事現場への突入の件もありました。「参考資料扱いにした過去の告訴状の下書き」でも古いものには書いたかと。

 11月になると市場急配センターの駐車場に金沢市場輸送のトラックの姿はなくなっていたかと思います。12月中までは金沢市場輸送にトラックの給油に行っていたことを憶えていますが、平成4年になると金沢市場輸送に給油に行ったという記憶も残っていません。

 市場急配センターの一階というのは、コンクリートがむきだしの物置のような状態でした。夏の頃は、被告訴人梅野博之と大倉さんが交代で長野県内からブドウや桃を運んできて、早朝に仕分けをするという作業をそこでやっていました。マルエーの仕事だったと思います。

 9月の10日過ぎだったと思いますが、建築の工事が始まり、一週間から長くて10日ほどで1階に休憩室が完成しました。工事が始まってすぐの頃、被害者AAさんが私の軽四のフィルム貼りを手伝ってくれたのです。そういえば最近は車にフィルムを張っているのも見ることがなくなったように思います。

 被害者AAさんのことを意識するようになったのは8月中でした。些細なことでしたが、被告訴人松平日出男がアイスクリームをおごってやると言い出し、使いを頼まれた彼女に声を掛けられ、頼んだのがレモンの輪切りの乗ったかき氷のアイスでした。

 2階の窓から顔出した彼女に何かを投げ渡すこともありました。私宛の電話が掛かってきたことでも彼女の態度に気になることがありましたが、初めは金沢市場輸送から来たので、気を遣ってくれているものと考えていました。

 まさかと思ったのは彼女がフィルム貼りを手伝ってくれたときのことで、被告訴人多田敏明、同じく運転手の山下つよし、被告訴人松平日出男の友人で片山津温泉せきや、での慰安会にも参加していたカベヤと呼ばれた男、それに被告訴人竹沢俊寿が目撃者です。他にマルモ設備のパンチパーマの人も。

 被害者AAさんの思い切った行動に皆、一様に驚いていましたが、カベヤはその場で、「お前ら、夫婦やったんか?」とまで言いました。彼女ははにかみながら、「そんなんみえるけ」と答えていました。カベヤの本名は松岡と聞いていたようにも思い出します。

 マルモ設備のことは「参考資料扱いにした過去の告訴状の下書き」に書いたと思います。社長は柳田村の出身だと私に話し、若い頃は水産高校の寮生と喧嘩をしていたような昔話もしていました。金沢市場輸送の頃、主にオイル交換に行っていた松任市と野々市町の境にある自動車整備工場です。

 金沢市場輸送の頃は平均して月に1万4,5千キロ以上は走行していたと思います。

 オイル交換は1万キロごとにやっていたので、他の修理を含め平均すると月に1.5回以上はマルモ設備に行っていました。私の妻と子供の顔もよく知っていて、それだけにパンチパーマの人は、顔が引きつるぐらいに驚いていました。

 金沢市場輸送でも後の方は、マルモ設備に行かず、各自の運転手が担当のトラックのオイル交換を会社でやっていたような記憶もあります。鋭角の角になった会社事務所の奥が小さな倉庫になっていて、そこにオイルのドラム缶が置いてあったような記憶もかすかに残っています。

 そういうこともあるので、マルモ設備の人を見たのはずいぶんと久しぶりで、それも金沢市場輸送ではなく市場急配センターの事務所の前だったので、なおさらすごい偶然だと思っていました。今考えると、それも偶然ではなく仕組まれた演出の一つだったのかもしれません。

 マルモ設備の社員というか整備工は、私の知る限り2人だけでした。どちらも20代の後半かと思っていましたが、パンチパーマの人と、もう一人は幾分ドラえもんに近い体型で、メガネをかけていて、顔を見るたびにアニメの巨人の星に出てくる左門豊作を思い出すことがありました。

 最初は被害者AAさんも私に好意を持っていて、結局は気持ちも離れて関係がこじれたから準強姦・傷害事件にまで発展したと考えられがちだと思いますが、被害者AAさんの言葉や態度というのは、平成3年の3月頃から事件当日の平成4年4月1日まで、終始一貫したものでありました。

 金沢西警察署の谷内孝志警部補が作成した供述調書は、ここ何年かまったく目を通していませんが、フィルム貼りや平成4年3月23日の電話の会話の内容はある程度の記載がされていたかと思います。

 その尽くを被告訴人の弁護士らは無視をしましたが、状況に応じた選択肢の一つとして利用するために温存していた公算が高いです。弁護士のキチガイ性とまで言って過言はないと思っていますが、常人の社会常識や最低限の信頼関係を遥かに凌駕する超在性かと思います。神社たる所以です。

 平成3年の10月、11月中には、その年の8月中頃に正式離婚した前妻からの電話連絡もありました。その辺りも一通りは「参考資料扱いにした過去の告訴状の下書き」には書いたかと思います。余り思い出したくはないことでもあるので、拍車をかけるようにその部分の記憶は薄れているかと思います。

 10月5日も10月12日も土曜日だったかと思います。10月12日は大型ウィング車の3068号でしたか、車番の記憶にやや自信が持てなくなっていますが、日野のそのトラックが新車で納入された日で、私は金沢市内の石川護国神社にお祓いに行きました。

 18時以降に被害者AAさんが会社に残っていることは本当に珍しかったのですが、すっかり暗くなった時間、18時半は過ぎていたとも思いますが、被害者AAさんが2階から降りてきて、被告訴人安田敏と二人でいた私に、「今日、どっか走るが?」などとうれしそうに声を掛けてきました。

 自宅アパートに戻ると数回の無言電話がありました。被害者AAさんがそのようなことをする性格とは思えなかったのですが、前妻であることは考えられ、前妻が会社に電話を掛けたことで、被害者AAさんが当日の私の予定を聞きに来たとも考えたのです。

 どのように考えても堂々巡りで答えは出ず、10月5日の夜のように眠れなくもなりそうだったので、ずっと長い時間考え続けた挙句、思い切って被害者AAさんの自宅に電話を掛けました。非常識なのはわかっていましたが、22時から22時半という時間になっていたと思います。

 電話を取り憑いだのは母親らしい人でしたが、電話に出た被害者AAさんはずいぶんと意外だった様子で、ちょっと待って、と言ったあと、階段を駆け上るような物音が聞こえました。当時はそれほど普及していなかったと思われる親子電話の子機で、コードレスだと思われました。

 初めはずいぶんと慌てた様子に思えた被害者AAさんでしたが、極端に落ち着いた様子になって、なにげなく世間話をするような対応から始めてくれました。23時半頃まで電話で話をしたように記憶していますが、遅い時間からかなりの時間、電話をしていました。それでも時間は短く感じました。

 無言電話が2,3度あったことなども被害者AAさんに話したと記憶にありますが、彼女は全く知らないような対応でした。

 電話を切るとすぐにまた電話が掛かってきたのですが、出ると相手は前妻でした。何度か電話をして話し中だったという感じでした。前妻のも無言電話のことなど話したように記憶していますが、はっきりと憶えているのは、まったく見に覚えのないという対応だったことです。

 始めからストレートに電話を掛けてきて、受話器を取るとすぐに話し掛けてきたので、数時間前に無言電話をしていたのと同一人物とは到底思えませんでした。正確なことは調べようもなかったですが、これも被告訴人らの工作活動の一つであった可能性があると考えられます。

 金沢西警察署が異変を感じ取り対応をしれくれていれば、当時の通話記録から真相をつかむことも出来たかもしれません。

 11月の10日ころか中頃だったと思いますが、その時も被害者AAさんと電話で話をし、同じ夜に前妻から電話があったかと記憶しています。

 被害者AAさんに対しても、諦めるので気にするなと伝え、前妻に対しては、よりきつく、やり直す気はないので、もう電話もしてくるなと突き放すようなことを言いました。

 前妻はほとんど言葉を返さず電話を切ったように記憶していますが、思っていたより深刻なショックを受けたような感じが伝わってきました。明るい声で関係の改善に期待をふくらませる感じが伝わってきたので、また以前と同じことの繰り返しかとも考え、釘を差すようにきついことを言ったのです。

 逆上して言い返してくる反応も予想していたのですが、ほとんど無言で電話を切ったので、余計に気に掛かり尾を引きました。12月中に被害者AAさんとの関係が、ようやく当初の予想通りにうまく行き始めたと考えた時も、子供のこともあって後ろ髪を引かれるような重い気持ちになりました。

 次に前妻から電話があったのは、前触れもなく平成4年1月20日の夜のことでした。日付のことをよく憶えているのは、長距離トラックの運行がパズルのピースのような当て嵌めになりやすかったからです。

 19日の日曜日の午後に名古屋方面に向かい、ミールだったと思いますが、岐阜県可児市でパレットの帰り荷を積んで戻りました。18日の土曜日に積んだ積み置きの荷物でした。あるいは名古屋北部市場への馬鈴薯の荷物だったかもしれませんが、行き荷の内容までは思い出せなくなっています。

 18日の土曜日の夕方には被告訴人多田敏明と二人で、金沢電装の側の焼肉屋で食事をしました。翌日の午後に会社で待ち合わせをして一緒に出発するという約束もしていました。

 その約束通りに、19日の午後、被告訴人多田敏明は会社に来たのですが、足を引きずるような状態で、友達らしい細身でやや背の高い、南米人のような体型の若者を伴い、怪我をしたので一緒に運行には出れないと話していました。

 その理由として、昨夜、友達と福井県の県境に近い辺りに遊びにゆき、他の車に乗っていたヤクザ風の連中とトラブルになってケンカになり、怪我をさせられたという話でした。この時も顔にはかすり傷もなく、とても本当の話だとは思えませんでした。

 当時、そのような言葉は知っていなかったかもしれませんが、被告訴人多田敏明の普段の言動を見ていると、虚言癖や妄想気質があるように思えていました。現役の暴走族らしいことは事実かと思いましたが、話す内容が大きすぎて、とても真に受けることはできませんでした。

 ただ、二つ年上で体格も大きな被告訴人安田繁克の方が、被告訴人多田敏明には気遣いをしているような態度を見せることもあり、なにかの力関係で上位であることは、周囲の態度から感じることもありました。祖父に軽四を買ってもらったようなことも聞いたことはありました。

 被告訴人安田繁克は、平成4年2月1日の夜の会話で、自分が以前暴走族のリーダーをしていて、後輩にリーダーの座を譲ったが、それが思わしくないような話をし、確認はしませんでしたが、被告訴人多田敏明のことを指しているようにも感じられました。

 被告訴人安田繁克はその時、暴力団の組事務所にも出入りしていたと言い、暴走族のグループ名を「狂走恋命」だと言っていましたが、そのようなグループ名を聞いたことはなく、私が少年時代の昭和50年代の中頃に、落書きの一つとしてよく見かけていたものでした。

 平成3年9月頃の被害者AAさんのことに話を戻します。細かくは記憶にないですが、9月20日頃に市場急配センターの1階休憩室が出来上がっていました。半分近くが4畳半ほどの畳の間でしたが、畳の間の利用は少なく、小型のテレビもありましたが、つけているのを見ることも少なかったと思います。

 他の出入り口のコンクリートの床のスペースは複数の椅子の他、机が一つだけ置いてありました。その引き出しにはあとになって、洗車機の鍵と金沢市場輸送での経由の給油の鍵が置いてありましたが、初めの一月ほどは、どちらも2階の事務所の被害者AAさんが管理をしていました。

 基本的に運行指示書と運行費をもらいに行く他は、2階の事務所にあがる用事はなくなり、被害者AAさんに声をかける機会は、鍵を借りに行く時と返しに行く時だけでした。その辺りもよくよく計算されていたかと思います。

 その頃は、特に用事がないときは、1階の休憩室にいるように言われていました。12月頃になるとそういう指示も出なくなったのか、わりと自由に1階の休憩室と2階の事務所の間を行き来するようになっていたかと思います。

 被害者AAさんにフィルム貼りを手伝ってもらったあと、彼女から「後ろの方もフィルム貼りたくないけ? 後ろから丸見えっていややぞいね。」などと声を掛けられたこともあったのですが、まさかという思いも抜け切れず、離婚したことも他の運転手には内緒にしていたので、対応に戸惑いました。

 被害者AAさんに声を掛けられても満足な対応が出来ず、彼女が悲しそうに涙を流すような姿を見ることもありました。まさかという思いはありましたが、フィルム貼りのことも彼女が思い切った行動で機会を作ってくれたと思い、それに応えるためにも自分の方から交際を申し込むと決めたのです。

 決行したのは10月5日の土曜日でした。その日は昼食会を兼ねた長距離運転手のミーティングがレストラン十字であり、被害者AAさんが事務所で留守番になっていました。これを絶好の機会だと思った私は、抜けだして会社に電話を掛け、彼女に今夜、自宅のアパートに電話を頼んだのです。

 被害者AAさんも事前に予想していたような対応で、事務的に「はい」「はい」と繰り返し、電話番号を聞こうともしなかったのですが、私の方から電話番号を伝えました。

 20時に電話を頼んでいたと思いますが、少し遅れて電話があったように思います。彼女は今から友達と片町に飲みに行くと言い、給料日だが土曜日で月曜日の支払いになったので1万円の前借りをしたと話しました。じっくりと話をするつもりだったので、いきなり出鼻をくじかれた気持ちになりました。

 今から出かけると言っているので、長話も出来ず、性急かと思いましたが、彼女に付き合っている人はいるのかと尋ねました。彼女はやや間をおいて、なんとなく残念そうに「いないんです。」と答えました。

 そこですかさず、「できたら、俺と付き合ってもらけんけ?」と口から言葉が出ました。すると彼女は予め用意していたように「ごめんなさい。私、好きな人おるし。」と言いました。私はその言葉をストレートに真に受け、とても大きな衝撃を受けました。

 それからおよそ半年後の、平成4年3月23日の夜の電話で、被害者AAさんは私に次のように言いました。

 時刻は6月27日19時22分です。平成4年3月23日のことについて記述をするところで中断し、どうしたものかと考えていました。時の流れに従い、平成3年11月25日頃のことから先に進めたいと思います。

2016-06-27 月曜日 19:24 <<[[ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]<<

|

« 被害者AAさん原告代理人となった被告訴人長谷川紘之弁護士がもたらした市場急配センターの利益と発展 | トップページ | 平成3年11月25日の夜の電話から被害者AAさんの裏駐車場への駐車と自宅での電話対応の拒絶 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1177043/66231149

この記事へのトラックバック一覧です: 金沢市場輸送から市場急配センターへ、平成9年春から夏頃の状況:

« 被害者AAさん原告代理人となった被告訴人長谷川紘之弁護士がもたらした市場急配センターの利益と発展 | トップページ | 平成3年11月25日の夜の電話から被害者AAさんの裏駐車場への駐車と自宅での電話対応の拒絶 »