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2015年8月 5日 (水)

被告訴人安田敏の組織的犯罪計画への関与をうかがわせる事実/平成4年2月14日バレンタインデー当日の言動と愛知県内での白菜散乱の話 ****続きを記載予定****

被告訴人安田敏の組織的犯罪計画への関与をうかがわせる事実/平成4年2月14日バレンタインデー当日の言動と愛知県内での白菜散乱の話 ****続きを記載予定****

2015-08-04 火曜日 11:43 >> [[ ←これからの記述範囲の開始時刻]]>>

 平成4年2月14日のことを書いておきたいと思います。どうも被告訴人多田敏明のことよりは全体的な記憶も薄れていて、思い出すのもきつさがあるので、この被告訴人安田敏のことを先に書いておきたいと思います。

 平成4年の1月になると、被告訴人安田敏との付き合いは減っていたと思います。1月25日の土曜日にはまだ私が厳しい目を向けることもなかった場面の記憶が残っています。

 1月25日というのは、被害者AAさんが首にネックレスをつけて会社に来ていた日のことで、私が被告訴人安田敏を通じてプレゼントをしたネックレスとは違うものと思われました。私が買ったものはこの長さで首に巻けるのかと思うほど、長さの短いものだったからです。

 彼女の姿を会社で見たのも1月21日以来だったかと思います。1月22日にも少しは姿を見たかもしれませんが、ミールを運んで名古屋方面への運行が連続となっていました。朝に名古屋方面でミールを降ろし、夕方には金沢でまた積みこむという仕事でした。

 ネックレスのことは被告訴人安田敏に聞いても「しらんじゃ」と言われただけだったように思いますが、被告訴人安田敏は割と上機嫌で、二階の事務所のコピー機を操作して一万円札のコピーを作って喜んでいたのも、その時だったように思います。

 その日彼女は思いつめたような様子で、17時より少し前に、泣きながら小走りで帰っていくような様子が、休憩室の外に見えました。17時より5分か10分ほど前だったと思いますが、そういう時間に彼女が退社する姿を見たのも初めてでした。

 その25日の夜も、私は彼女の自宅に電話をしたのですが、この時初めて電話に出た母親が、心配そうな警戒心を持ったような態度を感じさせたのも印象的でした。そんなにきつい感じではなかったですが、そういうのはその時だけでした。

 1月12日の入善パーキングエリアから掛けた電話のことは、数日前に書きましたが、それ以降、彼女の自宅に電話をすることはほとんどなくなっていたと思います。

 それは裏駐車場で直接彼女に声をかけていたからで、初めの2回は、少しだけ駐車してある私の大型トラックの助手席に乗ってくれ、「今日、用あるし、ちょっとだけ。また、今度」と言っていました。2回目だったようにも思いますが、美容院に行く、とも言っていました。

 そして3回目になったのが1月21日だったと思います。その時も直前になって彼女の態度がおかしくなり、私の方はそれにも動揺して焦りが強くなりました。それは4月1日の退社時にもよく似ていた彼女の態度でしたが、被告発人梅野博之が、よからぬことを吹き込んだ可能性が大です。

 実際に、被告訴人梅野博之本人が金沢西警察署の供述調書で、注意をしたと供述していました。そういえば、彼女が「私、殺されるかもしれん。」と言っていたとも被告訴人梅野博之は供述をしていました。

 そういえば、2,3日前に記述が中途半端になってしまったところがありました。12月13日の金曜日のことです。概ね1月1日から4月1日までの日付は平成4年を、6月ころから12月31日までの日付は、平成3年を指します。

 平成3年6月より前のこととなると、ほとんどは金沢市場輸送にいた頃のことになりますし、遡るほど時期の特定も難しくなるのですが、その都度、何年であるかと書くように、できるだけ特定できるように心がけて書いています。

 12月13日の金曜日のことですが、私は18時過ぎまで彼女が来るのを待って、彼女の軽四の隣に自分の軽四を停めて、運転席で待っていました。諦める10分ほど前に、裏駐車場の奥の方から被告訴人梅野博之が歩いてきて、私の車の前を通って、事務所の方に歩いて行きました。

 その時、彼女が軽四を停めていた場所というのは裏駐車場でも、事務所横のアスファルト舗装に近い場所でした。事務所横には洗車機があって、そこに大型車が駐車してあることもありましたが、2台以上が通りぬけができるものの、通路のようになっていました。

 事務所前には乗用車を4,5台ぐらい駐車できるスペースが道路との間にあって、道路に向かってみると左側に裏駐車場に出入りする通路がありましたが、その一番左側というか左端の部分には、一台分ですが、大型トラックを駐車することもよくありました。

 新潟県の市場でイヨカンを荷降ろしし、金沢に戻ってきて被告訴人多田敏明とトラックの中で話をしていたのも、その左端の部分に駐車をしていた時だったと思います。11月か12月には、同じ場所で河野さんと話をしたこともあったと思います。

 これも書いているうちに中途半端のままにしてしまったと思いますが、たぶん、河野さんと二人で宇出津のAコープ能都店にみかんを運んだ日のことで、「しげちゃん」で食事をしてきた後のことだったと思われます。

 河野さんとは金沢市場輸送で鮮魚の仕事をしている時も、夜中に何度か一緒に食事をしたことはあったのですが、夜中に仕事が終わると自宅には帰らない、妻と娘が寝ている時間なので気を使っている、と話していました。22時とか23時という時間でも同じように聞いたように思います。

 そういうこともあったので、20時をすぎるような時間になって、会社で河野さんの姿を見るようなことは、ほとんどなかったという印象が記憶に残っています。かと言って、会社にトラックを駐車して寝ているようなところを見たような覚えもなかったので、不思議だと気にかけていました。

 私に限らなかったと思いますが、ほとんどの運転手は駐車中もずっとトラックのエンジンを掛けっぱなしにしていました。寝る時も同じです。暖房や冷房が必要な時期であればなおさらのことだったと思います。

 長距離のトラックには寝台がついていて、布団を持っているのも普通だったので、エンジンを切って布団を被って寝ていれば、外からはいるのかいないのか、わからなかったかもしれません。

 ただ、市場急配センターでは夜中に駐車場にトラックをとめて寝ているという姿を見ることは少なかったので、その点も気になってはいました。他の人の仕事内容がわかりにくかったということもありますが、自分の仕事内容の生活パターンとは違っているようにも思われていました。

 被告訴人東渡好信や輪島の浜上さんらの場合は、金沢市場輸送で夜遅くまで麻雀をしている、ということも多かったのかもしれません。実際に私が金沢市場輸送にいた頃は、そういう姿も何度か目にしていました。河野さんが麻雀をしている姿を見たことはなかったと思います。

 12月13日の話に戻しますが、梅野博之の姿を裏駐車場で見た時は、いくらか気になりました。そんな時間に配達が終わって帰ってきたとも考えにくかったので、事務所の方から降りてきて遠回りをして、私の様子を見に来たのかと思いました。実際、その可能性が高いのではと思います。

 13日の金曜日が不吉ということで、その日を避けたのかとも考えました。占い好きの若い女性というのは今でもテレビで見ることがありますが、当時の方が、そういうオカルトとかの影響も強かったように思われます。私自身は関心も乏しかったですが。

 1月25日のことを書いていましたが、そちらに戻します。その日が土曜日であったことは暦の上でも確認できます。特に私の場合、Linuxを使っているので端末で「cal 1 1992」とやれば、すぐに確認が出来ます。

 Windowsパソコンの環境でCygwinも使わずにやるとなると、私もすぐには方法がわかりませんし、1992年のカレンダーなど、ほとんど存在しないことでしょう。インターネットを使えば、調べる方法があると思いますが、そんな必要性も感じないで生活している人がほとんどかと思います。

 私が当時の日付のことをよく憶えているのは、長距離運転手という生活パターンに特徴があったからでもあります。一割ぐらいは当て嵌めが困難な部分も出てきたのですが、それはパズルにピースを当て嵌めていく作業にも似ていました。

 私は金沢西警察署で谷内孝志警部補の取り調べを受けているとき、市場急配センターの運行表のようなものを与えられて、正確な記憶の喚起を促されたようなことがあったのですが、その頃は被害者AAさんの容体ばかりが気掛かりで、まるで集中が出来ませんでした。

 金沢刑務所の拘置所に移って、記述をするようになってからも、本来2月1日であたことを、かなり外れた時期と勘違いして書いたようなことを憶えています。頼めば許可も出ていたのかもしれませんが、金沢西警察署では留置場で筆記用具を持つこともありませんでした。

 正確な時期を特定し、記憶の整理と記録をしておきたいと、木梨松嗣弁護士には、何度も手紙で、その市場急配センターの運行表を差し入れてくれるように頼んだのですが、それもまるっきり相手にされませんでした。精神鑑定のあとは、一階ぐらい接見があっただけで、徹底無視です。

 事件のことを紙に書くようになったのは平成5年になってからが徹底していましたが、木梨松嗣弁護士が接見で、「君の言いたいこと伝えたい事件のことは、上申書として提出すれば、直接、裁判官の前で話したのと同じことになる。」と、力強いアドバイスを受けたこともあったからです。

 その時は説得力も感じ、記録に残すことが自分のすべきことで役割なのかと考えました。逆にもっともおかしいと感じたのが、被害者の容体を心配して元気づけてあげたい、と言った時、体の怪我などは物質的な問題なので、気持ちなどは全く無意味だ、というような趣旨で言われたことでした。

 その被害者の容体のこともほとんどわかりませんでしたが、病院を退院してリハビリの施設にいるということは、弁護士会の照会の書面の写しを差し入れられて知っていました。無理に話を聞くとすると、状態が悪化するおそれがある、というようなことも木梨松嗣弁護士は言っていました。

 今思えば、私をコントロールする以上に、小島裕史裁判長らを納得せて事を有利に運ぶというのが、木梨松嗣弁護士の狙いであったとも考えられます。そういう意味で、目的を達成し、私のことは用済みになったとも考えたので、まるっきり相手にしなくなったと考えられます。

 すさまじいデタラメと悪性格が人格内に共存していると考えられますが、それは昨夜から今朝に中心的に取り上げたモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)にも共通性や類似点がうかがえられるところでもあります。独善的な狂信者とも人格破綻者とも見えてくるところです。

 1月25日の土曜日の夜は自宅から被害者AAさんの自宅へ電話をしているので、あがり、だったのだと思います。その後の運行のことも今は思い出せなくなっていますが、その後月末までの間に、山梨から東京に行った運行が一つありました。

 数日前にも書いたところかと思いますが、池袋の三越の展示会の引き上げとなった仕事です。山梨に持っていく荷物は七尾市から積みました。

 確かにその時だったと思うのですが、私は朝からミールの倉庫移動の仕事をしていて、工場でミールを積み込む作業の現場にいた時、会社から電話があり、そのまま七尾市に行って荷物を積みこむことになったのです。

 まだ午前中だったと思いますが、津幡の太陽鉱油で給油をし、そのまま国道で七尾市に向かいました。津幡町能瀬という地名の看板が出ていましたが、その辺りから会社に電話を掛け、被害者AAさんと少し話をしました。

 「アヤちゃん、年も離れとるし、何を考えとるかわからん。このままやとまた傷つけてしまいそうやし、もう諦めるし」というようなことを言ったと思います。すると彼女は「あん、あん、あん」と詰め寄るように怒りを表現していました。

 そのあと、鹿島の辺りからも会社に電話を掛けたように思います。七尾市内より30分ほど手前のところで、現在は中能登町とかになっているかもしれません。アルプラザ鹿島店というのも出来ています。その時の電話には池田が出ていたと思います。

 そういえば津幡町能瀬から会社に電話をした時も、被告訴人梅野博之が出るようなことがあり、なにか印象に残ることがあったように思いますが、それも思い出せなくなりました。

 午前中に七尾市に向かったというのも珍しく、その時だけだったとも思いますが、荷物を積んで出発したのは、普段より遅い時間だったような気もします。気分が落ち込み考え事をしていたので、遅い時間に感じられていたのかもしれません。

 いずれにせよ、その時は七尾を出発してから北陸道には、小杉インターから乗ったように思います。小杉インターは富山インターの一つ手前になりますが、少し行くと呉羽パーキングエリアがありました。

 富山インターを超えるとトイレだけのパーキングエリアがあって、名前はちょっと思い出せなくなりましたが、そのパーキングエリアから会社に電話をしたように思います。あるいは高速に乗ってすぐの呉羽パーキングエリアです。

 17時半ころだったかもしれません。すっかり暗くなっていたことは憶えていますが、被害者AAさんが帰ったあとで、被告訴人池田宏美に話を聞くことが目的で掛けた電話だったと思います。昼に鹿島から掛けた電話ともつながりはあったように思いますが、細かいことは思いだせません。

 津幡町能瀬からの電話で被告訴人梅野博之に何か言われたことも原因にあったように思います。と書いたところで、少し思い出せました。梅野博之にも何か言われましたが、被告訴人池田宏美にも言われていました。

 被告訴人池田宏美には、「広野さん、あなたアヤちゃんのこと好きなんやろ。でも諦めなさい。あの子、ちゃんと彼氏いるし、他の年行った人らもいうとるけど、見るだけで我慢しときなさい。」というような内容のことを言われました。

 「広野さん、あの子のことかまわんときなさい。今、あの子に会社やめられたら、本当困るげんてぇ。あの子のためやとかそういうこと一切考えときんなさい。」というようなことを言われたのは、別の時で3月になってから、かもしれません。

 被害者AAさんのわがままで自分らが振り回され、気を使っているような言い方で、切実に訴えかけてきました。もうひとつ思い出しました。能瀬の電話では、あの子の家に電話を掛けるな、掛けたいなら私のとこ掛けてきなさい、とも言っていました。それが切り出しだったと思います。

 被告訴人池田宏美は金沢弁のような話し方をしていましたが、もともとは違ったところの出身らしく、四国に長い間生活をしていたこともあると、金沢市場輸送のときだったと思いますが、話していたこともありました。4回目の結婚とも聞いていました。

 今なら4回の結婚というのも珍しくはないと思いますが、当時は余り聞かない話で、テレビドラマの筋書きにもなかったように思います。普段は気味が悪いぐらいに優しく明るく接していましたが、気難しいところがありそうだとは思っていました。

 とにかく、北陸道に乗ってから掛けた夕方遅くの電話では、相談されたことが嬉しそうな上機嫌な感じで、「かわいそうな子や、かわいそうな子やと思っときなさい。なんもわかっとらんげん。」と言い、

 続けて、「あの子、会社でしおらしい顔しとるやろ、でも、友達から掛かってきた電話の話とか聞いておると、がんこなこと言っとるわ。」ともっともらしく言っていました。

 被告訴人池田宏美の性格から話半分で聞いていましたが、最後の、友達との電話、という部分が絶妙に引っ掛かり、あとを引きました。がんこ、というのは頑固という標準語のようですが、金沢弁としては「あきれた」とか「とんでもない」というニュアンスで使われています。

 11月26日の夕方も、被害者AAさんは長い時間、二階の電話で友達と話をしていました。楽しそうに笑っている様子も目にしましたが、それは二階にだけあるトイレに行った時に見た様子でした。トイレに行ったのは半ば口実でした。何をしているのか気になったのです。

 11月26日のことは、また別の機会に書きたいと思いますが、被害者AAさんは19時から19時半ぐらいまで会社にいました。推定ですが18時以降はずっと一人で二階の事務所にいたと思います。

 当時は余り意識をしていない時期だったので、見落としもあったかと思うのですが、その11月26日の夕方のことも偶然ではなかったと思われます。午後の早い時間からずっと輪島の浜上さんと被告訴人多田敏明と3人で話をしていました。

 夕方になるとそれに西口君が加わったのですが、西口君以外は関西方面行きの荷物を積んでいました。名古屋方面だったとも考えられるので、正確には米原方面行きかと思います。北陸道は米原ジャンクションで名神高速道路と交わります。

 関西方面に向かうときはそのまま京都方面に向かいましが、名古屋方面だと逆方向で東京方面に向かうことになります。その時も馬鈴薯を積んでいたと思いますが、ほとんどは名古屋の北部市場で、場所も名古屋市内ではなく小牧市になっていたかと思います。

 私は関西方面の馬鈴薯を積んでいて、これは大阪市内福島区の本場(本條)市場と北部市場がありました。何市だったか忘れましたが、大阪市内よりは手前になって、和歌山方面に行くのも近い場所でした。

 結局、被害者AAさんの友達が車で彼女を迎えに来て、それからすぐに出発をしたのですが、和田君もいたように思います。

 金沢西インターから北陸自動車道に乗って、ちょうど100キロメートルほど先にある、福井県内の南条サービスエリアで待ち合わせをしました。割と強い雨が降っていたのですが、そのためか被告訴人多田敏明の到着だけが遅れ、ずいぶんと待たされました。

 待った時間はより長く感じられたのですが、輪島の浜上さんと二人っきりではなく、もう一台というかもう一人誰かがいたと思います。休憩室では夕方遅く暗くなってから来た人で、出発の2,30分前だったとも思います。唯一考えられるのが和田君ですが、記憶としては曖昧になっています。

 その時、被害者AAさんを迎えに来たのが諸江に住むというKさんでした。被害者AAさんの親友のような話でしたが、存在をしったのもその時が初めてだったように思えます。高校の同級生であるとか、そういう話も聞きました。

 市場急配センターの一階の休憩室は少し奥まっていました。ちょうど乗用車一台分ぐらいのスペースだったように思いますが、その奥の方にアルミサッシの引き戸が出入り口になっていました。裏の方にもドアがありましたが、普通は表から出入りをしていました。

 被害者AAさんは会社前に自分の軽四を停めたまま、諸江のKさんに迎えに来てもらったようです。正面から車がライトをつけたまま入ってきたので、眩しくてほとんど何も見えなかったのですが、西口君が待ってましたとばかりに解説を始めたので、それには違和感も感じました。

 市場急配センターの会社前の駐車場は、確かコンクリートが盛り上がったように段差になっていたので、正面から入ってくるとヘッドライトがハイビームのようになり、びっくりするほど眩しくなっていました。

 人を迎えに来ただけなら、会社の前に車を横付けにするだけで済む話かと思いましたが、被害者AAさんを同乗させたらしく、バックをしてから走って行きました。

 ライトが他の方向を向いた時に、車が見えたのですが、ファミリアのような小型車で、色はシルバーに見えましたが、直前の光の眩しさで目がおかしくなっていたかもしれません。経験のないことだったので、初めは本当に何事が起こったのかと驚きました。

 西口君から被害者AAさんの話を聞いたのは、その11月26日の夜と、2,3日前に書いた3月14日の北安江の焼肉店の時だけだったと思います。

 一緒になったのはもう一度あって、12月28日の土曜日だと思うのですが、被告訴人多田敏明と西口君の二人から声を掛けられて、被告訴人HTNの自宅アパートに行くことになりました。この時も初めに話が出たのは金沢市場輸送の給油所の前だったという一場面が記憶に残っています。

 私には急な話で思わぬ展開だったのですが、二人の提案の通りに被告訴人HTNの自宅アパートに行くと、まもなく、焼肉店に行こうと被告訴人HTNが言い出しました。その行き先の焼肉店も住所は諸江だったと思いますが、諸江もけっこう広く、8号線バイパスにもまたがっていました。

 今もそのままだと思いますが、北安江の辺りには平和堂アルプラザというデパートがあって、それは平成9年の夏には出来ていたものですが、平成4年当時は影も形もなかったと思います。

 アルプラザは敷地も広く、デパートの建物は道路よりかなり奥まっていましたが、ちょうどその道路を挟んだ向かいのあたりに24時間営業と思われる酒の買える店がありました。今で言うコンビニのような店で、平成4年ころには金沢市内でもコンビニはあったと思いますが、違った感じの店でした。

 昭和59年ころにもその店はあったように思います。夜中に買い物が出来るような店は金沢市内でも本当に少なかったので、それだけ目立つ店にもなっていましたが、店の名前などは考えたこともありませんでした。

 2月1日の夜は、市場急配センターの休憩室で話をしようと私が言ったところ、被告訴人安田繁克はすぐに酒を買ってこようと言い出し、その店に行ったのです。夜中いつの時間でも開いている店だったので、24時間営業だったのだと思いますが、はっきり24時間営業と書いてはなかったように思います。

 その24時間営業と思われる酒が売っている店、の地理的にはちょうど裏側になると思いますが、別のところから斜めに入る道路があって、そこに被告訴人HTNが行こうと言い出した焼肉店がありました。有名な感じな店でしたが、私は入ったのも初めてでした。

 焼肉店での解散も割と早い時間でした。22時から23時の間であったように思いますが、市場急配センターの休憩室に集まって、雑魚寝をするようになっていました。被告訴人HTNの姿はなかったと思います。

 諸江の焼肉店では何人かの市内配達の若い運転手の顔ぶれが加わっていました。峰田君の姿はあったと思いますが、笹田君はいなかった気もします。他にも2,3人の見たことのある顔ぶれがあったのですが、名前は知らず、久しぶりに見た顔ぶれで、市場急配センターにはいなくなっていたかと思います。

 気になったのはその雑魚寝をしていたときのことです。私は横になっていたものの目が冴えて全く眠れずにいたのですが、一時間ほどすると、被告訴人多田敏明と西口君の二人が、声も出さずに示し合わせて、静かに外に出て行きました。

 ずいぶんと慎重な様子でそれも気になったのですが、あとで、サウナエバラに行ったような話も聞いたように思います。金石街道の松村町の辺りにあったサウナですが、平成9年の頃には影も形もなくなっていたかもしれません。同じ場所はパチンコ店になっていたようにも思います。

 その時も被告訴人多田敏明はずいぶんと機嫌よく、私を誘ってきたのですが、この被告訴人多田敏明という男は、気分のむらも大きな男で、不機嫌なときはものすごく不機嫌そうな顔をしていました。気分なのか打算なのかもわかりにくく感じていました。

 彼が上機嫌な時というのは、そのように台本通りの演技をしているようにも感じられていました。気分の悪い時というのは、仕事に対する不満を口にすることもあったかと思います。

 そういう意味でも12月24日の夜のときは、明らかにおかしいのではないかと思いながら彼を見ていました。若者にとっては特別なはずのクリスマスイブの夜です。それも時間は23時から23時ころだったと思います。

 そんな日のそんな時間に仕事をさせられれば誰でも不満に思うのではと考えましたが、彼は妙に上機嫌でした。ずっとあとに知った知識ですが、躁鬱病の躁状態を思わせるものでした。他にいいことがあったのかとも考えはしましたが、とにかく嬉しそうでした。

 これは中央市場の敷地内で、山三青果の福井分を中継で積み替えた時のことです。当日の12月24日は、朝に東京の練馬区で七尾市で積んできたベニアの荷物を降ろし、池袋の近くから首都高に乗って、茨城県古河市の山三青果に向かったような記憶もあります。

 東大和市でも似たような荷降ろしがあって、今はその時の記憶と混同が出ていることも完全否定は出来ませんが、その他にも憶えていたことは沢山ありました。

 関東か和歌山県のかつらぎ農協の仕事が多かったので、金沢市場輸送にいた頃の長距離の仕事に比べれば、ずいぶん単調にも感じていましたが、それでも普通の仕事をしているよりは変化も多く、それが記憶力にもプラスになったのだと思います。

 被告訴人安田敏のことをメインに書いているつもりでしたが、ずいぶんとあちこちに飛んでしましました。被告訴人安田敏とも以外に仕事では一緒になることがなくなっていたかと思います。

 市場急配センターのメインの仕事である山三青果の茨城県古河市の青果市場では、一度も顔をあわすことがなかったと思います。これはもっとも嫌がられる仕事であったので、しわ寄せの割り振りとしてあてがわれていたので、そうなっていたことも考えられます。

 山三青果の仕事も荷物が多くて大型車2台とかになって、金沢一発とかになれば、ずいぶんと気も楽な仕事になっていたかと思いますが、その辺りの細かい事情も計算したうえで、不平を言わない運転手に割り振られているという感じでした。

 私などはもともと手作業の仕事が多かったので、荷物の積み下ろしも気にならず、眠気覚ましの気分転換とも考えていたぐらいなのですが、そのような作業をものすごい苦痛や負担と考える運転手も少なからずいたようです。

 関東と行っても往復には関越道で新潟県の豪雪地帯を通ります。金沢市場輸送では東北便が多く、地吹雪やブラックアイスバーンも経験していたので、それに比べれば気分的に楽にも感じていましたが、出発が遅れ卸先が多いと、時間的にもかなり厳しい仕事になっていました。

 21時に出発したとすると競りが始まると思われる翌朝5時までは8時間ですが、雪がひどくなればスピードも落とすことになりますし、それ以上に荷物の卸先が多いと、余計な時間が掛かりました。そういうロスも見込んだ上で、できるだけスピードも出すことになります。

 鮮魚でも雪が降ったとかで出発が早くなるようなことはありませんでした。集荷の関係もあるのか、出発の時間はだいたい決まっていました。通行止めのこともあるので、できるだけ先を急ぎます。そんなこともあって、ただでさえ、冬場の仕事をしている頃は、神経がピリピリしていました。

 時間が遅れ延着となると損害も運転手の負担になるとか言われていましたが、そういう損害だけではなく、それ以上に意地やプライドのようなものをかけて、ほとんどの長距離運転手は仕事をやっていたように思います。今とは時代も違うように思われます。

 きつい仕事もやり遂げていけば、それが自信にも経験にもなって、仕事自体を効率よく楽なものにさせていると私は考えていましたが、そうは考えない人もいて、考え方も人それぞれだったと思います。

 私の場合、特に中西水産輸送でめちゃくちゃな経験をしたことが、大きな財産になっていたとも思います。金沢市場輸送では安定した走行も出来る新車の大型車にも乗務をしていましたが、随分と仕事が楽になったと思いながら、会社からは高い評価を受けていました。真面目ということで。

 中西水産輸送がひどすぎたという思いもあるのですが、特に被告訴人竹沢俊寿の夫人からは、信頼と感謝を受けているような感じでした。昭和59年の入社の時とはギャップも大きかったので、余計にそのように感じていたのかもしれません。

 昭和59年当時は、毎月給料日に決まった給料が出るだけましだ、という人もいたぐらいでした。社会の景気全体がよくなかったのだと思いますが、その後のバブル景気と、金沢市場輸送の業績向上も、ちょうど時代が重なっていたのだと思います。

 私を持ち上げることで他の運転手や社員を刺激するという目的もあったのかもしれませんが、とにかく竹沢俊寿夫妻がずいぶんと感謝してくれているという気持ちは伝わっていました。普通に気難しく、ケチとも言われる夫人が、私にはそういう態度を見せていたので、今思うとそれも大きそうです。

 平成3年の6月ころではなかったかと思いますが、あるいは4月ころだったかもしれません。金沢市場輸送と市場急配センターの事務所の人間だけで、粟津温泉で慰安会に行ったという話を聞きました。それには被害者AAさんも参加したと聞きました。

 被告訴人竹沢俊寿もどの程度本当なのかわかりませんが、ヤクザの組長もやっていたという人でした。被告訴人竹沢俊寿本人は、「極道」という言葉を好んでよく使っていました。夫人には頭があがらず財布も握られているという話でしたが、極道の妻ということにもなりそうです。

 昔気質というよりは、なにかそういう雰囲気を身につけているという感じでした。事務所が二口町に移転するまでは、夜に片町で飲み屋の仕事をやりながら、昼に会社に来て事務の仕事をしているという話でもありました。

 ついでに書いておきますと、私はそれだけではなく、ずっと長い間、被害者AAさんのことを被告訴人竹沢俊寿かその夫人の親戚の娘ではないかと、考えていました。彼女のことは金沢市場輸送の運転手の間で、全く話題にもなりませんでしたが、それも独特の雰囲気、空気感だったと思います。

 実際に、被告訴人竹沢俊寿かその夫人のどちらかは忘れましたが、親戚という税理士が、金沢市場輸送の事務所にいた時期がありました。隅っこの変な場所に机があり、暇そうにしていることもあったので、目立ってもいたのですが、慰安会にも参加していたような記憶があります。

 割と若くて頭の良さそうな人でしたが、名前というのは聞かなかったようにも思います。金沢市場輸送や市場急配センターの会社の規模で、常駐の税理士がいたというのも変な話かと思いますが、運転手の間で税理士と聞いていました。

 その税理士に比べると、被害者AAさんは初めに見た頃からずいぶんと仕事らしい仕事をしているという感じで、会社の中にいるときは顔を上げた姿も見たことが無いような感じで、仕事に集中していました。気になるとともに不思議な存在感がありました。

 金沢市場輸送の事務所にいる時間が短かったためか、外から出入りをする姿を見ることも多かったのですが、いつも決まって何か書類のようなまとまりのある荷物をカバンに入れるのでもなく、胸の前に大事そうに抱えている姿も印象的でした。後にも先にも他に見たことがありません。

 生真面目で律儀、それが知り合ってからの被害者AAさんに対する私の印象でしたが、被告発人らには翻弄されました。見出しに据えた2月14日の被告訴人安田敏の言動は、その最たるものの一つでした。

 2月14日を選んだことは計画的に露骨すぎるとも思えるぐらいなのですが、被告訴人東渡好信にせよ、そういう知略や工作活動を、心底楽しみ、それに酔いしれていたようにも思います。

 今、NHKでやっている連続テレビ小説まれ、は能登半島が舞台で、それだけに注目もしていますが、夢嫌いだった少女がパティシエの夢を追いかける、というテーマになっています。そういう私ですが、以前はテレビ嫌いのドラマ嫌いでした。

 頭も悪く落ち着きもなかったためか、2時間ドラマでも集中して見ることが出来ず、物語の筋がつかめず、イライラすることもありましたが、それ以上に、演技というものを嫌がり、軽蔑していたとも思います。

 中学生の頃は、他に娯楽もなかったのでテレビは見ていましたが、いつのまにか段々と嫌いになっていきました。それでも大嫌いということはなく、家ではいつもテレビはつけていたと思いますが、ドラマでも恋愛モノが嫌いでした。

 テレビでドラマや映画を見るようになったのは、刑務所で生活をするようになってからですが、今でも映画というのはほとんど見ません。

 テレビでインターネットも出来る機器が、1年ほどの契約で無料になるというので、テレビで映画やドラマを見る契約をしたのですが、無料試聴のものを一本だけ、見ただけです。今年はまだ機器の電気自体を入れたことがないと思います。

 映画も嫌いではないのですが、他に優先度が高いことがあるので、そちらを優先しています。時間の使い方というのもありますが、特に見たいという映画もありません。すごく例外的にお気に入りになったのは「ダム・キーパー」ですが、そちらはパソコンでの視聴になります。

 一本だけ見た映画というのも、邦画で「ブタのいた教室」というタイトルでした。これは見ておきたいと思いました。思うところはいろいろありますが、見ておきたいと思いました。なかなか考えさせられる内容でもありました。

 テレビドラマで良かったのは「Mother」という連続ドラマでした。これは全ての回を観ました、連続テレビ小説を見るようになったのは、「あまちゃん」の途中からですが、以前書いたように、弁護士のツイートがきっかけで、そうでなければ続けてみることもなかったように思います。

 歴史的視聴率を記録した「おしん」もほとんど見た記憶がなく、その後、昔のドラマの名シーンとしては何度か見ていたのですが、最近になって主役の大きくなってからの役柄を田中祐子がやっていたと知って驚いたぐらいです。

 たぶん、それぐらい演技というものが嫌いで、軽く見ていたのだと思いますが、近年になると尊敬したくなるような役者の人を多く見るようになり、演技する人への意識もずいぶんと変わってきました。

 NHKの連続テレビ小説などはその典型かと思いますが、主人公の成長を描き、それを支えるたくさんの人が出てきます。そういうドラマを見ていると、被告訴人らの演技や筋書きは何だったのだろうと改めて考えます。

 生まれて50年というのも長いような短いような気がしますが、24年から23年前が中心の事実になります。それをしっかりと記録しておきたいとも、考えるようになりました。

2015-08-04 火曜日 17:41 << [[ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]<<

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