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2015年8月 2日 (日)

被告訴人安田繁克の組織的犯罪計画への関与を伺わせる事実/平成4年2月1日の夜のこと/出会いから市場急配センター休憩室での会話まで

被告訴人安田繁克の組織的犯罪計画への関与を伺わせる事実/平成4年2月1日の夜のこと/出会いから市場急配センター休憩室での会話まで

2015-07-29 水曜日 07:47 >> [[ ←これからの記述範囲の開始時刻]]>>

 被告訴人安田繁克に関することは、この項目でまとめて書いてしまおうと思います。あとで思い出すことや他の人との関連で別に書くこともあるかもしれませんが、出来る限りまとめてしまいたいところです。

 まず被告訴人安田繁克の市場急配センターへの入社時期ですが、市場急配センターというよりは金沢市場輸送の市内配達として存在していたような時期のことです。当然ですが、金沢市場輸送と同じ事務所で運転手の休憩室も同じでした。

 事務所は同じでしたが、別会社になったという話は聞きました。それまで金沢市場輸送の社長だった被告訴人竹沢俊寿が会長となり、被告訴人本恒夫と被告訴人松平日出男がそれぞれ社長になったという話でした。

 二口町の事務所に移転してからのことで季節は秋だったような場面が記憶になっています。金沢市場輸送の方はそのまま被告訴人本恒夫が社長になったわけですが、市場急配センターという社名が出来てのもその時ではなかったかと考えられます。

 もともとはただ市内配達とか市内配達の連中とか呼んでいたと思いますが、二口町に移転する前のほうが、お隣さんのようなものでしたが事務所が別々になっていたので、別会社という感じにはなっていたと思います。

 責任者だった高田がいなくなってから市内配達が別の事務所になったように思いますが、既に賃貸の契約とかが進んでいて移転することが決まってから、高田の姿がなくなったのかもしれません。高田がいなくなったのはかなり急な話でした。

 被告訴人竹沢俊寿に対する裏切り行為もあったような話も少し聞いたように思いますが、富山の右翼団体の若者が数人で事務所に入ってきたので、個人的な問題で首が回らなくなって逃げたという可能性もありそうです。

 「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」にも書いたと思いますが、本当は右翼団体の方が押しかけたということになるのかとも思いますが、対応した被告訴人本恒夫の態度が慣れた感じで堂々としていて、若者のほうが挨拶に来たようにも見えました。

 高田は私が2度目に金沢市場輸送に入社した昭和61年8月にはすでにいた市内配達の責任者のような人物です。昭和59年当時は全くやっていなかった仕事なので、詳しいことはしりません。

 ただ、聞いた話によると中央市場の青果の仲買の仕事で、金沢市場輸送を含めた数社が2トン車と専属の運転手を出し合って市内配達を始めたようです。

 金沢市場輸送が中心になっていましたが、昭和61年当時も、小林運送、石川日通、それと松任市の鷺富運送であったかもいました。いずれも一台のトラックに一人の運転手でした。

 配達の2トン車は幌付きの荷台で黄緑色に黄色いラインが入っていたような記憶があります。市場なんとかと書いてあったように思いますが、正確には思いだせません。これが市場急配センターの前身でもあります。

 私が入った頃は金沢市場輸送の支配的中心的な立場がほぼ固まったような状況でしたが、それまでは覇権争いのようなこともあったらしく、小林運送の夫人が金沢市場輸送に怒鳴り込んできたという話も耳にしたことがありました。

 私自身、昭和58年の春に短い間ではありましたが、小林運送で長距離助手の仕事をしたことがありました。小林運送から2トン車の仕事に来ていた山下さんも、私が助手の仕事をしていた頃には大型車の長距離乗務をしていました。

 青果物の仕事では中心的な運送会社であったようです。他には金沢港の近くに会社のある日栄運送がありましたが、日栄運送は主に九州と長野県からリンゴを運んでいると聞いていました。実際、九州方面ではトラックを見かけることが多かったし、金沢市場輸送はその下請けもしていました。

 下請けというのはちょっと違う気もしますが、九州で荷物をもらって北陸方面に帰るという仕事でした。ミカンの時期は長崎県の長与農協と決まっていて、そこには日栄運送の担当者もいました。

 名前の方は思い出せなくなりましたが、ミカンの時期以外は熊本県の植木市場の辺りにいる人で、家もその近くだと話していました。石川県ではスイカといえば夏ですが、熊本はそれより早く5月ぐらいがスイカの出荷の時期だったように主ます。

 元はといえば古河の山三青果の仕事も日栄運送がやっていたもので、それを金沢市場輸送の被告訴人本恒夫が横取りをしたような話も聞きました。

 日栄運送の配車係の人は西念町に金沢市場輸送の事務所がある頃は、ちょくちょくと顔を出し、良好な関係という感じでした。

 その日栄運送との関係が決裂し、仕事の関係も全くなくなったのですが、被告訴人本恒夫が原因を作ったらしく、もともと温厚な老紳士のような日栄運送の配車係の人でしたが、骨髄に徹するような恨みを持つことになったというような話も聞きましたし、心なしかその後見た時、険しい形相にも見えました。

 ついでに書いておくと関係自体は続いていた東北陸運の塩釜本社のいつも丸刈りの人も、被告訴人本恒夫に対して強い憤りを憶えたらしく、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」と言ったそうです。私自身もその言葉を聞いたような気がするのですが、とにかく運転手の間では話題になっていました。

 東北陸運の仕事では石巻の営業所から荷物を積んで塩釜の本社に立ち寄るのが基本でした。生マグロなど塩釜で集荷された荷物もありましたが、苫東陸運が北海道からフェリーで持ってきた荷物を積み替えるのもいつのも仕事になっていました。

 塩釜の出発は早い時で午後1時半、午後2時ころが多かったと思いますが、荷物の積み込みはいつも事務所の高橋課長と坊主頭のスポーツマンタイプの若者の二人が中心的にやってくれて、バタバタと短時間で荷物を積み込んでくれました。なお、塩釜は練り製品も多かったです。

 前にも書きましたが、被告訴人本恒夫が運転手をやめて配車係の仕事をするようになったのは、藤村さんの長期入院がきっかけで昭和61年の12月ころのことです。ちょうどバブル景気の時代の波に乗れることが出来たのだと思いますが、被告訴人本恒夫はそれを実力と実際以上に過信したようです。

 休日もないぐらいで朝から夜遅くまで仕事をし、無理な配車をして運転手が拒否をすると、代わりにトラックに乗って自分が走るということも、少なからずたびたびやっていたようです。そういう頑張りが人一倍だったのも事実かと思いますが、ワンマンで反感を買うことも多かったようです。

 考えてみると私が長崎の長与のミカンを運んだのは昭和62年の暮れからのシーズンだけだったかもしれません。翌年63年の5月頃には熊本県の植木町の方に同じ日栄運送の仕事でスイカや茄子を積みに行った記憶があります。

 九州で日栄運送の帰り荷の仕事がなくなってからは、富山県富山市の池田運輸の仕事をするようになりました。こちらも現地の人が担当者になっていましたが、福岡県の高田町の農協がその中心になっていました。担当者の名前は忘れましたが、20代後半の若い人だったと思います。

 高田農協からもミカンを積んだと思いますが、そこからはかなり離れた佐賀県唐津市の農協からも何度かミカンを積んだことがあり、そこにも担当者の人は来ていました。

 そういえば始まった頃の市内配達の黄緑色の2トントラックには、日栄運送と書いたものもあったように思います。運転席の窓の後ろに書いてある縦書きの文字です。

 私は市場急配センターの大型車に乗務した頃、同じ位置に市場急配センターと書いてあるのが気に入らず、自分で消したら起こられるかな、と冗談で言ったところ。法律か何かで書いて置かなければならないことになっていると言われたことがありました。被告訴人東渡好信かもしれません。

 ついでに書いておくと、昭和59年の頃には上出という人がいて、ちょくちょく金沢市場輸送の事務所に顔を出していました。40代か50代だったと思いますが、現在の同年代とは10歳以上の見た感じの違いがあったとも思います。見た感じの年齢は当時のものです。

 「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」でも書いたように思いますが、念の為おさらいをしておきます。金沢市場輸送と市場急配センターの成り立ちを知る上で、気になる人物でもあるからです。

 上出さんはいかにも商人というタイプの人で、テレビドラマにもそんな役柄で出てきそうな人でした。挑発的な物言いでむかっとすることも少なからずあったのですが、向こうの方でもむかっとしたので、そういう態度になっていたのかもしれません。私も当時は19歳でした。

 私が2度目に入社をした昭和61年8月以降は、会社で姿を見ることはほとんどなくなっていたと思います。移転した二口町の事務所でも、一度だけ見かけたような気もするのですが、久しぶりに上出さんのことを思い出したということもあり、その部分ははっきりしない記憶になっています。

 時々姿を見かけたのは、「うまいもの会」とかいう展示会の仕事でした。加賀能登の物産展ですが、トナミ航空の仕事になっていました。昭和59年当時も同じ仕事がありましたが、金沢市場輸送の事務所が西念町にある頃は、会社前の中央市場の前の通りで、駐車し業者が持ってくる荷物を積んでいました。

 道路にトラックを駐車し、箱車の荷台で持ってくる荷物を積み込んでいたのですが、その都度積み込んでいくので、荷物を見る時間も長く、たいていは他の運転手が一緒だったので、雑談をしながら仕事をすることも多かったと思います。

 その頃から見かけていたように思いますが、ほとんどが同じような発泡スチロールの箱で「しのはら商店」とマジックで書いてある荷物がありました。他にも篠原商店と書いてあるシールがあったような気もしますが、大書きしてあるのは平仮名だったように思います。

 たぶん武田さんから聞いたのだと思うのですが、その「しのはら商店」というのは上出さんがやっている会社で商品は「いかめし」とのことでした。昭和59年当時は金沢市場輸送の株主と聞いていましたが、現在は株主ではなくなっているとも聞いたように思います。

 「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」にも書いたように思いますが、そのトナミ航空の展示会の仕事で、宮崎市のデパート、岩手県盛岡市のデパート、青森市のデパートで顔を合わせたように思います。今記憶に自信がなくなっているのは宮崎市のデパートだけです。

 特に印象に強かったのは盛岡市のデパートでした。これは引き揚げの荷物でしたが、そのまま私を春日部市のデパートに行かそうとしたからです。いきなりのことで驚くとともに、やはり尋常ではない強引な性格の持ち主かのかと思いました。

 青森市のデパートの時は嫌な印象もなかったですが、輪島のHMと二人で2台のトラックだったと記憶にあります。午後の比較的早い時間に青森のデパートを出たという記憶があります。あれが金沢市場輸送では最後の展示会の仕事だったような気もします。

 市場急配センターでも一度だけだったと思いますが、トナミ航空の展示会の仕事をやりました。正確には行きと引き揚げの2回でした。東京の池袋の三越デパートでした。

 平成4年1月12日の日曜日にトナミ航空で荷物を積んで翌日の朝に池袋で荷降ろしをしました。夜中に池袋には到着をしていましたが、このことは片山津温泉せきや、で行われた慰安会の直後だったので、すごくよく憶えています。

 池袋に向かうときの、北陸道の富山県の入善パーキングエリアから被害者AAさんの自宅に電話を掛けて、その時は11月の終わりからおよそ一月半ぶりにようやく彼女本人が電話に出たので、これも印象的によく憶えていることの一つです。

 池袋の三越デパートからの引き揚げは、1月の終わり頃のことでした。この時は山梨県の韮崎市の辺りで荷物をおろし、東京で一泊をしました。トラックは板橋の市場に停めて、巣鴨に遊びにゆき、カプセルホテルに泊まりました。電車に乗り中心部に行くつもりだったのですが嫌になって巣鴨に降りました。

 板橋の市場は、金沢の東京ストアというスーパーの仕事で一時期よく行った時期がありました。高島平の駅の近くです。板橋の市場を出てからは朝に長野県内から高原野菜を積み、その日の昼過ぎには松任市の旭工業団地の新しい配送センターで荷降ろしをしました。

 東京ストアの仕事も定期便で、初めは東京の秋葉原のすぐ近くの神田の市場で荷物を積んでいたのですが、大田市場が出来てからはそちらに移りました。ヤマリと丸一青果の2つから荷物を積んでいました。神田の市場の頃は、中央市場の近くの金石街道の側の古い倉庫に早朝に荷降ろしをしていました。

 東京ストアの定期便は基本的に三協アルミだったと思いますが、富山県高岡市からのアルミサッシの仕事と組み合わせになっていました。卸先は初め埼玉県桶川市だったのですが、茨城県水海道市の方に新しい配送センターが出来て、そちらに行くようになりました。

 東京には春のタケノコ、金沢港のスルメイカの時期の集中的に行くことがあり、九州の福岡の魚市場から鮮魚を運ぶ頃もありました。富山県の氷見港での堀安商店や新湊の山森運送から魚を運ぶこともありましたが、帰り荷の心配がなかったのは東京ストアだけです。

 被告訴人安田繁克の話に戻します。彼は西口君とほぼ同時に会社に入りました。既に書いたように西口くんの方は日野の新車の4トン車の持ち込みでしたが、しばらく仕事をしてから4トン車を購入したようにも思います。ちょうどフルモデルチェンジをした日野のトラックでした。

 確かそうだったと思うのですが、そうだとすると同じ日野のトラックでも大型車の方はずいぶんとモデルチェンジが遅れていたように思います。平成3年10月12日に私が新車で乗務した3068号も、基本的なモデルは昭和59年当時と同じものでした。昭和59年頃はドルフィンとも呼ばれていたはず。

 大幅なフルモデルチェンジになったのはイスズや三菱ふそうが先だったとも思いますが、日野の4トン車もけっこう早くフルモデルチェンジになっていたと思います。サイコロのようなかたちだった運転席が、他のメーカーと同じく縦長になっていました。

 西口君の場合、普通ならあり得ないことかと思いますが、山田さんの信用もあったのか、仕事を始めてすぐにその持ち込みの4トン車に乗務をしていました。大型車以外の持ち込みも彼だけでした。

 基本的に4トン車に乗務していたほうが大型車より免許の点数を失う可能性が高いと考えられていました。特に保冷車の場合、車重自体が重くなり、総重量になると正味2トンちょっとしか積載することが出来ないと言われていたからです。何を積んでも重要オーバーで捕まる可能性が高くなります。

 大型車でも重量を積むため車体の補強をすると車体の重量自体が重くなるという傾向がありました。金沢市場輸送の保冷車の車検上の最大積載量は9250キロだったと思いますが、検査の後に補強をしてごまかすこともあるので、それよりは少なく、安心できるのは8トンぐらいまでという話でした。

 大型車の場合はかさばっても重量はそれほどないという仕事もありましたが、冷凍物でも膝の高さで後ろまで積めば、ギリギリ8トンぐらいになるという話でした。

 西口君は被告訴人安田繁克と同じ年だと聞いたように思いますが、4トン車に乗務した頃はまだ大型免許を取得できない年齢だったと考えられます。被告訴人安田繁克の生年月日は供述調書に記載があるかと思いますが、記憶には残っていません。

 被告訴人安田繁克は高岡中学校と聞いていましたが、被害者AAさんは同級生だと聞いていました。被害者AAさんは8月生まれでしたが昭和45年生まれです。昭和39年11月生まれの私とは学年で6つ年下になります。

 被害者AAさんの場合、平成3年の8月の時点で誕生日を迎え21歳になっていました。平成1年の秋となるとそれよりおよそ2年前になるので、その時点では被告訴人安田繁克も西口君も19歳ぐらいだったということになりそうです。

 当然ですが2トン車の運転をするにも普通免許が必要で必然的に運転手をするのは18歳以上ということになります。ただ一人の例外は大野君という16歳の少年がいたのですが、これが私が長い間、なぜか勘違いをしていた堂野さんの愛人と呼ばれた女性の息子でした。

 私自身の大きな勘違いというのは被告訴人安田繁克のことを会社に入ってきた当初より、その堂野さんの愛人の息子だと思い込んでいたことです。正解は堂野さんをイワシの運搬の仕事で連れてきた松浦さんの愛人の息子ということでした。

 この間違いに私が気がついたのはずっと後のことで平成3年の春以降だったと思います。市場急配センターの仕事を始めて被告訴人安田敏から大野君が堂野さんの愛人の息子だと聞かされたのが、初めてだったといいう可能性が高く、他にそんな話を聞いた相手も思い当たりません。

 堂野さんのことは金沢市場輸送でも知らない人の方が多かったとも思えるぐらいなのですが、それは仕事上のことで、夕方になって金沢市場輸送に麻雀をしに来るメンバーとしては、顔は知られていたとは思います。それにしても会社に入ったばかりの被告訴人安田敏から堂野さんの名前を聞いた時は、

 少なからず違和感を憶えました。それは堂野さんと一緒に金沢港でイワシの運搬の仕事をしていたからのことで、基本的にイワシの運搬の仕事をしていれば金沢市場輸送の会社に顔を出す用事自体がほとんどなかったからです。特に堂野さんの場合は持ち込みで私のような社員の運転手ではなかったはずです。

 堂野さんがイワシの運搬の仕事をするようになったのは私の2回目のシーズンの途中からのことで、平成2年の1月かあるいは2月に入ってからのことかと思います。ワインレッド色のかなり小型に見える大型車のダンプに乗っていました。

 土砂積みのダンプとは違っていましたが、土砂積み禁止の一般的なチップ(木屑)を積むようなダンプとしては、ずいぶんと小型に見え、もともとは何を運ぶ目的で作られたダンプなのかと気になるほど、珍しくもありました。

 金沢市場輸送の2台のダンプもチップ(木屑)を専用で運ぶようなダンプに比べれば、一回り小型にも思えなくなかったですが、けっこう大型で、堂野さんのダンプと並べてみると1.5倍ぐらいの違いはあるように感じられました。

 そういうチップ(木屑)を専門に運ぶダンプは長距離の仕事をしていて、ちょくちょくと見かけていましたが、特に見かけることが多かったのは石巻港かと思います。日和大橋という有料道路があってその橋の先は漁港や水産の加工場でしたが、仙台から来た手前の方は木材置き場が沢山ありました。

 イワシの運搬で加工されるミールもそうですが、同じようなイワシの仕事の本場は石巻港でした。金沢では12月から3月ぐらいまでがイワシのシーズンでしたが、太平洋側の石巻港や北海道の釧路港の方ではそれとは違う時期がシーズンと聞いていました。

 「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」の方で書いたかと思いますが、北陸ハイミールは北海道の釧路市から来た会社でした。河北潟の近くに新しい工場を作りました。加工の処理ができるのは一日に千六百トンで、それは日本側最大とも聞いていました。

 北陸ハイミールが稼働したのは私の2回目のシーズンからではなかったかと思います。これでイワシの運搬の仕事の規模が倍以上になりました。北陸ハイミールは輪島市の輪島丸という船団をお抱えにし、北海道の根室から愛国運輸のダンプを引き連れて来ていました。

 愛国運輸という名前だと政治的なものとして勘違いされる向きもあるかと思いますが、私は個人的に昭和59年の7月、漁網を積んで根室市の花咲港まで行ったことがあり、釧路市内を越えた辺りで愛国という地名をみていたので、愛国というのは地名のことだと考えていました。

 紺色にオレンジ色のラインが入ったようなデザインだったような記憶も残っていますが、比較的地味にも見えるデザインだったので、右翼団体の関係と判断する人は多くはなかったかもしれません。10台まではいなかったよりも思いますが、8台ぐらいかそれに近い数はあったと思います。

 浜田漁業金沢工場の方は600トンぐらいの処理能力と聞いたように思いますが、積んだイワシの行き先としてはそう違いがなかったようにも思います。北陸ハイミールの方は一年目で機械の故障なども比較的多かったかもしれません。

 輪島丸は輪島市でも輪島崎の船団だと聞いていました。輪島港の方には滅多に行くことがないのでわかりませんが、冬場などは今でも小木港によく停泊しています。佐渡方面に漁に出るための待機だとも聞いています。

 愛国運輸のダンプも比較的小型でイワシの運搬に初めから特化されて作られたのだと思いましたが、堂野さんのダンプはそれより小さかったと思いますし、初めからイワシを運搬することを目的に設計されたダンプとはまず考えられないものでした。

 あるいはイワシの運搬をするために業者に探させたものかもしれず、全国的に手配をしたのであれば、もともとイワシの運搬の専用として作られたダンプという可能性もあるいはあったのかもしれません。当時はそこまで突っ込んで考えることはありませんでした。

 三菱ふそうの旧型のトラックだったと思います。サイコロのかたち似たタイプのもので、当時でも余り見ることのない旧型車になっていました。特に三菱ふそうの大型車は、イスズの方が早かったかもしれませんが、比較的早い時期からフルモデルチェンジになっていました。

 内浦町新保出身のKOが金沢市場輸送で乗務していたのも同じ三菱ふそうの新型の冷凍機付き保冷車の大型車でしたが、昭和61年の8月の時点で、珍しくはない新型車になっていました。

 大型車のメーカーは日野、三菱ふそう、イスズ、日産ディーゼルの4つでしたが、フルモデルチェンジがもっとも遅かったのは日産ディーゼルでした。

 金沢市場輸送で配車係もしていた元中西水産輸送の同僚のY村Kが金沢市示野町に都商事をやり始め、被告訴人安田繁克がその会社の日産ディーゼルの新車に乗って、中央市場の売り場に来ていたのですが、その時は珍しくて頼んで運転をさせてもらいました。平成3年の10月ぐらいのことです。

 市場急配センターでも平成4年の3月頃になって日産ディーゼルの新車が2台入りました。1月の時点で導入の話は進んでいたようです。その日産ディーゼルの新車に乗務したのは輪島の浜上さんと被告訴人HTNだったと思います。

 なお、ここで書いている堂野さんというのは、現在、市場急配センターの社長になっている可能性の高い人物のことです。

 運転手をしていたとこのこととして、記憶に残っている最後は、群馬県内の火薬工場のことでした。私もその時、石川製作所からの爆弾か魚雷の運んでいたのですが、堂野さんも金沢市場輸送のトラックで同じような荷物を持ってきていました。私が帰り際に姿を見たので会釈程度の挨拶だったとも思います。

 群馬県内の火薬工場には少なくとも2回は行っていて、堂野さんの姿を見たのが最後だったとも思います。時期は現在はっきりと思い出せませんが、爆弾や魚雷の仕事が多かったのは平成3年の10月か11月のことと思われ、金沢市場輸送でも同じ平成3年の春ぐらいによくありました。

 金沢市場輸送では青森県の八戸の基地にも行った憶えがありますが、宮城県の岩沼市の辺りの自衛隊の基地にも行ったことがあり、その時は輪島屋鮮冷の大型車とも一緒になって、話をした憶えがありますが、被告訴人安田敏から連絡がある少し前だったとも思います。

 イワシの運搬の仕事に戻しますが、イワシの運搬の仕事をしているときは社員の運転手でも会社に顔を出すような用事はほとんどなかったように思います。給料は一部出来高にもなっていたので、日報を出す必要はあったとは考えられますが、現場監督だったK林健一さんが全てやっていたのかもしれません。

 会社での用事はトラックの給油と洗車ぐらいだったとも思います。完全に腐って腐敗したイワシも普通に運搬していたのでトラックも半端無く汚れていましたが、通常では落ちない汚れだったので、苛性ソーダという薬品を使って洗車をしていました。

 改めて考えたのですが、ダンプが洗車をしていたという姿はほとんど見た憶えがありません。たまたま顔を合わすことがなかったということも可能性としては十分に考えられることですが、会社では松浦さんの姿を見ることもまれでした。

 イワシの運搬の仕事は全て漁船の漁獲の状況が最優先になっていました。近い時は金沢港から30分ほど出た金沢港の堤防が見えるような海でイワシが大量に獲れ、ピストン輸送のようになることもありましたし、京都府の舞鶴沖や新潟県の佐渡ヶ島の近くまで、鰯を探しに行くこともあると聞いていました。

 実際に舞鶴の港まで鰯を積みに行くこともありましたが、漁場が遠くなると金沢港に戻るだけで10時間以上時間がかかるとも聞いていました。そうなると次の仕事の時間の目安も立てやすくなるのですが、そうでもない時は常に待機のような状態でした。

 とにかくイワシが獲れる間はぶっ通しの作業になるという仕事でした。忙しい時は忙しく、暇なときは本当に時間を持て余していました。北陸ハイミールでは一度停止した機械を再稼働するだけで、80万円とかの燃料費が掛かるという話もあったぐらいです。

 堂野さんの愛人らしい女性のことですが、私はわりと早い段階からその人のことをしっていました。堂野さんに頼まれて保険に加入をしたからです。正直ずいぶんと不本意ではあったのですが、トントン拍子に話を進められました。

 それが大野君の母親である大野さんだったと思われますが、私よりも先に私の妻に接触をしたような様子もうかがわれました。生命保険の外交員だったらしく、保険会社の名前は大同生命という余り名前を聞かないような生命保険会社でもありました。

 保険の契約をした時は東力の私のアパートでやったのですが、堂野さんが私のアパートの前に自分の乗用車をとめ、ずっとその車の中で待っていたことも憶えています。何時頃かになると正確には思いだせませんが、初夏か秋の薄着の時期であったような気はします。

 もともと乗り気ではなかった生命保険だったので、何かの機会にすぐに解約をしたような憶えもあるのですが、それもいつ頃であったのか正確には思いだせません。それでも保険を掛けていた期間は長くはなかったような憶えもあり、一年にも満たなかったかもしれません。

 大野君の家は金沢市内の涌波にあるとも聞いていました。被告訴人安田敏が住んでいた花里とはすぐ近くでもあります。どこの高校だったか忘れましたが、同じ年の高校生を市場急配センターのアルバイトに紹介したらしく、そちらの少年の方を私はよく同乗させて市内配達の仕事をしていました。

 平成3年の高校が夏休みに入ったあとのことだったと思います。そのあとだったと思いますが、何度か大野君も同乗させて仕事をすることがありました。大野君は体が大柄で16歳には見えませんでしたが、一緒にいると同年代より幼く見えることもありました。

 ほとんどいつもの事だったと思いますが、イヤホンを付けて何か音楽を聴きながら作業もやっていました。市場急配センターでは注意するような人もいなかったようですが、普通にあり得ないのではないかと思いながら見ていました。

 そういえば、平成4年になった頃には大野君の姿を会社で見かけなくなっていたように思いますが、被告訴人安田敏からその後、市場急配センターで運転手をするようになったと聞いたように思います。だとすれば平成9年以降のことかと思います。

 堂野さんに関しては一度頼まれて自宅と思われる金沢市寺中町の場所に言われるままに車で送り届けたことがありました。中西水産輸送の事務所も同じ寺中町が住所になっていました。

 いずれにせよ、金沢市場輸送の会社で麻雀以外で堂野さんの姿を見ることは少なかったと思います。仕事があるときはK林健一さんがまめに連絡を入れることになっていたということも考えられます。彼も色々と気を遣ってストレスも感じているような様子でした。

 遠藤憲一という俳優がいますが、テレビでその姿を見る度に、当時の堂野さんと似ていると思うことがあります。顔の方もいくらか似ていたと思いますが、それ以上に体格が似ていたという印象です。

 ガッチリした大柄のスポーツマンという感じでもありますが、堂野さんは名古屋の方で暴力団組長のボディガードをしていたとも聞きました。被告訴人松平日出男が石川トヨタで横領をしたという話とも似て、姿を見るようになってすぐに聞いた話だと思いますが、誰に聞いたのかは思いだせません。

 一緒にイワシの運搬をしていて一緒にいることが多かったT林から聞いた可能性が最も高いかと思います。後から入ってきたということで初めのうちは少し気に悪く感じるほど低姿勢でもありましたが、その傾向は松浦さんにもありました。筋を通すような意味があったのではと思います。

 堂野さんはどちらかといえば苦手なタイプでもあったので、保険のことと頼まれて自宅に送ったことを除けば、会話をする機会もあまりなかったと思います。イワシの仕事を終わった後、どんな仕事をしているのかも聞いたことはありませんでした。運転手の間に話題になることもなかったかと思います。

 先ほども書いたところですが、市場急配センターで仕事をしていて最後に姿を見たのが、群馬県の火薬工場でのことでした。

 その後私は平成4年4月1日に被害者AAさんの事件を起し、自首出頭でそのまま金沢西警察署の留置場に入り、懲役4年の判決を受けて、福井刑務所を満期出所で出たのは平成9年1月18日のことでした。

 この項目では被告訴人安田繁克のことをメインで書いているので、平成10年11月20日頃、「労務の責任者として話を聞く必要がある」「カタワと結婚したいてか」と私に向かって言った堂野さんのことは、別の項目で書きたいと思います。

 先ほども書いたことですが、私は長い間、堂野さんの愛人の息子を被告訴人安田繁克と勘違いしていたようです。今夜改めて考えると、堂野さんと交際していた女性がその後、松浦さんと交際するようになったという可能性も否定は出来ないような気がしていましたが、そんな話を聞いたこともありません。

 松浦さんに関しては「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」において書いていると思いますが、金沢市場輸送で昭和62年の3月ぐらいから姿を見るようになったと思います。

 私が乗務したイスズの大型保冷車7599号は、その昭和62年の4月の20日ぐらいの納車ではなかったかと思いますが、同じイスズの新車で2台のダンプが入ったのは、それよりだいたい一月ほど前だったという記憶が残っているからです。

 普通の土砂積みのダンプの仕事をしていたとも初めに会った頃に聞いていましたが、仲間と思われる人が一緒でした。クセはありそうにも思えましたが、松浦さんとが違ってかなり大人しく見える人と一緒でした。

 一緒にいた人の名前は忘れましたが一緒に仕事をしたこともありました。当時は余り見かけることもなかった本格的なジープに乗っていたような憶えもあります。極端なことをいえば自衛隊の軍用にも見えなくはないようなジープでした。

 イワシの運搬の仕事は3月中にはほとんど終わっていたと考えられます。4月中にも少しはあると聞いていましたが、そういう時期になって試験的にダンプでイワシの運搬をやっていたようです。

 本格的なシーズンに入ったのはその昭和62年の12月からですが、その時にはジープに乗っていた人の姿はなく、松浦さんと同じダンプに乗務をしたのは長距離の大型保冷車の仕事をしていたのは○西さんでした。

 ○西さんの名前を伏せているのは最終的に被告訴人松平日出男にクビにされたとも聞く、息子のY君が少年院に入っていたというプライベートな事情があるからです。Y君は友人の3人で、市内配達の仕事をしながら、長距離の仕事を4トン車ですることもありました。

 Y君本人ではなく友人のU君の方だったような気もしますが、大阪かどこから積んできた荷物を降ろさないまま会社の駐車場に停めて連絡も入れずに家に帰ったという話を聞いたことがありました。3人は他にも色々と問題を起こしていたようです。

 父親の○西さんと一緒にイワシの運搬をやっていた頃かと思いますが、暴走族をやっていて少年院に送られたという話を聞き、何年かして出てきたところで市場急配センターの仕事をするようになったが、すぐに被告訴人松平日出男にクビにされたような話を聞きました。

 Y君が少年院から戻り再び市内配達の仕事をするようになったという話を聞いた時は、市場急配センターの事務所が平成4年当時と同じ二口町に移転していたので、私はY君の姿を見ることもありませんでした。

 数年ぶりにY君の姿を見て一緒に話をしたのは、平成3年の春頃のことで、私が父親の○西さんに守田水産輸送での中継の仕事を頼んでいた頃のことでした。その時、Y君も守田水産輸送の仕事をしていたように思いますが、彼は私が来ることを楽しみにしているように話していました。

 Y君が市内配達の仕事をするようになったのも昭和61年の秋だったと思います、私が8月の20日過ぎだったので、それほど変わりのない時期でもありました。山中温泉山乃湯の慰安会でも、その時点では彼の姿がありました。他の宿泊客とのトラブルもあったのでよく憶えています。

 その頃はまだ七尾市出身という白石君の姿もありました。彼は私の1つ年上と言っていました。8月に私が市内配達の仕事を始めた時点で、そこそこ古株のような感じにもなっていました。佐川急便の市内配達をしていたとも話していましたが、口で言うことの方が大きいという感じもしていました。

 その点は後に知り合った被告訴人多田敏明とも似たようなところがあると感じることがありましたが、白石君の場合は言うだけには仕事は出来そうな感じに見えました。

 白石君の姿は、金沢市場輸送の事務所が二口町に移転した頃にはなくなっていたように思います。これまで何度も二口町に移転と書いてありますが、市場急配センターの所在地と同様に、10年ほど前から住所は二口町ではなく駅西本町の一部になっているかと思います。

 Y君の友人のU君とは一緒に仕事をする機会も多く、長野県の飯田市からリンゴを積んで滋賀県の大津市の市場に運ぶという仕事をしたこともありました。路面の凍結が気になるような冬の時期だったと思います。

 他にも思い出に残っているのは年末に片町で忘年会が会った頃で、大型の平ボディ車に乗務していたHさんの姿もありました。巷では吉幾三の雪国という曲が流行していた時期でもありました。Y君ら3人の姿もあったと思います。

 ○西さんが2台のダンプの一台に乗務し、行動をともにすることが多くなり、ずいぶんと不思議に思えるぐらい飲食費をおごってもらったことも「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」には書いたと思います。

 それは1回目のイワシのシーズンのことでしたが、2回目のイワシのシーズンでも不思議なぐらい飲食費をおごってくれたのがT林でした。ここ最近もT林について、特集的な記述をしたかと思いますが、不完全なまま終わったかと思います。

 彼は蓄財をやめて再び飲み代に使うようになったのは、結婚まで予定していた蛸島の女性と別れたからのように話していました。実際に、それだけ傷心状態で、気晴らしに私を誘って飲み歩いていたのかもしれません。

 イワシの仕事が終わってまもなく彼は金沢市場輸送をやめていたと思います。その後、ピアノ輸送という会社で大型トラックに乗るようになったとも聞きましたが、そのピアノ輸送は輪島のMYも働いたという話を聞いていました。

 どちらもずいぶんと仲良くやっていました。合わないと思いながらもどこかで気の合うところがあったのかと思います。

 T林の姿を最後に見たのは彼が新幸こと新田商店で社員として仕事をしている姿でした。夜中の中央市場でその姿を見たのです。少し言葉も交わしました。あれは平成3年の春になるのではと思います。鮮魚の売り場に近い、裏の道路に近い辺りでのことでした。

 金沢市場輸送の長距離の仕事で、若者で能登以外の人で長くいたのもT林だけだったと思います。市場の仕事で保冷車ということできついというイメージでもあったのか、新入の社員というのも殆どに近くありませんでした。例外もありましたが、すぐに姿がなくなりました。

 彼は蛸島のTSさんとも親しみを感じていたのか、なにか楽しそうに話をすることもありました。入社の時期が昭和61年の12月ころでほとんど同じだったということもあるのかもしれません。

 未だに気になるのは、T林の口から聞いたと思われる。蛸島のTSさんが松波港の岸壁で3回ほどぐるぐると回ってから海に飛び込んだという話です。先日、松波の人形キリコ祭りで、松波の港に行った時に改めて考えたことでもありますが、別の機会に書きたいと思います。

 七尾の白石君がいた頃は、石川日通の社員として田村君の姿もありました。当時は派遣というものがそもそもなかったと思うので、その会社で働く全てはその会社の社員であったと思います。

 田村くんは私より一つ年下であったように思いますが、家が金沢市内の小立野だと聞いていました。小立野は金沢少年鑑別所があった場所でもあるので、私には感慨深い場所でもあり、市内配達の片町・小立野コースでもありました。

 大久保君という運転手も金沢市場輸送にはいたのですが、彼は田村君よりは後に市内配達の仕事を金沢市場輸送の社員としてするようになり、田村君の後輩とも聞いたように思います。その大久保くんは金沢市場輸送の事務所が二口町に移転してからも姿を見ていました。

 その金沢市場輸送の事務所が二口町に移転してからよく姿を見るようになったという印象があるのが、笹田君と峰田君の二人でした。「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」はS田とかM田と表記していたように思います。

 笹田君は被告訴人OKNとの間で、車の売買のことでトラブルになった人物でもあり、私が確か50万円で、被告訴人OKNから買った、平成4年4月1日の事件の証拠物として押収されたアルトワークスの元の所有者でもありました。

 「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」では書いていると思いますが、被告訴人OKNと被告訴人安田繁克の間にはポンコツのBMWを巡って、これも車の売買のやりとりがあり、被告訴人OKNは被害者AAさんと思われるような彼女を同伴していたことも私に話していました。

 「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」では書いたと思いますが、笹田君と峰田君という男としては珍しくも見えた仲良しコンビのことは、守田水産輸送の松ちゃんと呼ばれた最年長の運転手の人からも石巻の魚市場の前ので、息子の友人の話として聞いたように思います。

 また、この二人はその後、姫のNKさんや宇出津のK村さんの市内配達の仲間として仕事をするようになったと聞きます。平成3年12月の28日頃にも被告訴人HTNと一緒に行った諸江の焼肉店にその姿がありました。今はっきり思い出せるのは峰田君の姿だけです。

 この笹田君と峰田君という二人のことについて改めて重要と考えたのは、その二人あるいはそのどちらかの紹介で市場急配センターの事務員をするようになったのが被害者AAさんだと聞いたからです。これは比較的早い段階で耳にした話で、平成3年中だったと思います。

 この二人は大久保君とも付き合いがあったらしく、たまたまになるかと思いますが、その友人関係の間で彼女の交換をしたとか、当時の私の世代の常識では考えられない感覚のような話を耳にしたこともありました。

 伝聞だったので真偽の程もわかりませんし、なにか随分とわかりづらい曖昧な話のような印象も話を聞いた時に感じたことを憶えています。平成3年中に被告訴人多田敏明から吹きこまれた話であったのかもしれせん。金沢市場輸送の運転手の間で笹田君とかの名前が出ることもあり得ないことです。

 笹田君と峰田君の二人は夕方の暗くなった時間に、金沢市場輸送の休憩室でテレビを見ていることもあり、仕事が終わるとすぐに家に帰るような他の若い運転手とは、一風違った印象も持っていました。そんな時に、少しですが、言葉を交わしたこともあったかと思います。

 被害者AAさんの市場急配センターの入社については、被告訴人松平日出男から職安の募集で来たように思うと聞いたように思いますが、それは事件を起こした後の面会の時であったようにも思います。

 被告訴人多田敏明と一緒にいた西口君の話では、友達に付き添いをさせて面接に期待たという話を聞かされました。会社の面接に無関係の友人を連れてくるなど、当時でもあり得ない話だと感じましたし、それは現在でも同じではないかと思います。

 それもあって西口君の言動の方が何か目的や指示があったのかと怪しく思えるところです。その話を聞いたのは平成4年3月の15日頃のことでした。昭和61年の9月頃にも同じ年の12月頃にも行ったことのある北安江の焼肉店でのことでした。

 9月ころと言うのは私が市内配達の仕事を初めて間もない頃のことで、12月お思われる時期のことは、被告訴人本恒夫と蛸島のTSさんの3人で行った時のことです。

 西口君に関しては、その平成4年3月のことより、平成3年11月26日の夕方のことの方が印象に強く残っています。これもまた別の機会に書きたいと思いますが、被害者AAさんの親友である諸江のKさんのことを、車を見ながら面接に一緒に来ていたと、その時にも話していたかもしれません。

 「いかにも今時の娘やな、と思っていた。」と話し、市場急配センターの階段でパンツが見えたとからかった被告訴人安田繁克に対して、「銭とるろぉ!」とすごんだというのも西口君の話でした。

 これは被告訴人HTNの「鬼のような女やな、お前、あの女の顔見とって普通の女じゃないがわからんか? きっかん顔しとるやろがい。好きになれん。」と私に申し向けた状況とも似たところの感じられるもので、意図的に被害者AAさんのイメージを印象づけたとも考えられるところです。

 平成1年の秋のことから説明します。被告訴人安田繁克のことはうわさ話が先行していました。その頃、私は北都運輸の専属でマヨネーズやドレッシング、ジャムの市内配達をやったいたことで、金沢市場輸送の会社にいることが少ない時期でもありました。

 そういうこともあって、私にとって被告訴人安田繁克というのはうわさ話だけの存在で、それらしい若者の姿を会社で見ることもありませんでした。被告訴人安田繁克は体がけっこう大きく目立つ存在だったので、ちょっとでも見かけていればすぐに気がついたはずです。

 はっきりと被告訴人安田繁克の顔と存在を知ったのは平成3年の1月以降になってからのようにも思えるぐらいです。印象に残っているのはその1月か、あるいは2月の頃で、金沢市場輸送の駐車場で彼が2トントラックを雪でスリップさせているのを見かけたことです。

 ちょっとだけ言葉を交わしたのもその時が初めてだったと思います。私が運転を代わって雪でスリップしていたところから抜け出させてあげたのです。その時点では初対面ではなかったとも思いますが、初めに姿を見かけてから半年は経っていなかったように思います。

 その時点では名前も全く知りませんでした。被告訴人安田繁克という名前を知ったのは、私が市場急配センターで市内配達の仕事をするようになってからのことですが、被告訴人安田敏と同じ安田という名前なので、能登と金沢の違いもあるのに、妙な縁だと感じていました。

 被告訴人安田繁克のことはずっと後になって注目することになったので、余り真剣に話も聞いておらず正確な記憶も出来てはいないのですが、彼と思われる具体的な存在のことは、意外なことに被告訴人OKNから聞いたように思います。

 あるいは被告訴人HTNから話を聞いていたのかもしれません。安田という名前はまずしらなかったので、どのような言葉で被告訴人安田繁克のことを指していたのかも気になるところですが、輪島の運転手仲間から彼の話を聞くことはまずなかったと思います。

 武田さんなどの金沢市場輸送の年配の運転手から聞くような話ではありませんでした。なぜなら被告訴人OKNとの間の車の売買の話だったからです。

 武田さんは昭和59年に被告訴人OKNと一緒に仕事をしたこともあるはずですが、覚えていない可能性が高く、他の宇出津の私の知り合いの以前金沢市場輸送で働いた運転手のことが話題になることもありませんでした。

 書いているうちに思い出したことですが、片山津温泉ホテル長山、での慰安会の時、市場急配センターにいた姫のNKさん、珠洲市大谷のYSさんが、金沢市場輸送の輪島の運転手とケンカになったということがあり、その時に被告訴人安田繁克も市場急配センターの側で加勢していたという話です。

 これは平成2年の6月の終わり頃のことであったと思います。山中温泉山乃湯の時も同じでしたが、金沢港のスルメイカの仕事も一段落したタイミングでの慰安会という感じでした。

 ホテル長山でのことは「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」でも書いたと思いますし、本書に収録予定のorg-modeのファイルにも数カ月前になりますが書いたように思います。

 私が部屋で寝ていたところ、22時半か23時頃に輪島の連中に起こされ、急かされて一緒に車に乗り、そのまま金沢に帰ってきたのです。その場には普段それほど付き合いのない内浦町新保出身のKOもいました。

 会社では普通に話をしていましたが、仕事以外の付き合いはないという感じでした。そういうこともあってその場にKOの姿があったことは意外でもあったのですが、彼も金沢市場輸送の側として市場急配センターと対立したような話になっていました。

 当日のことは余り憶えていないのですが、宴会場のようなところで普通に食事をしてから、ラウンジというのでしょうか。皆でそういうソファーがあって酒を飲むような雰囲気のある店に行って、その場のことはちょっとだけ記憶にあるのですが、すぐに抜けだして部屋に戻ったのです。

 酒が回って眠くなったのです。仕事の疲れたたまり睡眠不足だったかもしれません。もともと私が酒といってもほとんどがビールでしたが、それを自主的に飲むようになったのは金沢市場輸送で大型車に乗務してからのことで、睡眠薬代わりのような目的で飲むようになりました。

 金沢に戻ってからは30分からあるいは1時間以上は、金沢市場輸送の給油機の前辺りに集まって話をしていました。その時に市場急配センターとの間でケンカになったという話を聞かされたのです。

 全部で6人ぐらいいたように思います。Kはまだ会社に入っていない時期だったとも思います。MYの姿もなかったはずかと思います。T林も同じことを言っていたことがあったと思いますが、会社の慰安会のような集まりには絶対に参加しない性分だということです。

 それから8号線バイパスの東インターの方にある、くるまやラーメン、に行って、ラーメンを食べました。

 その時も気になったことですが、話を聞いているとケンカでも乱闘になったような聞こえ方でもあったのに、誰一人怪我をした様子はなかったことです。擦り傷一つあるようには思えませんでした。外は薄暗さがあり、顔をまじまじと見回した訳ではないことを考慮に入れても、不思議に思えました。

 また、その時点では被告訴人HTNは市場急配センターの仕事をしていなかったとも思います。会社の仕事をしていれば慰安会に参加しなかった理由も気になるし、それ以前に、もし被告訴人HTNがいたならもっと面倒なことに発展したのではと想像したこともあったからです。

 被害者AAさんは参加していませんでした。金沢市場輸送の方には毎日のように午前中の決まった時間にだけパソコンのデータ入力の仕事に来ていたので、会社の社員なのか、それとも中央市場の事務員が仕事に来ているのかと気になっていたので、このことはよく憶えています。

 被害者AAさんが市場急配センターの事務員であるということは知りませんでした。それがわかったのは、輪島のYAの保険の事故処理の話の付き合いで、初めて市場急配センターの2階事務所に入った時のことで、その場で机に座って仕事をする姿を見たのです。

 それは平成3年の3月か4月のことであったと思います。季節は春という感じになっていたという印象が残っています。

 姫のNKさんと珠洲市大谷のYSもそうですが、その場にいた私と輪島崎のO以外は、内浦町新保のKOを含め、全員が小木港の遠洋漁業の経験者という特徴もありました。

 もともと能登では地元同士の縄張り意識のようなものも昔はあって、因縁めいたものもあったのだと思いますが、その後はぱったりとホテル長山でもめた話を聞かなくなり、まさに一夜限りの話という感じでした。

 日頃からくすぶっていたものが酒の席で表面に出たのかとも考えましたが、揉めた時、市場急配センターと金沢市場輸送の双方から、広野を呼んでこいとか、連れて来いという話を聞かされたので、私としても寝ていた間のことで、その場のことはわからず、ずっと引っかかりのあるものになりました。

 山中温泉山乃湯での慰安会の時のK林健一さんは、宴会というか夕食にも参加せずに部屋で寝ていたような感じでしたが、私の場合はそういうことはなかったはずです。

 本当にぼんやりとした記憶の場面になっているのですが、食事に先立って被告訴人松平日出男が演説のような話をしていたという記憶も残っています。何人ぐらい集まっていたのかも正確には思いだせませんが、50人以上ということはなかったのではないかと思います。

 だとすればその場で被告訴人安田繁克の姿を見ていたということにもなりそうですが、特に意識をしたという記憶もありません。ケンカに張り切って参加をしたという話を後になって誰かから聞きましたが、その時もなにか違和感は感じていました。

 特に被告訴人安田繁克の場合、人によって相手によって見せる顔や態度が違うという感じではありましたが、どちらかといえば大人しくもあり、金沢では珍しいぐらい先輩後輩の関係の教育も受けているような、日頃の接し方や態度があったからです。

 昭和の時代の能登というのは地域的な遅れもあったのかもしれませんが、昔の軍国教育のような風潮も残っていて、中学生の頃から先輩後輩の関係は言葉遣いや挨拶を含めて、なかなか厳しいものがありました。

 金沢に出て金沢の同世代に話を聞くと、そういうことは全くないと言われ、実際にそういう感じだったので、被告訴人安田繁克と初めに話をした頃は、ちょっと違うという印象を受けました。

 もっとも被告訴人安田繁克の場合は、暴力団の組員をしていたともいい、自分で暴走族のリーダーをしていたとも言っていたので、そのような人間関係の中で、培われた処世術のようなものもあったのかもしれません。

 私がもっと気になったのは2つ後輩であるはずの被告訴人多田敏明との関係でした。被告訴人安田繁克はかなり大柄な体型であるのに対して、被告訴人多田敏明の方はかなり小柄な体型でもありました。

 被告訴人安田繁克は金沢市内の東力に家があり、被告訴人多田敏明は間明町に家があって、どちらも「たかちゅう、こと高岡中学校」の出身だと聞いていました。私の東力の二丁目のアパートに住んでいたので、その辺りの地理的なことはよくわかっていました。

 体格的な違いもありますが、先輩後輩の関係が逆なのに、被告訴人安田繁克の方が被告訴人多田敏明の方に気を遣っているように見えることがあり、被告訴人多田敏明の方は大げさに言えば、ふんぞり返っているように見えることもありました。

 なにか親戚関係があって、被告訴人多田敏明の方が優位に立つ事情でもあるのかと考えたこともあるぐらいですが、テレビドラマに出てくるような不思議な人間関係のようにも思えました。

 被告訴人多田敏明のことは平成4年2月の20日過ぎの、イヨカンを積んで新潟県の六日町と中条の市場に行った時のこと、を中心に書こうかと考えているのですが、市場急配センターの新しい社屋が出来るまでは、全く姿を見た覚えのない運転手でした。

 被告訴人安田繁克のことですが、被告訴人OKNとの間で車の売買を進めているという話を聞いていましたが、笹田君の時とは違い、直接、被告訴人OKNから話を聞いたという覚えもあまりないのです。

 車の話は余りうまく進展していないようなことも耳に入っていましたが、なにか中古のBMWを探しているような話も私の耳に入っていました。

 そんなあるの日のこと、いつものように大型車で金沢市場輸送に戻ってきて、給油所のある方にトラックをゆっくりと走らせていました。これもいつものことですが、ただ、午前中の比較的早い時間帯だったと思うので、それは仕事の内容上、多少珍しいことではありました。

 金沢市場輸送の駐車場にとまっている乗用車の数がずいぶん多いなと思いながら、大型トラックの運転席から外を眺めていたのですが、そこにずいぶんとポンコツに見えるBMWが一台混じっていることに気が付きました。

 昭和40年代の終わりか昭和50年代の初めの頃になるかと思いますが、宇出津の町の玩具屋で、見たか買ったことのあるプラモデルのBMWと同じ型に見えました。スーパーカーブームというのがあった頃とも思いますが、サーキットの狼という漫画もありました。

 Googleで「サーキットの狼 BMW」と検索をしたら画像の結果として、それらしいものがぞろぞろと出てきました。1970年代ということにもなるのかと思います。私はちょうど小学校の高学年の頃でした。

 ずいぶんと懐かしい車にも見えたのですが、遠目にもずいぶんなポンコツ状態に見えました。能登の海で使わなくなった古いボートなどが野ざらしの状態で放置されてる光景がよくありますが、それに似たような感じで、得もい得ぬ衝撃を受けたぐらいです。

 塗装の状態の問題だったのだと思いますが、普通の車の塗装とはまるで違って見えたので、そういう異様な印象を受けたのかもしれません。実際はそれほどのポンコツでもなかったのかもしれませんが、あとで近づいてマジマジと見たような記憶もありません。

 これが被告訴人OKNと市場急配センターの若い市内配達の運転手との間で売買になった車なのかと、思った程度でした。ただ、その後同じクルマを金沢市場輸送で見た覚えはないので、試乗か何かでとどまり売買は成立しなかったのかもしれません。

 乗用車の数もずいぶんと多く感じていたので、市場急配センターの新社屋が出来て移転する前のことであったと思います。

 金沢市場輸送の長距離の仕事というのは夜中から朝方まで仕事をしていることが多く、早くても昼過ぎの出社で、夕方近くになってからというのも雑貨の定期便の場合、よくあったことです。

 一方で、午前中に金沢市場輸送の会社にいることが割と多かったという記憶もあります。というのも被害者AAさんの姿を見かけるのは、ほとんど午前中に限られていたという気がするからです。

 この法則は私が市場急配センターに移って、長距離の仕事をするようになっても続いたと思います。逆に午後に出かけることが多くなり、16時頃に戻ってくる時期もあったという記憶もあるのですが、平成4年の2月の初め以降は、私のいない時間に合わせて出かけているように見えるようになりました。

2015-07-31 金曜日 11:24 << [[ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]<<


2015-07-31 金曜日 11:26 >> [[ ←これからの記述範囲の開始時刻]]>>

 被告訴人OKNの車の売買のことですが、思い出したことがあるので書いておきたいと思います。まず私が乗っていた車ですが、赤色のホンダのプレリュードでした。マニュアル車です。

 昭和62年の4月に金沢市場輸送で大型保冷車に乗務した頃は、まだ、茶色のポンコツの車に乗っていました。被告訴人安田敏の誘いで岐阜の行く前、たしか15万円で買ったもので、スプリンターという名前だったかもしれません。

 赤色のプレリュードにもけっこう長い間乗っていたように思いますが、突然故障して動かなくなってしまいました。ミッションが壊れたように思います。

 被告訴人OKNに相談したところ、ちょうど彼が乗っていたアルトワークスという軽四を50万円で売ってくれるというので、それを買うことにしました。

 赤色のプレリュードの方は、修理代もずいぶんとかかるような話だったので、無料で彼に引き取ってもらうことになりました。

 ちょうどその頃だったと思うのですが、守田水産輸送の方で宇出津のTという人が長距離の大型車に乗務していました。仕事で一緒になって少し話をしたようなこともあったのですが、被告訴人OKNの話を聞かなければ宇出津の人というのも知らずにいたように思います。

 細かい話は忘れましたが、たぶん私が乗っていた赤色のプレリュードを修理して、そのTさんに売るようなことを言っていたように思います。結局、その売買はうまくいかなかったようですが、相手の人間性に問題のあるようなことをあげつらい不満をぶつけていました。

 その宇出津のTさんという人は、私達よりかなり年上で水産高校の相撲部の選手として活躍したと聞きました。確かにその名前で活躍した人の名前だけは知っていたのですが、実際に見ていたTさんはがっきりしているものの割と小柄だったので、どうなのかなとは思っていました。

 というのも私が該当すると考えた人は、水産高校が金沢の卯辰山の全国大会で優勝した時のメンバーだったからです。前にネットで調べていると情報が出てきましたが、昭和49年か50年度の大会の優勝校になっていたと思います。

 その2年後ぐらいに水産高校が同じ大会で準優勝になったのですが、その時私は能都中学校の1年生で、水産高校の相撲部に練習に行っていて、卯辰山の相撲大会も1つ年上のHMさんと見に行っていました。

 また、その私が中1の時、水産高校の相撲部で1年生だったのが珠洲市大谷のYSさんです。YSさんは姫のNKさんらより、一月か二月ぐらいあとになって、金沢市場輸送で同じように市内配達の仕事を持ち込みでするようになっていました。

 はじめのうちはポンコツの2トントラックに乗っていましたが、半年ぐらいかすると新車の箱車を購入しそれに乗るようになっていました。

 昨日に書いたところかと思いますが、片山津温泉長山の慰安会があった時点では、被告訴人HTNの姿はなく、それから少しして入ったのだと思いますが、彼はYSさんとよく似た新車の2トン車を、初めから購入して乗務するようになっていたと思います。

 「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」では書いたように思いますが、姫のNKさんと大谷のYSさんは、平成3年の3月ころになって、市場急配センターの仕事をやめて、独立した仕事をするようになったという話でした。

 宇出津のK村さんも一緒だったと思いますが、たぶん「ひまわりチェーン」の配送の仕事をしているようでした。金沢港に配送センターのようなところがあって、私は北都運輸の仕事をしていた頃に配達をするようなこともあったのですが、被告訴人OKNの引っ越しのときのことが大きいです。

 どこかで書いたと思いますが、笹田君と峰田君も彼らと同じ仕事をするようになったらしく、市場急配センターの市内配達中に姿を見たことがありました。

 金沢市場輸送と守田水産輸送は西念町の同じテナントビルの2階に事務所があったという関係もありますが、守田水産輸送の社長の弟か兄という人が、金沢市場輸送の事務所によく顔を出すようになり、そのうち守田水産輸送の青森定期便を金沢市場輸送の東北便と合わせて一緒にやるようになりました。

 昭和62年の秋から始めたように思いますが、ちょうど一年間ぐらい続いたと思います。守田水産輸送がもともとやっていた鮮魚の秋田、青森の定期便です。以前は青森で荷降ろしをしたあと陸奥湾の方からホタテを積んで、それを九州まで持って行って、青果物を積んで帰るパターンと聞いていました。

 金沢市場輸送の事務所が二口町に移転してからもしばらくは仕事の関係が続き、守田水産輸送のトラックが金沢市場輸送に給油に来ていたほどでしたが、被告訴人本恒夫との仲がこじれたらしく、ぱたりと仕事のやりとりがなくなりました。

 既に書いているし、「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」の方が細かく書いてあると思いますが、宇出津のNという人も短い間だったと思いますが、守田水産輸送の大型車に乗務していました。

 被告訴人東渡好信を知る人としていくらか重要性も考えられるので、公益性を優先して名前を出しておきたいと思います。七田(ななだ)という名前の人でした。七田さんです。

 年は当時40代で前半だったと思いますが、ちょうど被告訴人東渡好信と同じぐらいかと思います。被告訴人東渡好信は平成3年の秋ごろの時点で、自称でしたが43か44歳と言っていたように思います。

 小木運送にいたという話も聞いていたように思います。年の近い人に同じ名前があったので話を聞いていると親戚と言っていました。家も比較て近所らしく、同じ小棚木だと言っていたように思います。

 既に書いたところですが、七田さんは城山運輸のトレーラーに乗って市場急配センターに顔を出し、休憩室で被告訴人東渡好信や輪島の濱上さんと話をしていました。平成4年の2月頃かと思っていましたが、3月中だったかもしれません。

 被告訴人東渡好信は平成4年に入ってから、けっこう長い間、精神疾患でも患ったような行動を見せるようになり、会社にも寄り付かなくなって、会社をやめるとも口にしているという話にもなっていました。

 思惑通り市場急配センターの配車係におさまったはずなのに、落ち着いた頃になって不可解な行動を見せるようになったのです。市場急配センターをやめて、なにか七尾の方で商売をやるというようなことも言っていると、聞いていたように思います。

 輪島の浜上さんは、そんな被告訴人東渡好信を心配している様子でした。一度、休憩室で被告訴人東渡好信の妻のことを取り上げて、鬼のような女だ、厳しすぎるから男がダメになる、というようなことを憤った様子で語っていました。

 被告訴人東渡好信に関しては、当時のこととして印象にある場面として、会社が休みの日でしたが、会社の前に自分のポンコツの乗用車をとめて洗車をしている姿がありました。たぶんそういう演技だったと思うのですが、首を傾げたくなるような様子に見えていました。

 細かいことは思いだせませんが、一週間から10日以上会社に姿を見せていない時に、休日に会社に来て洗車をしているというのもおかしな話ですし、それだけではない異様さを見せつけるような行動をやっていました。

 もう一つ、印象的に記憶に残っている場面は、これも休日の午後のことだったと思いますが、裏駐車場の一番奥の方で、被告訴人東渡好信の妻という中年女性に声を掛けられたことです。ずいぶん心配そうな様子でした。

 私自身、能登に生まれ育っていますが、七尾弁と思われる方言が強く、七尾から出て生活した経験が全くないのではとも思われました。中西運輸商の社長夫人とも似ていましたが、あの人は金沢に住んでいるのに、同じような能登弁を話していたので、言葉が染み付いていたのかもしれません。

 能登は車で10分ほど走ればかなり言葉が違ってきますし、世代でも人間関係でも使うことががけっこう違ってきます。能登に住んできたので、だいたいのことは見当もつくのですが、そうでない人には違いはわからないかと思います。ここ20年でも方言はずいぶん薄れたとも思います。

 被告訴人東渡好信がおかしな行動を見せるようになったのは、私と被告訴人安田敏の関係がおかしくなったのと時期が重なっていたとも思います。2月14日のことが決定的にもなりましたが、そのあたりも別のところで書く予定でいます。

 全体的な記憶が年々薄れているなと感じているところですが、七田さんが市場急配センターに顔を出したのと同じ頃、金沢市場輸送によく麻雀に来ていた元小木の漁師という人も、夕方の同じぐらいの時間に、市場急配センターの休憩室に来て、被告訴人東渡好信と輪島の浜上さんと話をしたことがあります。

 これは被告訴人安田繁克と関係のある話でした。小木の人は名前を聞く機会もなかったと思いますが、言葉を聞いているといかにも小木の人らしいという話し方をしていました。その時市場急配センターで姿を見たのはずいぶんと久しぶりに思いました。

 市場急配センターで姿を見たのも初めてでしたが、金沢市場輸送では一時期、よく麻雀に来ていました。被告訴人東渡好信らが入社をして比較的早い時期だったようにも思われ、平成2年の秋だったかもしれません。

 平成4年になってからは姿を見かけることはなかったかもしれません。そういう意味でもずいぶんと久しぶりに姿を見たと思ったのですが、その人がイワシの運搬の仕事をしているらしいことは、小耳に挟んで知っていたようにも思います。

 金沢市場輸送に麻雀に来ていた人には、市場急配センターの運転手らしい年配の人の姿もありましたが、仕事は無関係と思われる顔の人も何人かいました。

 ゼンゴとか呼ばれる人もいて、被告訴人松平日出男の知り合いのような話も聞いていたように思いますが、その人も一時期、イワシの運搬の仕事をしていたことがありました。短い間で、仕事にも慣れない感じで、なにか迷惑を掛けられたような覚えもあります。何かは思いだせません。

 ゼンゴという人がいたのは私の2回目のイワシのシーズンの後半だったと思うので、平成2年の1月か2月ころになるかと思います。あの人もしばらくしてからパタリと姿を見なくなったように思います。

 小木の人の話ですが、それほど身長が高くなかったので巨漢でもなかったですが、プロレスラーのような体型の人でした。初めに見た頃は、乱暴な感じで、いい表現が思いつきませんが、大げさに言えば被告訴人東渡好信を下僕のように扱っていました。

 どういう関係なのかと不思議にも思いましたが、よく知る関係であることは間違いなさそうでした。被告訴人東渡好信の方も頭が上がらないような接し方をしていましたが、よほど長い付き合いがないとああはならないとも思われました。

 なんとなくですが運転手という感じには見えずにいました。ただ、可能性としては運転手として知り合った関係というのが可能性としても最も高そうに思います。

 被告訴人東渡好信は七尾市の共栄運送のトラックにも乗っていたと話していました。七尾市の保冷車でよく見かけるのはこの共栄運送と小林運輸ぐらいでしたが、小林運輸の方はカニカマで有名なスギヨの専属の運送会社でした。

 金沢市場輸送では一時期、スギヨの仕事をすることもあったのですが、それは宮城県塩釜市の宮城陸上運送の仕事としてやっていたようです。七尾市のスギヨの工場に行って蒲鉾の商品を積むことが何回かありました。

 小さい運送会社は他にもあったとも思いますが、七尾市で鮮魚を運ぶようなトラックといえば共栄運送が大きく、トラックを見かけることも多かったので、七尾市のどのあたりに会社があるのかも知りませんでしたが、トラックの保有台数も多そうでした。

 七尾市というのは漁港というイメージはあまりないのですが、能登半島では一番大きな町であり、スーパーでも七尾港産とラベルのある魚は多いので、魚の仕事というのもそこそこ多かったのではと思います。

 蒲鉾工場は金沢の市場の近くにもありましたが、原料となるのはスケトウダラの冷凍なので、そういうのを東京や仙台の冷蔵庫から運んでくるという仕事もありました。

 最近はあまり行っていないのですが、一年半から2年ほど前になりますが、小木港にアジ釣りに行くと、決まって七尾の共栄運送の保冷車が停まっているということもありました。運送会社同士の付き合いもあるのかもしれません。

 七田さんの時と本当によく似たシュチュエーションだったのですが、夕方薄暗くなった頃の、休憩室には私と被告訴人東渡好信、輪島の浜上さんの3人の運転手以外は、ほとんど人の姿がないという状況でした。

 もう23年以上前の話にもなるので、細かいことまで思い出すのはこんなんですが、輪島の浜上さんが「金沢港で、若いあんちゃんに手鉤で追い掛け回されたらしいな。」という感じで声を掛けたのが、会話の切り出しだったと思います。

 被告訴人東渡好信の方も相槌を打つような感じで、「若いもんにはかなわん。もう年やし。」ってなことを言っていました。直接名前までは出していなかったと思いますが、被告訴人安田繁克以外にはありえないという感じで、いくらかわざとらしくも思えるような話しぶりをしていました。

 被告訴人安田繁克がイワシの運搬の仕事をしていることは知っていました。ダンプの持ち込みでの仕事です。そのダンプは平成3年の春頃には市場急配センターの裏駐車場で見かけていたように思います。

 日通の払い下げのダンプとも聞いた覚えがあり、「日本通運」とまでは書いてなかったと思いますが、キャビンという運転席の色が、そのままオレンジの日通の色になっていたような気もします。

 全体的に小型に見えるダンプでしたが、堂野さんが乗っていたダンプとは違い、荷台の長いダンプでした。ダンプにしては車高も低く感じたので、いったい何を運ぶために作られたダンプなのかと、見るたびに不思議に思えていました。全国を走っていても余り見ることのないタイプでした。

 市場急配センターの裏駐車場ではだいぶん前からそのダンプを見ていたようにも思います。ほとんど停めたままになっていました。被告訴人安田繁克が中古で買ったダンプということも誰かから聞いて知ってはいたと思います。

 その頃、私は被告訴人安田繁克のことをどのように認識していたのか、改めて気になるところですが、安田という名前は全く知らずにいました。

 手鉤というのは凶器にもなるような道具です。保冷車では魚の入った木箱や生マグロの入った大きな木箱を扱うのに必須の道具でしたが、イワシの運搬の仕事ではイワシに交じる目ぼしい魚を取るのに使っていました。他の用途はなかったと思います。

 私などは保冷車に乗務していた頃から持っていたので、それを使っていたように思いますが、おかずにする魚を探して家に持って帰るために、買って用意するものかとなると多少疑問にも思いますが、誰かからもらったという可能性はあるかもしれません。

 その前に、そもそも手鉤を振り回して人を追いかけたという話が半信半疑でした。被告訴人東渡好信が包丁を手にして外で被告訴人松平日出男を追いかけたという話と同じぐらい嘘くさいと思いました。白昼に包丁を手にして外に飛び出せば、それだけでも目撃者が仰天して大事になりそうです。

 なんであれ、被告訴人東渡好信と輪島の浜上さんの口からその話を聞いたことは確かな事実で、話し相手の小木の人も、参ったな、という感じで言葉は少なかったですが、事実を認めたような対応をしていました。

 この金沢港での手鉤の件が被告訴人安田繁克について話を聞いた最後だったとも思います。金沢港には行くこともなかったのでイワシの運搬の現場のことはわかりませんでしたが、北陸ハイミールでは、事務所横の台貫場で、イワシの運搬のトラックやダンプを見かけることはありました。

 被告訴人安田繁克のことより話に聞いて気になっていたのは、Y村Tの父親がイワシの運搬の仕事をしているという話でした。北陸ハイミールの台貫場で、それらしい人の姿を見たことはあったのですが、遠目だったので、顔の識別も出来ませんでした。

 これも平成3年の1月か2月のことかと考えていたのですが、よく考えてみると、Y村Tは平成2年の6月頃に配車係をしていた金沢市場輸送をやめているのです。なんでも独占するような被告訴人本恒夫の独善性に嫌気がさしてやめたような話でした。

 同じく配車係をしていた藤田さんがやめたのも同時だったと思います。藤田さんは津幡の方に会社がある協共運輸に行き、配車係になったと聞きます。

 平成4年2月の初めに、私が九州の福岡市にミールを積んでいったとき、帰り荷のことで繰り返し連絡を入れるように被告訴人松平日出男に指示を受けたのも、その協共運輸の九州の営業所でした。

 繰り返し電話を入れるように指示を受けたのですが、その度に中西運輸商時代の懐かしい人が電話に出ました。一人は名前を思い出せなくなりましたが、中西運輸商で運転手をしていた九州の人です。中西運輸商では古株になっていました。売上もトップクラスとか聞いたことがあるベテランです。

 聖徳太子の肖像画のようなあごひげをはやしていたようにも思います。大牟田市の人ではなかったかと思いますが、大牟田市とか久留米市の近辺の人が多かったのも中西運輸商の特徴で、運転手の大半は九州の人でした。

 もう一人電話に出て話をしたのは津山さんでした。津山という名前だったと思います。その人もY村Tと同じ頃に、中西運輸商で配車係をしていました。野々市町のマンションに一度遊びに行ったことがありました。

 同じ頃で冬だったと思いますが、松波のAKさんと一緒に珠洲市大谷のYSさんの住む野々市のマンションに遊びに行って鍋をごちそうになったことがあり、建物は違っていましたが、近くの場所にあるマンションだったという記憶があります。

 その後、津山さんとはひょんな場所で再会をしたことがありました。季節は春頃だったと思うのですが、川北町の辺りか寺井町の辺りの工場に、荷物を積みか降ろしに行った時に、作業員として仕事をしているような津山さんに出会って、少し話をしたのです。

 藤田さんとも電話で話をしたように思うのですが、これは記憶がはっきりしません。九州自動車道から繰り返し電話をしていた記憶が残っています。被告訴人松平日出男にしつこく協共運輸の荷物が出るのを待つように言われたのですが、私はそれを断って空車で金沢に帰ってきました。

 偶然にしてはちょっとおかしいと引っ掛かるものがあったようにも思います。前の晩からは佐賀県の鳥栖のトラックステーションに待機をしていたのですが、協共運輸に連絡を入れた頃には、何故か高速の九州自動車道に乗っていて、北九州の方に向かって走っていました。

 福岡市から北九州方面というのは帰りの荷物としては荷物を積んだこともほとんどなかったのですが、金沢にそのまま帰るという前提で高速に乗り、そのあとで被告訴人松平日出男から繰り返し、協共運輸に電話連絡を入れるように指示を受けたものと考えられます。

 市場急配センターの仕事で九州に行ったのもその時一回だけでした。同じ福岡行きのミールの仕事は、その頃、他にも何回かあったらしく、輪島屋鮮冷の保冷車がその仕事をしていたようです、北陸ハイミールでも輪島屋鮮冷の大型車を見かけていました。

 平成4年の2月頃のことですが、その頃には同じ北陸ハイミールで、協共運輸の大型車を見かけることもありました。大型のウィング車だったと思います。運転手の顔に見覚えがありました。本人に確認することはなかったですが、いくらか特徴のある人だったのでまず間違いないと思いました。

 棒手という珍しい名前の人でした。昭和59年の1月に私が初めて金沢市場輸送に入社した頃、運転免許の取り消し中で、しばらくの間、彼が同乗して指導を受けていたのです。飛鳥食堂の常連客でもあったようです。

 被告訴人OKNも彼のことは知っていました。何か彼のことで話をした記憶が残っています。被告訴人OKNが金沢市場輸送に入ったのは4月以降だったと思うので、考えてみると思っていたより長く棒手さんは金沢市場輸送にいたようです。

 藤田さんのことも「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」の方で詳しいことを書いたように思います。彼らの目的は中西運輸商から佐川急便の仕事を横取りすることでした。言葉は悪いかと思いますが、実態はそうなるかと思います。

 藤田さんとY村Kの二人は、かなり前からずっとそんな話をしていました。当初の目的は金沢市場輸送でそれを実現することでした。実際に6,7人ぐらいまとめて九州の運転手を連れてきたことがありました。

 12月で雪道が始まった頃だったという記憶もあります。初めは何人か保冷車にも乗務させて、東北便に行かせていました。私も一緒に走ったことがあったのですが、新潟県内の長岡市で、富山方面ではなく関越道の東京方面に向かおうとしたのを見た時は驚きました。

 二人の配車係がやめた時期のことを考えるとやめる前の年である平成元年の12月になるのかと、考えましたが、その頃は私自身、2回目のイワシの運搬の仕事を始めた頃で、保冷車の仕事をしていたとは考えにくいのですが、たまたま臨時で東北便に行っていたことは否定できません。

 その前の年となると昭和63年の12月ですが、その12月の20日過ぎに私は7599号での最後の運行をしていて、それが最後だったのか一つ前の運行だったのか特定は出来ませんが、Y村Kを同乗させて石巻に行きました。

 どこか夕方に富山県内で荷物を積んだような記憶も残っているのですが、石巻市の行き先はハローマックとかいう全国展開と思われるオモチャ屋でした。

 それよりいくらか前になりますが、金沢市の東警察署にも近い辺りで、荷物を積んで、高知県の高知市と宮城県の岩沼市に、玩具らしい荷物を運んだことがありました。どちらも新装開店直前か直後と思われるハローマックでした。

 ハローマックという名前であったかちょっと記憶に自信が持てなくなっていますが、金沢市内でも八日市の辺りに店が出来ていて、子供を連れて買い物に行ったこともありました。

 これまで石巻のハローマックにも玩具の商品を積んで行ったのだと考えていたのですが、富山から荷物を積んだ記憶がその場の風景とともにあり、だとすると建築資材のようなものを運んだという可能性もあるのかもしれません。

 Y村Kが金沢市場輸送に来て、まだ日の浅い時期だったと思います。入社も藤田さんとは同時ではなかったかもしれません。Y村Kは、彼の方から私に連絡を入れてきて、私の紹介のようなかたちでの入社になっていました。その前にオレンジ団地というところに行ったことも記憶にあります。

 いずれにせよY村Kが連れてきた九州の運転手がいたのも一時的で一月もしないうちにほとんどいなくなっていましたが、一人だけ残った運転手がいました。「いのくち」か「いぐち」という名前だったと思います。私より年は上だったと思いますが、若い人でした。

 その九州の人が、確か北九州で事故を起こし、相手のたちが悪かったらしく、保険のことでもずいぶんともめているというような話を聞きました。被告訴人松平日出男はその件も担当をしていたようです。

 私が市場急配センターで市内配達の仕事をするようになってからも、その北九州の事故のことで、電話でもめているようなことがあったような記憶が残っています。

 西口君も山口県の下関市の付近でいわゆる当たり屋のグループとトラブルになったような話をしていました。彼とはそれまでじっくりと話をするような機会もなかったように思うので、平成3年11月26日の夕方のことかとも思います。

 中西運輸商は大きな事故を繰り返し起こしたことなどから佐川急便から切られるという話が早くから出ていました。Y村Kと藤田さんはその後釜を狙っていたとも言えるかと思いますが、最終的には九州運送がやるようになったとも聞きました。

 現在は違っているかもしれませんが、全国展開の佐川急便という会社は市内の集荷や配達のみをやっていて、長距離の仕事は全部別の運送会社に任せているという話になっていました。

 九州運送もその一つでしたが、トラックのカラーは佐川急便と同じで、会社名だけが別に入っていました。そういう会社は他にもいろいろありましたが、九州方面では一番大きいと聞いていました。

 私が中西運輸商にいた頃は、広島県東広島市にある西日本運輸興業という会社の下請けとして北陸から広島・九州便をやっていましたが、その後、西日本運輸興業という会社は潰れて倒産したという話を聞きました。

 その本社には中西運輸商の社長に頼まれて、米俵を持っていったこともあったのですが、大きな会社でした。金沢の佐川急便には駐在員のような人も一人いましたが、言葉を聞いていると石川県の人のようでした。川田というような名前であったかもしれません。

 他に聞いた話だと、藤田さんが移った協共運輸では実際に佐川急便の九州便の仕事をするようになったようです。金沢の付近で九州運送のトラックを見かけるようにもなったので、独占ではなかったと思います。共同とも聞いたかもしれません。

 以前は北陸道で九州運送のトラックを見かけるようなこともなかったと思います。中西運輸商もそのうち潰れて倒産したか、七尾市の方でほそぼそとした仕事をするようになったような話も聞いたように思います。

 金沢から七尾市内に向かう国道沿いで、鹿島町の辺りだったかと思いますが、道路沿いの敷地に中西運輸商のトラックが何台かいつも停まっているような場所もありました。よく七尾市に仕事に行くようになった平成3年の秋以降のことかと思います。

 2,3日前に書いたかと思いますが、Y村Kの方は、その後、都商事として守田水産輸送の仕事をするようになっていました。

 金沢市内でもあまり行くような場所ではなかったのではっきり会社の場所や建物はわかりませんでしたが、示野に会社があるような話でした。それより前に広い道路が出来て、ちょっとした工業団地のようになっていることは知っていました。

 O西さんが現場の責任者のようになっていた守田水産輸送の中継の仕事も都商事という名前でやっていたようなので、複雑にも思えるのですが、実際の詳しい話というのは聞いていませんでした。質問すればわかったかもしれませんが、根掘り葉掘りと詮索するような気にもなれませんでした。

 守田水産輸送の社長に手形の裏書か保証人になってもらって、4,5台の大型車をまとめて新車で導入したような話も聞いたように思いますが、誰から聞いたのかとなるとそれも思い出せず、よくわからないうわさ話のような感じでもありました。

2015-07-31 金曜日 17:26 << [[ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]<<



2015-08-01 土曜日 13:39 >> [[ ←これからの記述範囲の開始時刻]]>>

 私がY村Kと最後にあったのは12月の10日より少し前の頃だったと思います。山形県寒河江市から積んできたリンゴの荷物を石川丸果で荷降ろししているときに顔を合わせ、荷降ろしが終わったあと、近くの食堂で一緒に食事をしたことを憶えています。

 市場急配センターの長距離の仕事では東北に行ったのもその時一度だけだったと思います。城西運輸のことで作成中の本書でも書いたように思いますが、羽咋市近郊の平鍛造とかいう会社から積み込んだ荷物を山形県の天童市の辺りに持って行きました。

 山形県内は石巻市や塩釜市、仙台市など宮城県への通過点としては何度も通っていましたが、山形市の近郊での荷降ろしというのは殆ど無く、タケノコで市場に行ったことが1,2回あった程度でした。

 山形県でも日本海沿いの酒田市や鶴岡市は、スルメイカとタケノコを運ぶことがあり、その5月から6月ぐらいの時期は集中して行くこともありました。

 金沢から宮城県というか仙台方面に向かうには、通常の場合新潟市内を越えて、時間帯にもよりますが40分から一時間ほど走った村上市の手前から、国道113号線に入って山形県南陽市に向かいます。南陽市では福島市から秋田市に向かう国道13号船に出て、山形市に向かいます。

 この東北便は金沢市場輸送の長距離の仕事では年間を通じて一番多い仕事だったと思います。冬のミカンの時期は九州方面の仕事が集中することもありましたが、東北便6,九州2,東京2,という10運行のパターンが平均的だったとも思います。

 今改めて考えてみると、あれほどよく行った山形県内も、あの寒河江市でリンゴを積んできたのが最後だったのだと思います。それに近い辺りには行くことがありました。被告訴人多田敏明のことで詳しく記述することを予定しているイヨカンを積んで新潟県内の2箇所の市場に行った時のことです。

 Y村Kにはその後会うこともなかったし、近況の話を聞くこともほとんどなかったように思うのですが、平成4年4月1日に事件を起こしたあと、一度だけ被告訴人安田敏が金沢西警察署に面会に来た時、彼のことを話していました。

 「お前の連れのあんちゃん」という風な言い方をしていました。都商事と言っていたか、守田の仕事をしている、と言ったか正確には記憶にないですが、それと特定するようなことを会話に交えていました。

 Y村Kは市場の近くで一人暮らしをしているとも聞いていたように思いますが、具体的にどの辺りに住んでいるということも聞いていたような聞いていなかったようなあやふやな記憶になっています。

 被告訴人HTNとは一緒に食事というか飲みに行くこともあると聞いたようにも思いますが、もしかすると近くに住んでいるという話もあったかもしれません。また、あの二人なら気が合って意気投合するかもしれないと、話を聞いた時はそう思いました。

 Y村Kは先日説明を書いたところの片山津温泉ホテル長山での慰安会の時には姿があり参加していたという記憶があります。その場で見たというよりは、そのすぐあとで、坂田さんと喧嘩になったとか喧嘩になりかけたという話を誰かから聞いたと思うのです。

 そういえば折り合いが悪く、合わないタイプだったかとその話を聞いた時に思いました。それとは別にT林の行きつけの店でも、なにかトラブルになったような話を聞いたので、それといくらか記憶が混同している可能性も少しですがあるのかもしれません。

 そのT林の行きつけの店というのは、中央市場から近いところで、以前は中央市場の方から来た片側2車線の道路が駅西50メートル道路にぶつかる突き当りの10階建てぐらいのマンションの一階にある店でした。

 昼は喫茶店で夜は酒を出す飲み屋のような店だと聞いていたように思いますが、私は一度店に入ったのかどうかも記憶が定かではなく、T林に連れられて一度は入ったように思うのですが、昼の喫茶店のような時間帯だったと思います。

 斜向かいには向歯科のあったマンションの交差点ですが、平成9年当時は既に十字路の大きな交差点になっていました。店の名前も記憶にはないですが、T林以外にもその店に行く金沢市場輸送の運転手は他にも何人かいたような話でした。

 被告訴人安田敏がY村Kのことを知ったのは、昭和61年の12月頃のことと思います。被告訴人KYNも同じようにY村Kとは顔を会わすことがありましたが、私の東力のアパートでの鉢合わせのような感じであったと思います。

 被告訴人KYNの方は昭和60年の12月か庄和61年の1月から2月の間に、顔を合わすことがあったように思います。私は昭和59年の12月の下旬から庄和61年の2月いっぱい、中西水産輸送にいて長距離の4トン車に乗務していました。

 4トン車でダンプの仕事をしながら夜に佐川急便のホーム作業のアルバイトに来ていたY村Kと、その時に知り合ったのです。彼は私の誘いもあって中西水産輸送に入社し、その後、配車係をするようになりました。

 その頃、私が中西水産輸送で運転手をやめる2,3ヶ月前だったと思いますが、昭和58年の秋に金沢市観音堂町の被告訴人安田敏のアパートで知り合った珠洲市三崎町のオジコこと干場さんが、再び中西水産輸送に入って運転手をするようになりました。

 オジコとは初めに知り合った頃に、彼がその時乗務をしていた中西水産輸送の4トン車に同乗して、山口県の小野田市から静岡県の清水市に行って、山梨県から長野県の松本市を通って、糸魚川市から金沢に帰ってくるという3泊4日ぐらいの運行をしたということがありました。

 オジコとは初対面でありましたが、名前などは昭和56年ころから何度か聞いて知っていました。中学校を出たあと、被告訴人OSNとはとても仲の良い関係だったとも聞いていたからです。

 オジコは私が1回目の金沢市場輸送の入社で昭和59年の1月頃に会社をやめる1,2ヶ月前にも、私の紹介のようなかたちで金沢市場輸送に入社して4トン保冷車に乗務していたということもありました。これは被告訴人OSNの入社時期とも重なるかと思います。

 その私がやめる前後には姫のNKさんも、同じく金沢市場輸送で4トン車の長距離をするようになったと聞いていましたが、けっこう長い間続けているように話を聞いていたと思います。1年ぐらいだったかもしれませんが、その後、野々市の運送会社に移ったとも聞きました。

 オジコはその後、輪島屋鮮冷と守田水産輸送の間を行き来していたようです。平成3年4月に再会をした被告訴人安田敏は、そのオジコの紹介で輪島屋鮮冷で4トン車に乗務していると言いました。

 被告訴人安田敏の方からいきなり連絡をしてきたのですが、その話を聞いた2,3日後だったかには、実際に輪島屋鮮冷の4トン車に乗って、金沢市場輸送に荷物の積み替えに来ていました。輪島屋鮮冷との間の荷物の積み替えは、その頃ちょくちょくやっていたことです。

 私がオジコと付き合いをするようになったのは被告訴人安田敏がきっかけのようなものでしたが、しばらくすると彼は金沢市黒田にアパートを借りてそこで生活をするようになりました。新築かそれに近い新しいアパートでした。

 引っ越しの時は、珠洲市三崎町の彼の実家まで一緒に行って軽四トラックに荷物を積んで運んだこともありました。まだ雪が降るような時期ではなかったという記憶もあるので、11月頃かと思います。

 その後、オジコとは余り会うこともなかったように思うのですが、彼はずっとその黒田のアパートに住み続けていました。

 一方のY村Kですが、知り合った頃は金沢市内でも石川郡野々市町(当時)に近い横川あたりだったと思いますが、ちょっと入り組んだ場所の借家に住んでいました。何回か遊びに行ったこともありましたが、少しすると引っ越ししたように思います。

 そこから直接の引っ越しだったのか正確には思いだせませんが、彼女と同棲をしていたY村Kは、黒田町のアパートの一階に住むようになりました。オジコのアパートは同じ道路沿いの並びで、すぐ近くのアパートだったと思います。

 アパートからは道路を挟んで向かい側になりますが、近くに確か「大島」という名前の喫茶店があって、Y村Kの彼女はそこで仕事をしているような話でした。その店も夜は酒を出す飲み屋になっていると聞いていましたが、昼にしか私は店に入ったことがありませんでした。

 その頃は私の妻もY村Kの彼女とは仲良くしていたようです。東力の私のアパートから黒田のアパートまでは、実際に歩いたことはなかったですが、歩いても10分ぐらいでいけそうな気もする距離でした。そういうことで妻から色々と話を聞くこともありました。

 黒田で住むアパートが近かったということもあるかと思いますが、気も合ったのかY村Kとオジコは、オジコが中西水産輸送に入ってすぐに仲良くなって付き合いもしていたようです。

 Y村Kが金沢市場輸送をやめて守田水産輸送の世話で仕事を始めたと聞いた時は、人間関係があったのことだろうとは思いましたが、オジコと結びつけて考えるようなことはなかったです。

 今改めて考えてみると、やはりO西さんの口利きという可能性が考えられますが、Y村Kは金沢市場輸送でも運転手はしておらず、配車係という名目で会社というか事務所にいる時間が長かったので、運転手同士以上に他の運転手と接する機会も多かったとは考えられます。

 Y村Kは金沢市場輸送で麻雀をおぼえて、麻雀仲間のメンバーにもなっていました。私は麻雀はやらなかったです。少しは興味を持って習ってみたことはあったのですが、とても覚えきれないと思ってやめました。性格的にも合わないとは思っていました。

 ○西さんも麻雀はやっていましたが、金沢市場輸送では余り見ていなかった気がするというか、金沢市場輸送の麻雀が本格的になった頃には、いなくなっていました。

 一回目のイワシのシーズンには麻雀荘に付き合うこともありましたが、○西さんは、そのイワシのシーズのあと、しばらくして金沢市場輸送をやめていていました。やめたのは平成1年の4月か5月、長くて6月ではないかと思われます。短い間だけ長距離の保冷車に復帰していたような。

 ○西さんは、その一回目のイワシのシーズンの頃、50歳になったと話していたように思います。被告訴人本恒夫より少し年上だったかもしれません。平成1年に50歳であれば、現在は77歳ぐらいになりそうです。これまでなんとなく思っていたよりは若い年齢です。

 Y村Kのことで気になるのは、父親が金沢港でイワシの運搬をしているという話でした。Y村Kの姉の旦那さんは岩沼さんという名前だったように思いますが、長い間、金沢市場輸送で大型車の平ボディでミールを専門に運んでいました。

 ほとんどが名古屋方面だったと思います。今改めて考えてみると、金沢市場輸送のカラーのトラックには乗務をしておらず、堂野さんのダンプと同じく自分でペイントしたような色のトラックに乗っていたように思います。

 岩沼さんのことも久しぶりに思い出したので、失われた部分の記憶とまだ眠っているかもしれない記憶もあるかと思いますが、金沢市場輸送の社員ではなく、持ち込みの運転手として独自の契約で仕事をしていたのかもしれません。

 どんなトラックに乗っていたのか思い出す努力をしたのですが、大型車の平ボディ車としては像が結びつかないので、あるいはトレーラーだったのかもしれません。朝に愛知県内の目的地に着くという計算で真夜中に出発しているとも聞いていました。

 けっこう長い間金沢市場輸送の仕事をしていたと思うとともに、姿を見ることは稀だったとも思います。言葉を交わした記憶というのも見つからないぐらいですが、本当に必要最低限しか会社に顔は出していなかったという気がします。

 声をかければ気さくに応じてくれそうな感じにも見えましたが、それ以前に姿を見ることも少なく、誰かと話しているという姿も思い浮かんでは来ません。社員ではなかったと考えればなるほどとも思えますし、社員であったとすれば特異で例外的な存在だったことになりそうです。

 改めて当時のことを色々と考えていると、もう24年以上も前のことになりますが、被告訴人安田繁克が買ったというイワシのダンプも、もとはY村Kの父親が乗務をしたダンプだったのかもしれないという気がしてきました。

 金沢市場輸送でイワシのダンプというのは2台だけでしたが、他は当初に導入された5台の平ボディがあって、それには専用のプールのようなものが積んでありました。被告訴人竹沢俊寿が考えぬいた上での特注品とも聞いたように思います。

 そのプールのようなイワシを運ぶ水槽は、和歌山県の田辺市の工場で作られたもので、私自身その工場まで行って、完成したトラックを引き取りに行ったことがありました。田舎の方のどこにでもありそうな工場でした。

 ダンプのように荷台が上に上がるはずもなく、完全に固定されていたので、積み荷のイワシは初めにバッタリを下ろした時に飛び出す分と、残りは全て前方に出て後方に勢い良くバックした時の急ブレーキで落としていました。こぼすと片付けも面倒だったので、効率も悪かったです。

 市場急配センターの事務所が出来た時期ですが、平成2年の4月頃になのではと思われます。「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」には書いたと思いますが、当初はただの駐車場のような状態でした。

 Y村Kと藤田さんの二人からその現場で話を聞いたような記憶になっているのですが、ここで中継の仕事をする予定だ、という話になっていました。話を聞いた時、私はあり得ないのではないかと思いました。既にほとんどの運送会社が中継の基盤を持っており、新規に参入出来ると思えなかったからです。

 その時私が思う浮かべたのは鮮魚のことだったと思いますが、守田水産輸送も中央市場の正面側で本格的な中継をやっていましたし、裏門の方でも山水運輸が大々的にやっていました。中央市場の敷地外ですが、隣接したウロコ運送でも中継を本格的にやっていました。

 藤田さんがなぜそんなあり得ないような話を言い出したのか不思議に思ったのですが、青果物の中継というのはほとんど頭になかったです。山三青果では福井分の中継をやっていましたが、他に青果物の中継というのは、ほとんどやった経験がなく、東京でも見たことがなかったからです。

 青果物は小口の荷物が少なく、箱もかさばるものが多かったということもあるかと思いますが、運賃そのものも鮮魚よりはずいぶんと安かったと考えられ、やはり青果物の中継というのはあり得ないことであったと思います。

 改めて考えると、その場でなぜ藤田さんがそういうことを決まった話のように言い出したのか、とても不思議に思えてきます。それはイワシの運搬のシーズンもほとんど終わりに近づいた頃で、使わなくなったトラックを、その市場急配センターの移転先となる駐車場に持って行って駐車していたのです。

 なにか朝方の早い時間に、3人でその場所にいたような記憶もあるのですが、なんだったのかと考えてしまいます。

 そうこうするうちにいつの間にか市場急配センターの事務所が出来ていました。工事現場の仮説事務所に毛が生えたようなものだったので、工事も早かったのだと思いますが、気がついた時は出来上がっていました。建設中の様子など全く目にしたおぼえがありません。

 もともと金沢市場輸送の仕事をしていても余り通りかかるような場所でもなかったのですが、近くのカナカンやイケウチなどの食品会社には東北便の練り製品を必ず降ろしに行っていたので、側を通りかかっていたとも思うのですが、夜中の暗い時間だったので気が付かずにいたのかもしれません。

 普通に考えて新しい事務所が完成するまでは、市場急配センターの社員は金沢市場輸送に乗用車を停めたり、伝票を出しに来ていたのだと思います。市場急配センターの市内配達のトラックには金沢市場輸送のカラーの古いものも混じっていましたが、中央市場の敷地内に停めてあるようなものもありました。

 移転する前の市場急配センターは、運転手の数では金沢市場輸送と同じ程度か、それ以上の数になっていたのではと考えられます。それがごっそりと移転すれば、雰囲気も変わりすぐに気がついていたと思いますが、事前に移転するような話が噂にもなっていなかったとすれば、それも不思議な話です。

 もっとも金沢市場輸送の長距離の運転手は市内配達の仕事など全く関心がなく眼中になかったということも考えられないことではないでしょう。私自身は市内配達の仕事をした経験もあり、能登の知り合いも何人かいたので、それなりの関心は常にもっていて、その方が例外的なだけだったとも言えそうです。

2015-08-01 土曜日 16:48 << [[ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]<<



2015-08-02 日曜日 04:02 >> [[ ←これからの記述範囲の開始時刻]]>>

 今改めてこの項目のタイトルを見ると「出会いから休憩室の会話まで」とか書いてありました。金曜日と土曜日の昼は宇出津の図書館で作業をやり、Twitterにも投稿をしていたのですが、金曜日の分は途中から全く投稿ができていなかったようです。

 今夜は21時から能登の和倉温泉と金沢市を舞台にした温泉おかみシリーズの2時間ドラマを見ていたのですが、いつの間にか眠っていたらしく目が覚めると2時30分ぐらいになっていました。

 被告訴人安田繁克のことですが、他との人間関係、仕事の内容など背景を含め、頭に考えていたことはけっこう取り出して文章にすることが出来たかと思います。わかりにくい点はあるかと思いますが、20年以上も前のことを思い出しながら、適切な表現を探して書くというのもしんどい作業です。

 どうもこの項目では2月1日の夜の休憩室での被告訴人安田繁克との会話の内容を重点に書くつもりでいたようですが、どちらかといえば被告訴人東渡好信と輪島の浜上さんなどとの関係を中心に書いてきたように思います。

 「出会いから」ということであれば、それらしいことも書いたかと思いますが、書いたとおりに記憶は曖昧な部分があります。そもそも自分の人生に大きな意味を持つ人間という認識はなかったし、仕事の内容も違っていました。接点も限られています。

 にわかに被告訴人安田繁克の存在を強く意識するようになったのは、平成4年1月21日の夜、被告訴人HTNのアパートで、彼から被告訴人安田繁克と被害者AAさんが付き合っていた、と聞かされたことが始まりでした。

 テレビドラマなど見ていれば、社内恋愛というのもありがちなパターンで、視聴者にわかりやすく物語が展開していくものですが、私の実際の社会生活においては、わかりやすいというより見えていた部分というのがそもそも断片的で僅かなものでした。

 例えば被害者AAさんの名前ですが、私が知ったのは平成3年の9月に入った頃のことです。それまでも「アヤちゃん」と呼ばれていましたが、苗字の方はさっぱりわからずにいたし、既いた時はなんとなく意外にも感じたことを憶えています。

 「休憩室の会話」については、また別に被告訴人HTNの話と絡めて説明を書きたいと考えます。被告訴人HTNに話を聞かされた時、私にとって被害者AAさんはにわかに不気味な存在になりました。その辺りを理解してもらうためにも、そこまでの彼女との関係を先に書いた方がいいと思います。

 被告訴人安田繁克との出会いですが、これまでも書いたように、はっきりと顔を見た記憶があるのは、雪でスリップしていたトラックを手伝った時でした。これは平成3年の1月か2月のことですが、平成2年の6月の時点でも私は彼の顔をしっていた可能性が出てきました。

 片山津温泉ホテル長山での喧嘩のことですが、被告訴人安田繁克も参加していたと聞いたのは、その出来事の数日後だったと考えられるからです。と書いたところですが、もしかすると何ヶ月も経ってからその話を誰かに聞いたのかもしれません。

 ただ、誰から聞いたかとなるとそれが特定しづらいのです。片山津温泉ホテル長山の慰安会の時点では、被告訴人多田敏明は入社していなかったと考えられます。既に書いたように被告訴人HTNも来る前だったと思います。

 金沢市場輸送の輪島の運転手と市場急配センターの市内配達の人間の話をしたとは考えられません。名前も何も知らなかったはずで会話の成立自体が考えにくいからです。輪島のYAが被告訴人HTNのことを以前から知っていたようですが、それは小木の遠洋漁業の仕事の関係でした。

 輪島のMYの方が被告訴人HTNのことはよく知っている感じでもありましたが、それでも具体的な昔話をするようなことはなかったと思います。Y村Tなのかと考えてみましたが、輪島の連中と市場急配センターの衝突のことは、後日を含め輪島サイド以外から話を聞くことはありませんでした。

 一番考えられそうなのは内浦町新保のKOかもしれません。当日の夜限りに聞いた話だったので、それも片山津温泉から戻ってきた直後に、金沢市場輸送の給油機の前で聞いた可能性が高そうです。

 被告訴人安田繁克の名前は全くしらなかったので、背が高いとかそういう表現を含めて特定をしていたことが考えられます。KOならば日頃の態度を見ていても、被告訴人安田繁克と言葉をかわしていた可能性はありそうです。

 もしかするとそれ以上の関係もあったかもしれません。私自身忘れていることもあるかと思いますが、KOは無線クラブに入っていて無線のマニアという感じでした。

 一時期、中央市場の近くですが、ウロコ運送の会社の近くに無線の店があって、その店にKOと何度か行ったことがありました。私がやったのは輪島の連中から譲り受けたパーソナル無線でしたが、KOは本格的な無線をやっていたようです。

 「石芽会」のステッカーがKOの乗務する大型トラックに貼ってあったと思います。全国的にも有名は大きなクラブのようでした。そういうクラブは私的制裁的なトラブルが起こることもあると聞いていて、中西水産輸送の時には、それで逃げたという運転手の話も聞きました。

 中西運輸商も無線の愛好家が多かったですが、「有明巌流会」というクラブの人が多いと聞いていました。彼らはCB無線というのをやっていたようです。そういえばY村Kも無線をやっていました。

 平成4年3月14日の土曜日、夕方の19時ぐらいに私と西口君がいた市場急配センターの休憩室に、被告訴人多田敏明が戻ってきました。その前、西口くんの方から被告訴人多田敏明に電話で連絡をしていたのですが、その時、被告訴人多田敏明は無線のクラブの集まりにいるという話でした。

 被告訴人多田敏明が無線をやっているという話はその前から少しは知っていたような気もしますが、彼が実際に無線をやっている姿というのははっきりと見たことがないようにも思います。ただ、後になって4トンウィング車に無線のアンテナをつけていたような気はします。

 被告訴人多田敏明が専属で乗務するようになった日野の4トンウィング車ですが、平成3年の12月中はその4トン車に同乗することがあったような記憶があるのですが、平成4年に入ると同乗することはなかったような気がするし、その頃になってアンテナを見かけたような気はします。

 被告訴人多田敏明の金沢西警察署の供述調書の記載だったと思いますが、彼はもっとわかりやすいことを言っていたようです。2月1日の夜のことですが、被告訴人安田繁克のことを「無線仲間」と表現していたかと思います。

 あるいは被告訴人多田敏明ではなく被告訴人安田繁克が金沢西警察署の供述調書で、2月1日の夜のことで本来は被告訴人多田敏明のことを「無線仲間」としていました。被告訴人安田繁克が無線をやっていたというのも知らなかったのですが、仲間というぐらいだからやっていたのでしょう。

 被告訴人安田繁克は平成1年の9月頃から金沢市場輸送で市内配達の仕事をやっていたようですが、仕事をしているような姿を見かけることもありませんでした。トラックを洗車しているような姿を見たこともないので、どんなトラックに乗務していたのかもわからないのですが彼に限った話でもありません。

 既に書いたと思いますが、私は長い間、被告訴人安田繁克を堂野さんの愛人の息子として認識していたようです。この間違いに気がついたと考えられるのは、市場急配センターで市内配達の仕事をするようになってからだと思います。

 「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」では説明を書いたと思いますが、私が市場急配センターで市内配達の仕事を始めたのは平成3年6月22日からだと考えられます。

 平成4年の事件で拘置所にいた頃の私の記憶では5月の22日だったのですが、その後、金沢市場輸送をやめる前の運行表が差し入れられ、そこで5月一杯は金沢市場輸送で長距離の仕事をしていたことになっていたので、6月だと考えるようになったのです。

 22日というのは25日が給料の締切日で、その3日前、3日間だけ1日1万5千円のアルバイトをしたという計算になるからです。当初、被告訴人松平日出男は私にそのアルバイトを条件として市内配達の仕事をしてくれないかと、持ちかけてきたのです。

 「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」には書いたような気がしますが、私はそのだいぶん前から守田水産輸送の○西さんに、中継の仕事をしたいと頼んでいました。

 空きが出来たので中継の仕事をやらないか、というような電話を○西さんからもらったのは、市場急配センターでの仕事が決まった直後のことであったと思います。偶然だったのだと思いますが、妙なタイミングだとは思いました。

 市場急配センターの仕事をするようになってすぐに被告訴人松平日出男から長距離の仕事の話を持ちかけられ、すぐに社員になることが決まりました。市場急配センターで大型車の長距離をやるので一緒にやってほしいと言われたのです。

 先日も書いたと思いますが、私はその市場急配センターに移るタイミングで、市場急配センターには安田という名前の運転手が二人いることを知りました。電話でのことですが、後から思えば運命の皮肉さにも思えますが、その電話対応をしたのも被害者AAさんでした。

 そして市場急配センターの仕事をするようになってすぐのタイミングで、被告訴人安田繁克から声を掛けられて話をする機会がありました。その頃、裏駐車場には彼が買ったというダンプが置いてあり、そのダンプを見ながら、イワシの運搬の仕事のことなど話をしました。

 これもずいぶんと早いタイミングだったと思います。ここで気になるのが、私が被告訴人安田繁克の安田という名前を初めて知った時期のことです。被告訴人安田繁克らしき運転手のことは、市内配達の仕事を初めて被告訴人安田敏から聞かされるようにもなりました。

 なお、先ほどの被害者AAさんの電話での対応のことですが、私は「ヒゲを生やした安田」というような言い方をして、それですぐに通じました。あの時、ヒゲの話がなかったならば、特定するための会話がもう少し続き、もっと参考になる情報を得ることができていたかもしれません。

 市場急配センターでは年配の運転手を含め、他に安田という名前はなかったので、被告訴人安田敏と被告訴人安田繁克のことを指していたのだと思いますが、被害者AAさんの対応ではその時点で会社にいるような話になっていました。

 もう一つ奇妙に思えたことは、それまでずっと一日中、金沢市場輸送の事務所で机に座って仕事をしている姿を見かけていた被告訴人池田宏美を、市場急配センターの事務所で見かけるようになり、それっきり毎日ずっといるようになったことです。

 被害者AAさんの方はずっと一日に2時間ぐらい金沢市場輸送に行っている時間がありました。事件後に聞いた話ですが、パソコンのデータ入力を出来るのは彼女しかいなかったそうです。

 「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」では書いたことかと思いますが、そのパソコンのデータ入力を含め、被害者AAさんの入社とは入れ替わりのようにいなくなったのが、イワシの運搬の現場監督のような立場にもなっていたK林健一さんです。

 K林健一さんは、金沢市場輸送にイワシのダンプが入った頃にも姿を見ていたような覚えがあります。会社の前の道路でバイクのことで話をしました。ダンプが入ったのは昭和62年3月ころのことです。

 金沢市場輸送の事務所が西念町にあった頃というのは間違いないですし、既に何度か書いているように山中温泉山乃湯での慰安会にも参加をしていました。ですので彼はもともと金沢市場輸送の社員でしたが、早い段階で市場急配センターの社員に変わったとも聞きました。

 被害者AAさんの入社時期ですが、市場急配センターの新社屋が出来てそちらに移転してからのことだと考えられます。彼女の軽四は最新型のホンダトゥデイだったということでも目立っていましたが、午前も午後もずっと会社にいるようなことは、私の見たところ一度もありませんでした。

 さきほど書いたように市場急配センターで仕事をするようになってすぐ、会社前で被告訴人安田繁克と話をする機会がありました。午前中だったような気もするのですが、比較的早い時間で、普通に仕事が終わった16時過ぎという時間ではなかったと思います。

 当時、市場急配センターの一階に休憩室というのはありませんでした。完成したのは平成3年9月の20日頃のことです。建築の工事も一週間から長くて10日ぐらいだったと思います。

 市場急配センターでの市内配達の仕事ですが、私は以前、当時は金沢市場輸送でしたが昭和61年の8月から11月、市内配達の仕事をやっていて、配達のコースも似ていたのですぐに仕事には慣れました。片町・小立野コースという受け持ちは、そのまま前の時と同じでした。

 それでも初日から一人で早朝の配達に行ったとは普通に考えにくいのですが、誰かと一緒に行ったかとなるとそういう記憶も残っていません。青果物のマルエーの配達で小松方面でした。以前はマルエーでも鮮魚の配達だったので、かっても違っていたかと思います。松任、根上、寺井でした。

 入社早々に被告訴人安田繁克と会って話をしたのは、用意された周到な計画だったと考えられるのですが、私にはそういう認識などまったくなかったので、前後のことも今は記憶に残っていません。

 市場急配センターの市内配達は、朝にそのマルエーの小松方面への配達に行って、10時から10時半頃には金沢の中央市場に戻り、石川丸果の売り場で片町・小立野コースの荷物を積んで、11時過ぎに出発をしていたと思います。

 午後には2便とも呼ばれていたように思いますが、同じ片町・小立野コースで次は14時過ぎに出発をしていたように思います。昭和61年の頃はこの午後の荷物の行き先が決まっておらず、配達先は全体に少なかったので、あちこちに行かされていました。

 それでも基本は片町・小立野コースだったので、東京ストアの横山店やサニーランドにも行っていました。他のところでは野々市町の方や、能登の志賀町の方にも配達にいったことがありました。

 裏駐車場で被告訴人安田繁克と彼のダンプを見ながら話をした時のことですが、その時点で彼は、ずい分前に市場急配センターをやめていて、フリーで独立した仕事をやっているようなことを話していました。

 被告訴人安田繁克が市場急配センターの社員として、イワシの運搬の仕事をしていたとなると、それもおかしいかと思いますが、被告訴人松平日出男が私に持ちかけた1日1万5千円のアルバイトのような感じで、時々市場急配センターの仕事を手伝っていたのかもしれません。

 ただ、私が市内配達の仕事をするようになってからは、被告訴人安田繁克が市場急配センターの仕事をするような姿を見かけたことはなかったので、私はそれもないと考えていたのかもしれません。

 被告訴人安田繁克のことは被告訴人安田敏の口から被告訴人多田敏明から聞いた話として、何度か繰り返し聞かされることがありました。それは被告訴人安田繁克が仲買の女子社員と付き合っているという話でした。

 その仲買というのは片山青果だったと思うのですが、もし違っていたら柿良青果かと思います。どちらも一番多いぐらいの荷物を出す仲買の会社でもありました。荷物はコースの決まった場所に置いてあることや、後で台車で持ってくることもありました。

 そういうこともあり被告訴人安田繁克と交際しているという仲買の女子社員のことはよく見かけていました。被告訴人安田敏と同じぐらいにも見えましたが、いくらか年上と聞いたこともあったかもしれません。

 私は直接話をしたような記憶も残っていないのですが、津幡の山下君などとはけっこう親しい感じで話をしている姿を何度か見かけた憶えがあります。被害者AAさんとは二股交際になっていたような話にもなっていましたが、それも平成4年になってから被告訴人多田敏明に聞かされた話です。

 被告訴人安田繁克が供述調書で名前を出している女性と同じ人物と考えられますが、それ以前に中央市場の前の古くて大きな建物のマンションで同棲生活をしているか、同棲生活を始めたという話を聞かされたことがありました。

 中央市場の正門の前には派出所があって、それより右側にある建物のマンションでしたが、平成9年の夏には、被告訴人OKNの仕事仲間という人物が借りている物件として、そのマンションの一室に行ったことがありました。

 これは「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」にも書いていないかもしれません。休日に引っ越しの作業を手伝った後でのことでした。

 色々と胡散臭いこともやっているような一見真面目なサラリーマンという人でしたが、その一室も生活して見るようには見えず、得体の知らない気がしました。年齢は私達よりかなり上でしたし、上司のような感じにも見えましたが、見たのはその時だけでした。

 その古いマンションというのは市場の前の道路には面しておらず、いくらか奥まっていたとも思うのですが、その近くには全く穴場のような食堂がありました。昔の公民館のような建物で、それが食堂になっていたのですが、看板なども全くなかったと思います。

 その店は平成3年の9月頃になってちょくちょく行くようになったのですが、その場所を教えてくれたのも最初に連れて行ってくれたのも被告訴人松平日出男だったと思います。

 ずいぶんとレトロな金沢ではなおさら珍しく感じるような食堂でしたが、その頃に、被告訴人松平日出男に私が離婚したことで心配をしている、というようなことを言われたように思います。そういう話をされたのは10月に入っていかとも思います。

 裏駐車場でダンプを見ながら話をした時とは、違っていたように思うのですが、もう一度、私が市場急配センターの市内配達の仕事をしている間に、訪ねた来た被告訴人安田繁克と話をしたことがありました。

 その時は市場急配センターの2階事務所の応接用の席に差し向かいで座って話をしていました。そのすぐ横には被害者AAさんもいていつものように机に座って事務の仕事をしていました。特に意識をしていたわけではないですが、普段通りに仕事に集中しているように見えました。

 その時の会話で憶えているのは、被告訴人安田繁克が先日、鮮魚の冷凍物の仕事とかで、岩手県の宮古市に行ったという話をしていたことです。宮古市の近くの国道45線には、ものすごく急に見える坂があって、そんな話などしたことを憶えています。

 大型の保冷車での仕事のように話していましたが、市内配達をしていていきなりそんな仕事が出来るのかと考えもしました。特に冷凍物など過積載の多い仕事ですが、急な下り坂などものすごく神経を使うものです。

 長距離の仕事をしていて特に感じていたのは、金沢市内を含む加賀地方は、平野部が多く坂道というのが本当に少ないことです。兼六園の方まで行けば坂道はありますが、普段生活をしている範囲では、坂というのは陸橋ぐらいしかありませんでした。

 3,4日ほど前に書いたと思いますが、市場急配センターの一階の休憩室が完成した直後に、被告訴人安田繁克が平ボディ車に乗務していた輪島のYと二人で、休憩室の見物に来たことがありました。

 それは16時過ぎ以降の夕方に近い時間で、市内配達の仕事が終わっていたと思います。そう長い時間でもなかったように思いますが、しばらくの間、休憩室で被告訴人安田敏を含めた4人で話をしていました。

 その時の会話で一つだけ記憶に残ったことがあります。輪島のYとの間の会話であったと思いますが、被告訴人安田敏が結婚するか結婚したことについて、「いいことでもない。好きな人が出来ても何も言えなくなる」という何が含みを持たせたような発言をしていたことです。

 被告訴人安田敏の結婚というか入籍時期もはっきりとは思いだせませんが、その平成3年の12月の終わりには長女が生まれているので、普通に考えて、それまでには入籍も済ませていたとは思います。

 被告訴人安田敏がその時言った好きな人とは、被害者AAさんのことを指すのかと考えたこともありましたが、10月5日の告白の前に相談をした時は、明るい感じで半々やな、とか言って屈託がなさそうでした。

 「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」には書いたかと思いますが、当日は午後に、被告訴人東渡好信のトラックに乗って、被告訴人安田敏の3人で、当時は河北郡だった高松町まで、荷降ろしの手伝いに行っていたのです。

 昼にはちょうど正午ぐらいの時間に合わせて、レストラン十字で会社のミーティングがありました。会議のようなものかと思いますが、金沢市場輸送では全く発想も経験もないことだったので、それも新鮮には感じました。

 今考えると、9月中にも同じような集まりはありました。その時は会社の2階事務所の奥の方で集まってやりましたが、被告訴人松平日出男が、君たちの子供が学校で運転手ではなく会社員と言えるようにしてやる、とか、運転手のことを雲助、一発屋などと話していました。

 レストラン十字での食事を兼ねたミーティングは、被害者AAさんだけが留守番ということで不参加でした。その時に私は会社に電話を掛け、今夜自分の自宅に電話をして欲しいと頼んだのです。これも続きは別の機会に書きたいと思います。

 被告訴人安田繁克のことですが、平成3年の秋には、休憩室が出来たばかりの頃に輪島のYと二人で来た他に、S藤とも二人で来たことがあったと思います。S藤は他にも一人で来ることがあり、私に1万円を借りると、それっきり姿を見せなくなりました。

 その後、窃盗犯として金沢西警察署に逮捕されたこと、私が拘置所に移送になる時に、金沢西警察署の二階で鉢合わせになったことなど、「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」には書いてきたと思います。笹田君に同行して金沢港に来たことなども。

 S藤と二人で来た時のことは余り印象にも残っていないのですが、なんとなくですが、思っていたほど親しい関係でもなさそうな気はしました。市内配達の仕事としてはS藤の方が、被告訴人安田繁克よりはいくらか早かったように思います。

 印象的だったのはその次に、被告訴人安田繁克が一人で来た時のことでした。その時も被告訴人安田繁克は休憩室の奥の方の席に座っていましたが、喧嘩でひどく殴られたらしく、目のまわりが腫れ上がり、目の玉の白い部分に大きな内出血のあとが見られました。

 怪我の痛みもあったのか元気もなさそうでしたが、片町に友達と飲みに行った時、同じ人数ぐらいのグループ同士で争いになって、喧嘩が始まると仲間の方はすぐにいなくなて、自分一人だけが袋叩きにされたという話でした。

 ちょうどそういう話を被告訴人安田敏と向い合ってしている時に、二階から被害者AAさんが降りてきて、私に弁当買いに行くけど、買って来きていらんけ?、といくらかはにかんだ感じで明るく声を掛けてくれたのです。

 弁当屋でいえば、被害者AAさんを初めて意識したのも弁当屋の前でした。私がまだ金沢市場輸送にいた頃のことで、新車のウィング車に乗務してからのことです。春になっていたとも思うので平成3年の3月か4月のことと思います。

 場所は金石街道のジャスコ若宮店よりは、市場急配センターの方から少し手前、ジャスコとは反対側の道路沿いにある弁当屋でした。私はそのウィング車に乗ってゆっくり走っていたのですが、その時に弁当屋の前に立っていた被害者AAさんと目があったのです。信号待ちから出た時かもしれません。

 彼女と目があったのもその時が初めてだったと思います。なにかはわかりかねましたがメッセージ性の伝わるような真っ直ぐな眼差しで、まるで映画のワンシーンのようでした。

 私はその弁当店を利用したことは1回ぐらいはあったような気もしますが、ほとんど記憶にありません。それは市場急配センターに来てからも同じです。市場急配センターで何度か利用したのはジャスコの中の笹ずしの弁当でした。

 笹ずしの弁当は鳥弁当と鮭弁当の2種類があって、それは市場急配センターののミーティングでも使われることがありました。平成3年の12月のミーティングの時がそうだったと思います。

 仕事でミーティングに参加しなかった被告訴人安田敏に頼まれた笹ずしの弁当を手渡したこともありました。その時は夕方に、被告訴人安田敏と一緒に金沢市場輸送の給油所で給油をしていた場面も一緒に記憶にあります。

 ついでに給油のことを書いておきますが、平成4年になってからはほとんど金沢市場輸送に給油に行った憶えがありません。仕事先の関東で給油をするようにしていたのかもしれませんが、金沢で給油の出来るところは、津幡町の太陽鉱油のガソリンスタンドだけで、これはずいぶんと離れていました。

 道路が混んでいたりすると出先での給油というのはかなり面倒なものです。急ぎの仕事をしているときは時間のロスも大きいですし、金沢で給油を済ませておいたほうが気も楽です。大型車だと満タンで関東の往復は楽に出来たと思います。九州だと片道の給油になりました。

 なぜなのかと多少気になるのですが、平成4年になってからは金沢市場輸送で給油をしたという記憶がなく、会社から特別な指示を受けていたという記憶もありません。太陽鉱油というのもそれまで使ったことのある給油カードの中では、取扱店の数もかなり少ないものだったという印象があります。

 被告訴人安田繁克のことですが、顔を腫らしている姿を見てからは、会うこともなかったように思います。S藤の方は本当にそれっきり会社で会うことはなくなりましたが、同じような感じで、それまで時々姿を見せていたのが、さっぱりとなくなりました。

 弁当のことで声を掛けに来た被害者AAさんですが、私と一緒にいる被告訴人安田繁克のことは全く眼中にないという感じでした。怪我にも気が付かなかったのかもしれません。ごく自然に、日頃から意識していない相手という感じでした。

 それだけに被告訴人HTNから交際していたという話を聞かされた時は、違和感を覚えました。二人の姿を同時に見てからまだ日が浅ければ、それが確信にもつながったのかもしれませんが、二ヶ月以上は経過していたと思われるので、ある程度記憶も薄れ、意識して二人の様子を見たこともなかったので。

 もう一つついでに書いておくと、12月に被告訴人安田敏と金沢市場輸送に給油に行った時のこと、その頃のことでその場であったことも考えられるのですが、被告訴人安田敏が私に被害者AAさんのことで気になることを言いました。

 これは本来確認も取りやすい話かと思われましたが、確認を取るようなことはなく、今思えば、その辺りから金沢市場輸送にトラックの給油に行くこともなくなったように思います。

 被告訴人安田繁克とのことは、被告訴人HTNや被告訴人多田敏明の話と合わせて説明してこそ、意味のあるものですが、事実的なことは経過として一通りこの項目で書いたかと思います。けっこう長くなったとも思いますので、この辺りで区切りをつけます。

2015-08-02 日曜日 09:21 << [[ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]<<


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