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2015年8月 3日 (月)

平成3年12月に被告訴人安田敏から聞かされた金沢市場輸送の女性事務員と被害者AAさんの話_好きな人のために習いながら作っているという編み物のこと

平成3年12月に被告訴人安田敏から聞かされた金沢市場輸送の女性事務員と被害者AAさんの話_好きな人のために習いながら作っているという編み物のこと

2015-08-02 日曜日 14:33 >> [[ ←これからの記述範囲の開始時刻]]>>

 平成4年の12月中に聞いたことは間違いないですが、月のいつ頃となるとはっきりとは思いだせません。月の中頃だったようには思います。

 突然、被告訴人安田敏が打ち明け話のような感じで、被害者AAさんが好きな人にプレゼントをするために編み物を作っていて、金沢市場輸送の女性事務員のところに習いに行っている、ということを言い出しました。

 たんたんとした口調でしたが、私に対してお前のことかなと、含みをもたせたような期待をさせるような言い方をしていました。私と被害者AAさんの関係については否定的なことを言うことが多かったので、いつもとは違った態度でした。

 ずいぶんと具体的な話であっただけに本当のことなのだろうと思いました。年が明けて1月に入ってからだったと思いますが、事務所の階段の前に停めてあった彼女の車の中に、紙袋に入れた毛糸のようなものを見たことがあり、これなのかと思ったことはありました。

 被告訴人安田敏から聞いた時期からはクリスマスプレゼントを思わせるものでもあったと思います。ただ、時期的にはクリスマスプレゼントの可能性が高いはずなのに、被告訴人安田敏はそのような断定的な言い方はしていなかったと思います。

 これも書くと長くなるので別に書いたほうがいいかと考えているのですが、12月21日の昼のこと、被告訴人安田敏に呼び出してもらった被害者AAさんにトラックに同乗してもらい、ティファニーのネックレスのプレゼントを渡そうとした時、受け取りを断られ、

 さらに受け取ってもらうだけでいいからと言ったところ、困った顔になって「だって私、好きな人おるもん」と言われた時は、被告訴人安田敏の編み物の話と重なって、混乱と衝撃が倍加しました。

 あとで考えると、買ってきたのだから受け取るだけでも受け取って欲しい、という言い方をしたのが、まだ自分の真意が理解されていないと彼女を傷つけてしまったのかと思います。

 最終的には平成4年4月1日に傷害・準強姦被告事件を起こしてしまったので、仮にそれまで彼女との間に相思相愛の関係があったとしても、それが破綻したからこそ事件になったと見る向きが多そうだと思います。

 そういう前提で書くと、結果こそが全てであって経過は意味がないと思われるかもしれません。一方的とか思い込みという評価もされ、大きな事件を起こした立場なので、そういうのも仕方がないかと思ってきましたが、私は彼女の真意に最も近い、唯一の当事者でもあったのです。

 似たようなことは何度かあったのですが、それまでの彼女の態度を再確認させたのが事件を起こす一週間ほど前の3月23日の夜の電話でのことでした。

 この時は昼に会社への電話で指定した時間に彼女の方から電話を掛けてくれてたのですが、いきなり喧嘩腰でした。その日は、被告訴人松平日出男を交えて3人で会社の近くの喫茶店で話をしていました。

 3月23日は月曜日だったと思いますが、こじれたのは土曜日に神奈川県内の東名高速道路のパーキングエリアから掛けた電話のときでした。3月5日に続いて2回目に彼女が会社に指輪をつけてきていたことが原因でしたが、私が罵倒するとすぐに電話を切ったのです。

 次に電話に出たのが被告訴人松平日出男で、「お前、あの子に何ゆうた。あの子、泣いて会社やめると言って帰ったぞ」と言われたのです。指輪を見せつけられた時点で、他の男との交際がはっきりしたという意思表示なのかとも考えたのですが、同じ会社なのではっきりさせておく必要を思いました。

 3月5日の時とは指輪のかたちとつけている指が違っていました。中指と薬指でしたが、どちらの指につけるのがどういう意味なのか私は理解が出来なかったので、そのことでも被告訴人安田敏に相談をしていました。どちらにつけようと最近では余り意味がないというような回答だったと思います。

 最近のテレビなど見ていると既婚者が薬指につけ、中指につけるのは恋人募集中という意味があるようです。私は今まで指輪というものをほとんどつけた覚えがなく、結婚した時も指輪のことはまるっきり無関心でしたし、買うこともありませんでした。

 夜に電話を掛けてくれた彼女はいきなり喧嘩腰で、話し合いをする気があるとはとても思えず、ただ不満を強くぶつけてきた感じで、私はすぐに電話を切ってしまったのです。その前に出掛けている場所を尋ねると、彼女は久安だと答えていました。

 金沢市久安という場所で、彼女の住む場所からは比較的近いと思われましたが、信号待ちも数があるので、夜でも5分以上は掛かりそうだと思いました。

 私は彼女ではなく彼女の父親か母親に彼女のことで話をするつもりで、電話を切ってすぐに彼女の自宅のほうで電話を掛けたのです。すると、すぐに出たのは彼女本人でした。

 携帯電話など全く普及していなかった時代です。市場急配センターでも会社に1台あって被告訴人東渡好信が持ち歩いていましたが、ずいぶん大きいものでした。大きな弁当箱のようなサイズで、普通に人が持ち歩くようなものではありませんでした。

 初めて私から彼女の自宅に電話を掛けた時も感じたことでしたが、彼女は母親からの取次で私からだとわかると、ちょっと待って、と言いながら、バタバタと階段を駆け上るような音がして、その後外にいるような物音が電話口に聞こえていました。

 彼女の家の電話はワイヤレスだったと考えられます。当時はまだそれほど普及もしていなかったのか、私の周りではワイヤレスの電話というのを見たことはなかったように思いますが、ちょっと長い移動時間でもあったので、電話のコードを引っ張っていたとは考えられません。

 私もなかばやけくそになっていたので、「お前、俺に惚れとるんやろ?」と言ったところ。彼女は真面目な声で、「好きじゃない。」と言いました。そのあと少しふざけたような感じで、「広野さんに、私の気持ち伝わっておると思っとった。」と言い出しました。

 その場の反応と勢いで、私は「なんやそれ?」と言ったところ。彼女は「付き合う気持ちない、ってこと。好きな人おるって、言っとったやろ。好きな人おるって、付き合っておるって、おんなじことやろ。」と言ったのです。

 その後の私が向けた言葉で、彼女は泣き出して、まったく違った展開になったのですが、今は正直なところ、そういう彼女とのことは極力、書きたくはない心境です。細かいところは記憶も薄れ、思い出すのも困難になりつつありますが、記録には繰り返し記述してきた通りの事実です。

 平成3年10月5日も、彼女の方から自宅のアパートの方に電話を掛けてもらいました。それまでの会社での彼女の行動でその気持ちに答えるつもりで、自分の方から交際してほしいと言ったのですが、彼女はすぐに、「ごめんなさい。私、好きな人おるし。」と答えました。

 彼女の言う好きな人が自分以外には考えられず、そのことは金沢西警察署の取り調べでも、公判の供述でも話したのですが、まったくと言って相手にはされませんでした。

 谷内孝志警部補には、彼女に彼氏って本当にいたのか、と尋ねましたが、「ほんなもん、お前に言うわけがないやろ。」と問題外として突き放されただけでした。

 彼女との関係で大きな転機になったのは平成3年11月25日の夜の電話でした。少し前にも西口君のことで書いたところですが、日付のことは27歳の誕生日の前日だったのでよく憶えています。

 「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」では一通り詳しく経過を書いたように思いますが、その夜の電話がきっかけで、彼女は自宅に電話を掛けても良いとはっきり返事をしながら、それとは裏腹の行動として自宅の電話に一切出なくなったのです。

 そしてそれは会社において、裏駐車場に自分の軽四を駐車するという行動にもなりました。それが2月1日まで続き、2月3日に私が九州の福岡に向けて出発した時には、以前のように会社前に軽四を止めていたことなど、数日前にも書いたところと思います。

 自宅の電話の方も1月12日の入善パーキングエリアから掛けた電話に出るまで、彼女は一切自宅の電話に出ず、主に母親に居留守と思われる対応をさせていました。母親以外に電話に出たのは兄が一度だけだったと思います。

 兄はその後、もう一度だけ電話に出ましたが、それは2月以降だったと思います。父親が電話に出たのは1月21日の被告訴人HTNのアパートから掛けた電話の時が初めで、もう一度電話に出ることがありましたが、それも2月の半ば過ぎだったと思います。

 電話に出なくなる前、最後に掛けた電話は11月の29日と思われる名神高速道路の伊吹パーキングエリアからの電話でした。その時も彼女は急いでいるようなことを言いながら、すぐに電話を切ろうとしていましたが、機嫌は良さそうでした。

 この項目は12月中頃の被告訴人安田敏の話をテーマにしたので、その前後の流れとして書いていますが、12月のこととして憶えていることを他にも書いておきたいと思います。

 裏駐車場での軽四の駐車が始まったのは11月30日の土曜日のことだったと思います。午後になってから見かけたように思いますが、裏駐車場の一番奥の方、裏の方からは入り口のすぐ左手に、彼女の軽四と被告訴人池田宏美の車が並んで停まっていました。

 隣同士だったようにも思いますが、あえてなのか間に別の乗用車を一台挟んでいたようにも思います。被告訴人池田宏美の車というのも軽四ではありませんでしたが、1000ccぐらいの排気量と思われる小型車でした。けっこうポンコツな感じの車で色はシルバーではなかったかと思います。

 日産のマーチかマツダのファミリア、はっきりとは思いだせませんが、そういった車種だったと思います。乗用車だったのだと思いますが、まるで車屋の代車という感じのものでした。地味といえば全く地味な車でした。

 前にも一度そういうことがあったのですが、何かの工事でたまたま乗用車が集まっているのかと初めは思いました。翌日が日曜日だったので月曜日以降になるのかと思いますが、それ以降、被害者AAさんの軽四だけが裏駐車場に停められるようになったのです。

 初めの頃は駐車してある車のことより、彼女が自宅の電話に出ないことを気にかけていたように思います。一週間もすると、どうやら自宅と会社の2つの行動は連動して意味のあるものだと、私も考えるようになったと憶えています。

 山形に行きリンゴを積んできたのも、ちょうどその頃で12月の上旬の運行であったと思います。

 12月の10日頃のこととして記憶にあるのは、ある日の午後、二階の事務所の応接のソファーに被告訴人竹沢俊寿と夫人の二人が向かい合って座っていたところ、電話が掛かって被害者AAさんがそれを取り、泣きそうな顔で私に何か訴えかけるような態度を見せたことでした。

 その電話というのは日野のトラックの工場からの電話だったと思います。電話の内容も何年か前までは憶えていたように思いますが、今は思い出せなくなっています。

 日付をはっきりと憶えているのは12月13日の夕方のことでした。その日はたまたま13日の金曜日だったということで日付のことを記憶しました。

 私が20歳ぐらいの時ではなかったかと思いますが、ホラー映画がブームになり、私は関心もなかったのですが、13日の金曜日が特別な日であることは有名でした。特に女の子の方が、関心も強く信じやすい、こだわりやすい傾向であったかと思います。

 その日は長距離の運行に出発しない「あがり」だったので、私は電話に出なくなり、裏駐車場に車を止めるようになった彼女が、直接声を掛けることを求めているのかと考えて、停めてある彼女の軽四の横に自分の軽四を停めて、運転席に乗ったまま彼女が来るのを待ったのです。

 いつも彼女は遅くても17時30分頃には自分の軽四に乗って帰っていました。それ以降の時間に会社にいる姿を見たのは、3068号が新車で納入された10月12日の土曜日のことと、11月26日の時だけだったと思います。11月26日の時は、彼女が一人で、19時過ぎぐらいまでいました。

 10月12月の土曜日は、私が初めて彼女の自宅に電話を掛けた時でもありました。夕方、すっかり暗くなった時間に、会社の前に横付けにして新車のトラックを停めて、被告訴人安田敏と話をしていたところ、二階から被害者AAさんが降りてきました。

 そんな時間に彼女が会社に残っていることも珍しいと思いましたが、明るい感じで「今日、どっか走るが?」と言われたのです。走る予定はなかったのですが、そういうことは事務所の方で配車が決めることなので、おかしなことを聞きに来ると気になりました。

 自宅のアパートに帰ると、そのあと2回ぐらいだったでしょうか、無言電話があったのです。被害者AAさんの性格から無言電話をするとは考えにくかったのですが、会社の方に変な電話があって、それで彼女が確認に来たのかと気になったのです。

 ずいぶんと長い時間、電話をかけようか迷っていたので、電話を掛ける時間もずいぶんと遅くなってしましました。22時は過ぎていたと思います。23時に近かったかもしれません。

 彼女の住所は一度彼女本人から聞いて知っていました。番地などは知りませんでしたが、金沢市内でもよく知られたその住所で、電話の番号案内に尋ねると、彼女の名前に一致する電話番号は1件だけだと言われました。

 電話の内容は飛ばして結論を言うと、23時半かそれより少し遅いぐらいの時間に被害者AAさんとの電話を切ると、またすぐに電話が掛かってきました。それ以外には考えにくいと思いながら電話を取ったのですが、思ったとおり電話をかけてきた相手は、8月に離婚した妻でした。

 平成15年を過ぎてから考えるようになったことだと思いますが、やはりその日の電話は偶然とは思えず、情報を集め事情を知る誰かの工作と思われ、関与したのではないかと真剣に考えるようになったのが被告訴人OKNでした。

2015-08-02 日曜日 16:53 << [[ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]<<


2015-08-03 月曜日 12:11 >> [[ ←これからの記述範囲の開始時刻]]>>

 昨日の午後は、図書館に行って記述、Twitterへの投稿をやっていました。朝、一つのモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)のツイートを見て、もともと予定していたことではありますが、そちらを前倒しして取り組むことにします。

 これからは石川県警察において、直接対応していただく問題になります。その社会的な必要性を含め、良質な資料、事実の提示が不可欠だという思いを改めて強くしました。その一環ですが、昨日は金沢市場輸送の女性事務員の名前を書いていなかったかもしれません。

 被告訴人安田敏から直接名前を聞いたわけではないですが、当時、金沢市場輸送に該当すると思われる女性事務員は二人だけで、もう一人はとても大人しく入社もだいぶん後だったので、先輩的な立場でもあったもう一人の女性事務員が被告訴人安田敏の話の該当者と思われます。

 その女性事務員の名前は「谷口さん」だったと思います。金沢市場輸送の事務所が二口町に移転してからの入社であったと思いますが、平成3年の春ころには、ずっと前からいるような感じになっていました。昼はいつも事務所にいる顔でした。

 もう一人の方は、平成3年の春の時点で、入社してから半年も経っていないような感じでした。20代の半ばと聞いたような気もしますが、すごく大人しくて体も小柄だったので、余り目立たない感じでもありました。

 この二人に、被告訴人竹沢俊寿の夫人と被告訴人池田宏美というのが、金沢市場輸送の事務所にいつもいるメンバーでした。夫人と池田宏美は被告訴人本恒夫の前の奥の方の机で向かい合い、夫人の方が運転手の休憩室との窓に接していました。

 腰の高さぐらいだったかと思いますが、金沢市場輸送は事務員がいる事務所と運転手の休憩室の間が、家の窓のようになっていて、アルミサッシで仕切られていました。家の外に別の部屋があるような感じでもありましたが、普通の外壁に比べればサッシも薄めだったかもしれません。

 休憩室の奥の方には事務所に入るドアもありましたが、ほとんどの場合は、アルミサッシの窓越しに事務所の人と話をしたり、物のやり取りをしていました。例えば運行時に必ずもらう、運行費などです。

 被告訴人本恒夫が運転手に指示を出すときは、休憩室の方に入ってきて話をすることも多かったと思いますが、休憩室の中央には割と大きな黒板があって、全部の運転手の運行状況と、荷物の行き先と荷主のことが、すぐにわかるようになっていました。

 それは市場急配センターの長距離との違いでもありました。市場急配センターでも一時期、黒板ではなく紙のようなものであったと思いますが、一応全体がわかるような表があったのですが、12月ころであったか、ほんの一時期のことであったように思います。

 市場急配センターでは他の運転手がどこに行っているか、どのような仕事をしているかということは、ほとんどわからなくなっていました。

 偏った配車で割を食わされていることは、普通に想像出来ましたが、余りあからままになっても、気分がわるいだけなので、そういう他の人の仕事のことは意識しないようにもしていました。会社の指示のまま働いて給料が一律月50万円となっていたので、売上、出来高は気にしない仕事ではありました。

 給料の条件は悪くなかったと思います。いくらでも運転手が集まるような好条件という人もいたぐらいです。運行費も関東便で4千円でした。金沢市場輸送は以前3200円でしたが、その後上がっていたかもしれません。

 運行費は食事代のようになっていて、税金も掛からないと聞いていました。運行の度に現金をもらって出発します。午後から夕方に出発して、翌日の夜の夜中には戻ることの多い仕事だったので、実質は36時間ぐらいかと思われます。

 谷口さんも20代の後半と聞いていたように思いますが、当時は私も25歳ぐらいで、けっこう年上の女性には見えていました。正確な年齢も聞いたような気がしますが、忘れています。結婚しているような話も聞いたことはありました。

 暇を持て余している時に、何回か話をしたこともありました。被告訴人竹沢俊寿会長の夫人がいない時だったと思いますが、事務所では夫人のにらみがきいていて、息苦しく仕事をしているようなことをこぼしていました。

 被告訴人本恒夫の手柄話や、自慢話にも辟易し、あきれ果てたようなことを話していたかと思います。お歳暮とかも自分の実力で、戦利品のように自慢して喜んでいたような話だったかと思います。

 谷口さんともう一人の若い女性事務員は駐車場の窓側の机で仕事をしていました。この二人のどちらかに給油所の給油機の鍵をもらって、給油をし、終わってから返すというのがいつものことだったと記憶があります。

 昨日も書いたかと思いますが、私が市場急配センターで日野の大型ウィング車に乗務したのは平成3年10月12日の土曜日のことでした。車番は石川ナンバーの3068号でした。石ナンバーから石川ナンバーに変わったのは昭和63年ころのことかと思います。7599号は石ナンバーでした。

 その新車に乗って間もない頃だったと思いますが、金沢市場輸送に行った時、事務所から出てきた谷口さんといつも一緒にいるもう一人の女性の二人に、トラックに乗せて欲しい、と声を掛けられたことがありました。

 私はその場で断ったのですが、被害者AAさんとの関係を意識して、断った方がよさそうだと判断しました。二人は不満そうにしていましたが、私の断り方もやんわりとしていたので、怒ったようなことはなかったと思います。

 その二人が被害者AAさんと話している様子は見たこともなかったですが、毎日のように同じ事務所で仕事をしていたので、当然会話もあったかと思われます。被害者AAさんのいる時間は長くはなかったので、付き合いの程度もわかりませんが、気が合いそうな感じには思われました。

 昨日も書いたかと思いますが、平成4年になってからというのは、金沢市場輸送に行くことがほとんどなかったように思います。もともと給油ぐらいしか行く用事はなかったのですが、それさえ思い出すことができません。

 今までは余り考えてこなかったことですが、そういえば北陸ハイミールや浜田漁業金沢工場でもミールの仕事をする金沢市場輸送のトラックは、見かけていなかったような気がしてきました。

 一つだけ印象的に憶えているのは、平成4年1月20日のことで、その日、私は午後に岐阜県可児市からパレットを積んで、夕方遅くの19時ぐらいに浜田漁業金沢工場に着いてパレットの荷物を降ろしたのですが、そこに金沢市場輸送の小野さんという運転手の姿を見たことです。

 小野さんはずいぶん小柄で、ものすごく大人しいひとでした。ずっと4トンの保冷車に乗務していたように思います。浜田漁業金沢工場では4トン車の仕事というのは全くなかったはずですが、とにかく小野さんの姿があったので、不思議に思いながら見ていました。

 あるいはミールを積み込むフォークリフトの運転で来ていたのかもしれません。大型車には乗務していなかったはずで、それぐらいしか考えられないことですが、これも記憶が薄れて、はっきりとは思い出せなくなっています。

2015-08-03 月曜日 13:22 << [[ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]<<


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