« 社会生活上の危機感における被告発人・被告訴人らの実名公開について | トップページ | 木梨松嗣弁護士(金沢弁護士会)によって踏みにじられた憲法上の裁判を受ける権利と、その価値を社会に問うための供述調書の実名公開 »

2015年7月17日 (金)

控訴審の私選弁護人であった木梨松嗣弁護士の連絡対応拒否と上告審で郵送された関係者の供述調書

控訴審の私選弁護人であった木梨松嗣弁護士の連絡対応拒否と上告審で郵送された関係者の供述調書

2015-07-17 金曜日 14:25 >> [[ ←これからの記述範囲の開始時刻]]>>

 いきなりになりますが、急遽方針を変更して一部の被告発人・被告訴人らの実名公開に踏み切ることにしました。事実と問題の正確性を担保するためでもあります。

 本来、この具体的な事実関係ははてなダイアリーのブログにおいて2008年から2009年の間に書くものでありましたが、大きな阻害要因となったのが、この度、石川県警察珠洲警察署に対して名誉毀損での刑事告訴を進めているモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)です。

 モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)からは精神的にも社会生活上の立場においても大打撃を受けました。未だ回顧の姿勢は全くうかがえず、私のツイッターのアカウントもブロックしたままです。

【写真資料】一件記録・写真/2014年作成/被告訴人安田繁克の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影) http://hirono-hideki.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/20142014921-34b.html

 上記の被告訴人安田繁克の供述調書は、私が平成4年4月1日の傷害・準強姦被告事件の上告審で平成5年の12月の初め頃になってようやく目にすることが出来た裁判資料です。

 これら供述調書の存在は一審の平成4年6月18日か6月30日の公判の段階で私は知っていました。なぜなら江村正之検察官から要旨の読み上げがあったからです。一件に付き、文字数で100文字にも満たないぐらいの読上であったように思います。

 その時はいきなりの場面で意味もさっぱりわからなかったのですが、江村正之検察官が証拠として提出した甲号供述調書の列挙かと思います。一審の公判は3回だけだったと思います。

 本来5月28日に予定されていた初公判が、準強姦罪の追起訴で併合審理、それに伴い川口泰司裁判官の単独であったものが、三宅俊一郎裁判長と山田徹裁判官の合議制の裁判に変更されました。その初公判が6月18日だったと思います。

 今も私は資料など見ず、現在の自分の記憶だけで書いているのですが、初公判というのは、生まれて初めて経験する裁判でまったく理解もないまま短時間で終わったように思います。本来初公判が予定されていた5月28日に私は金沢西警察署の留置場から金沢刑務所の拘置所に移送されました。

 国選弁護人として専任されていた岡田進弁護士が接見に来たのは、拘置所に移った2,3日後だったと思います。

 今念の為、「% cal 5 1992」というLinuxのコマンドで確認をしたのですが平成4年の5月は月末の30日と31日がそれぞれ土日ということになるようです。

 私が初めて金沢刑務所の拘置所に入った時点で土日は免業日ということになっていたかと思うので、土曜日の30日の接見というのもあり得ないということになるかと思います。

 移送された翌日であったという実感もないので、可能性としては6月1日ということにもなりそうですが、6月になっていたという実感もありません。移送した当日は精神的な混乱も大きく時間が長く感じていたので、翌日とは思えなかったという可能性はあるかと思います。

 岡田進弁護士の接見の様子については「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」を含めこれまでに何度か記述をしていると思うので、紙面の都合もあり繰り返しのことは避けたいと思います。

 大事なポイントとして再度押さえておきたいことは、金沢西警察署にいた時点で、母親から親戚に紹介してもらったという私選弁護人の選任を繰り返し勧められ、何度目かにそれでは私選で頼むという返事をしたところ、次の面会の時かと懐いますが、その私選弁護人の方からという話を聞かされました。

 当時はさほど疑問もなく聞いた話でしたが、弁護士いわく、国選弁護人が決まってから弁護人を変えると裁判所の印象を悪くするのでやめたほうが良い、という話でした。木梨松嗣弁護士の名前を聞いていたかははっきりとは思いだせませんが、控訴審での選任の経過を含めるとまず間違いのないことです。

 判決があったのは平成4年8月3日。すぐに控訴の手続きをしたように思いますが、旧盆の終わりの8月の18日頃には木梨松嗣弁護士の接見がありました。まだお盆休みのような時期だったので、なおさら印象的に記憶にしています。当日には京都の親戚の面会もあったように思います。

 あるいは当時市場急配センターの社長だった被告訴人松平日出男の面会があったのも同じ日かと思います。一日ぐらいずれている可能性もあるかと思いますが、本来一日一回だけの面会で、午後に京都の親戚が面会に来たので、二回の面会となりましたが、刑務官にきつく注意を受けたことも印象的でした。

 二回の面会があった日の一つの面会は被告訴人OKNの面会であったような憶えもあるのですが、現在は記憶そのものが薄れているので、それ以上思い出すことも出来ません。木梨松嗣弁護士と被告訴人OKNを関連付けて考えることもなかったと思います。

 木梨松嗣弁護士の弁護や接見については、現在よりいくらか記憶も新しかった段階に「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」に書くべきことを書いたと思いますし、金沢地方検察庁や金沢地方裁判所に提出した書面にも繰り返し記述があるかと思います。

 控訴審は平成4年の10月には初公判があったと思いますが、次回の公判で裁判長が入れ替わったので、実質的な審理というのもそこからだったように思います。その入れ替わった裁判長というのが判決を出し、その後の再審請求の抗告も「論旨は理由がない」として棄却した小島裕史裁判長でした。

 そういえば一審の判決書には「証拠の標目」のようなものがあって、だいぶん後になって気がついたようにも思いますが、被告訴人安田繁克のものだけがなかったように思います。

 それを私は意味のある好意的な指摘と考えた時期がありました。真相の解明のための手段、方策であると考えたのです。そうとでも考えなければやりきれなかったということもあるかと思いますが、不信を募らせて起こしてしまった事件について、さらに混迷を深めるような状態にさらされたのです。

 木梨松嗣弁護士は私を精神的に追い詰め、精神の破綻を狙ったとも考えます。木梨松嗣弁護士が控訴審の刑事弁護としてやったことは、私に精神鑑定を受けさせたことぐらいでした。

 記憶がはっきりしなくなっていますが、木梨松嗣弁護士が最後に接見に来たのは平成5年の4月か5月ではなかったかと思います。極めてはっきりとしていることはその平成5年の3月1日から3月31日まで、私は精神鑑定で金沢大学附属病院の精神科閉鎖病棟に入院していたということです。

 3月31日の午後には金沢刑務所の拘置所に戻っていたのですが、それから半月以内か比較的早い段階で一度は木梨松嗣弁護士の接見がありました。

 その後、公判で精神鑑定を行った山口成良教授の証人尋問があったことははっきりと場面を憶えています。たぶん、これが同年つまり平成5年9月7日に判決が出る前の最後の公判になったのだと思うのですが、7月の初めの頃ではなかったかと思います。

 もうその段階では木梨松嗣弁護士の接見もなく、接見の要望にも全く連絡を寄越さない状況になっていたと思います。先の見通しも全く立たなくなっていましたが、ある日、名古屋高等裁判所金沢支部から書面が届き、そこに次回公判期日として9月7日の判決公判のことが書いてありました。

 その前の段階からになると思いますが、私は繰り返し木梨松嗣弁護士に宛てた手紙で、市場急配センターの関係者らの供述調書を読みたいので差し入れをして欲しいと頼んでいましたが、これも一切無視をされて、全くなんの連絡もないまま判決を迎えました。

 「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」には書いたように思いますが、9月7日の控訴審の判決当日、言い渡しを受け金沢刑務所に戻った私は、拘置舎に戻る前の母親との面会で「人権委員会を呼んでこい」と声を上げ、アクリル板を手で叩きつけて、保護房に収容されたのです。

 保護房には3日ほど入っていて初めの49時間ほどは革手錠をつけられていました。そのあと拘置舎には戻されましたが、自殺防止の突起物のない部屋に入られ、そこで10日から半月ほど過ごす間に、懲罰の審査と決定を受けました。

 久しぶりにふと思い出したので懲罰の期間が正確に思い出せなくなっています。懲罰の間は手紙を書くことも本を読むことも裁判の書面を書くことも一切出来ず、正座と安座を繰り返すだけの日々を送っていました。

 すっかりと空きらしくなった頃に懲罰が終わり、普通の拘置所での生活が出来るようになりましたが、手紙や電報で何度連絡を入れても、木梨松嗣弁護士からの対応はいっさいありませんでした。

 今は、インターネットで裁判に関する情報も多く出回っていて、それがでたらめだとか注意を喚起する弁護士もいますが、平成4,5年の当時というのは、まるで情報がありませんでした。金沢西警察署にいた時も私はずっと単独収容で話し相手もいませんでした。

 そのうち上告審の最高裁判所から弁護人選任回答の書面が届いたのですが、その時点でも私は控訴審と同じ木梨松嗣弁護士に上告審の弁護人もお願いするつもりでいました。経過を知っている唯一の弁護士あり、他の選択もなかったのですが、とにかく取っ掛かりというものが一切与えられずにいました。

 懲罰があけたのは月の中頃だったように思うのですが、これは10月かあるいは11月の中頃ということになりそうです。懲罰が何日だったのか思い出せないのですが、25日だったような気もしてきました。25日だと10月の中頃には終わっていたことにもなりそうです。

 懲罰が明けた後は前だけを向く気持ちで書面の作成に取り組んでいました。これは控訴審の上申書として作成していたものが中途で判決によって打ち切られ、その後の懲罰期間のブランクもあって断絶していたものを確かそれまでの続きという意味で平成4年1月以降のことを集中的に書いたように思います。

 細かいことは現在の記憶で思い出せませんが、その平成5年の11月中には上告審の国選弁護人として斐川雅文弁護士が決まっていたように思います。市場急配センターの関係者の供述調書を送って欲しいと頼んだところ、意外にすんなりと送ってくれました。

 最高裁の上告審はまず出廷することもありませんし、弁護人とのやりとりというのも手紙のみでした。接見などあるはずもなく、顔も年齢も全く知らない住所と名前以外は知らない弁護士との関係でした。

 斐川雅文弁護士について記憶にあるのは住所が東京の千代田区である法律事務所に斐川雅文弁護士と添えられていました。覚えやすい聞いたことのなるような名称で「鈴木邦男法律事務所」となっていたように思うのですが。記憶に100%の自信はありません。

 斐川雅文弁護士についてはこれまで何度かインターネットで情報を探しまわったことがあるのですが、いっさい情報は見つかりませんでした。数年ぶりになるかと思いますが、今一度Googleで検索をしてみたいと思います。

斐川雅文弁護士 - Google 検索 https://www.google.co.jp/#q=%E6%96%90%E5%B7%9D%E9%9B%85%E6%96%87%E5%BC%81%E8%AD%B7%E5%A3%AB

 検索結果の一ページ目だけ目を通しましたが、すべて私が過去に書いた記事の関係のようでした。不思議なことですが、斐川雅文弁護士からの郵送の封筒というのもずっと前から一切見つからずにいます。上告趣意書のコピーなどはあるので、そちらには斐川雅文弁護士という名前が記載されています。

 縮小版とある供述調書のコピーは全て斐川雅文弁護士から一度に郵送されてきたものです。郵送が届いたという知らせがあったのは11月の終わり頃だったという記憶になっているのですが、所定の願箋という手続きをやって、房内の手元に入ったのは12月の初めになっていたという記憶になっています。

 冒頭の被告訴人安田繁克の供述調書もその時に初めて目にしたものですが、私自身もう長い間目を通していませんし、手書きの非常に読みづらい書面となっています。

2015-07-17 金曜日 16:50 << [[ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]<<




|

« 社会生活上の危機感における被告発人・被告訴人らの実名公開について | トップページ | 木梨松嗣弁護士(金沢弁護士会)によって踏みにじられた憲法上の裁判を受ける権利と、その価値を社会に問うための供述調書の実名公開 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 控訴審の私選弁護人であった木梨松嗣弁護士の連絡対応拒否と上告審で郵送された関係者の供述調書 :

« 社会生活上の危機感における被告発人・被告訴人らの実名公開について | トップページ | 木梨松嗣弁護士(金沢弁護士会)によって踏みにじられた憲法上の裁判を受ける権利と、その価値を社会に問うための供述調書の実名公開 »