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2015年7月17日 (金)

木梨松嗣弁護士(金沢弁護士会)によって踏みにじられた憲法上の裁判を受ける権利と、その価値を社会に問うための供述調書の実名公開

木梨松嗣弁護士(金沢弁護士会)によって踏みにじられた憲法上の裁判を受ける権利と、その価値を社会に問うための供述調書の実名公開

2015-07-17 金曜日 17:18 >> [[ ←これからの記述範囲の開始時刻]]>>

 先ほどの項目は書いているうちに見出しのタイトル名を勘違いしたまま進めてしまったので、整合性を保つためタイトル名の方をあとで変更しました。

 憲法上の問題というのは非常上告として検察庁に職権発動を促す問題でもありますが、とかく程度を超えて検察や警察を悪しざまに引っ掻き回すようなジャーナリストや弁護士も散見されるので、その前提としての事実を取り上げて説明したいと思います。

 事実の一資料として関係者の供述調書の一部を公開しましたが、その内容については個々に取り上げないところから始めたいと思います。23年ほど経過した事実ではありますが、まずは現在の私の頭の中に残っている記憶によって事実の説明を書きたいと思います。

 資料を読み返せば、新たに思い出すこともあるかもしれませんが、大筋はその必要いもない程度の記憶が残っており、大事なところを指摘できるかと思います。記述の量をいたずらに増やさないという配慮もあります。

 正確な事実を書くとなるとプライバシーの問題も相対的に大きくなるかと思いますが、木梨松嗣弁護士がその立場を利用して、私の裁判を受ける権利を侵害するとともに、被害者およびその家族の本来的な利益を根こそぎ踏みにじったままの違法状態が20年以上経過していることを重視していただきたい。

 私と被害者及びその家族との関係においては、それだけでも書くべき事情や経過が沢山あるのですが、関係が途絶したのは平成18年の10月以降になるかと思います。

 これまでは金沢地方検察庁への木梨松嗣弁護士を被告訴人とした殺人未遂容疑での刑事告訴を優先的に考えてきたのですが、私自身の今後の生活の立て直しということも考えると、国の機関としての検察庁だけではなく、自治体の機能としての石川県警察に確実、的確な問題把握を求める必要に至りました。

 主となる事件は平成4年4月1日に私が起こした傷害・準強姦被告事件ですが、その関連で平成11年8月には平成4年の事件の被害者の拾の父親に対する傷害事件にも発展しております。

 基本となるのは平成4年の事件で判決が出て確定していることから、救済の道は再審請求しかなく、終わった事件に対していっさい対応は出来ないと言われた時期もありました。

 生活保護の担当者も含め、以前とは対応が違っているような感じを持つようになって一年以上は経つと思いますが、契機として思い当たるような節といえば、Twitterのカバー写真に「被疑事実殺人未遂 被告訴人 木梨松嗣弁護士(金沢弁護士会)」と書いたことかとも思われます。

 木梨松嗣弁護士を刑事告訴することは金沢地方検察庁の担当者と繰り返し話してきたことで、告訴状を出してもらわないと始まらないと言われて長く経つ問題であり、私は事実関係を含め確固たる信念を持ってやってきたことであります。

 とはいえ、そういう意識を持てるようになったのも比較的最近になってからのことで、最初から数えると20年ほどの年月がかかったとも思います。説明する側の私自身が理解し気がつくのに20年ほどの歳月と20年に一度の機会が重なったということになります。

 「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」では詳しく書いたと思いますが、2012年8月13日のことです。

 私は長い間、日付を12日と勘違いしていた形跡があり、12日と間違って書いているところもあるかもしれません。お盆休みという感覚もなかったので休みの始まることの多い13日より一日前倒しにして記憶が変容していったのかもしれません。

 それも偶然とは思えないところがありましたが、珠洲警察署に電話を掛けて、珠洲警察署に向かって出かける直前に京都の親戚から電話があったことです。その偶然性に触発されたところもあったのかと、今思いますが、私はその時初めて私選弁護人のことを尋ねました。

 私の母親は男2人女3人の5人兄弟で、その人は長女である母親の妹で次女になるのですが、その旦那の紹介になったのが木梨松嗣弁護士だと聞いていたからです。そのことを確認したのですが、頭から否定され、母親は被告訴人OKNの紹介だと話していたと。

 その時は、私の友達の紹介と言っていたかもしれませんが、次回会った時にははっきりと被告訴人OKNの名前を出していました。いつ頃かはっきりと思い出せなくなっていますが、長男のおじさんの遺影を持ってきた時のことで、これからの住まいのことも色々言われました。

 母親からはその長男のおじさんが木梨松嗣弁護士への弁護士費用を工面してもらったと聞いたように記憶していたのですが、実際にお金を出したのは次女の夫婦の方で、その金額も母親から30万円と聞いていたものが、50万円ということで随分と驚きました。

 亡くなった長男のおじさんとは2009年の9月の10日頃に会いました。親戚一同が集まって8月31日に脳梗塞で倒れ半身不随となった母親のことについて相談をしたのですが、その後、難病にかかり管で栄養分を体内に入れるような状態になっていると聞いていました。

 その後、電話で亡くなったとは聞いていたのですが、奥さんが遺影を持って宇出津の家に来た日のことも、今はいつ頃だったのか、さっぱり思い出せなくなっています。

 その後、次女のおばさんの方も体調を悪くし長い間病院に入っていると聞いていたのですが、二月ほど前の末の3女のおばさんからの電話で、いくらか体調が良くなり自宅で静養しているような話を聞きました。

 母親本人に聞いておけばよかったと思われるかと思いますが、私は平成9年1月18日に福井刑務所を出所した時、母親を連れて迎えに来た被告訴人OSN、被告訴人OKN、被告訴人KYNの異様な態度を見て、警戒心を強くしていたので、母親を刺激するようなことは避けました。

 木梨松嗣弁護士についてもほとんど会話はなかったのですが、一度だけとても残念そうに「はいだるい弁護士やった。」と一言つぶやいたことがありました。

 「はいだるい」は能登の方言ですが、今ではほとんど耳にすることもなくなった方言の一つです。期待はずれ、頼りない、と言った意味になるかと思いますが、能登の風土に根ざしたような意味合いもある言葉の一つかと思います。

 その後、末の妹のおばさんにはかかってきた電話の時、母親が元気なうちに自分の裁判や弁護士について、なにか話していなかったかと尋ねたのですが、恥でもあるし自分から話そうとはせず、聞こうともしなかったというようなことを言われました。

 被告訴人OKNらは私に対しても再審請求など過去の事件にこだわるようなことはやめろと、再三言っていたぐらいなので、母親も被告訴人OKNらかの影響はそれなりに受けていたのかと思いますが、もう普通の会話は成立しない状態なので何も聞くことはできません。

2015-07-17 金曜日 18:50 << [[ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]<<




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