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2015年7月

2015年7月29日 (水)

被告訴人安田繁克と被告訴人多田敏明の組織的犯罪計画への関与を伺わせる事実/平成4年2月1日の夜のこと/信号待ちでの声かけから

被告訴人安田繁克と被告訴人多田敏明の組織的犯罪計画への関与を伺わせる事実/平成4年2月1日の夜のこと/信号待ちでの声かけから

2015-07-29 水曜日 05:59 >> [[ ←これからの記述範囲の開始時刻]]>>

 次がGoogleマップの位置情報のURLになります。平成4年2月1日の夜、被告訴人安田繁克が帰宅のため信号待ちだった私の車に声を掛けた場所です。

36°34'53.8"N 136°37'57.9"E - Google マップ https://www.google.co.jp/maps/place/36%C2%B034%2753.8%22N+136%C2%B037%2757.9%22E/@36.581604,136.632736,17z/data=!3m1!4b1!4m2!3m1!1s0x0:0x0?hl=ja

 もう23年以上経ってしまったので鮮明に思い出すのも難しくはなっていますが、信号待ちで停車しているとき横の窓をノックされて気が付きました。彼は車を降りて歩いてきていて、後ろを振り返ると、15分ほど前に裏駐車場を通過した大きな車が停まっていました。

 被告訴人多田敏明を探している、と声をかけてきました。大きな交差点の手前で車をとめて話をするのも危険な場所だったので、私がすぐにその場の判断で、市場急配センターの休憩室に行って話をしようと答えたように思います。

 既に書いていますが、午前中の被告訴人東渡好信の話で、被告訴人多田敏明が4トン車で古河の市場に行っていて23時ぐらいには戻るということを知っていました。

 それまで一緒に被告訴人多田敏明の帰りを待つのに、このまま休憩室で待っていようと提案しました。被告訴人安田繁克に声を掛けられたのは23時から遅い時間でも23時30分頃だったと思います。

 被告訴人安田繁克とは一度じっくりと話をしたいと考えていたので、これはいい機会だと思いましたが、会社の側のお膳立てかもしれない、という気はしていました。

 休憩室に戻って15分から30分も掛からないぐらいで、被告訴人多田敏明が来ましたが、被告訴人安田繁克との間に会話らしい会話もなく、ちょっとだけいてすぐに帰宅したように思います。

 被告訴人多田敏明はその時、なにか気まずそうな浮かない顔をしていましたが、それは私に対して隠し事をしていたのが原因とも、被害者AAさんに対する横恋慕が原因とも思える真意の測りがたいものでした。

 私が被告訴人多田敏明に被害者AAさんとの関係を相談のように話したのは前年になりますが平成3年の12月の中頃だったと思います。同じ頃に、被告訴人OKNにも相談をして、被告訴人安田敏にも相談をしたうえで、クリスマスにプレゼントを贈ることにしたのです。

 被告訴人安田繁克には平成3年10月の初め頃には相談をしていました。彼は片町でバーテンの仕事をしていたので、今時の若者の恋愛事情や感覚にも通じているという感じで、それらしいことも話していました。

 被告訴人安田繁克が片町で働いていたという店について、最後の方に長い間働いていたという店は、薬物の密売事件に関連したということで名前も書けないのですが、ら、から始まり、ば、で終わる4文字のカタカナの店名です。

 「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」では細かく書いたと思いますが、時期は今のほうが思い出しにくくなっていると思います。被告訴人安田敏が初めに片町で働いたという店が「ハートブレイク」という店名らしく、旧大和デパートのラブロの裏辺りにあるという話でした。

 そのハートブレイクという店にはけっこう長くいたようですが、一度だけ片町で一緒に遊んだ時には、ちょっと前にやめたところで、不本意なやめかたになったとか愚痴のようなことをこぼしていました。

 これも「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」には細かいことを書いていると思いますが、最後に小立野で飲んだ夜のことです。

 夕方に新神田の陸橋の手前の家電店の前のバス停からバスに乗って行きましたが、上着など着ておらず夜になってもまだ暖かい時期だったのだと思います。その夜の被告訴人安田敏との別れが哀愁を帯びたものになったためか、木枯らしの秋のイメージが強く残っています。

 金沢市場輸送の仕事をしていると果物や鮮魚でも季節感がありました。たとえば秋のサンマや冬のミカンですが、その当時の状況からもやはり秋口だったという印象が残っています。

 ただ、平成3年4月の被告訴人安田敏との再会から逆算すると、けっこう間があいていたと思うのです。一方で一年以上の間はなかったというような感覚も残っています。

 日によって気温差があるのは当然ですが、9月中となると夕方でも暑さを気にしていたような思いもしているのです。10月になると夜の寒さを気にしたようにも思えてくるのですが、そういうことを気にせずにラフな格好で何も持たずに出掛けたと記憶に残っています。

 金沢市場輸送で長距離運転手の仕事をしていたとこも、体調の管理というのは自己責任ではねかえるので、けっこう気にしていたと思います。

 書きながら引っかかっていた時期ののことですが、やはり平成2年9月と仮定しても短すぎる気がしました。なぜなら、被告訴人安田敏は小立野で別れた後、4文字カタカナの店で働くようになったとすると、その期間がすごく短くなるからです。

 また書いているうちに気がついたのですが、片町で会った時にやめたばかりだと愚痴をこぼしていた店が、4文字カタカナの店だとすると期間が短すぎるという問題は解消しそうです。

 正確ことを記憶の整理で書いておこうと思ったのですが、あれこれ考えるうちに余計に混乱してきました。市場急配センターで一緒になってから、片町でバーテンをしていた頃の話を色々と聞かされたのですが、それによればやはり4文字カタカナなの店は、小立野の後だったような気がします。

 ただ、小立野で別れた時の酔いつぶれた被告訴人安田敏の様子が尋常ではなかったので、あそこから復活して片町でバーテンをしていたというのも考えにくいという気もします。なにかバーテンという職業に挫折したように見えていたからです。

 それも全て目的を持った演技だったとすれば、それはそれで合点が行くのですが、だとすれば計画そのものが壮大なものになります。

 被告訴人安田敏のことはまた別に取り上げて書く予定ですが、平成4年2月14日のことを中心にまとめて書きたいと考えています。

 この項目の対象は被告訴人安田繁克ですが、彼のこともまとめたものを書いておきたいところです。ここでは2月1日の夜、ということで書いていますが、改めて考えてみると被告訴人安田繁克と会ったのも、あの夜が最後ということになりそうです。

2015-07-29 水曜日 07:42 << [[ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]<<


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2015年7月28日 (火)

被告訴人安田繁克の組織的犯罪計画への関与を伺わせる事実:平成4年2月1日の夜のこと:周辺事実を含み裏駐車場での車の目撃まで

被告訴人安田繁克の組織的犯罪計画への関与を伺わせる事実:平成4年2月1日の夜のこと:周辺事実を含み裏駐車場での車の目撃まで

2015-07-17 金曜日 23:28 >> [[ ←これからの記述範囲の開始時刻]]>>

 この事実は被告訴人安田繁克本人が供述調書において述べている事実でもありますが、確か時期が曖昧で、私つまり廣野秀樹の方から因縁をつけてきたということになっているかと思います。

 信号待ちの停車中に、私つまり廣野秀樹が車を割り込ませてきたので驚いたというような供述もしていたかと思います。

 実際には信号待ちで停車中だった私に、確か車から降りてきた被告訴人安田繁克が声を掛け、被告訴人多田敏明を探していると話を持ちかけてきたのです。

 この平成4年2月1日は土曜日で私は福岡県福岡市の須崎埠頭行きのミール24トンを積み込んでいました。普通はちょっとない運行でもあったのですが、月曜日の朝に出発をして夕方に予約を入れていたフェリーで神戸から北九州の門司港に行くことになっていました。

 実際、私は運行のことを深く考えずに、会社の指示のまま月曜日の朝に会社に出社してから福岡に向け出発をしたのですが、出発してから時間の計算をすると夕方のフェリーの時間に間に合わない可能性が浮かんできたのです。

 福井県の敦賀インターで北陸道の高速を降り、琵琶湖沿いの国道161号線経由で神戸まで行くつもりでいたのですが、京都市内などの渋滞の程度によってはフェリーの時間に間に合わない気になってきました。

 久しぶりに通る道だったので時間の計算にも余り自信はなかったのですが、フェリーの乗船時間に遅れたら大変なので、そのまま米原のバリアから名神高速に行くことにしたのですが、回避したかった危惧が的中して検問を受け、重量超過で切符を切られました。

 トラックの運転に集中できなかったことも検問のリスクはあるものの名神高速を選んだ理由でした。会社の出発直前に前年11月の月末から被害者AAさんが続けていた自分の軽四の会社裏駐車場への駐車をやめ、会社前に駐車するという行動を見せていたからです。

 福岡に向けて出発したのは月曜日の2月3日のことですが、被告訴人安田繁克と出会い話をすることになった2月1日のことに説明を戻します。

 午前中の11時ぐらいのことであったと記憶にありますが、市場急配センターの二階の事務所で、被告訴人東渡好信が私の耳に入れるような感じで、今夜トッチが古河から戻ってくる、ということを何か他のことに絡めて誰かに話しかけていました。

 私自身、経験はあったのですが余りないことで、土曜日の午後に古河の青果市場を出発し、その日の夜に荷降ろしをする仕事でした。本来、日曜日は市場が休みなので、土曜日の夜というのは市場が最も静かで無人のような状態でした。

 その荷物は月曜日の未明の競りになるので、本来ならば日曜日の日中から夕方に降ろすことが多い荷物でした。極端に言えば月曜日の朝5時に始まる競りまでに市場の売り場に荷降ろしを終えれば良いという荷物です。

 私の時も土曜日の夜に普通に全線の高速道路を使って普段通りに夜のうちに荷降ろしを終えたことがありました。一度か二度のことでしたが、金沢市場輸送ではありえないことだったので、余裕があって休みをくれているのかと考えていました。

 金沢市場輸送の時は休日をできるだけないようにして給料の手当を割増にするというのも常態化していたのですが、市場急配センターでは会社の指示通りに運行することで総額50万円の給料ということに決まっていました。

 金沢市場輸送では他に例のないことで、当日卸の鮮魚を積んでいても下道の一般道を走らされることがあったぐらいでしたので、なおさら違和感を感じていたのですが、それだけ被告訴人松平日出男社長の待遇はよかったということにもなります。

 古河の青果市場では夕市がある日とない日がありましたが、ない日は午後2時ぐらいの出発になっていたように思います。冬場でもまだ外の明るい夕方の時間に富山インターまで来るということもまれにはあったかと思います。

 そんな場合でも富山の市場で荷降ろしをしてから高岡市の市場に立ち寄ると、金沢の市場に着くのは22時頃かとけっこう遅い時間になっていたように思いますが、それは大型車の荷物だったので積み荷の量も多く、荷降ろしに時間もかかっていたのだと思います。

 夕市のある場合は20時ころの出発が多く、遅い時は21時ころの出発となって、雪のある時期はかなり時間的に厳しい運行にもなっていました。そういうこともあったので、古河の仕事は嫌がる運転手が多く、私に回ってくることも多くなっていました。

 基本は富山、高岡、金沢、福井という市場の4箇所卸でしたが、荷物の多い時はそれを大型車2台やプラス4トン車一台に分けるので、卸先の数も減ってかなり仕事も楽になっていました。

 また、基本的に福井分は金沢の市場のなかの駐車場で中継として4トン車に積み替えることになっていましたが、4トン車には載り切らないかもしれないぐらい多い時は、中継の4トン車の運転手を同乗させて、そのまま大型車で福井に行くこともありました。

 この福井中継をよくやっていたのが被告訴人多田敏明と被告訴人梅野博之でしたが、私が梅野博之を同乗させて福井に行ったような憶えはなく、そのうち福井中継があるときはほとんどが被告訴人多田敏明ということにもなっていたかと思います。

 その頃になると被告訴人多田敏明は日野の新車に近い4トンウィング車にほぼ専属で乗務するようになっていました。市内配達よりは長距離の仕事を手伝うことが多くなっていたとも思います。

 平成3年の12月頃には被告訴人多田敏明はそういう仕事をするようになっていて、一緒にいる時間も長くなりました。個人的に言葉を交わすようになったのも11月中のことでしたが、それも被告訴人東渡好信のベルトコンベアの指詰め問題が、きっかけにもなっていました。

 「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」で書いたのか現在の私の記憶では自信が持てませんが、そのいかにもわざとらしい自作自演の可能性の高いベルトコンベアの指詰めの怪我をきっかけに、被告訴人東渡好信は事務所で配車係をするようになりました。

 平成4年の12月の後半にはミールの倉庫移動が始まるようになっていて、フォークリフトでの積み込み作業などで事務所にいないことも多くなっていましたが、狙っていた計画を実現したような立場で好き勝手に会社の仕事をするようになっていました。

 被告訴人東渡好信が会社でそのような立場に立てたのも、七尾市の丸一運輸の仕事を引っ張ったからだと言われてもいましたが、今考えても古河便の他は七尾の丸一運輸の仕事が多く、あれがなければ長距離の運行が成り立っていなかったようにも思えます。

 古河便というか古河の青果市場での山三青果の仕事は、もともと市場急配センターの請負というかたちで金沢市場輸送がやり始め、私も金沢市場輸送でその仕事を初めからやっていたのですが、最初は平成2年の12月だったように思います。

 湾岸戦争が起こった当日の平成3年1月17日は金沢市場輸送で日野の新車のウィング車に乗務するようになっていました。少し早かったのか同じ日野の大型ウィング車には当時の珠洲郡内浦町新保出身というKOが乗務し、もう一台の三菱ふそうの新車には小坂さんが乗務。

 当初の新車のウィング車はこの三台だったと思います。しばらくするともう2台の新車が追加されましたが、一台は被告訴人東渡好信が乗務し、それが三菱ふそうだったと思いますが、もう一台は輪島の浜上さんが乗務をして、こちらは日野だったのか記憶がはっきりしません。

 追加の2台は4月中だったように思いますが、だいたい2ヶ月遅れということになるかと思われます。今振り返ると4月の終わりから5月のゴールデンウィークの頃には被告訴人東渡好信らが率先してストライキの問題を起こしていたので、いよいよ怪しい策略に見えてきます。

 このストライキのゴタゴタの時期に、私に連絡を寄越し金沢市場輸送から市場急配センターへの入社につながった登場人物が被告訴人安田敏でもありました。

 「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」の方でも書いていると思うので、どの程度のおさらいをしておくか迷うところでもありますが、とても重要なポイントは私が市場急配センターに移る時点で安田は二人いたということです。

 それが市場急配センターで仕事をするようになってすぐ一人の安田はすでにやめていていないと聞かされたことでした。そのもう一人の安田というのが被告訴人安田繁克のことです。

 まただんだんと内容が項目名がからずれているので、平成4年2月1日のことに戻します。

 被告訴人安田繁克が以前被害者AAさんと付き合っていたらしいということは1月21日の夜に被告訴人HTNから聞かされていました。まったく意外な話だったので衝撃も大きかったのですが、それは意外さ故の不信感が何よりも大きなものでした。

 その1月21日の夜というのは会社の裏駐車場で彼女と3回目に会って話をし、喧嘩別れをした直後に、憤慨していた私に声を掛けて自宅のアパートに誘ったのが被告訴人HTNだったのです。

 喧嘩別れという表現もどうかと思う出来事でしたが、これも実際にどういうことがあったのか具体的に詳しく書いておく必要があるので、別の機会にしたいと思います。

 彼女が18時頃まで会社に残っていることは11月26日の例外を除いてほとんどなかったので、その後の経過の時間を多めに見積もっても一階の運転手の休憩室に戻って被告訴人HTNに声を掛けられた時間は19時から遅くても20時の間かと思います。

 その時もほとんどの大型車の運転手がその場に居合わせたように思いますが、2月1日の夜というのもそれに近い状況というかシチュエーションがあって、それがかなり例外的に遅い時間まで続いていました。

2015-07-18 土曜日 01:30 << [[ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]<<



2015-07-24 金曜日 10:52 >> [[ ←これからの記述範囲の開始時刻]]>>

土曜日の午前1時30分から6日間中断をしていたことになりそうです。昨夜はモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)との間に思わぬ進展があったのですが、平成4年2月1日の夜のことから記述の再開をします。

 時刻は22時を過ぎて22時半から23時に近い時間だったと思います。その時、市場急配センターの一階休憩室にいたのは、被告訴人東渡好信、輪島の浜上さん、七尾の水口さん、それとこの前に書いたところかと思いますが、河野さんがいたかもしれず、何故か河野さんだけ記憶がはっきりしません。

 印象的に記憶に残っているのは解散する10分ぐらい前、そのメンバーで外に出て裏駐車場を奥の方に向かって歩いていたことです。その前の休憩室での会話の流れで、例えば誰かのトラックの故障などを見に外に出たのだと思いますが、この点も記憶がはっきりしなくなっています。

 市場急配センターの裏駐車場は、事務所の所在地が移転したような情報があるものの、基本的に平成4年当時とそれほど変わってはいないと思います。

 「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」では既に掲載したかもしれませんが、デジカメで撮影した写真があるので、それをご紹介しておきたいと思います。

投稿者:s_hirono(非常上告-最高検察庁御中ツイッター) 日時:2015/07/24 11:32 ツイート: https://twitter.com/shirono/status/624406676607627264
撮影:金沢港・金沢西警察署・金沢中央市場2007年07月21日18時09分05秒.jpg http://t.co/fg9uJFt6I1

投稿者:s
hirono(非常上告-最高検察庁御中ツイッター) 日時:2015/07/24 11:30 ツイート: https://twitter.com/shirono/status/624406383719419908
撮影:金沢港・金沢西警察署・金沢中央市場2007年07月21日18時00分26秒.jpg http://t.co/pt05Cq4oqH

投稿者:s
hirono(非常上告-最高検察庁御中ツイッター) 日時:2015/07/24 11:29 ツイート: https://twitter.com/shirono/status/624406101891493888
撮影:金沢港・金沢西警察署・金沢中央市場2007年07月21日17時59分19秒.jpg http://t.co/tiH6y7w2gv

 これまでに何度も使っている方法ですが非常上告-最高検察庁御中
ツイッター(@s_hirono)に写真付きツイートをやりました。ファイル名が投稿内容になっていますが、これは添付資料としてDVDで提出するものと同一のファイル名です。

 2007年07月21日17時59分19秒.jpgという画像ファイルは市場急配センターの事務所の正面手前から金沢中央卸売市場の裏手の方に向かって撮影をしたものです。この時刻はデジカメの情報であるExif情報からコマンドで自動的抜き出した日付と時間かと思います。

 道路の手前に4トン車が駐車をしていて、その手前の道路沿いの方も駐車場のようになっていて乗用車が駐車していますが、平成4年当時は駐車場などなく田んぼになっていたような気がします。

 また、市場急配センターの事務所の奥の方はその時点で市場急配センターの給油所になっていましたが、平成4年当時は空き地でたまに郵便局の大型車が2台ほど駐車していることがありました。

 平成4年の2月中になるかと思いますが、その郵便局の仕事で中央卸売市場からイヨカンを積み込んで、金沢市内芳斉町辺りの郵便局のホームのベルトコンベアに流すという仕事もやったことがありました。

 被告訴人東渡好信もなにか郵便局の話をしていたような記憶がありますが、今ではその記憶もはっきりしません。石川丸果の課長という人が被告訴人松平日出男と昵懇にしていて、市場急配センターの事務所の方にも出入りをしていたようです。

 2007年07月21日18時00分26秒.jpgの写真の方は裏駐車場の奥の道路から撮影したものです。これは平成4年当時とほとんど変わりがなく、実際の現場のようによく写っている写真です。

 平成3,4年当時と違っていることは、ざっとみたところ10トン車というか大型車の姿がなく、4トン車が多いようですが、運転手のものと思われる乗用車が混在して駐車されています。

 平成4年当時は大型車が多く4トン車が少ないという特徴がありました。新しい4トン車は被告訴人多田敏明が主に乗務した日野のトラックと、余り運転手が決まっていない三菱ふそうの4トン車も一台はあったかと思います。2台とも納車から1年も経っていない新車のような状態でした。

 奥の方から撮影した写真とは説明が逆になりますが、正面から入ると事務所の裏手の左側、中央卸売市場に近い方に大型車と4トン車を駐車し、右手の方は2トン車と運転手の乗用車を混在して駐車するということになっていました。

 大型車はなるべく車体を斜めにして駐車しスペースを多く取るという暗黙の決まりのようなものもありました。また中央より手前の方に止めると乗用車や軽四でも、大型車と変わらないだけスペースを取るということもありました。

 駐車場は事務所の建物と隣接した部分が全て舗装されていたかと思いますが、裏駐車場は砂利道というか未舗装で、ぬかるみや水たまりができていることもあったかもしれません。

 2007年07月21日18時09分05秒.jpgという時刻の写真は、中央卸売市場の立体駐車場につながる螺旋状の通路から撮影したものだと思います。一枚に収まりきれていない部分もあるので不満もありますが、裏駐車場の様子をよく写していると思います。

 いずれも2007年7月の撮影となっておりますが、平成4年当時とそれほど変わりはないと思います。見たとおり街灯のようなものもほとんどなかったように思いますが、立体駐車場の螺旋の通路の向こうは石川丸果の売り場となっていたので、灯りがさすようなこともあったかもしれません。

 そういう石川丸果の仕事ですが、本格的に荷降ろしが始まるのは夜でも22時以降が多かったかと思います。23時頃になると鮮魚の売り場の方もトラックの出入りが多くなります。

 市場急配センターの市内配達の仕事というのも朝がいくぶん早い分、終わるのは16時頃が多かったと思います。17時を過ぎると金沢市内の道路が混みだすということがあったかと思います。当時は若宮大橋もなく、市内の道路の数が現在よりずいぶん少ないものでした。

 土曜日や連休前は市内配達の荷物の量も多くいくらか遅くなっていたかと思いますが、暇を持て余したように夕方に休憩室でぶらぶらしている運転手もいましたが、そういう人の数が多い時と、ほとんど人のいないことがありました。

 私などもそうでしたが17時前に荷物を積んでも出発する時間を18時半から19時頃に調整し、それまで会社にいるということがよくありました。気分的なものもありましたが、渋滞の時間は避ける習慣になっていました。

 当日の長距離運行がない日のことを「あがり」と呼んでいましたが、それも基本は17時まで会社にいることになっていて、ぶらぶらと18時から18時半ぐらいまで会社にいることが多かったかと思います。

 事務所1階の休憩室は、24時間開いていて誰でも出入りが出来たかと思います。シャッターが降りているようなこともありましたが、鍵は掛かっておらず、あるいは鍵自体がついてはいなかったかもしれません。

 中央市場の仕事を手広くやっていたので、24時間運転手が会社に出入りする可能性があるという状態だったとも思います。2階の事務所は鍵が閉まっていたと思いますが、電気が消えているのに2階に上がるようなこともなかったので、施錠のことはよくわかりません。

 たぶん、被告訴人梅野博之あたりは2階の事務所の鍵も持ち歩いていたのかと思います。いちおう運転手に指示を出したり、段取りをするような立場であったからです。

 市内配達の基本は各自が受け持ちのコースを持っていて、そのコースの配達を毎日繰り返すというものでしたが、貸し切りの臨時の配達というのも少なくはなかったと思います。仲買からの成果物をスーパーへの配達が基本だったと思います。

 マルエーというスーパーでは鮮魚の配達もやっていたと思いますが、平成3年に私が市内配達の仕事をやった時は、鮮魚の配達というのはやることがなかったと思います。

 平成4年2月1日の夜のことに話を戻します。被告訴人東渡好信と輪島の浜上さん、それと被告訴人東渡好信の紹介で入社した七尾市の水口さんは、金沢市内に住まいを持たず、週に一度の休日だけそれぞれの家に帰っていたようです。

 市場急配センターの一階の休憩室には4畳半ぐらいの畳の部屋があって、そこで寝泊まりをする姿も何度かは目にしたことがありましたが、見た回数は少なく、たぶんトラックやサウナにでも寝たり泊まったりすることが多かったのではないかとも思われます。

 私も家に変えるのが面倒になるとトラックの中で朝まで寝ていましたし、石川県河北郡津幡町の方にある給油所に寄って、そこで風呂に入って寝ることもけっこうあったかと思います。

 中央市場の周辺は住宅があってもトラックをとめエンジンを掛けたまま寝るというのがごく普通になっていました。当たりまえになっていたので余り気にもしませんでしたが、金沢市場輸送で冷凍機を回したまま寝るときは、トラックにいてもたまらない騒音でした。

 金沢市内でも全く気にしないでエンジンを掛けたままトラックで寝れる場所といえば、北陸道の金沢東インターの側にあるトラックステーションぐらいでしたが、市場急配センターのトラックではほとんど利用した記憶もありません。

 金沢のトラックステーションというのは私が長距離トラックの仕事を始めて、まもなく出来たもので昭和60年ぐらいに出来たように思います。中西水産輸送にいた頃も、けっこう利用しましたが、イワシの運搬のときもけっこう利用しました。

 中西水産輸送の頃は主な仕事先である佐川急便金沢支店が金沢市内木越にあって、トラックステーションに近いという関係もありました。イワシの運搬の仕事では八戸軍団と呼ばれた人たちが、そこで生活をしていました。

 食堂があって初めは24時間営業だったように思いますが、いつ頃からか24時間ではなくなり店の経営も変わってので、それからは余り行かなくなったような気もします。初めは割烹唐沢の食堂だったかもしれません。ずいぶん久しぶりにふと思い出しました。

 市場急配センターの仕事では、大型車で長距離トラックの仕事を始めた平成3年9月の頃には、東京や名古屋に馬鈴薯やメークインのイモを持っていく仕事が多く、東京からはオレンジやレモンという外国産の果物を運んでくる仕事もよくありました。

 10月になると茨城県古河市の山三青果の仕事も増えてきたように思いますが、名古屋や大阪にイモを持っていく仕事が多かったように思います。夜中にイモを降ろして、折り返しそのまま金沢に帰ってくるという仕事でした。全線高速です。

 長距離としては仕事らしい仕事言うのがない時期だったとも思います。11月の20日頃になってからは、和歌山県かつらぎ町からミカンを積んでくる仕事が多くなったのですが、他の運転手がいやがる仕事だったので、私には余計に回ってきていたようです。

 このかつらぎ町からミカンを積んでくるという仕事も、被告訴人東渡好信が紹介したという七尾市の丸一運輸の仕事だと聞いていました。ミカンの行き先は金沢市から1時間半ほど掛かる能登半島の七尾市の市場でした。

 必ずであったかどうかも思い出せなくなっていますが、七尾市行きのミカンでは、途中の小松市の市場で荷降ろしをすることも多かったと記憶にあります。辺鄙な場所にある市場で、それまでにも行ったことはありましたが、めったに行く市場ではありませんでした。

 石川県小松市は距離にして金沢市の30キロほど手前になるかと思います。市場の方は加賀市との境にも比較的近い場所でした。

 一度か二度は加賀市大聖寺の市場に立ち寄ったこともありましたが、これも数回しか行ったことのない滅多に寄らない市場で、場所もどの辺りにあったのかよく思い出せません。

 小林運送の仕事で渥美半島の先端からトマトなどを積んできた時も小松の市場で荷降ろしがあり、大聖寺の市場に立ち寄ったのはあるいはその時のことかもしれません。

 かつらぎ農協のミカンを七尾市で降ろし終わり、金沢に戻ってくると夜中の2時から3時ぐらいにはなっていたように思います。そんな時によく津幡の太陽鉱油のガソリンスタンドで給油をして入浴してからトラックで寝ていました。頼んでおくと店員が決まった時間に起こしてくれます。

 この「かつらぎ農協のミカン」の仕事が始まったのが平成3年11月の中頃で、被告訴人HTNが大型車に乗務して長距離の仕事をするようになったのも同じ頃でした。

 被告訴人HTNはもともと2トン車の持ち込みで市内配達の仕事をしていました。その仕事を他の運転手に任せ、長距離の仕事をするようになったようです。もともと市場急配センターの社員ではなかったようですが、詳しいことは聞いていません。

 任せた運転手は北食とかいう会社にいた2人の運転手の一人で、平成3年の8月の終わりには、その北食をやめ市場急配センターの社員になったという話でした。

 もう一人の運転手の方が印象にも残っているのですが、被害者AAさんとも被告訴人安田繁克と同じ年とも聞いていました。金沢市内の大額の方にあるらしい額中学校とも聞いたことがあり、なにやら素行の悪い不良が多いという話も聞きました。

 北食という会社名だったと思いますが、名前だけ聞くとそこそこ大きな会社で食品を取り扱っているように思えますが、よくわからない会社でトラックと運転手を市場急配センターに出向させていたようです。

 社長のような人物が被告訴人松平日出男の知り合いで、なにか右翼団体の幹部のような話を聞いたこともありました。

 何時頃からなのかはわかりませんが、2人の運転手は専属で市場急配センターの市内配達の仕事をしていて、それが市場急配センターの社員になったという話でした。この話は浅野とかいう被告訴人松平日出男の知り合いの入社祝いと一緒に行われました。

 「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」には書いてあると思いますが、金沢市内の東力の焼き肉飛天龍という店で行われた飲み会が、その集まりの名目になっていました。

 朝野ではなく浅野だったと思いますが、いつのまにか自然消滅のような感じで会社からいなくなっていたように思います。やめたという話も話題として聞くことはなかったですが、いつの間にかまったく姿を見かけなくなっていました。

 浅野さんは石川トヨタでの被告訴人松平日出男の同僚であったという話でした。初めに話をした時、いきなり被告訴人松平日出男が横領をやったことはわかっているだろう、というような切り出しだったので、ちょっと普通ではないような感覚は受けました。競馬仲間でもあったようです。

 被告訴人HTNが市内配達の仕事を任せたのが北食にいた一人らしいとわかったのは、昼に中央卸売市場の石川丸果の売り場で作業をしている姿を見かけたからです。これは平成4年の2月ではないかと思います。

 その前に私は被告訴人HTNに誘われて彼の自宅アパートに行き、昼食をごちそうになっていたように思います。もずくのような海藻の味噌汁が出たことが、すごく珍しく印象的でした。

 ごく断片的にしか思い出せなくなっていますが、そのあとに中央卸売市場に行き、北食のもう一人の姿を見たように思うのですが、そこに被告訴人安田敏が来て、荷降ろしを始めました。

 売り場の雰囲気も普段とは違っていたので市場が休みの日だったように思うのですが、これは別の記憶から2月11日の祭日の日だったと思います。祭日が市場の休みだったのかも今は思い出せなくなっていますが、普段とは違っていたので休みの可能性が高く思います。

 北食の2人は今も名前を憶えていますが、二人とも背が高いという特徴がありました。一人は割とがっしりしたスポーツマンのような体つきでしたが、もう一人はかなり痩せた体型でした。被告訴人HTNの仕事を手伝うようになったというのは痩せた方です。

 痩せた方の運転手は真夏でも必ず長袖のシャツを着ていたので、刺青でも入っているのかと思っていたのですが、本人以外から聞いた話では体が細いので、というような話。これは被告訴人多田敏明から聞いたように思います。

 北食の二人は被告訴人多田敏明とは親しそうには見えず、距離感のようなものも感じられていましたが、津幡の山下君とは親しい感じで話をしていたように思います。呼び捨てもなんですので、君をつけましたが、私とは同じ年だと聞いていました。

 津幡の山下君は古参の市内配達の運転手で、はたから見て市内配達の現場を仕切っているような感じでした。立場は被告訴人梅野博之の方が上だったと思いますが、梅野博之より頼りにされているようにも見えましたし、梅野博之の姿は余りみなかったようにも思います。

 市内配達の中では最古参の運転手だったと思いますが、それでも金沢市場輸送の事務所が西念町にあった頃にいたかとなると、思い出せないので、それ以降の入社という可能性も高いかと思います。具体的には昭和63年の7月以降かと思われます。

 古参といえば中川さんの方がはるかに古かったと思いますが。年配で控えめな人でした。被告訴人梅野博之と一緒に、山中温泉キャッスルバーデンホテル(山乃湯での慰安会の時にも姿を見ていたという記憶があります。

 この山中温泉の慰安会は昭和62年の6月頃だったと思います。鶴来の本多という運転手の姿もその時はあったと思います。年は私と同じぐらいでしたが、一つ年下と聞いていたかもしれません。

 彼も昭和61年の9月ぐらいの入社で輪島のMYが入ったのも同じ頃でしたが、市内配達の運転手として入社したMYは、配達している姿を知り合いに見られるのは格好悪いということで、すぐに4トン車で長距離の仕事をするようになりました。年は私の2つ上と聞いていました。

 輪島のMYと鶴来の本多くんは年も離れていたと思いますが、以前からの遊び仲間の知り合いということでした。彼ら二人ともう一人鶴来の市内配達の運転手の4人で、夏に内灘に海水浴に行ったこともありました。

 名前は忘れましたがもう一人の鶴来の運転手は本多君より一つか2つ年下と聞いていたように思います。本多ではなく本田であったかもしれません。

 「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」には書いていると思いますが、高田が市内配達の責任者だったとき、その鶴来の運転手に父親が亡くなったという連絡をストレートに伝え、驚いたことがありました。昭和59年当時と同じ金沢市場輸送の事務所でのことです。

 その後しばらくすると、同じ建物の2階の同じ並びでもう一つの事務所が借りられるようになり、市内配達の運転手はそちらの方に移っていきました。

 そこにはいつも太めの体型の女の事務員がいたと思います。20代の後半か30代の前半だったように思いますが、名前の方は思い出せなくなっています。よくある名前だったとは思います。当時は被告訴人池田宏美も池田ではなく吉村という名前だったように思います。

 結婚していたようですが、金沢市場輸送のある運転手といわゆる不倫の関係になり、そのトラブルで会社をやめたと聞きました。相手の名前も憶えていますが、ここで書くわけにはいきません。なにやら被告訴人本恒夫が厳しい対応をしたような話も小耳にはさみました。

 うわさ話のような感じでもあったので真偽の程もわかりませんが、いつの間にか太めの女性事務員の姿も見かけなくなっていました。真面目そうで小学校か中学校の先生という感じの人でした。二口町に事務所が移った頃にはいなかったようにも思いますが、まだいたような気もします。

 イワシの運搬の時期だったので冬ですが、○西さんのおごりで片町に行ったことがありました。これは平成元年になっていたかと思います。ちょうど昭和から平成元年に変わった頃、あるいは当日にも私は○西さんと二人、臨時の仕事で茨城県の水戸市の百貨店にいました。

 年号が変わったのは1月の7日ころではなかったかと思います。昭和64年は一週間ほどで終わりました。片町に行ったのはその後だと思います。片町は石川県最大の繁華街です。

 片町にはスクランブル交差点というのがあるのですが、初めに待ち合わせたのはその交差点の角の居酒屋だったように思います。2階より上のある店だったと思います。角は金劇の並びの角になります。

 被告訴人池田宏美とその市内配達の女性事務員の姿もあったように思います。輪島のMYも一緒だったのですが、たまたま誘ったタイミングもあったのか、けっこう意外なメンバーでした。花馬車というキャバレーにも行ったように記憶に残っています。

 これを考えると二口町に金沢市場輸送の事務所が移転した後も、太めの女性事務員の姿はあったように思えるのですが、被告訴人松平日出男とその女性事務員の姿を一緒に見たという記憶は残っていません。

 私の記憶が正しかったならば、被告訴人松平日出男が金沢市場輸送で姿を見せるようになったのは、昭和63年の9月のはじめかあるいは8月の終わり頃のことです。すぐに市内配達の新しい責任者として入ったというような話を聞きました。

 金沢市場輸送の事務所がそれまでの西念町から二口町に移転したのはその昭和63年の7月だったと思います。年としてはあまりはっきりと記憶がないのですが、時期的には7月の初めの頃であったと季節的な感覚が残っています。

 山中温泉に行ったのはその前年で昭和62年だったと思うのですが、その時は西念町事務所があって、北國銀行中央市場支店の前から送迎の小型のバスに乗り込んだことをよく憶えています。

 その小型のバスにはK林さんの姿もありました。「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」には書いたように思いますが、片山津インターを降りた辺りで、走行中のバスから小便をしようとしたり、ずいぶんと酔って騒いでいました。

 改めて考えてみても、出発の時点であれほど酔っていたのは尋常ではなさそうです。平成2年ぐらいの時に25歳、あるいは27歳と聞いていたので、その時も20代の前半だったということにもなりそうですが、前職は石川県警察の交通機動隊員で白バイに乗っていたというのです。

 ホテルではかなりの広さの大部屋で雑魚寝のような状態でしたが、K林さんはまったく動じずに爆睡していたのも印象的でした。宴会のような食事がその前にあったと思うのですが、そこで姿を見たような記憶もなく、既に酔いつぶれていたのかもしれません。

 「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」ではK林さんについて詳しく書いたように思いますが、最高裁判事の息子、父親が最高裁の判事だと話していました。当時は裁判官のことを判事と呼ぶのも珍しかったような気もしますが、判事というのを強調しているようにもみえました。

 鬼頭判事という言葉だけは昔のロッキード事件の時代のニュースで繰り返し聞いた記憶があったので、判事というのは裁判官のことらしいと理解は出来たのですが、他には裁判官のことを判事と呼ぶことはなかったように思えます。

 相当な恐妻家にも見えましたが、日頃のストレスの蓄積が開放された瞬間に多量の飲酒となって、早々と酔いつぶれる結果になったのかもしれませんが、よほどの根っからの酒好きでなければ、短時間にあそこまで酒にのめり込むことはなかったようにも思えます。

 はっきりと飲酒運転をしている現場というのも見てはいないような気もするのですが、金沢港でのイワシの運搬の現場では、ウサギの絵を描いたポンコツのワゴン車の運転席で焼酎の大きなペットボトルをラッパ飲みする姿が印象的でした。

 ラビット号とも呼んでいましたが、市場急配センターとも書いてあったように思います。当時、ペットボトルの大きな焼酎というのは割と珍しく、出回るようになってそう時間も経っていない時期だったように思います。

 樹氷という銘柄だったということも記憶にありますが、焼酎というのは当時、ものすごく古臭い飲み物という印象があり、私も抵抗がありました。若者にも受け入れられるようになったのは、その数年後に、缶チューハイが出回るようになってからのように思います。

 缶チューハイで記憶に残っていることと言えば、金沢市場輸送の平ボディ車でミールを積んで新潟県の村上市より奥の方の場所に行った時のことです。当時、新潟県には頸城郡や蒲原郡というのがあったのですが、住所もそんな感じでした。山形県との県境にも近い辺りです。

 養鶏場に養鶏の餌としてミールを持っていったのだと思いますが、夜中に現地に到着してから買ってきた缶チューハイを飲んだのですが、思いの外酔っ払ってしまい、外に出たところ足元がふらついてしまったのが、とても印象的でした。

 もう一つは、被告訴人OKNや被告訴人KYN、それに富来のOT、婿養子になって名前も変わったSMもいたように思うのですが、金沢市内八日市の焼肉屋に行った時のことで、その時、チューハイを飲んでずいぶんと酔っぱらい、店を出てから外の線路の踏切に這いつくばった思い出があります。

 集まって飲みに行くことは少なくなっていましたが、他に記憶にあるのは、どこかで飲んだ後、金沢市藤江のバイパスレジャーランドとかの中にあるカラオケハウスに入ったことでした。それが集まった最後だったようにも主ますが、時期もはっきり思い出せません。

 また、平成4年2月1日の夜のことに戻したいと思います。津幡の山下君についても書いておきたいことがいくつかありますが、そちらもまた別の機会にします。

 その津幡の山下君が市内配達の仕事をやめ、大型車の長距離の仕事をするようになったのも平成3年の11月に入ってからだったと思います。最初の頃、一緒に能登有料道路から七尾市の方に行ったことがありました。

 2台の大型トラックで別々に行ったように思いますが、柳田インターより以北でなにかうろうろした記憶があります。柳田インターは羽咋市内の外れですが、金沢からそこまでは主に海岸線の道路で、柳田インターを過ぎてからは山間部の方に入っていくという地理的特徴もありました。

 普通、七尾市内に向かうには今浜インターか柳田インターに降りるのですが、それよりも以北のインターで降りて七尾の方に向かったようです。たぶん地図で見たところ、目的地に近そうだと判断したのだと思いますが、ちょっと道に迷ったような状況になりました。

 たぶん荷物を積みに行ったのではと思いますが、七尾市内で何を積んだのかも思い出せなくなっています。その後、丸一運輸の仕事で七尾から荷物を積む機会が多くなりましたが、それは能登木材か林ベニアと決まっていました。どちらも七尾の港の富山県に近い場所になります。

 この方面に向かうときは、まず今浜インターで降りていたと思います。Googleマップで確認すると国道159号線になるかと思いますが、ちょうど七尾市内の港に近い辺りに出ます。この交差点を右折すれば富山県に向かいますが、能登木材も林ベニアもその途中にありました。

 津幡の山下君と七尾にいたのは天気の良いまだ暖かい時期で、10月中だったような気もします。市内配達の仕事をやめ長距離をしたいと言ったところ、会社から反対され、だめなら会社をやめると言ったところ了承を受けたと話していました。

 その後、今考えると不思議なぐらい長距離の仕事で一緒になることはなかったのですが、会社ではちょこちょこと姿を見かけていました。それもまた別の機会に書きます。

 和田君が入ったのも同じ平成3年の11月頃だったと思います。和田君とは初対面ではなく、一時、金沢市場輸送で長距離の仕事をした時期があったのですが、長くて半月ぐらいになるでしょうか。すぐにやめていなくなっていました。

 その時は目立たず、人見知りの傾向があるようにも見えたぐらいなのですが、市場急配センターに入社した時は初めから明るく気さくな感じで、まわりともすぐに打ち解けたような感じになっていたかと思います。

 和田君も被告訴人東渡好信の紹介で誘われて入社したという話になっていたかと思いますが、後で本人が以前、木材の仕事で被告訴人東渡好信や輪島の浜上さんと一緒に仕事をしていたと話していました。

 被告訴人東渡好信と輪島の浜上さんが木材の運送の仕事をしていたということは、それまでにも何度も聞いていましたが、大型車でもトレーラーの運転手だと聞いていました。和田君はトレーラーではない大型車に乗務していたという話でした。

 木材の運送の仕事というのは大型車よりトレーラーの方が多いという感じでした。七尾市もロシアの方から木材の輸入をしていてその関係の仕事が多いと聞いていましたが、金沢市も河北潟に近い辺りはかなり木材の置き場や、その運送をするトラックがいました。

 この木材の仕事に関しては宇出津の○田さんのことも書いておきたいと思います。「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」の方で書いたようにも思いますが、守田水産輸送の運転手を始めた時期に知り合いました。

 その○田さんが市場急配センターの一階休憩室に顔を出し、被告訴人東渡好信と輪島の浜上さんの二人と話をしていたのも平成4年の2月中になるかと思います。前にトレーラーが駐車していたように思いますが、城山運輸だったと思います。

 ずっと前から見慣れた会社のトラックの一つで、以前、珠洲市大谷出身のYSさんが、そこでいっとき運転手をしたと話していたような記憶もあります。七尾市や能登の方では余り見かけなかったので、金沢市内の運送会社かと思っていましたが、城山は七尾でよくある言葉です。

 Googleで検索をしてみたのですが、「石川県 城山運輸」の結果で出てくるのは七尾市の会社だけで、金沢市内という情報は見当たりませんでした。画像検索もやってみたのですが、見覚えのあるようなトラックの写真は見つかりませんでした。

 私の記憶では車体は水色がベースで一部黄色のラインが入っていたかもしれません。金沢市内の住所の社名もなにかの機会に見たような気がします。職安での求人募集だったかもしれません。

 木材を運ぶ運送会社で他に記憶にあるのは星崎運輸という運送会社でした。私が最初に金沢市場輸送に入社した頃、大型車の日野の新車に乗務をしていた宇出津のTSさんも、その会社の木材の大型車に乗務をしていた頃がありましたが、トレーラーではありませんでした。

 この星崎運輸は愛知県の名古屋市に本社のある会社だったと思います。金沢市場輸送で何度か帰り荷で連絡を入れたり待機をしたこともあったのですが、荷物は見つからず空荷で帰ったように思います。名古屋周辺で帰り荷を頼む会社は、その星崎運輸だけだったと思います。

 金沢で木材を多く見かけるのは金沢港から河北潟の間でしたが、これはちょうどイワシの運搬で北陸ハイミールや浜田漁業金沢工場に向かう道路と同じになっていました。木材が沢山置いてあるとは思っていましたが、加工場のようなものは見なかったので、県外への輸送が多かったのかもしれません。

 金沢の中央市場での馬鈴薯やメークインの仕事も、北海道から船で金沢港に運ばれてきたものを倉庫に入れ、それを名古屋や大阪に送っていると聞いていました。平成3年の秋は東京の大田市場にもイモを運びました。

 和田君は体重が100キロ以上あって、身長は高めだったのでものすごく太っているようには見えなかったですが、その体重のためか手作業での荷物の積み下ろしの作業が相当きつかったようです。

 体重の方は平成4年の1月、片山津温泉せきや、での慰安会の時、一緒に入浴した時の脱衣場の体重計で見たのですが、100キロの体重計の針を振りきったのはその時初めてみました。年は私より一つか2つ年下だったように思いますが、結婚しているという話だったようにも思います。

 平成4年の2月になってからだったようにも思いますが、彼が一人住まいをするアパートに遊びに行ったこともありました。住所は諸江と聞いていたようにも思いますが、浅野川線の線路に近い場所にあるアパートでした。

 最後に入社したのは前にも書いている水口さんだったと思いますが、あの人だけは平成4年に入ってからの入社であったかもしれません。

 市場急配センターで長距離の仕事を始めたのは平成3年の9月に入った頃が初めでした。初めの運行は被告訴人安田敏と二人で神奈川県に行きました。厚木市ではなかったかと思います。帰り荷は東京の晴海埠頭から外果の果物を積んできたと思います。

 細かく言えば、運行の出発は8月31日だったようにも思います。その運行にさきだって金沢市内の白菊町の方に被告訴人安田敏と一緒に行ったような覚えもあります。

 私が始めて金沢市場輸送に入社した昭和59年には、ここに白菊冷蔵という古い冷蔵庫があって、そこによく行っていました。氷の塊の運搬の仕事でもその白菊冷蔵には決まっていっていたように思います。

 その頃、夏場の氷の運搬は長距離の運転手が合間に交代でやらされていましたが、専属でその氷の仕事をやっていると聞いたのが被告訴人安田敏で、私が中西水産輸送にいた昭和60年の夏のことです。

 「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」にはこれも書いてあるように思いますが、被告訴人安田敏がいるという話を聞き、金沢市場輸送に行ったところ、数日前に岐阜に出稼ぎに行くと言ってやめていったと聞いたのです。

 これが被告訴人安田敏にとって初めての岐阜県海津町のライスセンターの仕事であったと考えられます。

 金沢市場輸送から被告訴人東渡好信、輪島の浜上さん、河野さんの3人が市場急配センターに移ってきたのは、それから一週間、あるいは10日から半月ぐらい後のことだったように思います。

 長距離らしい仕事でローテーションが回るようになったのは11月に入ってからだとも思いますが、その11月には既に書いた被告訴人東渡好信のベルトコンベアの指詰めがありました。それ以来、被告訴人東渡好信が大型車に乗務することはなかったとも思います。

 長距離運転手として被告訴人東渡好信の最後の仕事になったとも思われるのが、古河の市場での被告訴人多田敏明の同行でした。怪我が完治していないので荷作業を手伝わせる、という名目での同行でした。

 それが狙い通りの計画だったのかもしれませんが、その時、夕方の古河の市場で時間を持て余していたことが、私と被告訴人多田敏明の関係の急接近でもありました。それまでは特に言葉をかわすような関係ではありませんでした。

 被告訴人多田敏明のことは早い段階から被告訴人安田敏にいろいろと聞かされていました。市内配達を始めた被告訴人安田敏にちょうど免許停止中だった被告訴人多田敏明が同乗して仕事を教えていたからです。内灘・高松コースになっていました。

 個人的に親しくなったのもそれがきっかけでしたが、それからは仕事で一緒になる機会もとても多くなりました。事件を起こした平成4年4月1日も、翌日の運行は東京への引っ越しの仕事で、それに被告訴人多田敏明を同乗させるように指示を受けていました。

 当日は、被害者AAさんと会うことで頭が一杯だったので、同行させるという指示のことはすぐに忘れてしまったような気もしますが、大型免許を持たない被告訴人多田敏明に東京まで大型車の同行を指示するということは、普通にあり得ないことです。

 時刻は2015年7月26日11時39分になっています。昨夜は迷いもあったのですが天候も良かったので松波の人形キリコ祭りを見に行ってきました。その後家に戻ってからもネットで沢山の発見があって、書いておきたいことが急激に増えてしまいました。

 他に書く予定であったこととの関連もあるので、記憶が新しい間を逃さず今回は書き始めたいところなのですが、ちょうど断片して細かくはありますが、重要と思われる事実を書いていたところでもあります。

 関連する部分が多々あるので、今回は大雑把に書いて、この項目を締めくくっておきたいと思います。

 河野さんを入れた5人、あるいは河野さんはいなかった4人で、上述の説明のような経緯で歩いていたところ、市場急配センターの正面出入り口の方から一台の車が入ってきて、ゆっくりしたスピードで歩く私達の横を通りすぎて、そのまま裏側の出入り口の方を通り抜けて行きました。

 ヘッドライトのかたちからトラックでなく乗用車であることははっきりとしていましたが、車高が高くヘッドライトの位置も高い大型の車で、それだけでもずいぶんと珍しい車でした。

 最近、北海道の砂川市であった飲酒運転による死傷事故。4人家族の3人が亡くなり、一人が重体という報道であったと思いますが、大きな社会問題となり、しばらくの間、連日テレビで取り上げられていました。その中で知ったのが加害車両のピックアップトラックという名前です。

 裏駐車場を通過したのは、そのピックアップトラックと同じと思われる車種でしたが、平成4年の当時でも珍しいものでした。似たような型の車といえば、私が子供の頃にはダットサンというのがありましたが、昭和50年代でも既に殆ど見かけなくなっていたように思います。

 ダットサンは業種としてはタイヤ屋がよく使うものでした。私の父親はタイヤ屋をやっていて、私が3歳ぐらいの時に心不全で亡くなったのですが、家と店舗のタイヤ屋の方は弟分だったような人に引き継がれ、私はその家に小学校の4年生ぐらいまでいました。

 そういう関係でダットサンのことをたまたま記憶していた可能性も考えられるのですが、そのダットサンの復刻版のようにも見える車でした。ただ、ダットサンとは製造メーカーが違って、トヨタの車のように見えました。

 そのタイプの車は、トラック運転手として普通の人の何倍の時間、運転をしていても見かけたことが無いような珍しいものでしたが、身近なところで見ていたことがありました。

 それは私が2回目のイワシの運搬の仕事をした時、12月になって金沢港の県漁連の埠頭の方でイワシの運搬をするようになってすぐ辞めた運転手のことです。

 その運転手も被告訴人安田繁克と年は同じと聞いていたように思います。個人的に何度か話をしたことがありました。家は中央市場にも比較的近い金沢市長田と聞いていたように思います。体格も立派ないかにも好青年という感じの若者でした。

 最近は名前も見かけなくなりましたが、俳優から政治家になったという山本太郎という人物の姿をテレビで見かける度に、どこか感じがにているところがあったとその都度思い出していました。名前ははっきりと思いさせませんが、藤田という名前だったような気もします。

 かれはK林健一さんの後任のような立場にもなっていました。私自身は前に書いた北都運輸の専属の仕事で、金沢市場輸送の会社には伝票や日報を出すという用事もなかったので、会社には余り顔を出さない時期でもあったかと思います。

 仮に藤田君としておきますが、入社の時期もはっきりとはしませんが、私が北都運輸の専属の仕事を初めて2,3月ぐらいは経っていたように思います。

 具体的には平成1年の9月頃ではないかと思うのですが、これはちょうど被告訴人安田繁克と能都町瑞穂出身と聞いた西口君の入社と重なります。細かく言えば西口君は運転手ではなく、4トン車の持ち込み運転手として金沢市場輸送の仕事をするようになりました。

 9月でも秋らしくなった時期で、あるいは10月かもしれません。被告訴人安田繁克の入社も西口君のことも、会社ではけっこうな話題となっていました。

 まず、西口君の方を先に説明しますが、金沢市場輸送の大型車の長距離運転手山田さんの娘の婚約者という話であったと思います。交際していることは間違いのない話らしく、ただ、ただの彼氏ではなく入籍で結婚もしないない婚約者という段階の話であったように思います。

 山田さんのことはよく知っていましたが、その娘という女性を見た覚えはありません。山田さんは金沢市内の藤江でも昔の金沢西高校に近い辺りに住んでいて、一度頼まれて近くまで車で送ったことがありました。流れは忘れましたが、この部分は前にも書いていると思います。

 その頃には山田さんは、金沢市場輸送の社員ではなく、持ち込みの運転手になっていたと思います。元はといえば、持ち込みの運転手として守田水産輸送に山田さんが引き抜かれそうになり、そこで危機感を募らせた被告訴人竹沢俊寿が、持ち込みをさせたという話でした。

 時期的にいくらか微妙な気もするのですが、その山田さんの持ち込みの話が出た時点では、被告訴人竹沢俊寿が金沢市場輸送の社長であったように思います。

 守田水産輸送から山田さんを誘ったのは、以前金沢市場輸送にいた谷内さんと聞いていました。谷内さんは珠洲市若山の人で大工をしていたと話していました。

 金沢市場輸送に入ったのが昭和59年の夏のことで、谷内さんの初めての運行の時だったと思いますが、大型車の運行に同乗して一緒に付いて行きました。その時の行き先がどこだったか思い出せませんが、金沢港のスルメイカの仕事だったと思います。

 現在は違っているのかもしれませんが、6月から7月のあたりは金沢港でまとまった量のスルメイカが水揚げされる時期で、昼に競りがあって正味一ヶ月間もあったかと思いますが、とても忙しい時期でした。

 昭和59年の時点では7月に入ってからもスルメイカの仕事はあったように重いのですが、その後は6月中には終わっていたかもしれません。記憶もはっきりしなくなっていますが、4月の終わりから始まるタケノコの時期と一部重なっていたようにも思います。

 金沢港は漁港にもなっていますが、通常は夜22時か23時という時間の競りで、運送会社のトラックを使うことはほとんどなく、ほとんどが4トン車で競り落とした魚屋が自分の会社の白ナンバーのトラックで、新潟、名古屋、大阪に運んでいました。

 その魚屋の一つが新幸(しんこう)こと新田商店でした。他に直市商店というのもあって「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」では書いていると思いますが、被告訴人OSNがその会社の4トン保冷車に乗務していた時期もありました。

 その被告訴人OSNが初めてトラックの仕事をしたのも金沢市場輸送で谷内さんと同じ昭和59年の初夏、スルメイカの忙しい時期でした。この入社は私の紹介ということになっていかと思います。弟の被告訴人OKNの方は4月頃から金沢市場輸送にいました。

 私は接触事故も多かったのでポンコツの4トン保冷車に乗務させられていましたが、タイミングも恵まれていたのか被告訴人OKNは、丸中水産と箱に大きく書いたイスズの新車の4トン保冷車に乗務しました。冷凍機はついていなかったように思います。

 その時期の思い出として他に記憶にあるのは、どうでもいいようなことかもしれませんが、金沢港で誰かから太刀魚という魚をもらって、自分らで焼いて食べたことです。魚を自分で焼いて食べたのも珍しかったのですが、珍しい魚だと思いました。

 宇出津でも宇出津港産としてスーパーで太刀魚を見かけることがありますが、数も少なくあまりないことです。他の地域では堤防からの釣りの対象魚にもなっているようですが、連れたことは一度もなく、一度だけ小木港の堤防で釣れたという話を聞きました。

 この頃には確か中川という名前の新入りの運転手もいました。学校の優等生タイプで運転手とのギャップも大きく見えたのですが、被告訴人OKNは金沢の金沢高校に通っていたこともあり、共通の知り合いでもいたのか、気があって話をしていたようでした。

 広瀬さんという人も私よりあとに金沢市場輸送に入ってきて4トン車の運転手をしていましたが、その後、金沢市場輸送をやめて丸中水産の社員になっていました。当時金沢市場輸送の仕事は全て長距離でした。

 丸中水産と書いた新車の4トン車ですが、新車で入ってから数えていたわけではないですが2ヶ月ぐらいは無事な姿だったように思いますが、それを名古屋市内の街路樹に激突大破させたのが被告訴人OSNで、入社から2ヶ月近くは経過していたように思うのですが。

 魚を運んで名古屋の市場におろした帰りの事故だと聞きました。スルメイカのこともまとめて魚と呼びます。そんなに長い間、スルメイカの仕事が続いていたのかなど、考えれば疑問も湧いているのですが、事故のことははっきりと憶えています。

 昭和59年の頃はスルメイカばかりだったと思うのですが、後の年になるとサバなどの魚の荷物も増えたように思います。特に印象に残っているのは昭和63年の夏のことで、新田商店の社員運転手に戻っていた蛸島のTSさんの姿を見た最後にもなりました。

 谷内さんですが、私が二度目に金沢市場輸送に入った昭和61年8月の時にはやめていて姿はなかったように思います。いつになるのか思い出せませんが、本人に中西水産輸送もしばらく運転手をしていたことがある、という話を聞きましたが、知ることはなかったです。

 旧珠洲郡内浦町新保出身のKOも同じように、少しだけ中西水産輸送にいたという話をしていたように思います。輪島のMYも同じことを話していたような気もするのですが、どちらも時期もはっきりしません。

 KOは学年で私の一つ年上でした。小木中学校で小木の遠洋漁船に乗っていたということで共通の知人もいました。妻という女性が宇出津の崎山で(正式には能登町崎山)私の一つ年下、小学校の頃からの友人の親戚だったので、少しは知っていました。

 KOは谷内さんとは逆で、昭和61年の8月に2度目の入社をしてから初めて知り合いました。そういえばそういう小木の人が金沢市場輸送に入って運転手をしている、という話は誰かに前に聞いていたような気はしたように思います。

 私が初めて金沢市場輸送に入った昭和59年1月の時点でも、小木の遠洋漁船の船員という人が、休漁の時期だけということで大型車の長距離運転手をしていました。もともと小木の方とはいくらか縁があったようです。

 つい最近、何かの情報でたまたま知ったことなのですが、小木は海底の地形の関係で定置網をすることができない能登半島で唯一の場所で、逆にそのことがきっかけで外に目を向け、遠洋漁業が発達していたという話でした。現在は中型イカ釣り漁船のみかと思いますが、規模も小さくなっています。

 能登半島の主な漁港といえば能登町では宇出津港、珠洲市では蛸島港になります。小木も現在は宇出津と同じ鳳珠郡能登町になっていますが、平成17年ぐらいまでは珠洲郡内浦町小木となっていて、私の感覚では未だに珠洲というイメージが強いかもしれません。

 蛸島港も宇出津港と同じで近場の漁をする港で定置網もやっているのではと思いますが、以前は蛸島丸という船団がありました。イワシの運搬の船団でしたが、夏のイワシのとれない時期は九州から南の方でマグロ漁をしているという話も聞きました。

 私が初めて金沢市場輸送に入社した頃は、その蛸島出身の北浜太一という人が配車係をしていました。27歳ぐらいと聞いていたように思いますが、当時はずいぶんと年長者に見えていました。

 24歳ぐらいの弟もいて「おっさま」と呼ばれていました。能登では長男のことを「あんさま」、次男より下の男のことを「おっさま」と呼んでいましたが、その傾向は珠洲市のほうが強かったと思います。

 そのおっさまの方は、私が入社した頃まだ大型車の運転手をしていたのですが、しばらくすると免許停止になって、配車係の補助か荷物の作業の手伝いなど雑用のようなことをするようになっていました。

 昭和60年の夏に、私が被告訴人安田敏を訪ねて金沢市場輸送に行った時、二階の会社の窓から顔を出し、岐阜に行くと言ってやめたのでいない、と教えてくれたのも、そのおっさまという人でした。

 当時、金沢市場輸送には藤村さんという配車係もいました。その藤村さんが長期の入院をすることになり、社長だった被告訴人竹沢俊寿に頼み込まれて配車の仕事をするようになったのが最古参の運転手だった被告訴人本恒夫で、昭和61年の12月頃のことです。

 私はその昭和61年の11月27日に念願だった大型免許に合格しました。誕生日の翌日だったので日付のことはよく憶えています。すぐにでも大型の保冷車に乗務したかったのですが、保冷車の空きがなく、平ボディ車でミールの仕事などしていました。

 その頃は、北浜太一さんの弟、つまり、おっさまと呼ばれていた人は、浜田漁業金沢工場で浜田漁業金沢工場の作業員として仕事をしていたように思います。

 時刻は7月27日10時42分になっています。昨日は思い出せない人の名前があったのですが、さきほどようやく思い出せた気がします。ここで昭和59年当時の金沢市場輸送の運転手について思い出せるだけのことを書いておきたいと思います。

 今思い出せたのは、原田さんです。棟方さんと同じく日通カラーの大型平ボディ車に乗務していました。棟方さんはおとなしい感じの人で北海道から来た人と聞いたことがありましたが、私が昭和61年8月に入社した時にはいなくなっていました。

 原田さんは体は大きくなかったですがタフなベテラン運転手という感じでした。当時はまだ浜田漁業金沢工場はできていないか、本格操業の前でミールの仕事はしていなかったと思われます。

 浜田漁業金沢工場は、能登に向かうときによく通る道の道沿いでした。農面道路と呼ばれていたように思いますが、その前を通って河北郡の宇ノ気に出て、白尾インターから能登有料道路に乗るというのがよくあるパターンでした。

 宇ノ気は現在かほく市になっていて、Googleマップで見ると宇野気と書いてありましたが、昔の道路標識や駅名も宇ノ気になっていたように思います。その辺りで役場もあった一番目立つ町は高松でした。

 Googleマップで見てもわかりづらいのですが、白尾インターから海沿いで高松に向かうその間に七塚という地名があります。地名はよく耳にすることがあったのですが、国道からも外れているので、実際の場所というのはよくわからないところがありました。

 白尾インターの辺りもあるいは七塚町に含まれていたのかもしれません。いずれにせよ被告訴人松平日出男はその高松の出身だと聞いていました。

 他に、新幸こと新田商店もその高松に会社があると昭和59年当時から聞いていましたが、七塚町のどの辺りに会社があるのかも知りませんでした。

 平成9年18日の私の福井刑務所の出所当日に、被告訴人OSNに連れられて「やまじゅう」という海鮮の居酒屋のような店に入ったことは「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」で書いたように思います。

民宿やまじゅう - Google マップ - https://www.google.co.jp/maps/place/%E6%B0%91%E5%AE%BF%E3%82%84%E3%81%BE%E3%81%98%E3%82%85%E3%81%86/@36.7308942,136.6986725,16z/data=!4m2!3m1!1s0x0000000000000000:0xfc511c4013b49e59

 上記がGoogleマップでの「やまじゅう」のURLになります。民宿となっていますが、居酒屋のような大きな食堂が隣接した建物となっているようです。平成9年当時とはいくらかその辺りの建物に違いが出ていることも考えられます。

山越(株) http://ow.ly/Q6z7F

 上記もGoogleマップのURLです。平成10年の前半、被告訴人KYNの配管の仕事の現場であったことは「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」で書いていると思いますが、今回は書き忘れたと思うことを書いておきます。

 どれぐらいの期間、高松の山越の現場に通ったのか、これもはっきりとは思い出せなくなっていますが、一ヶ月ぐらいだったかもしれません。M君が入って間もない頃の現場だったとも、この現場に通っているうちにM君が入ったとも思われ、はっきりとしません。

 被告訴人KYNの会社に入る前に、他の応援としてその高松の山越の現場に配管の材料の搬入の作業をし、狭い通路になっている20メートルの上空からM君が過失で大きな配管を落とした、という話を聞かされたことも既に書いたと思います。

 もう一つ、はっきりと思い出せないことがあったので書かないままにしていたことがあるので、それもこれから書いておきます。思い出せないのは話を聞いた時の現場のことです。現場の近くの風景のことは記憶にあるのですが、現場そのものが特定できません。

 山の中にあるような現場ではありました。とにかくその現場にいるときに、話を聞いたように記憶にあります。いつもの雑談のようなものでしたが、本当なのかと思うような内容でした。

 サクライ設備の応援でM君がマンションの配管の仕事をしているとき、と聞いたように思いますが、M君の配管のミスで、皆で配管に圧を加えて漏れの検査をしていたところ、配管が爆発して何かが吹き飛んだというような話だったと思います。

 被告訴人KYNが山賊ともアキちゃんとも読んでいたサクライ設備のベテラン配管工の人も、その爆発現場にいたような話であったと思います。

 「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」においては、辰口町のいしかわ動物園のアザラシの現場で、M君が現場を任されていて、検査でトラブルが多かったこと、他にもわざとミスをするようなM君の行動が多かったことは色々と書いたと思います。

 より克明なことは当時、毎日ロータスオーガナイザーで記録したものを、再審請求の資料として金沢地方裁判所に提出していたので、そちらにものすごい克明な記録があるはずです。

 いざという時は現場で事故に見せかけて殺すという無言の圧力を掛けられているような気もしましたし、被害妄想という方向で精神的に追い詰め孤立させるのも狙いかと思われました。溶接作業による感電死という可能性も意識していました。

 もともと配管の溶接の作業では感電することがよくありました。配管の部品を手で持って固定し、それを仮付けで固定するという作業がよくありました。配管の大きさにもよりますが、相当重いものがあり、高所など足場の不安定なところも多いです。

 地下のピットの作業では普通に池のような水たまりの中での作業になりました。建物の床を作るときスリーブという型を入れて配管が通る穴を作るのですが、コンクリートが固まった後、スラブとか言う一番底の鉄のような床に穴を開けるのも溶接での作業でした。

 そういう危険はもともといくらでもあるので不安に考えればきりもないのですが、平成11年の傷害事件前の状況として重視していたのは、私が日雇いの現場作業員をしていた永久開発に、被告訴人KYNも人夫の要請を時々していると話していたことです。

 被告訴人KYNの会社の札を実際に永久開発の中で見たかどうかは記憶がはっきりしませんが、気になっていた札は「本陣建設」でした。本陣グループの一つで、本陣グループとしてテレビのCMにもよく出ていたと思います。

 被告訴人OKNが営業課長にまでなっていたのは、その本陣グループの本陣不動産でした。グループ間の交流など実態は不明ですが、税金対策のための子会社化などと考えれば、実質は一つの会社のような形態という可能性のあるのではないかと考えられました。

 実際、被告訴人OKNの口から本陣建設について話を聞いたような憶えがあり、現場に行っていたというような話でもあったように思います。

 本陣グループの本陣不動産と本陣住宅は、駅西と呼ばれる金沢駅西口の近くにありましたが、本陣建設は東金沢の鳴和の方にあると聞いたような気がします。今まで確認のために住所を調べたことはなく、私の勘違いでの記憶かもしれないですが。

 被告訴人OKNと共通の友人だったSMが、土建の仕事で真面目に働き出したと聞いた頃、会社がある場所のように聞いていたのも、その鳴和から奥の方の場所でした。

 彼らとは忘れた頃に会うという関係になっていたのですが、土木の現場で泥にまみれて作業をしていると聞いていたSMも、被告訴人OKNや富来のOTと同じように不動産関係の営業で稼ぎが良くなり、片町で派手に飲んだり、装飾品に金を使っているという話を聞くようになりました。

 断片的に憶えているのは、3人がアメリカのラスベガスに会社の旅行で行き、楽しく遊んできたという話を聞いたことです。被告訴人OKNとOTは同じ本陣グループなので当たり前かと思いましたが、SMがなぜ一緒になったのかはよくわかりませんでした。

 なにか説明を聞かされたような気もしますが、トラック運転手をしていた私には無縁の話ということもあり、余り真剣にも話を聞いていなかったので、憶えていません。

 それはバブル景気のまっただ中だったのだと思いますが、当時はテレビニュースも新聞も余り見ていなかったと思うので、それがバブルという時代で特に不動産関係が大儲けをしたという話は、数年後になってから理解したようにも思います。

 被告訴人OKNは本陣不動産で、年に2回海外旅行があり費用は全額会社持ちだと話していました。初めイタリアに旅行に行くとか聞いたように思うのですが、ラスベガスに行ったと聴いたのはその半年か一年後あたりだったような気もします。

 イタリアかラスベガスのどちらか、あるいはどちらもで土産をもらったような憶えもあるのですが、何をもらったのかも思い出せなくなっています。

 高松の山越の話に戻します。それは山越での作業が終わりになった日のことです。午後だったと思いますが、まだまだ明るい時間帯で、たぶんまだ冬が春先だったと思いますが、穏やかな天候だったとも記憶に残っています。

 いつもは山越の現場から金沢に戻るとき、しばらく金沢とは逆方向の羽咋市の方に向かってから能登有料道路の高松インターに乗っていたように思います。

 その日はなぜか、それとは逆の方に金沢の方角に向かって走りだしました。初めてで見当もつかない道でしたが、海岸線に近い辺りをけっこう長い時間走っていました。能登の富来の辺りを走っているような錯覚にもなったのですが、そういう道があることは考えたこともなかったです。

 ハイエースのワゴン車だったと思いますが、全員の被告訴人KYN、M君、K君と私の4人が乗っていました。こういう時、親方でもある被告訴人KYNが車を運転するということはまずなかったと思います。

 K君とM君のどちらかが運転をしていたのだと思いますが、車内の会話で、時間があるから違った道を走って帰ろう、というような話はなかったように思います。

 この時、もう一つ驚いたことがありました。途中、小さな漁村のような場所があって、そこを通りかかった時に、道路に確か二人の比較的若い人がいて、車をとめてしばらく何か話をしていたことです。

 偶然、知り合いに出会ったとは場所と時間のタイミングでもあり得ない確率だと思いましたが、今改めて考えてみると、事前に連絡をした上での落ちあいであったのかもしれません。

 車の窓を開けて、車に乗ったまま話をしていましたが、何の話をしているのかはよくわからず、仕事の話かとは思いましたが、その時会った人とは、その後会うことはなかったと思います。

 私は年賀状の作成もあって、被告訴人KYNから沢山の名刺をあずかって自宅のパソコンで住所氏名の入力もしていたのですが、河北郡のその辺りの住所の人物というのもなかったように思います。被告訴人KYNはありったけの名刺に私に預けたという感じでした。

 今日、改めてその辺りをGoogleマップで見ると、山越の割と近いところに「七塚小」というのがありました。やはりその時通過した辺りが七塚という土地になるようです。

 この時のことも気にはなりますが、それより忘れられないのは平成9年1月18日のことです。「やまじゅう」に食事に入る前に、車を漁村のような場所に入り込ませたことでした。蛸島のある場所の風景とも実によく似ていると感じたのですが、運転していたのは被告訴人OSNでした。

 「やまじゅう」は国道159号線沿いにあるので、店を探して道に迷ったとはとても考えられないことです。七塚というキーワードで彼らが、私の反応をうかがったという可能性は十分にあると思いますし、ずいぶんと緊張しているようにも見えました。

 今、改めてGoogleマップのかほく市周辺を見たのですが、七塚という地名が見当たりません。遠塚というのはあるようです。七塚小というのはあるので、やはりその辺りが七塚である、あるいは七塚という地名であったと考えられます。

 改めてネットで調べたところ七塚は河北郡七塚町で2004年3月1日に同郡の宇ノ気町、高松町と新設合併して「かほく市」になったとありました。どこからどこまでが、かほく市になったのかこれまでよくわからずにいたのですが、これはわかりやすい話です。

 私はこれまで七塚を一つの場所だと考えていたので理解がおかしくなっていたようです。能都町を同じように考えれば宇出津も鵜川も瑞穂も同じ能都町になります。白尾インターの辺りも七塚町の一部だったようです。これを別に捉えていたので理解がおかしくなっていました。

 そういえば七塚町だったのかという気もしましたが、会話では誰もが「七塚」とだけ呼んでいたような気もします。宇ノ気や高松も同じようなものであったかもしれません。

 昭和59年当時の金沢市場輸送の運転手の話に戻します。大型車の平ボディ車は3台だったと思います。日通カラーの新車に近い日野のトラックが2台あり、原田さんと棟方さんがそれぞれ乗務。

 小坂さんも大型車の平ボディ車に乗務をしていましたが、たまたまもあるのか滅多に顔を合わすことのない人で、無口で偏屈にも見えた人でした。昭和62年以降とは別人のようにも思えるぐらいです。

 もともと無口な人でしたが、昭和62年以降は会話になるとかなり気さくな感じで話をする人になっていました。家は金沢市内の小坂町の辺りにあると聴いたことがあります。配車係だった藤村さんも同じ辺りだと聞いていました。鳴和の近くです。

 その小坂さんが平成3年の1月に新車で乗務した三菱の大型ウィング車を、市場急配センターで被告訴人安田敏が乗務するようになったのですが、私が市場急配センターに移ってからは、たまたまもあると思いますが、小坂さんの姿を見ることはなく、話も聞きませんでした。

 金沢市専光寺の近くのカワカミ板金で、金沢市場輸送のカラーであったものを市場急配センターのカラーにペンキを塗り替えたトラックです。「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」には書いていると思います。

 平成3年の10月中だったとは思います。被告訴人松平日出男の知り合いの工場ということで、カワカミ板金に行きました。「かわかみばんきん」と呼ばれていたことはよく憶えているのですが、薄い記憶になっていますが、店には漢字ではなくカタカナで看板がでていたような気がします。

 また、横道にそれることになりますが、これも書いておこうと思います。「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」で書いたおさらいになると思いますし、また書いていなかったこともあるかと思われるので、まとめて書き直します。

 今、Googleマップで調べたところ、「JAグリーン金沢」という敷地の一部となっているのかもしれません。住所も専光寺ではなく金沢市佐奇森町の可能性がありそうです。

 だいたいになりますが、次のURLの位置になるかと思います。周辺には住宅地もあったような記憶があるのですが、全体的にずいぶん変わっていると、航空写真を見て思います。

https://www.google.co.jp/maps/place/36%C2%B035%2702.8%22N+136%C2%B035%2724.5%22E/@36.584106,136.590144,360m/data=!3m2!1e3!4b1!4m2!3m1!1s0x0:0x0

 ちょっとわかりづらいかもしれませんが赤っぽい色の風船のような印が出ているはずです。これは地球上の緯度と経度で座標のように位置づけた情報だと思います。

 ちょっとした接触事故の修理に被告訴人KYNが車を出したところ、修理が終わったと言われ車を引き取りに行くと、エンジンを載せ替えたと言われ高額の請求をされたという板金屋だったので、よく憶えていました。

 昭和61年の秋だったようにも思いますが、金沢市内の黒田二丁目のマンションに彼が引っ越してからだったとも思います。昭和61年6月の時点では、彼はまだ金沢市内松村町の古いアパートに住んでいたことを特定できます。

 被告訴人KYNの付き合いで、そのカワカミ板金にも行きました。夜の19時から20時の間だったように思いますが、宇出津の同級生のYMが忙しそうに作業をしていました。

 被告訴人KYNは同級生のYMがその板金屋の社員だということで、安く仕上げてくれること、あるいはボッタクリにあわないことを期待して、車の修理を頼んだのだと思います。

 車は新車で買ったトヨタのビスタという車だったと思います。彼は初め高校を卒業した春にスカイラインのジャパンを買っていました。中古車だったと思いますが、その時も私は彼の付き合いで、七尾市の日産のディラーに行った記憶があります。

 同級生のYMとは小学生の低学年の頃も少し遊んだ記憶がありますが、中学生ぐらいの時に崎山の方に引っ越しをしたようです。一度だけその崎山の家に友達と遊びに行ったこともありましたが、高校一年生の頃かと思います。

 YMは七尾市の七尾工業高校に行っていたと思います。七尾市の高校であったことは間違いありません。毎週土曜日の夜になると宇出津に帰ってきていて、夜中にぶらぶらしていると、彼がロードパルのソフトバイクで走っていて、一緒になることがよくありました。

 彼が高校を卒業したのも昭和58年の春のことですが、その夏か秋口の頃に、たまたま金沢市西念町の双葉湯の近くで夜に顔を合わし、その場でしばらく話をしたことがありました。彼は随分と派手ないくらか年上と見える女性と二人でいました。

 西念町のその辺りというのは金沢市場輸送の寮という借家があった辺りでもありますが、これが昭和59年だとすると私が金沢市場輸送に入社していた時のことになりますが、金沢市場輸送の寮というのは昼間に少し見に行ったことがあるだけでした。

 同じ西念町でも鉄塔の近くのアパートに他の同級生が住んでいてそこに遊びに行くことも会ったのですが、双葉湯の辺りとは少し離れています。なぜ双葉湯の近くで会うことになったのかも不思議に思うのですが、思い出せません。私の方は3人連れだったように思います。

 昭和59年になると双葉湯の辺りにはよく行くようになりました。飛鳥食堂があって、金沢市場輸送の運転手のたまり場のようにもなっていて、会社のツケで食事をすることもできたからです。食事代は給料の天引きになっていたと思います。

 当時は物価も安かったのか650円とかの定食が多かったと記憶にあります。550円というのもあったかと思います。定食に小さいうどんがついてくるのも、その食堂の特徴でした。

 平成9年の7月から私は金沢市北安江の借家に住むようになり、双葉湯は歩いても5分も掛からないような距離だったと思います。実際に歩いて行くようなことはなかったと思いますが、双葉湯にはちょくちょく行っていて、被告訴人KYNと一緒に行ったこともありました。

 その頃、飛鳥食堂にも入ることがありましたが、店内も大改装され、従業員の顔ぶれも変わったような感じで、昔の面影を感じるようなこともありませんでした。昭和61年の頃には飛鳥食堂と金沢市場輸送の縁はなくなっていたと思います。

 YMが高校を卒業して金沢市で板金屋で働いているというような話は聞いていました。YMの話は神野のKMから聞くことが多かったかもしれません。といっても忘れた頃に耳にするような話で遠い存在だと思っていました。

 「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」で細かいことを書いたと思いますが、輪島の暴走族のたまり場であった藤江のアパートで、車の事で詐欺被害にあったような話を耳にしました。感情的に被害を訴える若者がその場にいたのです。

 その時は被告訴人安田敏と神野のKMもたまたま一緒だったと思います。それでKMの話として知ったことですが、輪島のAという男がいて、それが車の事で詐欺まがいのこともやる問題性のある人物だと聴いたのです。

 おまけにその輪島のAが、同級生のYMの板金屋の先輩とも聞いたように思います。車屋と聞いたかもしれませんが、別に板金工をやっているとも聞いていたかもしれません。それがカワカミ板金のことだとはっきりしたのは、数年後に被告訴人KYNのエンジン載せ替えのことがあったからです。

 神野のKMは柳田農業高校に行っていたことや町野高校を卒業した1つ年上のTUさんと親しくしていたことなどから輪島の方のことは他の宇出津の者より詳しいこともありました。聞いたけどすぐに忘れたということもいくらかはありそうです。

 カワカミ板金で一緒に仕事をしていたとしてもどの程度の付き合いであったかも不明です。その同級生のYMに関しては確か3つ年上になる兄がいて、名前の方は今も憶えていますが、その兄が小木の遠洋漁船に乗っていて、輪島の海士町の人と仲良くしているという話も聞きました。

 これはかなり例外的という話でした。海士町の若者は気性が荒く手に負えないので小木の遠洋漁船でも一つの船に輪島の海士町の人間は一人しか乗せないことになっているという話を聞いたこともありました。近年は特別な地区として話を聞くようなことはなくなっています。

 金沢市場輸送の輪島の運転手もほとんどが海士町でしたが、やはりほとんどの若者が小木の遠洋漁船に乗っていたと聞きました。MYもそうでしたし、YA、HM、他二人も小木の船に乗っていたと話していたように思います。

 小木の遠洋漁船に乗っていなかったような話だったのは2人で、一人は輪島崎のOT。本来、海士町と輪島崎町は仲が悪いけど、例外的に仲良くしているという話も彼らはしていました。もう一人は名前がすぐに浮かばなくなりましたが、一人だけ保冷車ではなく平ボディ車に乗務していました。

 平ボディ車に乗務していた彼だけが私より一つ年下でSのことも思い出しましたが、MYと輪島崎のOTの二人だけは私の2つ年上で、他は皆、私より2つ年下と聞いていたように思います。平ボディ車に乗っていた彼の名前を思い出しました。識別は出来ると思うのでYとしておきます。

 Yは平成3年の9月、市場急配センターの一階休憩室が出来た直後、被告訴人安田繁克と二人で様子を見に来て、私と被告訴人安田敏の4人でしばらく雑談をしたこともありました。付き合いの程度はわかりませんが、意外な組み合わせだとは思いました。

 Yは、輪島の運転手の中では一番最後か、Kより前に金沢市場輸送に入社したと思います。それでも私の2度目のイワシのシーズンには平ボディ車に乗務をしてダンベを運んでいました。

 その頃には輪島のHさんも同じく平ボディ車に乗務をしてダンベを運んでいました。「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」に書いたと思いますが、私の妻の母親の弟になる人でした。

 輪島の海士町に婿養子に入ったという話を聞きましたが、どうも私の妻の母親の級生と同じ苗字を名乗っていたようです。同性同士の結婚であったという可能性も否定は出来ませんが、その可能性は普通に低いと思われます。

 「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」でも書いたと思いますが輪島のHさんは、夜間、群馬県の伊勢崎市辺りで速度の取り締まりで捕まり、それが免許の一発取り消しになるか、それに近いだけの違反で、その話を聞いてすぐ会社を辞めたようでした。

 平成2年の秋のことで、その時点では被告訴人東渡好信と輪島の浜上さんも既に金沢市場輸送に入社をしていたように思います。入れ替わりになったような感じでもありましたが、輪島のHさんがいた頃は、まだウィング車は入っていなかったように思います。

 輪島のYと輪島のHは、どちらもイスズの新車の平ボディ車に乗務していたと思います。私の1回目のイワシのシーズンに入った新車とは違い、荷台に書いてある金沢市場輸送という文字も太く大きかったように思います。モデルもマイナーチェンジされていたような気もします。

 たまたまなのかと思いますが、私が金沢市場輸送をやめる平成3年5月の頃は、輪島のYの姿を見かけることはほとんどなく、存在をすっかり忘れていたようにも思うので、被告訴人安田繁克と二人で来たYの姿を見た時はそれだけでも珍しく感じました。

 そのまま金沢市場輸送にいるものと思っていたように思いますが、今改めて考えると金沢市場輸送をやめて別の仕事をしていたという可能性もあるいはあるのかもしれません。別の機会に書きますが、被告訴人安田繁克もフリーという話をしていました。

 同級生のYMと同じカワカミ板金にいたという輪島のAですが、輪島でも輪島の市内ではなく、輪島市内から有名な千枚田や御陣乗太鼓の名舟との間の集落の出身と聞いたことがあります。地名も聞いたと思いますがすぐに忘れました。名舟ではなかったと思います。

 その輪島のAですが、しばらく金沢市場輸送で運転手をしていた時期がありました。イスズの平ボディ車に乗務している姿を見たような憶えがあり、たぶん輪島のHが辞めた直後で、Hさんが乗務していたトラックに乗務していたように思われます。

 長距離の仕事というのはすれ違いも多いので、金沢市場輸送でも運転手同士で半年に1回ぐらいしか顔を合わせないことがあると言われていました。金沢市場輸送の保冷車は定期便が多くなったので、同じ鮮魚を運ぶ保冷車の運転手同士であれば、そう長い間顔を合わさないことはまずなかったと思います。

 金沢市場輸送では仕事の少ない時など、保冷車でもミールを積み込んで名古屋方面に運ぶことがありましたが、仙台などの定期便が増えると、そういう仕事はまずなくなっていたと思います。

 平ボディ車の仕事の中心はミールとイワシのダンベでしたが、どちらも浜田漁業金沢工場と北陸ハイミールの仕事でした、ダンベの方は北陸ハイミールではやっていなかったとは思います。ダンベは養殖魚の餌として三重県内の加工場に運ぶことが多かったです。

 例外としてはダンベでも石巻港や四国の香川県の方にも運びました。被告訴人KYNの結婚式に出席する数日前にも四国の観音寺市だったかにミールを運びました。K林健一さんも一緒だったという記憶があります。亀谷さんもいたと思います。ボートレース場の近くでした。

 輪島のHさんは同じ平ボディ車に乗務していたということもあり、K林健一さんとはよく一緒に仕事をしたと思います。Hさんの入社の時期ははっきりと思い出せませんが、私の1回目のイワシの運搬のシーズンの時はまだ姿がなかったように思います。また一年以上は会社にいたように思います。

 ダンベについては「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」で説明を書いたと思いますが、言葉の説明だけではわかりにくいかもしれません。とにかく生のイワシを小分けした水槽に入れて、シートを掛けて運ぶ仕事でした。

 輪島のAが金沢市場輸送にいたのも短い間だったと思います。半月から一月の間と推測されますが、姿を見るのはほとんどがYMと一緒に、金沢市場輸送の休憩室で麻雀をする姿でした。黙々と麻雀をする姿だけを見ていて、声を聞くことすらなかったかもしれません。

 その人物がAであることは、輪島のYAから聞いたように思いますが、人物について話をしたくない様子にも見え、あえて尋ねるようなこともなかったように思うのですが、要注意人物というかいわくつきという雰囲気はなんとなくでもありますが、感じられました。

 私自身に過去のことで予断があったので、そういう風に感じられたのかもしれませんが、会社に姿が見えなくなってからは話題になるようなこともなかったと思います。

 輪島のAが金沢市場輸送にいた時期は、秋の深まった時期で11月ではなかったかと思われ、一部で和田君がいた時期と重なる気もするのですが、和田くんの方があとであったような気がします。

 和田君が乗務したのは昭和63年の秋に納車された三菱の平ボディ車だったように思います。その時はほぼ同時に、イスズが2台、三菱ふそうが3台の新車導入だったと思います。私のそのイスズの1台に乗務しました。

 その後もそうですが、平ボディ車は乗務する運転手がいなくて、放置状態のことが多かったと思います。私もブレーキが強いという理由でイスズの方を選びましたが、たまに三菱ふそうの平ボディ車にも乗務することがありました。

 前にも書きましたが平成3年の1月になると、今度は大型ウィング車が3台、3月ぐらいには追加で2台導入されました。私が乗務した日野のウィング車は平成3年1月17日の納車でした。朝に日野の人が会社まで新車を持ってきましたが、その前の時間、テレビで湾岸戦争開始の報道をしていました。

 ウィング車は山三青果の仕事をメインの目的で導入されたと聞いていました。ミールの仕事も出来ますが、平ボディ車とは違いシートを掛けないだけ楽です。慣れた運転手はシートをかけるのも苦にならないと話していましたが、慣れていないと雨や風の強い時はかなり大変でした。

 平ボディ車だと機械でのみ積み下ろしをする大きな荷物もよくあるので、手積みが少ないのでいいという考えの人が多くいました。私は保冷車というか箱車からトラックの仕事を始めたので、手積みの作業もさほど苦にならず、平ボディ車のシートに慣れることもありませんでした。

 同じ会社にいても鮮魚が中心の保冷車とウィング車は仕事内容が異なることが多いので、顔を合わせる機会もそれだけ減りました。特に夜中に中央市場で荷降ろしを終えた後、一緒に食事に言って飲むという機会はずいぶん減ったと思います。

 現在も同じかどうかわかりませんが、金沢の中央市場は全国的に珍しい特徴がありました。聞いた話では全国で他に1つの2つしかないということでもあったのですが、それは鮮魚の競りの開始時間が3時半と早かったことです。通常は5時が多く、6時とかもあるという話でした。

 石川丸果の競りは5時かと思っていました。基本5時と思って、どこの市場に行っても朝の5時までには荷降ろしを完了することをギリギリの時間制限と考えて仕事をしていました。

 山三青果の青果の仕事では福井の市場まで行って帰ってくると、会社に着くのが朝の7時に近い時間になることもありました。鮮魚の仕事でも場外の食品会社などの荷降ろしもあるので、忙しい時期は終わるのが5時近くになることはあったように思います。

 早い時は23時過ぎに仕事が終わっていました。福岡の定期便では多かったと思いますが、市場が混み出す前に荷降ろしを終えていたからです。福岡便はウロコ運送での新潟中継があったので、その時間に間に合わせる必要がありました。13時を過ぎて福岡を出発するときつかったです。

 早めの時間に出発しても下関の港に行って、他の荷物を積むことが多く、下関のインターからの距離もあったので、時間的にきつくなることがありました。夕方に京都付近まで来て、そこで渋滞になることもいつものことでした。

 20時から21時の間に金沢に着くことが多かったと思います。早い出発でも11時は過ぎていたと思いますし、そういう時は下関の立ち寄りもあったように思います。中国自動車道は上り下りが多く、大型トラックで重量を積んでいると最高速度が30キロぐらいになる坂もいくつかありました。

 アイスバーンや吹雪の東北で鮮魚を運ぶことに比べれば、緊張感もそれほどなく比較的楽な仕事だったと思いますが、今の交通事情なら暴走運転で即刻逮捕されるかもしれません。現在とはまったく事情が異なることが他にも色々あったと思いますが、現在の方が厳しい面もありそうだとは想像しています。

 石巻と塩釜の東北の定期便でも荷物の少ない時や出発が早い時は23時過ぎに中央市場の売り場に入ることが出来て、混み出す前なので荷降ろしも0時前に終わることがありました。

 福岡便の荷降ろしの終わる時間と東北便が特殊の売り場に着く時間が同じぐらいということが多く、仲間のトラックを見かけると荷降ろしを手伝うというゆるい決まりのようなものがあって、私はよほどの用事でもない限り、それを実行していました。

 雑談をしながら荷降ろしを手伝い荷降ろしが終わると、市場の近くの食堂に行って一緒に食事をして長話をしながら生ビールを飲む、これがとてもよくあるパターンでした。早く帰りたいときは、仲間のトラックを見たくないと念じたこともありますが、仲良く楽しくやっていました。

 なお、福岡便はウロコ運送との一日交代での定期便でしたが、臨時で荷物を積んだり、同じ九州など他の港から魚を運んでくることもありました。臨時で入ることをフリーと呼んでいましたが、フリーで入ると福岡で他の運転手と一緒になる時間も長くなりました。

 金沢市場輸送の仕事のメインは石巻と塩釜の東北便だったので、石巻港や塩釜港でも仲間の運転手と一緒になって時間を過ごすことがよくありました。東北便は毎日で、東北陸運と宮城陸上の仕事があったので、12月の忙しい時期など大型車3台分以上の荷物になることもありました。

 輪島のAのことを考えると、これまで思っていたより長く輪島のMYは金沢市場輸送で運転手をしていたことになりそうです。MYが金沢市場輸送を辞めたのは12月の終わりのことで年末でもありますが、その時のことは印象的に記憶に残っています。

 輪島のMYが予定されていた九州行きの運行に出てこなかったために、夕方暗くなった時間に社長兼配車係の被告訴人本恒夫に、代わりに九州に走るように指示を受けたのですが、きっぱり断ったので、ずいぶんと不快な顔をしていました。

 輪島のMYが金沢市場輸送をやめたのは被告訴人竹沢俊寿が絡んでいるのですが、プライバシーのこともあるので、具体的には書くべきではないと総合的に判断しました。総合的な判断でアルファベットの匿名と実名も切り分けています。理由はそれぞれですが理由を書けばそれで問題になりそうです。

 そうでもない人もいるのですが、全体をぼかす意味でもアルファベットの匿名を使っています。あえて実名を出すほどの必要性がないなどの判断も加味しています。私なりに考えぬいた上での運用です。

 途中から昭和59年当時の金沢市場輸送の運転手のことを記憶の喚起と整理をかねて記述しておくつもりでいましたが、それは余裕があれば別の項目でやることにしたいと思います。優先順位も考慮した上でのことですが、出来れば可能な限りの全体像を記録とともに示しておきたいのです。

 あちこちに話が飛んだと思いますが、この項目での本線は、平成4年2月1日の夜のことで、主役は被告訴人安田繁克と被告訴人多田敏明の二人です。被告訴人東渡好信の関与も最も身近に強く感じられた場面でもありました。

 ビックアップトラックが市場急配センターの裏駐車場を通り抜けて行ったことまでは既に書いたと思います。その時、自然な反応をしたと感じたのは水口さんだけでした。被告訴人東渡好信や輪島の浜上さんは全く見向きもせず、それが随分と異様にも感じられました。

 被告訴人安田繁克の乗っていたピックアップトラックですが、金沢市長田の藤田君(名前は記憶違いの可能性が少し)が乗っていたものと全く同じものに見えたので、同じクルマを譲り受けていた可能性と、少ないような気もしますが、一時的に借りていた可能性も否定までは出来ない気がします。

 その後、それと思われるピックアップトラックは、平成4年3月の10日頃に一度だけ、市場急配センターの事務所の前でも横の通路の辺りに駐車されているのを見たのですが、不思議なことに被告訴人安田繁克や他に見知らぬ人の姿を会社で見ることはありませんでした。

 「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」では書いていると思いますが、平成3年の7月、被告訴人東渡好信が市場急配センターの二階の事務所で包丁を机に突き立て、その後、包丁を持って被告訴人松平日出男を追い掛け回したということがありました。

 包丁を持って被告訴人松平日出男の帰りを被告訴人東渡好信が待ち構えている時に、被告訴人安田繁克から電話があって私は被告訴人安田敏と二人で北陸道の尼御前サービスエリアに向かったのです。

 その時、電話で助けを求めてきた被告訴人安田繁克は、金沢市場輸送のポンコツの4トン保冷車でスイカを積んで四国の徳島の市場に向かっていました。

 助けを求めてきたというよりは、私のおせっかいを期待して話を振ってきたという感じでしたが、それは被告訴人多田敏明を探していると声をかけてきた平成4年2月1日の夜の態度ふるまいともよく似ていました。

 包丁を手にしている人と同じ部屋の中には居たくないというのも素直な思いでした。いればいたで余計にこじれて最悪殺人事件にも発展するとも考えましたが、企みを持って芝居以外には考えられない。いずれにせよ関わりにはなりたくないという思いがありました。

 そんな思いでいたので被告訴人安田繁克からの不意の電話は助け舟のようにも思えたのですが、私が平成4年4月1日に事件を起こしてから当時を振り返って考えると、被告訴人東渡好信と被告訴人安田繁克が予め示し合わせた上での工作活動の一つであったとしか、考えられません。

 なお、その時に被告訴人安田繁克が乗っていた金沢市場輸送の4トン保冷車は、箱が他の4トン車よりかなり長いもので、寺川さんが長い間乗務していました。寺川さんはその後大型保冷車に乗務するようになりましたが、被告訴人東渡好信が先導したストライキにも河野さん同様参加していました。

 金沢市場輸送のカラーのままのトラックでしたが、市場急配センターでは金沢市場輸送のカラーのままで使っている2トン車や4トン車も何台かあったと思います。それ故、金沢市場輸送の仕事でスイカを積んでいたのかそれとも市場急配センターだったのかもわかりません。若しくは忘れました。

 平成4年3月に被告訴人安田繁克と思われるピックアップトラックを見かけたことも、臨時の仕事を頼まれて市場急配センターに来ていたという可能性がありますが、仕事に出かけてしばらく戻らないのであれば、通常は止めない場所での駐車でした。

 意識的に被告訴人安田繁克の姿を探したのですが見つからず、誰かと食事に行ったことも考えましたが、16時を過ぎていたとも思うので、中央市場の周辺の食堂は全部閉店している時間だったと思います。遅くまでやっている店でも14時までではないかと見ていました。

 「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」のも書いたと思いますが、包丁の時も普通に驚きはしましたが、まだ金沢市場輸送にいた平成3年の春に、早朝の石川丸果の売り場で、荷受のおじいさんの頭を鷲掴みにしてキャベツの箱の中に突っ込んだ時はもっと驚きました。

 私に対する応援のような行動でもあったのですが、その後、中央市場から処分を受けたという話も問題にされたという話も聞きませんでした。荷受のおじいさんも度肝を抜かれ、どうにも理解が出来ず、その状態がいわば仮死的に続いたのかもしれません。

 また別の機会に書きたいと思いますが、平成9年の9月の20日頃、金沢の香林坊の近くの中央公園で初めて会って話をした被害者AAさんの父親AKさんも、安田という名前を出した時、急に態度が変わって、それは一体誰なのかとわざとらしいぐらい不思議そうに私に質問をしていました。

 被告訴人東渡好信は一言も発しず、荷受のおじいさんをキャベツの箱の中に突っ込みました。それは本当に活魚の魚を締め殺すような勢いと力強さでした。そして全く無言で来た方向を立ち去って行きました。来たのはちょうど螺旋の通路の間の市場急配センターの裏駐車場の前の道路でした。

 たまたまトラックで通りかかった時に私と荷受のことで少しトラブっていた状況を目撃したのだと思いますが、その場の臨機応変な果敢な態度にも、被告訴人東渡好信という人物の全く尋常ではないことがうかがえました。

 とにかく計算高く策略を常に考えているような人物に思えました。その後もこともありますが、まるで策士という感じです。性格的なものもあるでしょうが、それ以上にプロの職人芸のようなものを感じました。

 それだけに私も被告訴人東渡好信には常に警戒をしていたのでもありますが、全体像は思ったとおりでありながら想像を超えていて、それをはっきりと確認したのも、上告審で斐川雅文弁護士から送られてきた関係者の供述調書を読んだ時でした。

 金沢西警察署が被告訴人東渡好信や輪島の浜上さん、河野さんらの供述調書を作成していてくれたならば、どれだけの収穫、進展があったものかとつくづく残念に思った時期もありました。被告訴人OKNの供述調書があればと考えたこともありましたが、過去はどうにもできないことです。

 もっとも、警察の供述調書が全て検察官によって裁判所に提出されることはない、ということもずっと後に知ったので、提出以外の供述調書が存在する可能性が100%ないとは限りませんが、私なりに谷内孝志警部補の取り調べの態度を考えて、その可能性は殆ど無いと考えています。

 もっといえば、谷内孝志警部補や金沢西警察署の捜査に従事した刑事は、被告訴人松平日出男に便宜を受けたり、たらしこまれた可能性も少なからずあると、ずっと前から考えています。

 平成4年5月28日の金沢刑務所の拘置所への移送の前の午前中の最後の供述調書作成が終わった後、谷内孝志警部補は実に晴れがましく満足そうな様子で、「わしゃ、ウィスキーが好きや」と言っていたのもずっと気になるところです。

 裏駐車場を通り抜けたピックアップトラックに乗務していたのが被告訴人安田繁克だったとわかったのは、初めに車を見てから15分から20分ぐらい後のことであったと思いますが、そちらから先の事実の経過は別の項目として書こうと思います。

2015-07-28 火曜日 04:24 << [[ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]<<

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2015年7月18日 (土)

被告訴人安田繁克の組織的犯罪計画への関与を伺わせる事実:平成4年2月1日の夜のこと

被告訴人安田繁克の組織的犯罪計画への関与を伺わせる事実:平成4年2月1日の夜のこと

2015-07-17 金曜日 23:28 >> [[ ←これからの記述範囲の開始時刻]]>>

 この事実は被告訴人安田繁克本人が供述調書において述べている事実でもありますが、確か時期が曖昧で、私つまり廣野秀樹の方から因縁をつけてきたということになっているかと思います。

 信号待ちの停車中に、私つまり廣野秀樹が車を割り込ませてきたので驚いたというような供述もしていたかと思います。

 実際には信号待ちで停車中だった私に、確か車から降りてきた被告訴人安田繁克が声を掛け、被告訴人多田敏明を探していると話を持ちかけてきたのです。

 この平成4年2月1日は土曜日で私は福岡県福岡市の須崎埠頭行きのミール24トンを積み込んでいました。普通はちょっとない運行でもあったのですが、月曜日の朝に出発をして夕方に予約を入れていたフェリーで神戸から北九州の門司港に行くことになっていました。

 実際、私は運行のことを深く考えずに、会社の指示のまま月曜日の朝に会社に出社してから福岡に向け出発をしたのですが、出発してから時間の計算をすると夕方のフェリーの時間に間に合わない可能性が浮かんできたのです。

 福井県の敦賀インターで北陸道の高速を降り、琵琶湖沿いの国道161号線経由で神戸まで行くつもりでいたのですが、京都市内などの渋滞の程度によってはフェリーの時間に間に合わない気になってきました。

 久しぶりに通る道だったので時間の計算にも余り自信はなかったのですが、フェリーの乗船時間に遅れたら大変なので、そのまま米原のバリアから名神高速に行くことにしたのですが、回避したかった危惧が的中して検問を受け、重量超過で切符を切られました。

 トラックの運転に集中できなかったことも検問のリスクはあるものの名神高速を選んだ理由でした。会社の出発直前に前年11月の月末から被害者AAさんが続けていた自分の軽四の会社裏駐車場への駐車をやめ、会社前に駐車するという行動を見せていたからです。

 福岡に向けて出発したのは月曜日の2月3日のことですが、被告訴人安田繁克と出会い話をすることになった2月1日のことに説明を戻します。

 午前中の11時ぐらいのことであったと記憶にありますが、市場急配センターの二階の事務所で、被告訴人東渡好信が私の耳に入れるような感じで、今夜トッチが古河から戻ってくる、ということを何か他のことに絡めて誰かに話しかけていました。

 私自身、経験はあったのですが余りないことで、土曜日の午後に古河の青果市場を出発し、その日の夜に荷降ろしをする仕事でした。本来、日曜日は市場が休みなので、土曜日の夜というのは市場が最も静かで無人のような状態でした。

 その荷物は月曜日の未明の競りになるので、本来ならば日曜日の日中から夕方に降ろすことが多い荷物でした。極端に言えば月曜日の朝5時に始まる競りまでに市場の売り場に荷降ろしを終えれば良いという荷物です。

 私の時も土曜日の夜に普通に全線の高速道路を使って普段通りに夜のうちに荷降ろしを終えたことがありました。一度か二度のことでしたが、金沢市場輸送ではありえないことだったので、余裕があって休みをくれているのかと考えていました。

 金沢市場輸送の時は休日をできるだけないようにして給料の手当を割増にするというのも常態化していたのですが、市場急配センターでは会社の指示通りに運行することで総額50万円の給料ということに決まっていました。

 金沢市場輸送では他に例のないことで、当日卸の鮮魚を積んでいても下道の一般道を走らされることがあったぐらいでしたので、なおさら違和感を感じていたのですが、それだけ被告訴人松平日出男社長の待遇はよかったということにもなります。

 古河の青果市場では夕市がある日とない日がありましたが、ない日は午後2時ぐらいの出発になっていたように思います。冬場でもまだ外の明るい夕方の時間に富山インターまで来るということもまれにはあったかと思います。

 そんな場合でも富山の市場で荷降ろしをしてから高岡市の市場に立ち寄ると、金沢の市場に着くのは22時頃かとけっこう遅い時間になっていたように思いますが、それは大型車の荷物だったので積み荷の量も多く、荷降ろしに時間もかかっていたのだと思います。

 夕市のある場合は20時ころの出発が多く、遅い時は21時ころの出発となって、雪のある時期はかなり時間的に厳しい運行にもなっていました。そういうこともあったので、古河の仕事は嫌がる運転手が多く、私に回ってくることも多くなっていました。

 基本は富山、高岡、金沢、福井という市場の4箇所卸でしたが、荷物の多い時はそれを大型車2台やプラス4トン車一台に分けるので、卸先の数も減ってかなり仕事も楽になっていました。

 また、基本的に福井分は金沢の市場のなかの駐車場で中継として4トン車に積み替えることになっていましたが、4トン車には載り切らないかもしれないぐらい多い時は、中継の4トン車の運転手を同乗させて、そのまま大型車で福井に行くこともありました。

 この福井中継をよくやっていたのが被告訴人多田敏明と被告訴人梅野博之でしたが、私が梅野博之を同乗させて福井に行ったような憶えはなく、そのうち福井中継があるときはほとんどが被告訴人多田敏明ということにもなっていたかと思います。

 その頃になると被告訴人多田敏明は日野の新車に近い4トンウィング車にほぼ専属で乗務するようになっていました。市内配達よりは長距離の仕事を手伝うことが多くなっていたとも思います。

 平成3年の12月頃には被告訴人多田敏明はそういう仕事をするようになっていて、一緒にいる時間も長くなりました。個人的に言葉を交わすようになったのも11月中のことでしたが、それも被告訴人東渡好信のベルトコンベアの指詰め問題が、きっかけにもなっていました。

 「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」で書いたのか現在の私の記憶では自信が持てませんが、そのいかにもわざとらしい自作自演の可能性の高いベルトコンベアの指詰めの怪我をきっかけに、被告訴人東渡好信は事務所で配車係をするようになりました。

 平成4年の12月の後半にはミールの倉庫移動が始まるようになっていて、フォークリフトでの積み込み作業などで事務所にいないことも多くなっていましたが、狙っていた計画を実現したような立場で好き勝手に会社の仕事をするようになっていました。

 被告訴人東渡好信が会社でそのような立場に立てたのも、七尾市の丸一運輸の仕事を引っ張ったからだと言われてもいましたが、今考えても古河便の他は七尾の丸一運輸の仕事が多く、あれがなければ長距離の運行が成り立っていなかったようにも思えます。

 古河便というか古河の青果市場での山三青果の仕事は、もともと市場急配センターの請負というかたちで金沢市場輸送がやり始め、私も金沢市場輸送でその仕事を初めからやっていたのですが、最初は平成2年の12月だったように思います。

 湾岸戦争が起こった当日の平成3年1月17日は金沢市場輸送で日野の新車のウィング車に乗務するようになっていました。少し早かったのか同じ日野の大型ウィング車には当時の珠洲郡内浦町新保出身というKOが乗務し、もう一台の三菱ふそうの新車には小坂さんが乗務。

 当初の新車のウィング車はこの三台だったと思います。しばらくするともう2台の新車が追加されましたが、一台は被告訴人東渡好信が乗務し、それが三菱ふそうだったと思いますが、もう一台は輪島の浜上さんが乗務をして、こちらは日野だったのか記憶がはっきりしません。

 追加の2台は4月中だったように思いますが、だいたい2ヶ月遅れということになるかと思われます。今振り返ると4月の終わりから5月のゴールデンウィークの頃には被告訴人東渡好信らが率先してストライキの問題を起こしていたので、いよいよ怪しい策略に見えてきます。

 このストライキのゴタゴタの時期に、私に連絡を寄越し金沢市場輸送から市場急配センターへの入社につながった登場人物が被告訴人安田敏でもありました。

 「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」の方でも書いていると思うので、どの程度のおさらいをしておくか迷うところでもありますが、とても重要なポイントは私が市場急配センターに移る時点で安田は二人いたということです。

 それが市場急配センターで仕事をするようになってすぐ一人の安田はすでにやめていていないと聞かされたことでした。そのもう一人の安田というのが被告訴人安田繁克のことです。

 まただんだんと内容が項目名がからずれているので、平成4年2月1日のことに戻します。

 被告訴人安田繁克が以前被害者AAさんと付き合っていたらしいということは1月21日の夜に被告訴人HTNから聞かされていました。まったく意外な話だったので衝撃も大きかったのですが、それは意外さ故の不信感が何よりも大きなものでした。

 その1月21日の夜というのは会社の裏駐車場で彼女と3回目に会って話をし、喧嘩別れをした直後に、憤慨していた私に声を掛けて自宅のアパートに誘ったのが被告訴人HTNだったのです。

 喧嘩別れという表現もどうかと思う出来事でしたが、これも実際にどういうことがあったのか具体的に詳しく書いておく必要があるので、別の機会にしたいと思います。

 彼女が18時頃まで会社に残っていることは11月26日の例外を除いてほとんどなかったので、その後の経過の時間を多めに見積もっても一階の運転手の休憩室に戻って被告訴人HTNに声を掛けられた時間は19時から遅くても20時の間かと思います。

 その時もほとんどの大型車の運転手がその場に居合わせたように思いますが、2月1日の夜というのもそれに近い状況というかシチュエーションがあって、それがかなり例外的に遅い時間まで続いていました。

2015-07-18 土曜日 01:30 << [[ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]<<







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2015年7月17日 (金)

木梨松嗣弁護士(金沢弁護士会)によって踏みにじられた憲法上の裁判を受ける権利と、その価値を社会に問うための供述調書の実名公開

木梨松嗣弁護士(金沢弁護士会)によって踏みにじられた憲法上の裁判を受ける権利と、その価値を社会に問うための供述調書の実名公開

2015-07-17 金曜日 17:18 >> [[ ←これからの記述範囲の開始時刻]]>>

 先ほどの項目は書いているうちに見出しのタイトル名を勘違いしたまま進めてしまったので、整合性を保つためタイトル名の方をあとで変更しました。

 憲法上の問題というのは非常上告として検察庁に職権発動を促す問題でもありますが、とかく程度を超えて検察や警察を悪しざまに引っ掻き回すようなジャーナリストや弁護士も散見されるので、その前提としての事実を取り上げて説明したいと思います。

 事実の一資料として関係者の供述調書の一部を公開しましたが、その内容については個々に取り上げないところから始めたいと思います。23年ほど経過した事実ではありますが、まずは現在の私の頭の中に残っている記憶によって事実の説明を書きたいと思います。

 資料を読み返せば、新たに思い出すこともあるかもしれませんが、大筋はその必要いもない程度の記憶が残っており、大事なところを指摘できるかと思います。記述の量をいたずらに増やさないという配慮もあります。

 正確な事実を書くとなるとプライバシーの問題も相対的に大きくなるかと思いますが、木梨松嗣弁護士がその立場を利用して、私の裁判を受ける権利を侵害するとともに、被害者およびその家族の本来的な利益を根こそぎ踏みにじったままの違法状態が20年以上経過していることを重視していただきたい。

 私と被害者及びその家族との関係においては、それだけでも書くべき事情や経過が沢山あるのですが、関係が途絶したのは平成18年の10月以降になるかと思います。

 これまでは金沢地方検察庁への木梨松嗣弁護士を被告訴人とした殺人未遂容疑での刑事告訴を優先的に考えてきたのですが、私自身の今後の生活の立て直しということも考えると、国の機関としての検察庁だけではなく、自治体の機能としての石川県警察に確実、的確な問題把握を求める必要に至りました。

 主となる事件は平成4年4月1日に私が起こした傷害・準強姦被告事件ですが、その関連で平成11年8月には平成4年の事件の被害者の拾の父親に対する傷害事件にも発展しております。

 基本となるのは平成4年の事件で判決が出て確定していることから、救済の道は再審請求しかなく、終わった事件に対していっさい対応は出来ないと言われた時期もありました。

 生活保護の担当者も含め、以前とは対応が違っているような感じを持つようになって一年以上は経つと思いますが、契機として思い当たるような節といえば、Twitterのカバー写真に「被疑事実殺人未遂 被告訴人 木梨松嗣弁護士(金沢弁護士会)」と書いたことかとも思われます。

 木梨松嗣弁護士を刑事告訴することは金沢地方検察庁の担当者と繰り返し話してきたことで、告訴状を出してもらわないと始まらないと言われて長く経つ問題であり、私は事実関係を含め確固たる信念を持ってやってきたことであります。

 とはいえ、そういう意識を持てるようになったのも比較的最近になってからのことで、最初から数えると20年ほどの年月がかかったとも思います。説明する側の私自身が理解し気がつくのに20年ほどの歳月と20年に一度の機会が重なったということになります。

 「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」では詳しく書いたと思いますが、2012年8月13日のことです。

 私は長い間、日付を12日と勘違いしていた形跡があり、12日と間違って書いているところもあるかもしれません。お盆休みという感覚もなかったので休みの始まることの多い13日より一日前倒しにして記憶が変容していったのかもしれません。

 それも偶然とは思えないところがありましたが、珠洲警察署に電話を掛けて、珠洲警察署に向かって出かける直前に京都の親戚から電話があったことです。その偶然性に触発されたところもあったのかと、今思いますが、私はその時初めて私選弁護人のことを尋ねました。

 私の母親は男2人女3人の5人兄弟で、その人は長女である母親の妹で次女になるのですが、その旦那の紹介になったのが木梨松嗣弁護士だと聞いていたからです。そのことを確認したのですが、頭から否定され、母親は被告訴人OKNの紹介だと話していたと。

 その時は、私の友達の紹介と言っていたかもしれませんが、次回会った時にははっきりと被告訴人OKNの名前を出していました。いつ頃かはっきりと思い出せなくなっていますが、長男のおじさんの遺影を持ってきた時のことで、これからの住まいのことも色々言われました。

 母親からはその長男のおじさんが木梨松嗣弁護士への弁護士費用を工面してもらったと聞いたように記憶していたのですが、実際にお金を出したのは次女の夫婦の方で、その金額も母親から30万円と聞いていたものが、50万円ということで随分と驚きました。

 亡くなった長男のおじさんとは2009年の9月の10日頃に会いました。親戚一同が集まって8月31日に脳梗塞で倒れ半身不随となった母親のことについて相談をしたのですが、その後、難病にかかり管で栄養分を体内に入れるような状態になっていると聞いていました。

 その後、電話で亡くなったとは聞いていたのですが、奥さんが遺影を持って宇出津の家に来た日のことも、今はいつ頃だったのか、さっぱり思い出せなくなっています。

 その後、次女のおばさんの方も体調を悪くし長い間病院に入っていると聞いていたのですが、二月ほど前の末の3女のおばさんからの電話で、いくらか体調が良くなり自宅で静養しているような話を聞きました。

 母親本人に聞いておけばよかったと思われるかと思いますが、私は平成9年1月18日に福井刑務所を出所した時、母親を連れて迎えに来た被告訴人OSN、被告訴人OKN、被告訴人KYNの異様な態度を見て、警戒心を強くしていたので、母親を刺激するようなことは避けました。

 木梨松嗣弁護士についてもほとんど会話はなかったのですが、一度だけとても残念そうに「はいだるい弁護士やった。」と一言つぶやいたことがありました。

 「はいだるい」は能登の方言ですが、今ではほとんど耳にすることもなくなった方言の一つです。期待はずれ、頼りない、と言った意味になるかと思いますが、能登の風土に根ざしたような意味合いもある言葉の一つかと思います。

 その後、末の妹のおばさんにはかかってきた電話の時、母親が元気なうちに自分の裁判や弁護士について、なにか話していなかったかと尋ねたのですが、恥でもあるし自分から話そうとはせず、聞こうともしなかったというようなことを言われました。

 被告訴人OKNらは私に対しても再審請求など過去の事件にこだわるようなことはやめろと、再三言っていたぐらいなので、母親も被告訴人OKNらかの影響はそれなりに受けていたのかと思いますが、もう普通の会話は成立しない状態なので何も聞くことはできません。

2015-07-17 金曜日 18:50 << [[ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]<<




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控訴審の私選弁護人であった木梨松嗣弁護士の連絡対応拒否と上告審で郵送された関係者の供述調書

控訴審の私選弁護人であった木梨松嗣弁護士の連絡対応拒否と上告審で郵送された関係者の供述調書

2015-07-17 金曜日 14:25 >> [[ ←これからの記述範囲の開始時刻]]>>

 いきなりになりますが、急遽方針を変更して一部の被告発人・被告訴人らの実名公開に踏み切ることにしました。事実と問題の正確性を担保するためでもあります。

 本来、この具体的な事実関係ははてなダイアリーのブログにおいて2008年から2009年の間に書くものでありましたが、大きな阻害要因となったのが、この度、石川県警察珠洲警察署に対して名誉毀損での刑事告訴を進めているモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)です。

 モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)からは精神的にも社会生活上の立場においても大打撃を受けました。未だ回顧の姿勢は全くうかがえず、私のツイッターのアカウントもブロックしたままです。

【写真資料】一件記録・写真/2014年作成/被告訴人安田繁克の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影) http://hirono-hideki.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/20142014921-34b.html

 上記の被告訴人安田繁克の供述調書は、私が平成4年4月1日の傷害・準強姦被告事件の上告審で平成5年の12月の初め頃になってようやく目にすることが出来た裁判資料です。

 これら供述調書の存在は一審の平成4年6月18日か6月30日の公判の段階で私は知っていました。なぜなら江村正之検察官から要旨の読み上げがあったからです。一件に付き、文字数で100文字にも満たないぐらいの読上であったように思います。

 その時はいきなりの場面で意味もさっぱりわからなかったのですが、江村正之検察官が証拠として提出した甲号供述調書の列挙かと思います。一審の公判は3回だけだったと思います。

 本来5月28日に予定されていた初公判が、準強姦罪の追起訴で併合審理、それに伴い川口泰司裁判官の単独であったものが、三宅俊一郎裁判長と山田徹裁判官の合議制の裁判に変更されました。その初公判が6月18日だったと思います。

 今も私は資料など見ず、現在の自分の記憶だけで書いているのですが、初公判というのは、生まれて初めて経験する裁判でまったく理解もないまま短時間で終わったように思います。本来初公判が予定されていた5月28日に私は金沢西警察署の留置場から金沢刑務所の拘置所に移送されました。

 国選弁護人として専任されていた岡田進弁護士が接見に来たのは、拘置所に移った2,3日後だったと思います。

 今念の為、「% cal 5 1992」というLinuxのコマンドで確認をしたのですが平成4年の5月は月末の30日と31日がそれぞれ土日ということになるようです。

 私が初めて金沢刑務所の拘置所に入った時点で土日は免業日ということになっていたかと思うので、土曜日の30日の接見というのもあり得ないということになるかと思います。

 移送された翌日であったという実感もないので、可能性としては6月1日ということにもなりそうですが、6月になっていたという実感もありません。移送した当日は精神的な混乱も大きく時間が長く感じていたので、翌日とは思えなかったという可能性はあるかと思います。

 岡田進弁護士の接見の様子については「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」を含めこれまでに何度か記述をしていると思うので、紙面の都合もあり繰り返しのことは避けたいと思います。

 大事なポイントとして再度押さえておきたいことは、金沢西警察署にいた時点で、母親から親戚に紹介してもらったという私選弁護人の選任を繰り返し勧められ、何度目かにそれでは私選で頼むという返事をしたところ、次の面会の時かと懐いますが、その私選弁護人の方からという話を聞かされました。

 当時はさほど疑問もなく聞いた話でしたが、弁護士いわく、国選弁護人が決まってから弁護人を変えると裁判所の印象を悪くするのでやめたほうが良い、という話でした。木梨松嗣弁護士の名前を聞いていたかははっきりとは思いだせませんが、控訴審での選任の経過を含めるとまず間違いのないことです。

 判決があったのは平成4年8月3日。すぐに控訴の手続きをしたように思いますが、旧盆の終わりの8月の18日頃には木梨松嗣弁護士の接見がありました。まだお盆休みのような時期だったので、なおさら印象的に記憶にしています。当日には京都の親戚の面会もあったように思います。

 あるいは当時市場急配センターの社長だった被告訴人松平日出男の面会があったのも同じ日かと思います。一日ぐらいずれている可能性もあるかと思いますが、本来一日一回だけの面会で、午後に京都の親戚が面会に来たので、二回の面会となりましたが、刑務官にきつく注意を受けたことも印象的でした。

 二回の面会があった日の一つの面会は被告訴人OKNの面会であったような憶えもあるのですが、現在は記憶そのものが薄れているので、それ以上思い出すことも出来ません。木梨松嗣弁護士と被告訴人OKNを関連付けて考えることもなかったと思います。

 木梨松嗣弁護士の弁護や接見については、現在よりいくらか記憶も新しかった段階に「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」に書くべきことを書いたと思いますし、金沢地方検察庁や金沢地方裁判所に提出した書面にも繰り返し記述があるかと思います。

 控訴審は平成4年の10月には初公判があったと思いますが、次回の公判で裁判長が入れ替わったので、実質的な審理というのもそこからだったように思います。その入れ替わった裁判長というのが判決を出し、その後の再審請求の抗告も「論旨は理由がない」として棄却した小島裕史裁判長でした。

 そういえば一審の判決書には「証拠の標目」のようなものがあって、だいぶん後になって気がついたようにも思いますが、被告訴人安田繁克のものだけがなかったように思います。

 それを私は意味のある好意的な指摘と考えた時期がありました。真相の解明のための手段、方策であると考えたのです。そうとでも考えなければやりきれなかったということもあるかと思いますが、不信を募らせて起こしてしまった事件について、さらに混迷を深めるような状態にさらされたのです。

 木梨松嗣弁護士は私を精神的に追い詰め、精神の破綻を狙ったとも考えます。木梨松嗣弁護士が控訴審の刑事弁護としてやったことは、私に精神鑑定を受けさせたことぐらいでした。

 記憶がはっきりしなくなっていますが、木梨松嗣弁護士が最後に接見に来たのは平成5年の4月か5月ではなかったかと思います。極めてはっきりとしていることはその平成5年の3月1日から3月31日まで、私は精神鑑定で金沢大学附属病院の精神科閉鎖病棟に入院していたということです。

 3月31日の午後には金沢刑務所の拘置所に戻っていたのですが、それから半月以内か比較的早い段階で一度は木梨松嗣弁護士の接見がありました。

 その後、公判で精神鑑定を行った山口成良教授の証人尋問があったことははっきりと場面を憶えています。たぶん、これが同年つまり平成5年9月7日に判決が出る前の最後の公判になったのだと思うのですが、7月の初めの頃ではなかったかと思います。

 もうその段階では木梨松嗣弁護士の接見もなく、接見の要望にも全く連絡を寄越さない状況になっていたと思います。先の見通しも全く立たなくなっていましたが、ある日、名古屋高等裁判所金沢支部から書面が届き、そこに次回公判期日として9月7日の判決公判のことが書いてありました。

 その前の段階からになると思いますが、私は繰り返し木梨松嗣弁護士に宛てた手紙で、市場急配センターの関係者らの供述調書を読みたいので差し入れをして欲しいと頼んでいましたが、これも一切無視をされて、全くなんの連絡もないまま判決を迎えました。

 「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」には書いたように思いますが、9月7日の控訴審の判決当日、言い渡しを受け金沢刑務所に戻った私は、拘置舎に戻る前の母親との面会で「人権委員会を呼んでこい」と声を上げ、アクリル板を手で叩きつけて、保護房に収容されたのです。

 保護房には3日ほど入っていて初めの49時間ほどは革手錠をつけられていました。そのあと拘置舎には戻されましたが、自殺防止の突起物のない部屋に入られ、そこで10日から半月ほど過ごす間に、懲罰の審査と決定を受けました。

 久しぶりにふと思い出したので懲罰の期間が正確に思い出せなくなっています。懲罰の間は手紙を書くことも本を読むことも裁判の書面を書くことも一切出来ず、正座と安座を繰り返すだけの日々を送っていました。

 すっかりと空きらしくなった頃に懲罰が終わり、普通の拘置所での生活が出来るようになりましたが、手紙や電報で何度連絡を入れても、木梨松嗣弁護士からの対応はいっさいありませんでした。

 今は、インターネットで裁判に関する情報も多く出回っていて、それがでたらめだとか注意を喚起する弁護士もいますが、平成4,5年の当時というのは、まるで情報がありませんでした。金沢西警察署にいた時も私はずっと単独収容で話し相手もいませんでした。

 そのうち上告審の最高裁判所から弁護人選任回答の書面が届いたのですが、その時点でも私は控訴審と同じ木梨松嗣弁護士に上告審の弁護人もお願いするつもりでいました。経過を知っている唯一の弁護士あり、他の選択もなかったのですが、とにかく取っ掛かりというものが一切与えられずにいました。

 懲罰があけたのは月の中頃だったように思うのですが、これは10月かあるいは11月の中頃ということになりそうです。懲罰が何日だったのか思い出せないのですが、25日だったような気もしてきました。25日だと10月の中頃には終わっていたことにもなりそうです。

 懲罰が明けた後は前だけを向く気持ちで書面の作成に取り組んでいました。これは控訴審の上申書として作成していたものが中途で判決によって打ち切られ、その後の懲罰期間のブランクもあって断絶していたものを確かそれまでの続きという意味で平成4年1月以降のことを集中的に書いたように思います。

 細かいことは現在の記憶で思い出せませんが、その平成5年の11月中には上告審の国選弁護人として斐川雅文弁護士が決まっていたように思います。市場急配センターの関係者の供述調書を送って欲しいと頼んだところ、意外にすんなりと送ってくれました。

 最高裁の上告審はまず出廷することもありませんし、弁護人とのやりとりというのも手紙のみでした。接見などあるはずもなく、顔も年齢も全く知らない住所と名前以外は知らない弁護士との関係でした。

 斐川雅文弁護士について記憶にあるのは住所が東京の千代田区である法律事務所に斐川雅文弁護士と添えられていました。覚えやすい聞いたことのなるような名称で「鈴木邦男法律事務所」となっていたように思うのですが。記憶に100%の自信はありません。

 斐川雅文弁護士についてはこれまで何度かインターネットで情報を探しまわったことがあるのですが、いっさい情報は見つかりませんでした。数年ぶりになるかと思いますが、今一度Googleで検索をしてみたいと思います。

斐川雅文弁護士 - Google 検索 https://www.google.co.jp/#q=%E6%96%90%E5%B7%9D%E9%9B%85%E6%96%87%E5%BC%81%E8%AD%B7%E5%A3%AB

 検索結果の一ページ目だけ目を通しましたが、すべて私が過去に書いた記事の関係のようでした。不思議なことですが、斐川雅文弁護士からの郵送の封筒というのもずっと前から一切見つからずにいます。上告趣意書のコピーなどはあるので、そちらには斐川雅文弁護士という名前が記載されています。

 縮小版とある供述調書のコピーは全て斐川雅文弁護士から一度に郵送されてきたものです。郵送が届いたという知らせがあったのは11月の終わり頃だったという記憶になっているのですが、所定の願箋という手続きをやって、房内の手元に入ったのは12月の初めになっていたという記憶になっています。

 冒頭の被告訴人安田繁克の供述調書もその時に初めて目にしたものですが、私自身もう長い間目を通していませんし、手書きの非常に読みづらい書面となっています。

2015-07-17 金曜日 16:50 << [[ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]<<




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社会生活上の危機感における被告発人・被告訴人らの実名公開について

社会生活上の危機感における被告発人・被告訴人らの実名公開について

2015-07-17 金曜日 14:25 >> [[ ←これからの記述範囲の開始時刻]]>>

 いきなりになりますが、急遽方針を変更して一部の被告発人・被告訴人らの実名公開に踏み切ることにしました。事実と問題の正確性を担保するためでもあります。

 本来、この具体的な事実関係ははてなダイアリーのブログにおいて2008年から2009年の間に書くものでありましたが、大きな阻害要因となったのが、この度、石川県警察珠洲警察署に対して名誉毀損での刑事告訴を進めているモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)です。

 モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)からは精神的にも社会生活上の立場においても大打撃を受けました。未だ回顧の姿勢は全くうかがえず、私のツイッターのアカウントもブロックしたままです。

【写真資料】一件記録・写真/2014年作成/被告訴人安田繁克の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影) http://hirono-hideki.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/20142014921-34b.html

 上記の被告訴人安田繁克の供述調書は、私が平成4年4月1日の傷害・準強姦被告事件の上告審で平成5年の12月の初め頃になってようやく目にすることが出来た裁判資料です。

 これら供述調書の存在は一審の平成4年6月18日か6月30日の公判の段階で私は知っていました。なぜなら江村正之検察官から要旨の読み上げがあったからです。一件に付き、文字数で100文字にも満たないぐらいの読上であったように思います。

 その時はいきなりの場面で意味もさっぱりわからなかったのですが、江村正之検察官が証拠として提出した甲号供述調書の列挙かと思います。一審の公判は3回だけだったと思います。

 本来5月28日に予定されていた初公判が、準強姦罪の追起訴で併合審理、それに伴い川口泰司裁判官の単独であったものが、三宅俊一郎裁判長と山田徹裁判官の合議制の裁判に変更されました。その初公判が6月18日だったと思います。

 今も私は資料など見ず、現在の自分の記憶だけで書いているのですが、初公判というのは、生まれて初めて経験する裁判でまったく理解もないまま短時間で終わったように思います。本来初公判が予定されていた5月28日に私は金沢西警察署の留置場から金沢刑務所の拘置所に移送されました。

 国選弁護人として専任されていた岡田進弁護士が接見に来たのは、拘置所に移った2,3日後だったと思います。

 今念の為、「% cal 5 1992」というLinuxのコマンドで確認をしたのですが平成4年の5月は月末の30日と31日がそれぞれ土日ということになるようです。

 私が初めて金沢刑務所の拘置所に入った時点で土日は免業日ということになっていたかと思うので、土曜日の30日の接見というのもあり得ないということになるかと思います。

 移送された翌日であったという実感もないので、可能性としては6月1日ということにもなりそうですが、6月になっていたという実感もありません。移送した当日は精神的な混乱も大きく時間が長く感じていたので、翌日とは思えなかったという可能性はあるかと思います。

 岡田進弁護士の接見の様子については「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」を含めこれまでに何度か記述をしていると思うので、紙面の都合もあり繰り返しのことは避けたいと思います。

 大事なポイントとして再度押さえておきたいことは、金沢西警察署にいた時点で、母親から親戚に紹介してもらったという私選弁護人の選任を繰り返し勧められ、何度目かにそれでは私選で頼むという返事をしたところ、次の面会の時かと懐いますが、その私選弁護人の方からという話を聞かされました。

 当時はさほど疑問もなく聞いた話でしたが、弁護士いわく、国選弁護人が決まってから弁護人を変えると裁判所の印象を悪くするのでやめたほうが良い、という話でした。木梨松嗣弁護士の名前を聞いていたかははっきりとは思いだせませんが、控訴審での選任の経過を含めるとまず間違いのないことです。

 判決があったのは平成4年8月3日。すぐに控訴の手続きをしたように思いますが、旧盆の終わりの8月の18日頃には木梨松嗣弁護士の接見がありました。まだお盆休みのような時期だったので、なおさら印象的に記憶にしています。当日には京都の親戚の面会もあったように思います。

 あるいは当時市場急配センターの社長だった被告訴人松平日出男の面会があったのも同じ日かと思います。一日ぐらいずれている可能性もあるかと思いますが、本来一日一回だけの面会で、午後に京都の親戚が面会に来たので、二回の面会となりましたが、刑務官にきつく注意を受けたことも印象的でした。

 二回の面会があった日の一つの面会は被告訴人OKNの面会であったような憶えもあるのですが、現在は記憶そのものが薄れているので、それ以上思い出すことも出来ません。木梨松嗣弁護士と被告訴人OKNを関連付けて考えることもなかったと思います。

 木梨松嗣弁護士の弁護や接見については、現在よりいくらか記憶も新しかった段階に「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」に書くべきことを書いたと思いますし、金沢地方検察庁や金沢地方裁判所に提出した書面にも繰り返し記述があるかと思います。

 控訴審は平成4年の10月には初公判があったと思いますが、次回の公判で裁判長が入れ替わったので、実質的な審理というのもそこからだったように思います。その入れ替わった裁判長というのが判決を出し、その後の再審請求の抗告も「論旨は理由がない」として棄却した小島裕史裁判長でした。

 そういえば一審の判決書には「証拠の標目」のようなものがあって、だいぶん後になって気がついたようにも思いますが、被告訴人安田繁克のものだけがなかったように思います。

 それを私は意味のある好意的な指摘と考えた時期がありました。真相の解明のための手段、方策であると考えたのです。そうとでも考えなければやりきれなかったということもあるかと思いますが、不信を募らせて起こしてしまった事件について、さらに混迷を深めるような状態にさらされたのです。

 木梨松嗣弁護士は私を精神的に追い詰め、精神の破綻を狙ったとも考えます。木梨松嗣弁護士が控訴審の刑事弁護としてやったことは、私に精神鑑定を受けさせたことぐらいでした。

 記憶がはっきりしなくなっていますが、木梨松嗣弁護士が最後に接見に来たのは平成5年の4月か5月ではなかったかと思います。極めてはっきりとしていることはその平成5年の3月1日から3月31日まで、私は精神鑑定で金沢大学附属病院の精神科閉鎖病棟に入院していたということです。

 3月31日の午後には金沢刑務所の拘置所に戻っていたのですが、それから半月以内か比較的早い段階で一度は木梨松嗣弁護士の接見がありました。

 その後、公判で精神鑑定を行った山口成良教授の証人尋問があったことははっきりと場面を憶えています。たぶん、これが同年つまり平成5年9月7日に判決が出る前の最後の公判になったのだと思うのですが、7月の初めの頃ではなかったかと思います。

 もうその段階では木梨松嗣弁護士の接見もなく、接見の要望にも全く連絡を寄越さない状況になっていたと思います。先の見通しも全く立たなくなっていましたが、ある日、名古屋高等裁判所金沢支部から書面が届き、そこに次回公判期日として9月7日の判決公判のことが書いてありました。

 その前の段階からになると思いますが、私は繰り返し木梨松嗣弁護士に宛てた手紙で、市場急配センターの関係者らの供述調書を読みたいので差し入れをして欲しいと頼んでいましたが、これも一切無視をされて、全くなんの連絡もないまま判決を迎えました。

 「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」には書いたように思いますが、9月7日の控訴審の判決当日、言い渡しを受け金沢刑務所に戻った私は、拘置舎に戻る前の母親との面会で「人権委員会を呼んでこい」と声を上げ、アクリル板を手で叩きつけて、保護房に収容されたのです。

 保護房には3日ほど入っていて初めの49時間ほどは革手錠をつけられていました。そのあと拘置舎には戻されましたが、自殺防止の突起物のない部屋に入られ、そこで10日から半月ほど過ごす間に、懲罰の審査と決定を受けました。

 久しぶりにふと思い出したので懲罰の期間が正確に思い出せなくなっています。懲罰の間は手紙を書くことも本を読むことも裁判の書面を書くことも一切出来ず、正座と安座を繰り返すだけの日々を送っていました。

 すっかりと空きらしくなった頃に懲罰が終わり、普通の拘置所での生活が出来るようになりましたが、手紙や電報で何度連絡を入れても、木梨松嗣弁護士からの対応はいっさいありませんでした。

 今は、インターネットで裁判に関する情報も多く出回っていて、それがでたらめだとか注意を喚起する弁護士もいますが、平成4,5年の当時というのは、まるで情報がありませんでした。金沢西警察署にいた時も私はずっと単独収容で話し相手もいませんでした。

 そのうち上告審の最高裁判所から弁護人選任回答の書面が届いたのですが、その時点でも私は控訴審と同じ木梨松嗣弁護士に上告審の弁護人もお願いするつもりでいました。経過を知っている唯一の弁護士あり、他の選択もなかったのですが、とにかく取っ掛かりというものが一切与えられずにいました。

 懲罰があけたのは月の中頃だったように思うのですが、これは10月かあるいは11月の中頃ということになりそうです。懲罰が何日だったのか思い出せないのですが、25日だったような気もしてきました。25日だと10月の中頃には終わっていたことにもなりそうです。

 懲罰が明けた後は前だけを向く気持ちで書面の作成に取り組んでいました。これは控訴審の上申書として作成していたものが中途で判決によって打ち切られ、その後の懲罰期間のブランクもあって断絶していたものを確かそれまでの続きという意味で平成4年1月以降のことを集中的に書いたように思います。

 細かいことは現在の記憶で思い出せませんが、その平成5年の11月中には上告審の国選弁護人として斐川雅文弁護士が決まっていたように思います。市場急配センターの関係者の供述調書を送って欲しいと頼んだところ、意外にすんなりと送ってくれました。

 最高裁の上告審はまず出廷することもありませんし、弁護人とのやりとりというのも手紙のみでした。接見などあるはずもなく、顔も年齢も全く知らない住所と名前以外は知らない弁護士との関係でした。

 斐川雅文弁護士について記憶にあるのは住所が東京の千代田区である法律事務所に斐川雅文弁護士と添えられていました。覚えやすい聞いたことのなるような名称で「鈴木邦男法律事務所」となっていたように思うのですが。記憶に100%の自信はありません。

 斐川雅文弁護士についてはこれまで何度かインターネットで情報を探しまわったことがあるのですが、いっさい情報は見つかりませんでした。数年ぶりになるかと思いますが、今一度Googleで検索をしてみたいと思います。

斐川雅文弁護士 - Google 検索 https://www.google.co.jp/#q=%E6%96%90%E5%B7%9D%E9%9B%85%E6%96%87%E5%BC%81%E8%AD%B7%E5%A3%AB

 検索結果の一ページ目だけ目を通しましたが、すべて私が過去に書いた記事の関係のようでした。不思議なことですが、斐川雅文弁護士からの郵送の封筒というのもずっと前から一切見つからずにいます。上告趣意書のコピーなどはあるので、そちらには斐川雅文弁護士という名前が記載されています。

 縮小版とある供述調書のコピーは全て斐川雅文弁護士から一度に郵送されてきたものです。郵送が届いたという知らせがあったのは11月の終わり頃だったという記憶になっているのですが、所定の願箋という手続きをやって、房内の手元に入ったのは12月の初めになっていたという記憶になっています。

 冒頭の被告訴人安田繁克の供述調書もその時に初めて目にしたものですが、私自身もう長い間目を通していませんし、手書きの非常に読みづらい書面となっています。

2015-07-17 金曜日 16:50 << [[ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]<<


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被告訴人UHK、被告訴人YSK、被告訴人TTKの甲号供述調書のココログフリーのブログにおける再掲公開について

被告訴人UHK、被告訴人YSK、被告訴人TTKの甲号供述調書のココログフリーのブログにおける再掲公開について

2015-07-17 金曜日 12:17 >> [[ ←これからの記述範囲の開始時刻]]>>

 RSSを取得するコマンドスクリプトで取得したココログフリーのブログの最新記事は次のようになっています。

ココログフリーのブログのアクセス数詳細 2015年7月1日〜7月17日 http://hirono-hideki.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/201571717-7646.html
ココログフリーのブログと珠洲警察署への電話について。これからの始まり。 http://hirono-hideki.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-7b46.html
【写真資料】一件記録・写真/2014年作成/被告訴人梅野博之の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影) http://hirono-hideki.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/20142014921-560.html
【写真資料】一件記録・写真/2014年作成/被告訴人安田繁克の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影) http://hirono-hideki.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/20142014921-34b.html
【写真資料】一件記録・写真/2014年作成/被告訴人多田敏明の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影) http://hirono-hideki.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/20142014921-562.html
平成4年第二回公判調書(金沢地方裁判所) http://hirono-hideki.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/4-9b38.html
刑事事件の実名報道に対するローカスこと実質実名弁護士アカウントの考え方について石川県警察に参考にしてもらいたいこと(前置きとしてのhsとhrの新規ブログ投稿スクリプトの説明) http://hirono-hideki.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/hshr-d2af.html
テーマタイトル「さらば弁護士鉄道」に向けた新たな出発 http://hirono-hideki.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-368b.html

 「(2014年9月21日撮影」となっている3件のエントリですが、これは、いずれも7月15日15時台の投稿となっています。計画性のない成り行きで、この投稿をすることになったのですが、その経緯を少し説明しておきたいと思います。

 今月つまり7月の3日と4日の金曜日と土曜日に宇出津のあばれ祭りがあり、その翌日であったように思うのですが、メールを見ているとブログの一つに集中したコメント投稿があることを確認しました。

 レンタルサーバーで管理しているWordPress.orgのブログのひとつです。ブログ自体はサーバー上で一つのフォルダとして存在しておりますが、データの方はMySQLのデータベースで管理されています。

 レンタルサーバーでは直接データベースの管理が出来るのですが、SQLのコマンドを使ってスパムのコメントを一括削除したところ、テーブル間のリレーションシップが失われたらしく、ブログの記事が読み込めなくなりました。

 コメントのテーブルとエントリのテーブルは別になっていて、記事のエントリのデータはそのまま残っているので、そのデータをエクスポートして、エントリの内容をコピペしたのが次のココログフリーの記事になります。

平成4年第二回公判調書(金沢地方裁判所) http://hirono-hideki.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/4-9b38.html

 画像のデータがレンタルサーバーのものになっていて、他にもHTMLのタグがココログフリーでは不完全にしか反映されないという問題があったので、他に使えそうなデータがなかったものかと調べたところ、意外に早く見つかったのが「(2014年9月21日撮影」で共通する3件のデータでした。

 私自身、忘れていたところもあって、改めた確認作業もやっていないのですが、「(2014年9月21日撮影」とあるので、昨年の9月の21日頃に撮影し、ブログに公開投稿したものだと思います。次の作業に移るつもりで用意したものでしたが、事実上、中断放置の状態になったように思います。

 今回改めてココログフリーのブログにおいて再掲というかたちで公開した3件のエントリですが、公開の必要性について現在の認識において書いておきたいと思います。

 新たな必要性を考えているところであって、その必要性についてストレートに石川県警察において記録とともに公示的にお知らせします。

2015-07-17 金曜日 14:20 << [[ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]<<

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ココログフリーのブログのアクセス数詳細 2015年7月1日〜7月17日

ココログフリーのブログのアクセス数詳細 2015年7月1日〜7月17日

2015-07-17 金曜日 12:02 >> [[ ←これからの記述範囲の開始時刻]]>>

日付   PV Visit UU
07/01(水) 15 12 11
07/02(木) 18 13 13
07/03(金) 8 6 6
07/04(土) 17 12 12
07/05(日) 15 15 14
07/06(月) 20 17 17
07/07(火) 26 17 15
07/08(水) 18 13 12
07/09(木) 12 12 11
07/10(金) 18 8 8
07/11(土) 10 10 10
07/12(日) 10 8 8
07/13(月) 23 10 10
07/14(火) 11 9 9
07/15(水) 10 6 5
07/16(木) 21 14 13
07/17(金) 12 6 6

 PVというのはなんとなくわかるのですが、VisitとUUの意味については調べていないのでわかっていません。PVの方は総アクセスという意味かと思いますが、いずれにせよ似たような数値であり、一番多い日で17件、一番少ない日で6件ということになりそうです。

 機会的に処理されたデータであり、私自身が管理しているものでもないので、これはなんなのかという気持ちもありますが、そういうことも含めて客観的な反応の資料としてご紹介をしておきたいと思います。

 このデータを見るところ、小倉秀夫弁護士もモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)もブログを閲覧している可能性は低そうです。

2015-07-17 金曜日 12:10 << [[ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]<<




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ココログフリーのブログと珠洲警察署への電話について。これからの始まり。

ココログフリーのブログと珠洲警察署への電話について。これからの始まり。

2015-07-17 金曜日 02:10 >> [[ ←これからの記述範囲の開始時刻]]>>

 日付が変わっていますが、13時を過ぎてから珠洲警察署に電話を掛け、一年以上前から担当者といわれている人と話をしました。電話の終わりに確認をしたのですが、全く意外な答えが返り、「ちのうそたい」とのことでした。

 通話中はなぜか「組体」だと解釈したのですが、これは検察庁の「検察官一体の原則というのを思い浮かべた影響が大きそうです。電話を切ってから、組織対策の略としての組対の可能性が高く、それ以外は考えにくいと思い直したのですが、知能と組織犯罪の組み合わせというのも改めて意外に思いました。

 だいぶん前の電話になるかと思いますが、担当者への電話の取次の際、係長という言葉が電話口に聞こえたので、今回はなんの係の係長という立場なのか確認のための質問をしたのです。

 組織犯罪対策課というのは近年、ちょくちょく見かけるか耳する言葉かと思いますが、それが係となるとずいぶん意外に感じましたし、正つ安全刑事課の中の係となると、本当なのかと未だに信じがたい気分になりますが、だからなおさらのこと、正確に事実を記録しておきたいと必要性を感じました。

 今回の電話ではココログフリーのブログをメインにすることをはっきりとお知らせしたのですが、ココログフリーというのもよく理解できないようなことを言われ、言われてみると説明も難しいので、3つのツイッターのアカウントでプロフィールのURLを全てそちらにしておきますと言いました。

 実際に確認してみるとココログフリーのブログのURLになっていたのは廣野秀樹(@hirono_hideki)のアカウントだけだったので、他の2つでプロフィールのホームページをココログフリーのブログに変更しました。

 ココログフリーのブログをメインにした理由についても簡潔ですが、アクセス解析が充実していることをお伝えしました。

 午前中だったと思いますが、次の4つのキーワードを使ってアクセス解析のスクリーンショットを撮りました。

ココログフリーのブログ:金沢地方検察庁御中 アクセス解析 [07月01日〜07月31日] 参照元種別

ココログフリーのブログ:金沢地方検察庁御中 アクセス解析 [07月01日〜07月31日] 流入元別アクセス推移

ココログフリーのブログ:金沢地方検察庁御中 アクセス解析 [07月01日〜07月31日] 流入元別アクセス数詳細

ココログフリーのブログ:金沢地方検察庁御中 アクセス解析 [07月01日〜07月31日] 訪問組織ランキング

 ブログである程度の記事を公開してから珠洲警察署に電話をするつもりでいたのですが、13時を過ぎてから気が変わって、始める前にお知らせしたおいたほうがいいと考え、思いついてから10分から15分ほどで行動にしました。

 「高くてもこっちを食いたいと思う歌詞を作れ。自信がないならやめろ。」という連続テレビ小説まれ、の12時45分からの再放送で見たセリフの場面があったのですが、あとで考えると、それがにわかに珠洲警察署に電話を入れておく動機になりました。

 能登と横浜が舞台のドラマでスイーツというか洋菓子がテーマになっていますが、以前より刑事弁護や弁護士との共通性を個人的に感じながら見ていたところで、対弁護士界という意味で、それと対立的な関係性が高い警察に事後的ではなく初めからの経過をしっかりとプロの目で見つめてもらいたいと。

 石川県と横浜ですが、まれのドラマが始まって以降、横浜弁護士会が神奈川弁護士会に名称変更することになったという話をネットで知り、その点でも注目をしていました。都道府県名を別にした弁護士会というのは横浜、仙台、金沢の3つだけだったということもその時に初めて知りました。

 金沢弁護士会には個人的にされている問題においても注目をしていますし、より大きな注目を集め大問題に発展させようという目論見もあるので、今週の「連続テレビ小説まれ」の内容には、思いもよらぬ発見があるとともに参考にしたいと考えているところです。

 他にもジャーナリスト江川紹子さんの経歴も神奈川新聞の記者から始まっているらしく、今年は横浜や神奈川県への注目が高まっているところです。ドラマの世界とリアルのジャーナリストの報道の世界という違いもありますが、ドラマ以上に注目し考えを深めてきた世界、存在でもあります。

 前任の担当者の時になりますが、珠洲警察署に掛けた電話の時もジャーナリスト江川紹子さんの名前を出した時、「弁護士なのか?」などと、妙にはしゃいたようなあざけたよう対応を受けたのも、すごく印象的でした。

2015-07-17 金曜日 02:57 << [[ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]<<

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2015年7月15日 (水)

【写真資料】一件記録・写真/2014年作成/被告訴人梅野博之の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)

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"Title : 【写真資料】一件記録・写真/2014年作成/被告訴人梅野博之の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)
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投稿者:s_hirono(非常上告-最高検察庁御中_ツイッター) 日時:2014/12/03 19:24 ツイート: https://twitter.com/s_hirono/status/540089068252450816
被告訴人梅野博之の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)_01.jpg http://t.co/uzwzzaQ274




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被告訴人梅野博之の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)_02.jpg http://t.co/fT16Yoq1aR




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被告訴人梅野博之の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)_03.jpg http://t.co/ncsC7u6CwZ




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被告訴人梅野博之の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)_04.jpg http://t.co/VxOGgFKfAu




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被告訴人梅野博之の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)_10.jpg http://t.co/dxXBGUVrh7




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被告訴人梅野博之の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)_13.jpg http://t.co/R9BaqO7vZb




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被告訴人梅野博之の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)_16.jpg http://t.co/MHyDoeWvfZ




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被告訴人梅野博之の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)_17.jpg http://t.co/TGLMonQe46




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被告訴人梅野博之の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)_18.jpg http://t.co/LSbWWEUCVW




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被告訴人梅野博之の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)_19.jpg http://t.co/FiE1KVxhxh




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被告訴人梅野博之の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)_20.jpg http://t.co/JvDOsWAaNf




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被告訴人梅野博之の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)_21.jpg http://t.co/QDIYI8Mo2y




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被告訴人梅野博之の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)_24.jpg http://t.co/sxGhkPzblB


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【写真資料】一件記録・写真/2014年作成/被告訴人安田繁克の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)

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"Title : 【写真資料】一件記録・写真/2014年作成/被告訴人安田繁克の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)
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"Tags : 写真資料,供述調書縮小版,被告訴人安田繁克
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被告訴人安田繁克の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)_01.jpg http://t.co/fUiPWqkuQW




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被告訴人安田繁克の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)_02.jpg http://t.co/xk2jQWRvzf




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被告訴人安田繁克の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)_03.jpg http://t.co/dixvusS5Kk




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被告訴人安田繁克の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)_04.jpg http://t.co/0Djmb1ZAdr




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被告訴人安田繁克の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)_05.jpg http://t.co/FqJydMA3Or




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被告訴人安田繁克の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)_06.jpg http://t.co/hFexwAojvE




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被告訴人安田繁克の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)_07.jpg http://t.co/bNAFgvOm1Q




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被告訴人安田繁克の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)_08.jpg http://t.co/2doZvOoS3m




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被告訴人安田繁克の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)_09.jpg http://t.co/A3KGePJFUh




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被告訴人安田繁克の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)_10.jpg http://t.co/qWaCC9DbLz


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【写真資料】一件記録・写真/2014年作成/被告訴人多田敏明の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)

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"Title : 【写真資料】一件記録・写真/2014年作成/被告訴人多田敏明の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)
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"Tags : 写真資料,被告訴人多田敏明,供述調書縮小版,Picasaウェブアルバム
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被告訴人多田敏明の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)_01.jpg http://t.co/sW6JBuAsB8




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被告訴人多田敏明の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)_02.jpg http://t.co/a40zvZaAgj




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被告訴人多田敏明の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)_03.jpg http://t.co/FIQdGLQnTi




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被告訴人多田敏明の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)_04.jpg http://t.co/75xYZIT1h5




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被告訴人多田敏明の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)_05.jpg http://t.co/ldca7qP3GK




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被告訴人多田敏明の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)_06.jpg http://t.co/5LARbWzjY5




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被告訴人多田敏明の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)_07.jpg http://t.co/AGRXO9FJTR




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被告訴人多田敏明の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)_08.jpg http://t.co/wxNaFfzLYI




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被告訴人多田敏明の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)_09.jpg http://t.co/eePEas9rx6




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被告訴人多田敏明の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)_10.jpg http://t.co/ppobdHEYlN




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被告訴人多田敏明の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)_11.jpg http://t.co/emhIhsfB8y




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被告訴人多田敏明の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)_12.jpg http://t.co/kr9fh3JG6m




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被告訴人多田敏明の供述調書縮小版(2014年9月21日撮影)_13.jpg http://t.co/z5hGJutUFo


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平成4年第二回公判調書(金沢地方裁判所)

平成4年第二回公判調書
 JavaScriptが有効であれば画像をクリックするとポップアップで拡大されます。右下に表示されるCLSEをクリックするか画像の外枠の黒い部分をクリックすると元に戻ります。  画像の中にマウスポインターを入れるとNEXTとPREVで順番に画像に切り替えることも出来ます。画像の中心より右側をクリックするだけで次に進むことも出来、同様に左側で逆順に切り替わります。キーボードの左右の矢印キーでも切り替えが出来ます。
平成4年第二回公判調書_01.jpeg
平成4年第二回公判調書_02.jpeg
 この資料については少し説明をしておかなければなりません。 平成4年6月30日付公判調書 http://kokuhatu-hirono.seesaa.net/article/199426748.html と同日の公判であることはまず間違いないのですが、こちらの方は6月29日という日付が入っていました。自分のこれまでの記憶としては6月30日だったのですが、29日が正しいのかもしれません。  この裁判の公判は、6月18日に初公判があり、次回の6月30(あるいは29日)日の公判で結審し、同年8月3日に判決の言い渡しがありました。判決公判は、裁判長の判決文の読み上げのみです。  この写真は本日2011年5月6日に撮影しました。とにかく裁判の終わりに「誰も味方はいない、厳罰に処してください」と言ったことははっきりを記憶しています。ところが、「平成4年6月30日付公判調書」とした方の写真を見ていると該当する部分がないまま裁判長の質問が終わっていることに気がつきました。一時は内容を書き換えられたのか、それとも自分の記憶がおかしくなっているのかと、不安を覚えました。  この書面もこれまでにインターネットで公開しているはずなのですが、しばらく調べたところでは見つけることが出来ず、自分のデータの管理の甘さを改めて痛感しました。  内容について少し指摘しておくと、これも少しおかしい部分があります。岡田進弁護士の弁論なのですが、「身を挺して」という初めて聞く言葉が含まれていたはずなのです。聞いたこともなかった言葉なので拘置所に戻ってから辞書で調べたことも覚えているぐらいです。また、「真摯」という言葉も同様に生まれて初めて岡田進弁護士の口から聞いたような気がするのですが、こちらはそれほど記憶がはっきりしません。

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2015年7月13日 (月)

刑事事件の実名報道に対するローカスこと実質実名弁護士アカウントの考え方について石川県警察に参考にしてもらいたいこと(前置きとしてのhsとhrの新規ブログ投稿スクリプトの説明)

刑事事件の実名報道に対するローカスこと実質実名弁護士アカウントの考え方について石川県警察に参考にしてもらいたいこと(前置きとしてのhsとhrの新規ブログ投稿スクリプトの説明)

2015-07-13 月曜日 09:28 >> [[ ←これからの記述範囲の開始時刻]]>>

 告発-金沢地方検察庁御中ツイッター(@kkhirono)で確認したところ実質次の記述からの再開ということになります。

投稿者:kk_hirono(告発-金沢地方検察庁御中ツイッター) 日時:2015/07/07 22:20 ツイート: https://twitter.com/kkhirono/status/618409358439743488
曲という字の誤変換もありますが、今年の2月ということです。こういうのも明確な認識と意識の変化ですが、時の経過とともにそういう意識と危機感を強くしております。最終的なかたちにもなりますが、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)と小倉秀夫弁護士の処罰の必要性を強くしました。

 7月に入って3日と4日の二日間に宇出津のあばれ祭りがありました。10年ほど前から7月の第一金土曜日ということになっていますが、この祭りが地元では一年で最大のイベントであり生活の節目になっていることも既にご説明を書いたと思います。

 石川県警察においても能登のこの祭りでは警備のうえで負担が大きいかと思いますので、休止の節目としたつもりでいます。先月つまり6月の終わり頃に珠洲警察署の担当者といわれている人に電話をしましたが、そういえば昨年のあばれ祭りのすぐあとにも電話をしていたことを思い出しました。

 警備の仕事で宇出津のあばれ祭りに来ていたという話をされていましたが、思えばそれから1年間、進展というものはほとんどなかったと思い出すとともに、改めて石川県警察との関係性について、成り行きにまかせるのではなく、しっかりした対処をしておく必要性を考えるようになりました。

 電話を掛けた正確な日も現在思い出せなくなっていますが、備忘のための記録をかねてツイートをしているので、ツイログの方で確認できるかと思います。

投稿者:hirono_hideki(廣野秀樹\さらば弁護士鉄道・泥棒神社の夜) 日時:2015/06/24 16:30 ツイート: https://twitter.com/hirono_hideki/status/613610139782918144
珠洲警察署 - 石川県警察本部 http://t.co/ucpcHCr6LL いまから電話する。

投稿者:hirono_hideki(廣野秀樹\さらば弁護士鉄道・泥棒神社の夜) 日時:2015/06/24 18:11 ツイート: https://twitter.com/hirono_hideki/status/613635645131591684
もう一度

 思っていたより簡潔な内容で、時期も月末かと思っていたのですが、それより3,4日は早く6月24日となっていました。この時点では石川県警察に対する申し入れのような記述を告訴状の一部として、記録をかねて公開するようなことは考えていなかったように思います。

 7月5日の未明に宇出津のあばれ祭りが終わって、翌日の6日にはこの告訴状の作成を本格的に再開するつもりでいたのですが、7日に少し書いただけでまた中断をしていました。

 取り上げたいことが沢山ありすぎて取捨選択にも苦慮したのですが、見出しにもあるように「ローカスこと実質実名弁護士」を真っ先に取り上げることにしたのは、私が実に長い間、悩み迷い続けていた懸案事項に関わるからです。

 注目度から言えば、名誉毀損の刑事告訴を進めているモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)と小倉秀夫弁護士に次ぐのが、深澤諭史弁護士や落合洋司弁護士(東京弁護士会)だったので、言及の衝動にかられるツイートも枚挙に暇のない状況でした。

 そういう中で、まず最初に取り上げたいと思ったのが次のローカスこと実質実名弁護士のツイートになります。

投稿者:lawkus(ystk) 日時:2015/07/11 10:19 ツイート: https://twitter.com/lawkus/status/619677397273542656
まあ実名報道には知る権利の実現の側面もあって、どこに重きを置くかの相違だと俺は捉えてるのでアホとまでは思いませんが、俺も個人的には拡散しない方針ですね。面白犯罪ニュースなのに実名出ちゃってるからシェアできず無念ということがよくあるw https://t.co/pj4wAHcuw9

 このツイートは次の匿名弁護士アカウントのツイートをリンクにして、言及したものと思われます。

投稿者:Noooooooorth(マッドノースライム) 日時:2015/07/10 23:34 ツイート: https://twitter.com/Noooooooorth/status/619514954656256000
毎回言っているけど、いかに有名人であったり同業者であったりしようとも、逮捕段階の実名記事をリツイートしている法曹は、無罪推定の原則及び報道による影響の大きさを認識できないアホの極みの人間だと思っている。

 「マッドノースライム」というプロフィールの名前になっていますが、珍しいぐらい頻繁に名前を書き換えているアカウントとしても印象的な、弁護士と思われる匿名アカウントです。以前は「ぼく悪い弁護士じゃないよ。」としていた時期があり、hhのスクリプトではその名前を使っています。

 大きな変更でありながらご説明を書いていないことですが、6月の5日ぐらいだったと思いますが、hhのコマンドをコピーで修正してhsというコマンドを作り、以降はほとんどそのコマンドを使ってWordPressのブログに投稿をやっています。

 hhのコマンドでは、コマンドの第一引数に登録したワードを使い、それを「/」以降に貼り付けて、識別にしていました。具体的には次のようになります。

"2015k_13224","2015-06-14 03:35:42","こっちが有名な成仏理論 RT“@study_law_bot: 人々のお役に立つ仕事をしていれば、法律家も飢え死にすることはないであろう。...その上に、人々から感謝されることがあるのであれば、人間、喜んで成仏できるというものであろう。(高橋宏志中央大教授)”/ぼく悪い弁護士じゃないよ。","http://hirono2015k.wordpress.com/?p=13224"

"こっちが有名な成仏理論 RT“@study_law_bot: 人々のお役に立つ仕事をしていれば、法律家も飢え死にすることはないであろう。...その上に、人々から感謝されることがあるのであれば、人間、喜んで成仏できるというものであろう。(高橋宏志中央大教授)”/ぼく悪い弁護士じゃないよ。"

 URLなどの情報を含めるとツイートが出来ないので、ふたつ目はタイトルのみにしました。というつもりでしたが、「"こっちが有名な成仏理論 RT」という部分を抜かしていて、それを含めると145文字で文字数超過のエラーが出ました。

 他に文字数が140文字に収まりそうなものを探すと、次のようなものもあります。ブログのタイトル名になっていますが、他の文章と区別するためダブルクオーテーションでくくっています。

"「お前ら成仏、俺モリハマ」は今年の法クラ流行語大賞ノミネートであるな。後は現時点では「弁護士キラー(キラ様)」あたりか。/ぼく悪い弁護士じゃないよ。

 いわゆる「成仏理論」について言及したツイートですが、深澤諭史弁護士も頻繁に取り上げているワードです。面倒もあるので詳しい説明はやる気も起こらないのですが、現状の弁護士をみるうえで重要なキーワードになっているかと思います。

 「法クラ」というワードも含まれていますが、これは自称も含めインターネット上における活動で若手法律家を指す用語のようです。クラというのはクラスタの略のようです。プログラムの勉強でも出てくる言葉ですが、ブドウの房を意味し、ある種のまとまりということのようです。

 スクリプトの説明ですが、改良したhsのコマンドでは、対象のツイートのURLをクリップボードにコピーした状態で、hsというコマンドを実行することで、そのURLに含まれる情報からアカウントのプロフィールの情報を自動でで取得し、それをブログの投稿の内容にも含めるようにしました。

 ブログのエントリのタイトルとしては次のようなスタイルというか書式になります。

"2015k_22985","2015-07-13 08:58:36","たまには良いこと言うな。笑→新国立で安倍首相は「第二の東條英機」になるのか : アゴラ http://t.co/PAyCu4FiwU/(落合洋司 Yoji Ochiai)","http://hirono2015k.wordpress.com/?p=22985"

"たまには良いこと言うな。笑→新国立で安倍首相は「第二の東條英機」になるのか : アゴラ http://t.co/PAyCu4FiwU/(落合洋司 Yoji Ochiai)"

 「落合洋司 Yoji Ochiai」というのが落合洋司弁護士(東京弁護士会)のプロフィールの名前になります。これは頻繁に内容を書き換える人も少なくないのですが、客観的な識別情報としてよりよいのではないかと判断しました。

 APIでその都度取得する情報なので手間も省けますが、間違いを起こす可能性もほとんどなくなります。実際、コマンドの履歴を使うことで、違った名前を使ったことがあり、見つけると放置も出来ないので、ブログやデータベースの修正に余計な手間を掛けたこともあります。

 hsのコマンドでは@付きのアカウント名をWordPressのブログのタグに登録するようにしています。このアカウント名というのは私の場合で言うと「hirono_hideki」になります。

 @hirono_hidekiのプロフィールの名前は「廣野秀樹\さらば弁護士鉄道・泥棒神社の夜」です。これはわかりやすい説明が出来るのですが、意外に少ない文字数制限をいっぱいに使っています。本当は「泥棒神社の物語」にしたかったのですが、一文字余計になるので夜にしました。

 この場合@を含めたhirono_hidekiが自動でタグとして登録されるのですが、制限の少ないWordPressにも登録できるタグの数には制限があるという情報を以前見かけたことがありました。具体的な数は忘れましたが、無制限ではないということです。

 3日ほど前になるかと思いますが、タグの数を無闇に増やさない対策として、別途hrというコマンドを作りました。これはアカウント名のタグへの登録を実行せず、第一引数をタイトルに含めるようにしました。具体的には次のようになります。

"あからさまに伝えたら示談強要と言われた、という話を聞きます。 https://t.co/gX7rDl7vjF/(深澤諭史弁護士のリツイート)"

 この場合、「深澤諭史弁護士のリツイート」がタグとして登録されますが、最近は面倒もあるのでタグを余り使わなくなっています。タイトルの絞り込み検索でも同じようなことができるので、さほど意味がないというのも考えにあるのですが、別の方法も開けるので使ったようがよいという考えもあります。

 「刑事事件の実名報道に対するローカスこと実質実名弁護士アカウントの考え方について石川県警察に参考にしてもらいたいこと」というタイトルでこの項目を書き始めたのですが、ずいぶんと内容が逸れてしまいました。

 タイトル名の変更には柔軟に対応する方針ですが、記述範囲の時刻については、範囲と記述の対応をしっかりとさせておきたいところです。現在のタイトルを頭をひねって修正し、別の見出しとして仕切り直しからやり直したいと思います。

2015-07-13 月曜日 11:24 << [[ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]<<











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2015年7月 8日 (水)

テーマタイトル「さらば弁護士鉄道」に向けた新たな出発

テーマタイトル「さらば弁護士鉄道」に向けた新たな出発
2015-07-07 火曜日 20:48 >> [[ ←これからの記述範囲の開始時刻]]>>

 告発-金沢地方検察庁御中ツイッター(@kkhirono)を確認したところ、次の6月26日13時34分のツイート以来の、告訴状作成の実質的な再開ということになりそうです。思っていた以上に長い中断期間でしたが、方向性は定まりました。不退転の決意で臨みたいと思います。

投稿者:kk_hirono(告発-金沢地方検察庁御中ツイッター) 日時:2015/06/26 13:34 ツイート: https://twitter.com/kkhirono/status/614290571725705216
浜田漁業金沢工場の敷地の建物は会社名の表示がなく、航空写真で見る限り、浜田漁業金沢工場の時と同じ建物が残っているのかもわかりません。解体業の看板が出ていたように思いますが、浜田漁業金沢工場の敷地よりかなり広くなっているようにも見えます。

 今夜は7月7日の夜ということで七夕ということになるのかと思います。10年ほど前まではこの7月7日と8日が宇出津のあばれ祭りになっていましたが、現在は7月の第一金曜と土曜ということになっていて、今年は7月3日と4日のお祭りとなりました。

 梅雨の時期の祭りということもあり雨が降ることがほとんどなのですが、今年は珍しく雨の心配もなく、満月の月夜も見られ、私の記憶にないほど天候にも恵まれたお祭りとなり、能登を舞台としたNHK連続テレビ小説まれや能登のキリコ祭りの日本遺産の登録で例年より人出も多かったという印象です。

 地元では特別なお祭りであり、お盆や正月休みより帰省する人が多いとも聞いています。いわば一年で最も大きな節目でもあり、この時期にどう対処するかということも長い間考えあぐねてきたところです。とにかく予想以上に平穏無事にこの時期を過ごすことができまずはなによりです。

 平穏ということは。裏を返せば私が抱える問題について無関心が徹底された状態と見ることも出来、別の意味での危機感を高め、ここまでに至った経緯を振り返るとともに、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)と小倉秀夫弁護士への刑事告訴の必要性についても考えを新たにしたところです。

 3日のあばれ祭りが始まる2,3日前には「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」の記事を新造したスクリプトでココログフリーのブログの方に連続投稿しました。

 勉強不足かとも思うのですが、ココログフリーのブログで過去記事のタイトルとURLを取得することが出来ず、RSSで取得するスクリプトは作成したのですが、最新の記事20件までという宣言があるようです。

 そのRSSを使ったスクリプトで取得できた範囲ですが、次のようなタイトルの一連の投稿記事があります。

DONE 宇出津あばれ祭りでの被告訴人KYNとの再会と、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)に対する刑事告訴について 2014年8月17日 :gblog: http://hirono-hideki.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/done-kyn20148-3.html

 上記の1件は8月17日付になっていますが、ざっと数えたところ2014年7月6日から始まり全部で34件ありました。あえて同じテーマで日付のみを変えた一連の項目、ブログでは一連の投稿となっています。

 ちょうど一年ほど前になりますが、内容を読み返してはいないので、正直なところなぜ被告訴人KYNとモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)をセットにしたのか、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)との関係では具体的に思い出せなくなっています。

 自分のモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)と被告訴人KYNとの関係性において似たようなところがあるという考えであえてセットにしたことは憶えにあるのですが、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)との具体的なやり取りについてはすっかり思い出せなくなっています。

 記事の内容を読まないと思い出せないところがありますが、1年前の認識としてはモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)と被告訴人KYNに対して、なにか共通したところを感じていたことは確かです。

 あえて読んでいないということもありますが、今年のあばれ祭りを終えての段階では両者に共通性というものを思い浮かべることはできなくなっています。これはモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)に対する認識が変わったとともに、ある種の呪縛から解き放たれた効果もあるかと思います。

 単調な生活を続けてきたこともあり、この一年の変化を振り返っても自身を持って思い出せることが多くはないのですが、旧宇出津駅の跡地にコンセールのと、という建物が出来ました。移転された公民館と図書館の建物でもありますが、バスターミナルのようにもなっています。

 記憶がはっきりしないので自分のツイログで調べたところ、コンセールのと、がオープンしたのは昨年つまり2014年の4月のようです。4月ころという記憶はあったのですが、年度となると昨年なのか一昨年なのか、はっきりした記憶を持てなくなっていました。

 当たり前の風景としてすっかりと馴染んだということもありますが、この建物には裏手の方に「鉄道緑地広場」というものがあり、Aコープ能都店に買い物に行く時は、そちらを見ることが多く、半額の値下げを狙って暗くなった夕方遅い時間帯に行くことも多いです。

 何時頃か、これもはっきりとは思いだせませんが、ある日、その旧宇出津駅跡地の「鉄道緑地広場」の風景を見ていて、「弁護士鉄道」という言葉が頭に浮かんできました。

 今日も弁護士のツイートで見たような憶えがありますが、人生をレールにたとえるならば、まさに「弁護士鉄道」という得体のしれないものに乗せられて人生を狂わされたという気がします。その脱出を試みるという積極的な意思としても「さらば弁護士鉄道」という言葉が頭に浮かんできました。

 記憶には個人差も大きいと思いますし、昨年11月で50歳となった自分にも歳相応の記憶力の減退というのはあるかと思います。そういうこともあるのでツイログで確認をしましたが、「さらば弁護士鉄道」という言葉を最初に使ったのは次のツイートということになるかと思います。

投稿者:hirono_hideki(廣野秀樹\さらば弁護士鉄道・泥棒神社の夜) 日時:2015/02/13 14:24 ツイート: https://twitter.com/hirono_hideki/status/566105495648620544
太田裕美 さらばシベリア鉄道 - YouTube http://t.co/KwS5qry3NL この巨躯を聴いていると「さらば弁護士鉄道」という言葉が頭に浮かんできました。このテーマで行きたいと思います。よろしくです。

 曲という字の誤変換もありますが、今年の2月ということです。こういうのも明確な認識と意識の変化ですが、時の経過とともにそういう意識と危機感を強くしております。最終的なかたちにもなりますが、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)と小倉秀夫弁護士の処罰の必要性を強くしました。

2015-07-07 火曜日 22:21 << [[ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]<<






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