« 木梨松嗣弁護士(金沢弁護士会)によって踏みにじられた憲法上の裁判を受ける権利と、その価値を社会に問うための供述調書の実名公開 | トップページ | 被告訴人安田繁克の組織的犯罪計画への関与を伺わせる事実:平成4年2月1日の夜のこと:周辺事実を含み裏駐車場での車の目撃まで »

2015年7月18日 (土)

被告訴人安田繁克の組織的犯罪計画への関与を伺わせる事実:平成4年2月1日の夜のこと

被告訴人安田繁克の組織的犯罪計画への関与を伺わせる事実:平成4年2月1日の夜のこと

2015-07-17 金曜日 23:28 >> [[ ←これからの記述範囲の開始時刻]]>>

 この事実は被告訴人安田繁克本人が供述調書において述べている事実でもありますが、確か時期が曖昧で、私つまり廣野秀樹の方から因縁をつけてきたということになっているかと思います。

 信号待ちの停車中に、私つまり廣野秀樹が車を割り込ませてきたので驚いたというような供述もしていたかと思います。

 実際には信号待ちで停車中だった私に、確か車から降りてきた被告訴人安田繁克が声を掛け、被告訴人多田敏明を探していると話を持ちかけてきたのです。

 この平成4年2月1日は土曜日で私は福岡県福岡市の須崎埠頭行きのミール24トンを積み込んでいました。普通はちょっとない運行でもあったのですが、月曜日の朝に出発をして夕方に予約を入れていたフェリーで神戸から北九州の門司港に行くことになっていました。

 実際、私は運行のことを深く考えずに、会社の指示のまま月曜日の朝に会社に出社してから福岡に向け出発をしたのですが、出発してから時間の計算をすると夕方のフェリーの時間に間に合わない可能性が浮かんできたのです。

 福井県の敦賀インターで北陸道の高速を降り、琵琶湖沿いの国道161号線経由で神戸まで行くつもりでいたのですが、京都市内などの渋滞の程度によってはフェリーの時間に間に合わない気になってきました。

 久しぶりに通る道だったので時間の計算にも余り自信はなかったのですが、フェリーの乗船時間に遅れたら大変なので、そのまま米原のバリアから名神高速に行くことにしたのですが、回避したかった危惧が的中して検問を受け、重量超過で切符を切られました。

 トラックの運転に集中できなかったことも検問のリスクはあるものの名神高速を選んだ理由でした。会社の出発直前に前年11月の月末から被害者AAさんが続けていた自分の軽四の会社裏駐車場への駐車をやめ、会社前に駐車するという行動を見せていたからです。

 福岡に向けて出発したのは月曜日の2月3日のことですが、被告訴人安田繁克と出会い話をすることになった2月1日のことに説明を戻します。

 午前中の11時ぐらいのことであったと記憶にありますが、市場急配センターの二階の事務所で、被告訴人東渡好信が私の耳に入れるような感じで、今夜トッチが古河から戻ってくる、ということを何か他のことに絡めて誰かに話しかけていました。

 私自身、経験はあったのですが余りないことで、土曜日の午後に古河の青果市場を出発し、その日の夜に荷降ろしをする仕事でした。本来、日曜日は市場が休みなので、土曜日の夜というのは市場が最も静かで無人のような状態でした。

 その荷物は月曜日の未明の競りになるので、本来ならば日曜日の日中から夕方に降ろすことが多い荷物でした。極端に言えば月曜日の朝5時に始まる競りまでに市場の売り場に荷降ろしを終えれば良いという荷物です。

 私の時も土曜日の夜に普通に全線の高速道路を使って普段通りに夜のうちに荷降ろしを終えたことがありました。一度か二度のことでしたが、金沢市場輸送ではありえないことだったので、余裕があって休みをくれているのかと考えていました。

 金沢市場輸送の時は休日をできるだけないようにして給料の手当を割増にするというのも常態化していたのですが、市場急配センターでは会社の指示通りに運行することで総額50万円の給料ということに決まっていました。

 金沢市場輸送では他に例のないことで、当日卸の鮮魚を積んでいても下道の一般道を走らされることがあったぐらいでしたので、なおさら違和感を感じていたのですが、それだけ被告訴人松平日出男社長の待遇はよかったということにもなります。

 古河の青果市場では夕市がある日とない日がありましたが、ない日は午後2時ぐらいの出発になっていたように思います。冬場でもまだ外の明るい夕方の時間に富山インターまで来るということもまれにはあったかと思います。

 そんな場合でも富山の市場で荷降ろしをしてから高岡市の市場に立ち寄ると、金沢の市場に着くのは22時頃かとけっこう遅い時間になっていたように思いますが、それは大型車の荷物だったので積み荷の量も多く、荷降ろしに時間もかかっていたのだと思います。

 夕市のある場合は20時ころの出発が多く、遅い時は21時ころの出発となって、雪のある時期はかなり時間的に厳しい運行にもなっていました。そういうこともあったので、古河の仕事は嫌がる運転手が多く、私に回ってくることも多くなっていました。

 基本は富山、高岡、金沢、福井という市場の4箇所卸でしたが、荷物の多い時はそれを大型車2台やプラス4トン車一台に分けるので、卸先の数も減ってかなり仕事も楽になっていました。

 また、基本的に福井分は金沢の市場のなかの駐車場で中継として4トン車に積み替えることになっていましたが、4トン車には載り切らないかもしれないぐらい多い時は、中継の4トン車の運転手を同乗させて、そのまま大型車で福井に行くこともありました。

 この福井中継をよくやっていたのが被告訴人多田敏明と被告訴人梅野博之でしたが、私が梅野博之を同乗させて福井に行ったような憶えはなく、そのうち福井中継があるときはほとんどが被告訴人多田敏明ということにもなっていたかと思います。

 その頃になると被告訴人多田敏明は日野の新車に近い4トンウィング車にほぼ専属で乗務するようになっていました。市内配達よりは長距離の仕事を手伝うことが多くなっていたとも思います。

 平成3年の12月頃には被告訴人多田敏明はそういう仕事をするようになっていて、一緒にいる時間も長くなりました。個人的に言葉を交わすようになったのも11月中のことでしたが、それも被告訴人東渡好信のベルトコンベアの指詰め問題が、きっかけにもなっていました。

 「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」で書いたのか現在の私の記憶では自信が持てませんが、そのいかにもわざとらしい自作自演の可能性の高いベルトコンベアの指詰めの怪我をきっかけに、被告訴人東渡好信は事務所で配車係をするようになりました。

 平成4年の12月の後半にはミールの倉庫移動が始まるようになっていて、フォークリフトでの積み込み作業などで事務所にいないことも多くなっていましたが、狙っていた計画を実現したような立場で好き勝手に会社の仕事をするようになっていました。

 被告訴人東渡好信が会社でそのような立場に立てたのも、七尾市の丸一運輸の仕事を引っ張ったからだと言われてもいましたが、今考えても古河便の他は七尾の丸一運輸の仕事が多く、あれがなければ長距離の運行が成り立っていなかったようにも思えます。

 古河便というか古河の青果市場での山三青果の仕事は、もともと市場急配センターの請負というかたちで金沢市場輸送がやり始め、私も金沢市場輸送でその仕事を初めからやっていたのですが、最初は平成2年の12月だったように思います。

 湾岸戦争が起こった当日の平成3年1月17日は金沢市場輸送で日野の新車のウィング車に乗務するようになっていました。少し早かったのか同じ日野の大型ウィング車には当時の珠洲郡内浦町新保出身というKOが乗務し、もう一台の三菱ふそうの新車には小坂さんが乗務。

 当初の新車のウィング車はこの三台だったと思います。しばらくするともう2台の新車が追加されましたが、一台は被告訴人東渡好信が乗務し、それが三菱ふそうだったと思いますが、もう一台は輪島の浜上さんが乗務をして、こちらは日野だったのか記憶がはっきりしません。

 追加の2台は4月中だったように思いますが、だいたい2ヶ月遅れということになるかと思われます。今振り返ると4月の終わりから5月のゴールデンウィークの頃には被告訴人東渡好信らが率先してストライキの問題を起こしていたので、いよいよ怪しい策略に見えてきます。

 このストライキのゴタゴタの時期に、私に連絡を寄越し金沢市場輸送から市場急配センターへの入社につながった登場人物が被告訴人安田敏でもありました。

 「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」の方でも書いていると思うので、どの程度のおさらいをしておくか迷うところでもありますが、とても重要なポイントは私が市場急配センターに移る時点で安田は二人いたということです。

 それが市場急配センターで仕事をするようになってすぐ一人の安田はすでにやめていていないと聞かされたことでした。そのもう一人の安田というのが被告訴人安田繁克のことです。

 まただんだんと内容が項目名がからずれているので、平成4年2月1日のことに戻します。

 被告訴人安田繁克が以前被害者AAさんと付き合っていたらしいということは1月21日の夜に被告訴人HTNから聞かされていました。まったく意外な話だったので衝撃も大きかったのですが、それは意外さ故の不信感が何よりも大きなものでした。

 その1月21日の夜というのは会社の裏駐車場で彼女と3回目に会って話をし、喧嘩別れをした直後に、憤慨していた私に声を掛けて自宅のアパートに誘ったのが被告訴人HTNだったのです。

 喧嘩別れという表現もどうかと思う出来事でしたが、これも実際にどういうことがあったのか具体的に詳しく書いておく必要があるので、別の機会にしたいと思います。

 彼女が18時頃まで会社に残っていることは11月26日の例外を除いてほとんどなかったので、その後の経過の時間を多めに見積もっても一階の運転手の休憩室に戻って被告訴人HTNに声を掛けられた時間は19時から遅くても20時の間かと思います。

 その時もほとんどの大型車の運転手がその場に居合わせたように思いますが、2月1日の夜というのもそれに近い状況というかシチュエーションがあって、それがかなり例外的に遅い時間まで続いていました。

2015-07-18 土曜日 01:30 << [[ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]<<







|

« 木梨松嗣弁護士(金沢弁護士会)によって踏みにじられた憲法上の裁判を受ける権利と、その価値を社会に問うための供述調書の実名公開 | トップページ | 被告訴人安田繁克の組織的犯罪計画への関与を伺わせる事実:平成4年2月1日の夜のこと:周辺事実を含み裏駐車場での車の目撃まで »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 被告訴人安田繁克の組織的犯罪計画への関与を伺わせる事実:平成4年2月1日の夜のこと :

« 木梨松嗣弁護士(金沢弁護士会)によって踏みにじられた憲法上の裁判を受ける権利と、その価値を社会に問うための供述調書の実名公開 | トップページ | 被告訴人安田繁克の組織的犯罪計画への関与を伺わせる事実:平成4年2月1日の夜のこと:周辺事実を含み裏駐車場での車の目撃まで »