« TODO 被告訴人OKNがバックアップを頼んできたノートパソコンにあった新築工事見積書のファイル | トップページ | DONE 宇出津あばれ祭りでの被告訴人KYNとの再会と、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)に対する刑事告訴について 2014年7月6日 »

2015年6月30日 (火)

TODO 平成9年当時における被告訴人OKNと被告訴人KYNの関係

TODO 平成9年当時における被告訴人OKNと被告訴人KYNの関係
<2014-04-06 日 17:21> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]


すでに何度か書いてあるはずですが、平成9年1月18日に満期出所した私をワゴン車に母親を連れて迎えにきたのは、被告訴人OSNと被告訴人OKNと被告訴人KYNの三人でした。


今思うと平成4年当時はそれほど被告訴人OKNと被告訴人KYNの付き合いというのはなかったようにも思えます。仕事の内容もずいぶんと違っていましたし、同じ金沢市内でしたが住んでいる場所も離れていました。


中学生の頃を振り返っても二人の付き合いというのは余りなかったと思います。被告訴人KYNの家で被告訴人OKNの姿を見たような記憶もないですし、被告訴人OKNの家で被告訴人KYNの姿を見たのわずかでした。


それでも二人とも私の結婚式にも出席していましたし、被告訴人KYNの結婚式にも被告訴人OKNで出ていて、被告訴人OKNの結婚式にも被告訴人KYNが出ていたので、やはり親密な関係ではあったと思います。


ただ、二人とも個性と自我が強いので、二人だけでの付き合いや行動というのは、私としても想像しにくいものがあったとは思います。


共通する趣味となると、酒を飲むことかと思いますが、被告訴人KYNの方は酒そのものをこよなく愛する感じで日本酒を飲むことが多かったと思います。被告訴人OKNの方は飲んで騒ぐことが好きな感じでした。


被告訴人OKNは家で晩酌するのも想像しにくいタイプでしたが、被告訴人KYNは必ずという感じで酒とおかずだけでご飯を食べないようなことも聴いたことがありました。このような酒好きは能登ではよくいるタイプです。


もっとも平成4年以前は、私の方が彼らとは仕事の内容も違って時間の不規則な長距離トラックの仕事が多かったので、会うことが少なかったとも言えます。被告訴人KYNの場合は住んでいるところが近かったので、割と気軽には足も向いていました。


これまでに何度か書いていると思いますが、被告訴人OKNは東京と神戸に住んでいた時期があり、その間は地元に帰ってくることも少なかったと思います。


それでも東京にいるときは、チェイサーという車に乗り、東京都内で車を所有していたようです。駐車場の料金の話もしていたように思いますが、働いている喫茶店の給料がずいぶんと安いような話だったので、不思議といえば不思議でした。


喫茶店には住み込みで働いているという話でした。東京の台東区で浅草辺りと言っていたように思います。その住まいにも一度実際に行ったことがあるのですが、ごく断片的な場面しか記憶には残っていません。


昭和58年の7月の20日頃だったと思います。私は自動二輪の免許取り消しが響いて、半年以上遅れてようやく普通免許を取得した直後でした。修理に出した車の代車のポンコツの車で、被告訴人OKNの住む東京に遊びに行ったのです。


被告訴人OKNが付き合っていた彼女のOMとHMを連れていったことははっきりと憶えているのですが、もう一人が姫のDMだったように思うのですが、それはちょっと記憶がはっきりしなくなっています。3人とも同級生の少女で当時16から17歳かと思います。


当日は昼に横浜に遊びに行ったことと、夜に新宿に遊びに行ったことを記憶していますが、泊まった場所ははっきり記憶していないものの、喫茶店の住み込み先以外には考えにくいです。翌日にはその年にオープンした東京ディズニーランドに遊びに行きました。


その年、つまり昭和58年のお盆には、黒のチェイサーに乗って帰省していたかと思います。東京では花屋敷にも遊びに行ったのですが、そこで被告訴人OKNが車を駐車していたような場面を記憶しています。


そして翌年の昭和59年の3月か4月の頃には東京を引き払って地元に戻り、4月頃には私の紹介で金沢市場輸送に入って、一緒に探した東力のアパートで住むようになりました。不動産屋は丸福不動産だったと思います。


既に書いているかと思いますが、7月の宇出津のあばれ祭りで腰に大怪我を負ったといい、中央市場に近い金石街道沿いの波多野整形外科に入院をして、そのまま仕事もやめて遊び回っていました。


その昭和59年の11月から12月頃には金沢市出雲町の北陸地建で土木工事のアルバイトをしていました。Googleマップでは同じ出雲町に同じ名前の会社があるので、当時の会社かと思いますが、建物は場所が変わっている可能性もあるかとは思います。


北陸地建(株) - Google マップ http://bit.ly/1mSxWeS


アルバイトをしたのは一月半か長くて2ヶ月だったと思います。私は札幌から戻った直後でした。このアルバイトには被告訴人OKNの他、HMと富来のOTも一緒でした。北海道から連れてきた滝川市の16歳の少年も途中から参加したかと思います。


HMと書きましたが、彼は何度か名前が変わっていて、最終的にはSMになっていたかと思います。三重県に住んでいたとも聞きましたが、複雑な家庭環境でもあったようです。付き合うようになったきっかけはOTの方が最初でした。


これも既に書いていると思いますが、被告訴人YSNの観音堂のアパートの同じ並びのアパートに住んでいた珠洲のYHのところに彼女と遊びに来ていたUHが、西念町の古い木造アパートに住むようになっていて、そこに遊びに行っているときに知り合ったのがOTでした。


この富来のOTが本陣住宅に入社したことがきっかけで、被告訴人OKNは本陣不動産で働くようになりました。紹介だと聞いています。本陣グループは他に本陣建設というのもありました。本陣グループとしてテレビのCMにも出ていました。


平成9年の7月の初めに私は被告訴人OKNに世話をしてもらった金沢市北安江の借家に引っ越して来ましたが、その7月の下旬には被告訴人OKNの紹介というか口利きで、SMが部長になっていた金沢市内の建設会社で仕事をするようになっていました。正社員ではなかったかと思います。


社会保険に入ったように思うので正社員になっていたものと考えるのですが、その年の10月頃にはやめていたので、短い間でした。小さな会社でしたが金沢市の下水の仕事を請け負っているとかで、伸び盛りの会社という感じでした。


SMに関してはプライベートな部分にも触れることになるかと思うので、会社の住所や会社名は書かないことにしておきたいと思います。ただ、金沢市でも四十万の方で北安江からもけっこう離れていました。四十万よりは手前になるかとは思います。


SMは部長という肩書きになっていたと思いますが、どうも営業の方をやっているような感じで、現場で姿を見ることも少なかったと思います。社長の下に番頭のような人がいて、珠洲の蛸島の人だと聞いていましたが、5つぐらいの年上だったかと思います。


SMはその蛸島の人と仲良くなって長い間一緒に仕事をしていたらしく、名前はだいぶん前からちょくちょく耳にしていたように思います。ちょっと特徴のある名前でもありましたが、下の方の名前だったと思います。


いつころとなると現在思い出すのも難しいところがあるのですが、長い間仕事もせずに遊び回っていたSMが、まじめに仕事に取り組むようになったのは土木の仕事だったと思うのですが、東金沢というか鳴和の方の会社だと聞いていたような記憶があります。


SMと知り合ったのは昭和59年の夏頃かと思います。OTと知り合ってすぐでした。OTは金沢駅西口に近い広岡町のアパートに住んでいましたが、けっこう豪勢で新しい建物と部屋で階数が2階建てだったような気がしますが、マンションという感じの住まいでした。


そこに彼はMNという少女と同棲していました。少女といっても当時のことで年は私たちより2,3年下ではなかったかと思います。富山の高岡市の出身とも聞いていましたが、のちに被告訴人OSNの鳶の有限会社でナンバー2の番頭格になった宇出津のHSのこともよく知っている用でした。


ナンパされて付き合いがあったらしいですが、真脇の私の一つ年下のKHのこともよく知っているようなことを話していました。その後も1年ぐらいはOTを交えて付き合いがあったと思います。


昭和60年の秋の終わりか初冬の頃には、しばらく私の東力のアパートに二人で居候していた時期もありました、OTがガス代を払うと見得を切って実行してくれなかったおかげで、私は長距離から夜中に帰ったとき、2度ほど水風呂に入ったことがありました。雪の降るような時期だったと思います。


私自身、当時は中西運輸商の仕事で東力のアパートには帰ることも少なかったので、一緒に生活していたような実感も残っていないのですが、どうでもいいようなたまり場になっていましたし、誰が生活しようとさほど気にせずにいたと思います。


そこ頃だと思いますが、SMが牛のもも肉のステーキをニンニクを使った手料理で振る舞ってくれたことがありました。その時も以前に板前の修業をしていたと話していました。


知り合った当時のSMは北安江の大きな交差点の側の大きなマンションで、金沢市畝田町の一つ年下ぐらいの女と同棲をしていました。私が知り合ってからも半年ぐらいは付き合いが続いていたような気もしますが、別れたらしくそのうち話も聞かなくなりました。


OTもSMも仕事をしていない時期が長く、お金に困る生活も続いていたようです。ただ、今考えると北安江のマンションの後のSMの住まいは把握し出来ていないところもあったかと思います。もともと金沢市彦三の方に家があるようなことも話していたかと思いますが、親戚の家とも聞いていたかも。


石川県金沢市彦三町 - Google マップ http://bit.ly/1ejVTUg ← 改めて調べると彦三というのはこのあたりでした。私自身漠然と尾張町と瓢箪町との間ぐらいという認識しかありませんでした。


もともと地図を開いて金沢市内の住所を調べると言うことはほとんどやったことがなかったのですが、電信柱に書いてある住所を見て、どこがどのあたりということを把握していましたが、彦三の辺りというのは滅多に行くこともなかったかと思います。


親子関係とかその辺りも複雑な家庭環境のように聞いていたと思うのですが、どこか金沢地方裁判所の近くの養護施設で生活していたようなことも聞いていたように思うのです。これには被告訴人YSNと関係した人物で、他の話も印象的に憶えていました。


SMは割と気さくに自分の家庭の事情を話していたと思うのですが、私自身も立ち入ったことは聞かないようにしていたように記憶しています。もともとずいぶんと古い記憶なのですが、語られる内容を一方的に聞いていたような情報なので、どうもはっきりしない部分もあるかと思っています。


ずっと前から気になっていた問題なのですが、他人のプライバシーにも関わる事柄であり、どこまで踏み込むかずいぶんと迷ってきました。これは木梨松嗣弁護士と被告訴人OKNとの関係において特に気になる重要部分にも触れる可能性があるので、項目を別にして書いておきたいと思います。


ここでは被告訴人OKNと被告訴人KYNの関係に焦点を当てて書いておきたいと思います。自分自身の記憶の整理もありますが、人間関係も整理しておいた方がよいかと思います。


被告訴人KYNは石川県立水産高校小木分校を卒業したあと、一年間ぐらいは父親の漁船に一緒に乗り漁をしていたと聞いています。朝鮮との境の辺りまで行き、数日間を海の上で過ごすとも聞いたことがありました。


そのうち家族の大反対を押し切って漁師をやめ、宇出津で水道屋というか配管お仕事を始めたと聞きました。


この間、何度か宇出津の被告訴人KYNの家に遊びに行って直接話を聞いたりしていたのですが、そういう機会も回数は少なかったと思います。私自身金沢に住んでいて宇出津には滅多に帰らなくなっていたからです。


宇出津の水道屋で働いていたというのも一年ぐらいだったかと思います。ずいぶんと不満があるらしく不当な扱いを受けているようなことも会ったときに話していました。


昭和58年の夏、私は白色のローレルという車に乗っていたのですが、そういえば夜にその車で遊び回っていたところ、宇出津駅の近くで夜間工事をする被告訴人KYNの姿を見たような記憶があります。


彼はその昭和58年の春先に高校を卒業しているはずなので、それを考えると家の船に乗っていたというのはもっと短い間であったことが考えられます。一年ぐらいと彼の口から聞いたような憶えもあったのですが、その場の思いつきで話していたのかもしれません。


秋になると私は同じローレルですが、黒と銀色の当時流行のツートンカラーの車を、輪島の若者から購入していました。輪島まで夜に車を取りに行ったことも憶えています。


白いローレルは宇出津の一つ年上のSさんから買っていたものですが、何度かぶつけて保険で直したりもしていたのですが、買い換えた方が良いという判断で廃車にしたと思います。


金沢市観音堂の被告訴人YSNのアパートに転がり込んだいた頃でした。藤江の輪島の暴走族のたまり場で、知り合った関係から売買が成立し、輪島まで車を取りに行ったのです。


その輪島の暴走族のリーダーがKTだったことは既に書いていると思いますが、被告訴人YSNの方が親しい関係でした。どういうつながりだったのか今は思い出せなくなっている部分もありますが、誘われて集団暴走にも何度か参加したことがありました。


私は被告訴人YSNの車に同乗しての参加でした。よく憶えていることは滝本組の参加と聞く暴走族の司(つかさ)と対立しているらしく、暴走中に出くわすことがあれば徹底的にぶちのめしてやれ、というような訓辞も受けていました。


藤江の陸橋の側の大きなアパートをたまり場にした輪島の暴走族の集会に被告訴人YSNと参加したのは2,3回ではなかったかと思います。リーダーであったKTが観音堂の被告訴人YSNのアパートに直接来たこともありましたが、何時どこで集会があるので集まらないかという誘いだったと思います。


一度、少し出世をしたような話を聞く若い暴力団員のアパートに遊びに行ったこともありました。だいたいの場所ですが、直線距離で観音堂のアパートと藤江のアパートの中間ぐらいの場所にあるアパートの一室だったと思います。住所は松村かと思いますが、お踊りからずいぶん外れていました。


けっこう大柄で背中に般若の面の入れ墨を入れた暴力団員でした。組の名前も当時は聞いていたと思うのですが、私がすぐにピンと来るような組の名前ではなかったように思います。珠洲のYHが一緒にいて彼の知り合いとしてそのアパートに遊びに行ったように思いますが、記憶は断片的です。


当時の金沢の暴力団というかヤクザの組としてよく聞いていたのは、福島組、紺谷組、松元組、滝本組、北野組でしょうか。たぶんそれ以外だったと思います。


石川県金沢市畝田西1丁目93 - Google マップ http://bit.ly/PJYi4W ← その観音堂のアパートがあったのはこの辺りかと思います。観音堂という町名は今もあるようですが、この場所は畝田になっているようです。


今、Googleマップで確認したところ当時、運転免許センターがあったあたりは、現在大徳中学校の敷地になっているようです。免許センターのすぐ近くであるだけにとても目立つ場所でもありました。


ちょっと絵を描いて説明しておく必要もあるかと思っているのですが、そのアパートは古い2棟のアパートが向き合って建っていました。平屋だったという記憶がある一方、最年長者らしい人物の部屋だけは2階にあったような記憶があります。


その最年長者らしい人物の部屋には、多分一度だけ入った頃があり、羽咋のIという男がヤクザをやめたお祝いという名目での集まりでした。


羽咋市にある雷神という大きな暴走族の元メンバーだったとも聞きましたが、知り合った頃は確か紺谷組系の暴力団員でありながら、組からも警察からも保険金詐欺の容疑とかで逃げ回っているという話の男で、年は私の一つ年上だと聞いていました。色の黒い男でした。


そういえば、被告訴人YSNからそのIに関する話を最後に聞いたときは、羽咋市に戻って食堂をやっているような話でした。私は平成14年の11月から平成21年の3月まで羽咋市内に住んでいましたが、思い出して考えることもなかったと思います。


羽咋市は能登では七尾に次いで大きい町だと思いますが、店も多い割には外食をする食堂も少なかったという印象があり、なかなか不便にも感じて生活していました。Iが働くような店のことを考えたこともなかったと思います。


昭和58年の8月の下旬だったと思いますが、宇出津の二つ年上の先輩DKさんの家で被告訴人YSNと再会したときも、そのIとナンパをしたような連れの女の子が2人いました。4人で来ていたのですが、その場で観音堂のアパートのことを聞き、遊びに来るように誘われたのです。


Iが所属していたと聞いていたのは山本総業ではなかったかと思います。当時はけっこう有名な暴力団事務所で、広小路の坂の途中、アーケードの一角のようなところに組事務所がありました。小さい建物でしたが目立つ場所で、選挙事務所のような感じもあったかと思います。


山本総業は紺谷組ではなかったかと思いますが、当時の若者の間では「やまそう」と呼ばれていました。Googleマップで場所を示しておこうと思いますが、とにかく目立つ場所でした。商店街の一角とも言えるかもしれないです。


石川県金沢市野町2丁目30−8 - Google マップ http://bit.ly/PK6u5l ← ヤマソウこと山本総業の暴力団組事務所があったのはだいたいこの辺りかと思います。大通り沿いです。


今回、Googleマップで調べてみて私自身初めて知ったのですが、金沢市に広小路という町内名はないようです。片町にもつながる大きな交差点を広小路の交差点とも読んでいましたが、正式には野田広小路になるのかもしれません。


ヤマソウがあった並びが野町になるというのも意外でしたが、よく見ると「にしの茶屋街」という大通りを挟んだ反対側も同じ野町2丁目になるようです。


本書でも前に触れているように思いますが、その現在観光地のようになっている「にしの茶屋街」の辺りの野町の一部と増泉1丁目の辺りは「いっさか」と呼ばれる特別な地区でもありました。昔は遊郭があってその後は赤線地帯とかにもなっていたようです。


「いっさか(石坂)」でも増泉1丁目でない野町の辺りは、以前から伝統芸能の観光地のような雰囲気がありましたが、被告訴人TSKの家はその辺りにあるとも聞いていました。実際にどの辺りか調べたことはないので、どんな家なのかもわかりません。


被告訴人TSKが自分の妻のことを、昔、その石坂のあたりでパンパンのリーダーのようなことをやっていたと話したこともありましたが、まともには聞いていなかったので、真偽の程も不明です。パンパンというのは死語になっていると思いますが、必ずしも売春婦ではないとは思います。


伝統のあるヤクザの家で組長をやっていたという話も聞きました。松葉会といような名称も聞いたように思いますが、同じ名前で全国的に有名な組織もあったはずなので、これもまともには聞いていませんでした。


人を食ったように虚実を織り交ぜたような話をするということでは、ほとんどが被告訴人TSKに対して同じような印象を思っていたと思いますが、実があればこそ会社の社長にもなっていたはずで、デタラメばかりではないはずですが、真剣に被告訴人TSKについて調べたような話も聞かなかったです。


被告訴人OKNと被告訴人KYNの関係というテーマからだいぶんずれてきたようですが、まったく関連性がないような話でもありません。そもそも一番肝心なのが木梨松嗣弁護士と被告訴人OKNの関係であり、間接的にも参考や手がかりにもなりうる事実や人間関係だと思います。


被告訴人OKNがことさらに親密な関係を口にしていたのが姫のNKさんでもありますし、被告訴人MHK社長とは確実につながりがありながら、私の目からは関係を意識させないように振る舞っているようにも見えていました。直接向かい合って話をする姿も見たことはなかったです。


私は必ずしも姫のNKさんや宇出津のK村さんが事件に関与している怪しい人物であると言っているわけではありません。人間関係として接点があるのも間違いのない事実であり、真相を隠すため盾のように利用され悪影響を受ける可能性もある人たちとも思っています。


私は何年も何年も前から、同じような事実を金沢地方裁判所や金沢地方検察庁に提出する書面に書いてきました。警察や検察には捜査権限もあるので、必要を認めれば当然に調べていることでしょう。その過程にも間違いが起こる可能性があり、巻き込まれてしまう可能性も否定は出来ないはずです。


また、被告訴人OKNがいかに他人を利用し、画策を実行したかについては、私自身の体験としても刻まれている事実であって、実生活に相当なダメージも受けたはずです。


プログラムの世界では可読性の悪くなったソースコードのことをスパゲッティプログラムと呼ぶそうですが、書いている私自身が、状態を把握し収拾するのが難しくなってきました。羽咋のIのようなことは枝葉の事実なので、本体から切り離したいとは思うのですが、そういう細かいことも多いのです。


軽く触れると、羽咋のIはその後、被告訴人YSNが活躍した中央防災の社長であった輪島のKさんと一緒に暴力団員になり、山口組と一和会の抗争の時に拳銃を渡されて鉄砲玉を命じられ、そのまま逃亡したと被告訴人YSNは話していました。


そういう人間関係も普通は一時的なものが多いと思うのです。実際に私もそういう一時的な人間関係が多くありました。同時にそういう関係が、他の人との関係で接点を持つことが想像以上に多いと言うことも刑務所経験で知りました。友達の友達とか、友達の知人というような関係です。


中央防災についても書いておいた方がいいと思うことがあるのですが、そちらは被告訴人YSNに関する特集のような項目で取り扱った方が良いかと思います。


この被告訴人OKNと被告訴人KYNに焦点を当てた項目において書いておきたかったのは、藤江の輪島の暴走族のたまり場に、知り合ったばかりの頃の富来のOTも出入りしたり、集団暴走に参加していたと話していたことです。黄色のカリーナとも改造車のことを話していたことを記憶しています。


石川県金沢市藤江南2丁目13 - Google マップ http://bit.ly/1e8TSj9 ← 輪島の暴走族のたまり場のアパートがあったのは、だいたいこの辺りからと思います。


木造のアパートの建物も大きかったですが、駐車場も広かったです。舗装はされておらず空き地のような駐車場であったような気もしますが、沢山の車を駐車することが出来ました。近くにはバイパスレジャーランドのゲームセンターも当時からあったように思います。


ついでに当時のUHの西念町のアパートもだいたいの場所を示しておきたい思います。新しく広い道が出来たりして周辺の道路事情もいっぺんしているかとは思いますが、同じ西念でも中央市場のすぐ近くではありません。むしろ北安江に近いかとも思います。


ルミナス・モアーB - Google マップ http://bit.ly/1qo39Eb 石川県金沢市西念2丁目6 ← UHのアパートがあったのはこの辺りかと思います。


金沢の中央市場の正門には角に派出所があって、そこから一直線の通りでした。道幅が狭くなってから右手に「大三元」とかいう黄色い看板があったような記憶があります。その辺りを右に入って30メートルぐらいの左手にあるアパートでした。かなり古い木造アパートでした。


その大三元とかいう小さい看板のもう少し先には左手に3階建てぐらいの鉄筋のビルがあって、一階が寿司屋のような店になっていたと記憶していますが、その小さなビルの3階に珠洲のYHが住んでいました。


2回ぐらいか回数も少なかったと思いますが、そのYHのところに遊びに行ったことがあり、はっきりとは憶えていないのですが、他には考えにくいこともあって、たぶんその時にYHさんから近所にUHが住んでいると聞き、おもしろ半分でアパートに訪問したところ、そこにいたのだと思います。


当時、YHさんは高井水産に勤めていたと思います。初めは高井水産でつぶれた運送会社を数年前に引き取ったというような話も聴いていましたが、社内で社名の募集などがあり、山水運輸に決まったのではなかったかと思います。


高井水産から山水運輸になったことは間違いないのですが、いきなり山水運輸運輸になったのか、それとも一時期違う名前だったのかということで、やや記憶に自信が持てないのですが、候補の名前をいくつか聞いていたことで、記憶もおかしくなっているように思います。


高井水産に初めに入社したのは珠洲の三崎のSKでした。年は同じ同級生だと聞いていました。背も高く切れ長の目も特徴であったかと記憶しています。小松市の一つ年上ぐらいの女性と、神田の消防署の近くのアパートで同棲していました。


消防署と言っても小さい建物でしたが、その近くのアパートには宇出津のDKさんが住んでいたり、小木分校を卒業したばかりの真脇の被告訴人HTNの同級生Sさんが住んでいたアパートがありました。


このSさんものちに山水運輸で働くようになっていました。被告訴人OSNとの付き合いも親密な時期で、西インターの近くのバイパス沿いの新築のアパートに引っ越してからは、何度か被告訴人OSNらと遊びに行ったことも憶えています。


金沢港や中央卸売市場の新鮮食材を全国にお届けいたします。山水(やますい) http://yamasui-fish.co.jp/index.html ← 山水運輸のホームページのようです。


これをみると山水だけになっていて運輸とはついていないようにも見えますが、グリーンとクリーム色のようなトラックの色は、高井水産の頃から変わっていないと思います。カジキのマークやトラックのデザインも平成3年当時から変わっていないように見えます。


平成4年頃には中央市場の裏の方に会社事務所が移転していたようには思いますが、以前はバイパス沿いの周りになにもないような辺鄙な場所に会社があり、事務所の建物も建設現場の仮設事務所に近い感じであったとも記憶しています。


そういえば思い出しましたが、珠洲の三崎のSKは、その後山水運輸をやめて、しばらくしてから新田商店の4トン車に乗務するようになったと聞いていました。実際に、金沢港で仕事をする姿を見ていたような憶えもありますが、言葉を交わしたという記憶は残っていません。


その頃、金沢市場輸送で金沢港に魚を積むに行くのは縁の切られた丸中水産ではなく、新田商店の仕事になっていたと思います。蛸島のTSさんが松波の漁港で岸壁から海に飛び込み自殺したというニュースは平成1年の1月中頃ではなかったかと記憶しています。


昭和59年に私が金沢市場輸送で長距離の仕事を始めた頃は、蛸島のTSさんは新田商店で4トン車に乗っていると聞いたいたように思います。TSさんの話の大半は被告訴人OSNから聞いたものであったと思います。


新田商店は河北郡七塚町に会社があるとも聴いていました。その頃は4トン車が4台程度だったと思います。


何度か書いていると思いますが、金沢港でまとまった鮮魚の全国向けの仕事があるのは、6月前後のスルメイカのシーズンぐらいでした。実質は一月もあるかなしだったと思いますが、その時期は扱う荷物の量も多く忙しかったです。


昼というか午後に競りがあってスルメイカを積み込んでいましたが、本来的な金沢港の鮮魚の競りというのは夜に行われ、23時ぐらいに大阪、名古屋、新潟に向けて出発すると聞いていました。


その夜の仕事のほとんどは運送会社ではなく、新田商店のような魚屋が自社で所有するトラックで運んでいました。当時は全て4トン車だったと思いますが、昭和63年頃になると新田商店も10トンの大型車を一台は入れていたと記憶しています。


金沢港での売り場は、県漁連という場所と、大野埠頭の入り口のような場所に南浦漁協という売り場が別にありました。私の経験ではどちらからも荷物を積み込んでいましたが、ふだん待機などをしているのは県漁連の売り場の前でした。


ざっと思い出すだけでも新田商店の他、直市商店、表商店、という魚屋があって、赤宋水産というのもありましたが、魚屋と言うよりは運送会社に近いような話も聴きました。いずれも白ナンバーのトラックでした。他にもあったと思いますが、新田商店の4台という所有は一番多かったかもしれないです。


蛸島のTSさんに関しては、新潟県の柏崎市というか米山インターというのがあったと思いますが、高速道路である北陸自動車道が通行止めの時、側を走る国道8号線で吹雪の中、大きな衝突事故を起こしたとも聴いていました。新田商店のトラックだったと思います。


それほどひどい大怪我を負ったとは聴かなかったように思いますが、つぶれた車内に閉じこめられレスキュー隊に救助されるまでかなり時間が掛かったというような話も聴きました。


そういう話は聴いていたのですが、実際に新田商店のトラックに乗るTSさんの姿というのは見たことがなかったと思います。他にも新田商店の運転手の話は、ちょくちょく耳にしていましたが、今の記憶では被告訴人OSN以外の話としては考えにくいです。


TSさんは珠洲市の蛸島の人だと聞いていました。当時の国鉄も能登線の終着駅が蛸島駅になっていました。同じ珠洲市でも大谷のYSさんは水産高校の寮に入っているとか入っていたと聞いていましたが、TSさんの場合はまず汽車通学だったと思われます。


TSさんに関しては初めに町野高校に行き、なにか事情があって一年生の時にやめ、翌年に一年生として水産高校に入ったと聞いていました。実際の年齢などは同級生より一つ上になりますが、被告訴人YSNとは同級生で同じ漁業科のクラスメートでもあったはずです。


このあたりはその年代の石川県立水産高校の卒業アルバムを何度か見ることがあったので、被告訴人YSNと一緒に撮影されている写真も見ていました。


水産高校には他に機関科と製造科があり、製造科のほとんどは女子でした。私も通った小木分校には無線通信科がありましたが、本校に行くのは始業式の他、年にほんの数回程度でした。


水産高校の本校は同じ宇出津にありましたが、それだけではなく中学時代の同級生が何人も通っていたので、いろいろと話を聴く機会はあり、被告訴人YSNのことも高校一年生の頃には聴いて知っていました。


初めに話を聴いていたのはHSだったと思いますが、とても怖い感じの先輩で鬼のような顔をしていると話していました。同級生のDKさんも高校に入った頃の被告訴人YSNは、ぴしっとしていたけど、そのうちおかしくなっていったとしみじみ語ることがありました。


被告訴人YSNは私の二つ年上なので、私たちが高校一年生の時の3年生でした。名前だけは聞いていたとも思いますが、直接会ったことはなかったと言えばなかったのですが、一度HSらと鵜川の同級生の家に泊まりがけで遊びに行ったとき、夜の町で出くわして話をしたようなことはあったと思います。


鵜川は宇出津と同じ能都町でしたが、中学校は能都中学校と鵜川中学校で別になっていたので、親戚関係でもなければ高校入学以前の交遊や交流というのは、ほとんどなかったはずです。


私の場合は、新だ父親の姉だったかが鵜川の町に住んでいたことがあり、小学校の低学年の頃までは何度かその親戚の家に行くこともあったと記憶しています。それとは別に、寺参りによく母親に連れて行かれたことも憶えています。


宇出津とは距離でも10キロ弱ぐらい、車でも10分弱ぐらいではないかと思います。穴水や金沢方面に行くときの国道249号線の通り道でもありましたが、平成に入った頃になると、柳田村の上町を経由して穴水に行くことが多くなったとも言えます。


上町経由の道は現在、珠洲道路という看板も出ていますが、昭和58年頃も道はあって、通行はしていたものの、一部舗装のされていない砂利道の区間もあり、道も今ほど整備はされていなかったように思います。農面道路とも呼ばれていたと思います。


昭和56年の6月に私は小木分校を中退し、6月の終わりか7月頃には金沢の問屋団地でガソリンスタンドの仕事をするようになっていました。面接に行ったのは森本に近い神谷内のガソリンスタンドだったと記憶していますが、問屋団地のガソリンスタンドには寮もありました。


増泉1丁目のアパートに住んでいた被告訴人OSNのところに何度か遊びに行っていましたが、一度、どこかで被告訴人OSNの知り合いの車に出会い、その車で問屋団地まで送ってもらったことがありました。


その場ですぎに気がつかなかったのかもしれないのですが、それは蛸島のTSさんの車で、助手席に同乗していたのは被告訴人YSNだったはずです。話には聴いていたTSさんでしたが、実際に間近であったのは、その時が最初だったとも思われます。


私は本来2年生に進級したところで中退しましたが、その年の春に高校を卒業したのが被告訴人YSNらの年代だったはずです。


既に書いていると思いますが、TSさんは金沢市場輸送で長距離トラックの仕事を始めたと聞き、被告訴人YSNは中央市場のウロコ水産で仕事を始めたと聞いています。ウロコ水産は石川中央魚市とならぶ、競りを主催する鮮魚の売り場でした。


昭和59年当時、新田商店の話はよく耳にしていたことを憶えています。珠洲市の見附島の付近の人だと聞いていましたが、何とかという人の名前をよく聞いていました。変わった名前でしたが二文字で下の一文字は記憶しています。豪傑のような伝説的な人物のように話を聴いていました。


その人物に関しては直接見たという記憶がはっきり残っていないのですが、どこかに駐車してあることの多いトラックはちょくちょく見かけていた記憶があります。今思い出したのですが、箱の後ろだったかに観音様か何かの絵が描かれていたように思います。


新田商店のトラックは保冷車はほぼ例外なく飾りをつけていたと思います。トラックの飾りが全国的に流行したのは昭和61年辺りからではなかったかと思いますが、逆に時代をさかのぼるとトラック野郎という映画が流行し、そちらも飾りや電飾を流行にしていました。


どちらかと言えばそのトラック野郎の時代の流れがあったかと思います。昭和60年辺りになると飾りも昔とは違ったものになっていたと思いますし、「カミオン」という専用雑誌の書店に並ぶようになっていました。


トラック野郎という映画はその後、ビデオなどで見ましたが、リアルには実感することはなかったように思います。同じ菅原文太が主演でしたが、仁義なき戦いの方が宇出津でも、リアルに流行していたことは憶えています。


宇出津に映画館があったのもその仁義なき戦いが大ヒットしていた時代でしたが、その後まもなく閉館しました。小学校6年生の時だったと思いますが学年で「日本沈没」という映画を見に行ったことは憶えていますが、その1年から3年の間には閉館していたと思います。


金沢市内にレンタルビデオ店が出来たのも昭和59年の夏頃だったと記憶しています。今では考えられないことかと思いますが、当初は1本で1500円の料金ではなかったかと思います。レンタルビデオが普及していく時代の幕開けでもありました。


金沢のレンタルビデオ店でトラック野郎のビデオを借り、それを宇出津の城野町の二つ年上の先輩の家でみたことも、よく憶えています。昭和59年の夏頃ではなかったかと思います。


その先輩も被告訴人YSNとは同級生でしたが、水産高校を中退したとは聞いていたものの、それも被告訴人YSNと同じ漁業科と聞いた憶えもあります。


その先輩と初めて知り合ったのも昭和56年の12月頃かと思います。姫のNKさんと同じ頃で、どちらも小木か姫の遠洋漁業から戻ってきたところと、聴いていたように思います。NKさんの方は、そう聞いたとよりはっきり記憶しています。


宇出津の城野町というのは現在も数こそ減っているとは思いますが、ほとんどが町営住宅の集まる町内でした。同級生のHSも城野町で、彼のところにはよく遊びにも行っていました。


改めてこの項目のタイトル名を見ると平成9年当時の被告訴人OKNと被告訴人KYNの関係になっていました。なにか勘違いしたまま書き続けていたようです。これは4月10日の初めての記述になるかとも思います。


被告訴人OKNと被告訴人KYNに共通する人物としてSMやOTの説明をしてきたことは十分に意味のあることです、平成9年の時点でも被告訴人OKNは本陣不動産の営業課長になっていたかと思いますが、その本陣不動産の入社のきっかけになったのもOTという友人関係があったからです。


不動産の仕事を始める前の被告訴人OKNは、車のブローカーというか売買の仕事も手がけていました。ここに絡んでくるのがUHです。UHはOTと知り合うきっかけとなった人物でもありました。


宇出津の城野町の先輩についてはまた違ったところ書こうと思いますが、昨日辺りに新たに思い出したことがありました。私自身は長距離の仕事で忙しかった時期だと思うのですが、OTとSMの二人が宇出津に遊びに来ていた時期があり、城野町の先輩とも一緒に遊んでいたという話でした。


こういうことを書いてよいものか多少迷うこともあるのですが、その辺りももうしばらく検討したいと考えています。被告訴人OSNとの関係でも重要な接点がある人物で、平成9年に福井刑務所を出てから一度も顔を合わせず、近況について詳しい話題を聞かなかったことも気になっています。


被告訴人OSNの会社をやめてから型枠大工の仕事をしているとは聞いたと思うのですが、金沢に住んでいるのか、どの辺りに住んでいるのかという話も全く聞きませんでした。ただ、城野町の先輩の甥にあたるような若者が、被告訴人OSNの会社で働き、活躍しているとは聞き、何度か会っていました。


城野町の先輩についてはこれまでに何度か書いていると思いますが、プライベートな問題もあって、配慮に迷うところがあります。真相を正しく伝えるためには不可欠と思える事実もあるのですが、記憶がはっきりしなくなっている部分も当然にあることでしょう。


平成9年の7月の下旬ぐらいからSMが部長をする建設会社で作業員の仕事をするようになったことは既に書いていると思います。規模としては20人もいないような会社ではありましたが、金沢市の仕事を入札して請け負っているなど、成長しているような会社でもありました。


8月に入る前に仕事は始めていたと思います。北安江の借家に引っ越してきたのが7月の1日か2日だったので、予め用意されたように事が運んでいたという気もします。そのあと被告訴人KYNの世話になるときは、多少渋るような対応もあって、もう少し時間も掛かったかと思います。


その建設会社で仕事を初めて10日か2週間ぐらい経った頃かと思いますが、車を買うことでSMに相談をしました。家を処分した現金があったのでどこで買っても良かったのですが、SMに世話になったということで、相談もしてみたのです。


その時に紹介されたのがTという人物でした。会ったことはなかったものの名前は以前から聞いていたような気もします。年は私たちより二つぐらい年上と聞いていたように思います。SMとの関係については聞いたような気もしますが、憶えていません。


店舗を持たずに車の売買をやっていたような感じであったと思います。初めにどこで会ったのかも思い出せなくなっていますが、すぐに代車の車を貸してくれました。車種はローレルだったと思いますが、自分の知る昔の型とはまるで違っていて、トヨタのマーク2にも似ていると思いました。


平成4年の4月からその平成9年の1月18日まで私は刑務所や留置場にいたので、世の中がけっこう変わり、町を走る車も見たことのないモデルが多かったとは思います。色はベージュのような色だったと思います。新しい型には見えましたが、車自体はかなり使い込まれているという感じでした。


車を探してもらって、最終的にホンダのトゥデイという軽四を買ったのですが、納車というか乗れる状態になるまではけっこう日数もあったように思います。だいたいになりますが、初めに代車を借りてから3週間ぐらいでしょうか。


どこか金沢市の出雲町あたりか古い整備工場の前で車を受け取ったような記憶もかすかに残っています。Tに関してはどこだったかのマンションに住んでいるとは聞いていました。どのあたりだったか思い出せないですが、藤江の方だったような気もします。


その時に買ったホンダのトゥデイは平成16年頃まで乗っていたと思います。羽咋市に住んでいた頃でしたが、故障してずいぶんと修理代が掛かると言われたので、その店で新車を購入したのです。日産のモカとかいう車ですが軽四でした。


平成21年の3月15日に車検が切れたと思います。それに合わせて羽咋市のアパートを引き払い、宇出津に戻ってきました。それが2度目の車検だったと思うので、初回が3年、その後の2年ということで5年前の平成16年の3月頃に買ったものかと思うのです。


私は平成11年の8月12日に金沢中警察署に逮捕されてから金沢刑務所に服役し、満期で出所したのが平成13年12月31日でした。頼んだつもりもなかったとは思うのですが、被告訴人OKNがそのトゥデイをあずかってくれていました。


その日、金沢刑務所の正門の前で、被告訴人OKNがワゴン車に乗って待っていたことは、すでに書いているかと思います。被告訴人OSNの鳶の仕事で使っているワゴン車ではないかと思いましたが、建設現場に出入りしているようにも思えないような車内でもありました。


金沢刑務所は金沢市田上にあります。市内の中心部から海とは逆の方角で山の方に行った辺りです。住宅地としても開けていたと思いますが、富山県の方にも近い金沢市内のはずれの方です。ちょっと道を違えてさらに奥に行くと湯涌温泉もあります。


なんと言っても12月31日は大晦日であり、普段とは違った街の雰囲気もあったかと思います。午前中だったと思いますし、福井刑務所の時のように長い時間待たされたような記憶もないので、午前9時頃には釈放されていたのではないかと思います。遅くても10時ぐらいには。


平成4年の事件の時とは違って、平成11年の事件の時は、被告訴人OKNは一度も面会に来なかったと思います。拘置所にいたときだけではなく、金沢中警察署にいたときも来なかったように記憶しています。


被告訴人KYNは一度は金沢中警察署に面会に来たと思います。どんな話をしたのか憶えていませんが、配管の仕事で来ていた金沢中警察署の建物に、こういうかたちで来ることになるとは考えたこともなかったと、驚いた様子で話をしていた場面を一つ、憶えています。


被告訴人KYNとは逮捕される数日前に、専光寺の近くにある病院で会っていました。久しぶりに自宅に連絡を入れたようにも思いますが、入院していると聞かされて向かったはずかと思います。これも別のところでもう少し詳しく書いておきたいと思います。


平成9年当時の話に戻したいかと思いますが、その前に途中にもなっているかと思うOTらとの出会いについて書き残していることを書いておきたいと思います。


西念町のUHのアパートでOTと初めて出会ったのは昼でした。そもそもそのUKのアパートに遊びに行った記憶があるのはほとんどが昼間で、例外はその昭和59年と思われる年の12月24日のクリスマスの夜でした。あれはあのアパートに行った最後かもしれません。


OTとはすぐに意気投合するような関係になったと記憶しています。初めて合った当日の夜と思われるのですが、これも忘れることのない出来事がありました。と言ってもごく断片的な一場面になっています。


場所が粟崎という金沢市内の地名であったことは印象的に記憶していますし、確かに行った場所も粟崎の付近で内灘駅にも近い住宅地だったと記憶しています。内灘駅は浅野川線の終着駅でもありますが、内灘は金沢市内ではなく河北郡内灘町です。


昨年辺りに無料化され「のと里山海道」というような名称に変更されたようですが、能登有料道路があって内灘はその出入り口のような場所でもありました。また、「海浜(かいひん)」と呼ぶことが多かったとも思います。


石川県金沢市粟崎町 - Google マップ http://bit.ly/R8ObYw ← こちらで確認しました。自分が思っていたよりは狭い範囲のようです。


ついでに書いておくと粟崎の隣には五郎島という場所があり、Googleマップをみると五郎島町になっているようです。石川県内では五郎島金時というサツマイモで有名な場所かと思います。


平成3年の7月から9月の間はよくその五郎島にセイゴ釣りに行っていました。スズキの一回り小さいのですが、40センチぐらいのはよく釣れていました。60センチ以上になるとスズキと呼ぶとか聞いたこともあります。


五郎島も金沢港の一部になるかと思いますが、他の場所では1メートルほどのスズキまで釣れると新聞に出ていたので知っていました。スズキを狙うのはルアー釣りだと聞いていましたが、私は電気浮きに大きな青虫をつけて釣っていました。


何がきっかけだったか憶えていないのですが、五郎島にはよく行っていました。仕事が終わった夕方からで21時かおそくても22時にはやめていたと思います。釣りに行って釣れなかったことは一度もなかったと思いますが、持って帰って食べることもなかったです。


金沢港には石油タンクもあって魚が油臭いとも聞いていました。一度だけ50センチ以上のが釣れたので持って帰り、家の冷蔵庫で冷凍しておいたところ、市場急配センターの「まさやん」という人が欲しいと言ったので、会社で手渡したことを憶えています。


スズキは黒くて鯉のような色をしたのが多かったと思いますが、五郎島ではヒラスズキというのも釣れました、これはきれいな色をしていましたが、食べようと考えたことはなかったです。


平成3年の7月、前妻に最後に家出をされた日の前日も、夕方の早い時間に五郎島にセイゴ釣りに行ったと記憶していますが、その時は被告訴人YSNも一緒でした。他にも被告訴人YSNと一緒に行くことが多かったと思います。3回に1回は一緒だったように思います。


私は宇出津という海のそばで生まれ育ったこともあり、小さい頃から中学生の頃までは、けっこう魚釣りをしていた時期がありました。小さい頃は冷蔵庫にある刺身などを持って釣りに行っていたことも憶えています。魚の刺身は好きではなかったです。


高校生になった頃から魚釣りをした記憶はないと思いますが、金沢市場輸送の大型保冷車に乗務し、仕事も慣れてから、道具を揃えて魚釣りをするようになりました。きっかけは憶えていないですが、誰かに誘われたようなことではなかったと思います。教わった憶えもありません。


金沢市の東力のアパートに住んでいましたが、近くに「釣り具の丸越」がありました。神田店ということになっていたでしょうか。本店だったような気もします。「まるこしに釣れたの」というテレビCMでもお馴染みの店でした。


西念町の方にも丸越の店がありました。竿やリールの道具を揃えたのはこちらの店の方であったかもしれません。金沢駅西口から一直線の50メートル道路沿いで8号線バイパスにも近いあたりでした。


道具は丸越で買いましたが、エサの青虫はほとんどを金石の小さい釣具店で買って、それから釣りに向かっていたと思います。ずいぶんと大きくて太い青虫でした。生きたまま使うエサなので、決まって買ってから釣り場に向かっていたと思います。


金沢港での魚釣りの話は、別の機会にすることがあると思います。当時は能美郡だったと思う美川にも魚釣りに行ったことがありました。一番多かったのは金石港の堤防だったと思います。厳重な柵を乗り越えて堤防に入っていました。それを含め別の項目でいくつか書きたいと思います。


OTらと知り合った当日の夜だったという気がするのですが、私の記憶の中ではSMと初めて会ったのはOTと初めて出会った数日後という感覚もかすかに残っています。もう30年近くも前になってしまったので、現在残っている記憶の範囲で書くしかありません。


昭和59年ということで西暦にしてみると1984念頭ことになりそうです。現在が2014年なので、まさに今年が30年目だと気がつきました。


とにかく知り合ったばかりのOTらと夜に金沢市粟崎の家に行きました。急な話だったのでのみ込めていない部分もあったかと思いますが、数日前の集団暴走の時に事故を起こして死亡したという若者のお通夜だったと思います。同級生だとすれば19歳という可能性もあるかと思います。


どの程度の付き合いのあった友人だったのかもわかりません。その後、その粟崎の若者の事故死のことが話題になることもなかったと思いますが、言葉以上に重いものを感じさせる雰囲気は共通のものとしてあったと思います。生活のスタイルも大きく変える契機になったことも考えられます。


私にしてみると、その場の成り行きで見ず知らずの人の家にあがって、生前の姿を知らない人の亡骸をみたことにもなります。とりわけ印象的だったのが、祖母のような人が涙ながらに、あなたたちは同じ過ちをしないためにもよく顔を見てください、と言われたことです。


部屋の中央に布かれた布団にお亡くなりになったご遺体があって、枕元にすり寄ってその顔を見たことは、まるで映画の場面のことのようでもありました。


粟崎の家のお通夜には5人ぐらいで行ったように思います。考えられるのは確実性の高い順に、OT、被告訴人OKN、UHでしょうか。


観音堂のYHさんのアパートで知り合ったUHとの関係も一時的なものだったので、当初OTとの関係もそれほど続くとは私自身考えていなかったように思います。知り合ったきっかけは私でしたが、その後の関係が続いたのもより親密な付き合いをしていたのも被告訴人OKNの方でした。


被告訴人OKNの方が趣味や気もあったのだと思いますが、OTは私の方に親近感を持つような面もあったかと思います。その後、私と同じ長距離トラックの仕事をしていたのも、そういうことなのだろうと思いますが、不動産の仕事を始めたと聞いたときは、ずいぶん意外に感じました。


知り合ってすぐの頃のOTは仕事を探している状態だったということもあり、すぐに金沢市場輸送に紹介して一運行だけ仙台だったかに行ったのですが、同乗した社員と折り合いが悪かったらしく、相当腹を立てた様子でやめると行っていました。


宮川という名前の運転手だったと思います、昭和59年当時若くて25歳か高くて28歳と聞いていたように思います。金沢の福久の方に家があって、何かの機会に一度だけ遊びに行ったこともありました。癖の強い人物でしたが、昭和61年の8月に入社したときにはすっかりいなくなっていました。


宮川という人は4トン車の運転手でした。4トン車の運転手の中では古い方でもあったと思います。私自身、初めて仙台に行ったときは彼が同乗していた記憶があります。塩釜から冷凍魚を運んで来たように思います。


当時はまだバブルの好景気の到来前で就職難でもあったと思われ、運転手の募集や出入りも多かったと記憶しています。普通免許で乗れる4トン車の場合それが顕著でした。


前にも書いていると思いますが、OTはしばらくの間、私がいた中西運輸商でも4トン車の運転手をしていました。被告訴人OKNがいた時期ともほぼ重なると思いますが、被告訴人OKNは仕事より遊びを優先している感じで、やめたあとも遊び回っている様子でした。


その後OTは、中谷運輸の平ボディの4トン車で長距離の仕事をしていました。これはけっこう長く続いていたと思います。中谷運輸は小さい運送会社でしたが、松任金石線とも言いましたか主要な道路沿いに、トラックの駐車場があって、前を通りかかる機会もけっこうありました。


その中谷運輸にはずいぶんと飾りを付けたトラックがいて、北誠会というグループの代表的なアートトラックにもなっていたようです。カミオンのような雑誌にも紹介されていたと思いますし、とても目立つトラックでした。


北誠会というのも無線のクラブのひとつだったような気もします。当時は無線が流行っていました。無線にはパーソナル無線とCB無線とかがあったと思います。私自身はあとの方になってパーソナル無線を少しだけやりましたが、どうも性格的なものか無線は好きにはなれなかったです。


機械に関心がなかったわけではないのですが、作法的なものには、とても馴染む気がしませんでした。


パーソナル無線自体は宇出津の仲間の間でも昭和58年の初め頃には流行っていたように思いますが、一時的なもので1年もすると続けている人は余りいなくなっていたような気もします。ファミコンとかが流行りだしたのも同じ頃かと思いますが、同じく私は興味を覚えませんでした。


CB無線に関してはパーソナル無線より前から存在は知っていたと思いますが、余りよい評判というのも聞かずマイナスのイメージが強かったとも思います。信号機の状態を変えるほどの強力な電波を使ったり、無線機を持つ腕が異様に細くなるなど中毒性が高いとも聞いていました。


中西運輸商は九州方面の仕事が多かったですが、運転手の大半も九州の人間だと聞いていました。CB無線をやっている人も多くて、「厳流会」というクラブ名もよく耳にしていました。YTは付き合いが多かったと思いますし、彼も無線はやっていたような気もします。


パーソナル無線に関しては流行りだした早い時期から自宅に固定で使っている人もいましたが、CB無線に関しては自宅につけているとか乗用車につけているという話は、私の知る範囲では聞いたことがなく、もっぱら長距離トラックという感じでした。


北誠会と言うことでインターネットで検索をしてみたのですが現在も活動中のようです。デコトラという言葉も目につきましたが、デコレーショントラックのことかと思われるものの、昭和の時代にそういう言葉は使われず、アートトラックは見ていたように思います。


同じ中谷運輸で運転手の数も少なかったと思いますので、当然に顔見知りだったとは思いますが、OTから北誠会の話を聞くことは多くはなかったと思います。また、彼自身がトラックを飾るようなこともなかったと思います。


中谷運輸の感謝に関しては親近感ももって色々と話をしていたように思いますが、憶えていることも少ないです。はっきりとは憶えていないものの当時は運転手の数もトラックの数も10には満たなかったように思います。長距離は駐車場の出入りも頻繁なので把握がしにくい面はありますが。


一度、北誠会のイベントということで千里浜に行ったことがありました。5,6人かもう少しいたような気もするのですが、OTがいたことは確実と思われる他は、誰がその場にいたのかも思い出せない記憶にはなっています。北誠会の活動が活発化し名前が定着したあとであったとは思います。


中谷運輸にいる頃のOTは野々市のアパートで一人住まいをしていたようです、私自身、2,3回は行ったことがあると記憶しているのですが、遊びに行ったという記憶よりは、立ち寄ったとか訪問したという感じで、夜に行ったことはないかもしれません。


野々市とは聞いていたと思いますが、野々市町の中心部からはずいぶんと離れた場所で、松任市にも金沢市にも隣接していたと思います。野々市の駅に近い場所で、踏切を渡ったところの角にあるような古いタイプのアパートだったと記憶しています。


長距離の仕事でどこかで顔を合わすようなこともあったと思いますが、連絡先の電話番号というのも知ってはいなかったような気もします。当時は当然に携帯電話などなり時代でした。


中谷運輸をやめたような話も人伝に、かなり疎遠になっていた状態で耳にしていたように思いますが、どれぐらい間があったかは思い出せないものの、そのうち不動産会社に就職して営業の仕事をするようになったとか耳にするようになりました。


私自身、長距離の仕事では不在が多かったと思いますが、居候のような状態で同居していた時期のあとは、特にOTが遊びに訪ねてきたような記憶も残っていません。


時々、近況のような話を耳にすることはあったように思いますが、その話のほとんども被告訴人OKNから聞いていたのではないかと思います。振り返るとほとんど顔あわすことのない状態が長かったように思えます。


ずいぶんと久しぶりにOTやSMと会ったと思われるのが片町のディスコ「さむらい」に行ったときのことでした。耳にするだけの言葉だったので店名を漢字で書くのかカタカナだったのかもわからず、見当もつかないので、とりあえず平仮名にしておきました。


この「さむらい」というディスコのことについては、被告訴人YSNのことも絡んでくるので、別の項目で詳しく書くことにしたいと思います。


「さむらい」というのは最も可能性が少なそうな気がしてきたので以降は、とりあえず「サムライ」としておきたいと思います。金沢で初めてオープンした開放型のディスコというような評判を聞いていました。開放型というのは私の説明上の表現です。そんなのは聞いたこともないディスコです。


※Emacsという現在書面を作成しているアプリに不具合が発生しまして、バックアップファイルから復元をしたものの本日つまり2014年4月14日に書いた部分のデータが失われました。


※Twitterの同時投稿をしていたのでTwilogから本日分のデータを取得しましたが、Twitterの投稿に失敗している部分もあるかもしれません。以下にTwilogから得たデータをコピペしますが、末尾に投降時刻の情報がついています。HTMLから取得したものです。


※以下、Twilogからコピペで復旧させたデータ(欠落の可能性あり)


本来この平成9年当時の被告訴人OKNと被告訴人KYNの関係に関する項目では、主に被告訴人KYNが被告訴人OKNの世話で会社をかねた中古住宅を購入し、さらにその数千万円という借金の保証人になったという話について取り上げるつもりでした。
posted at 10:43:55


その住宅に関しては高くても4千万円を超えるような話ではなかったように思います。借金の方も3千万円か3千500万円ではないかと思われます。具体的な数字を聞いたとは思いますが、ずいぶん前のことでもあり、また、相場的にもそれぐらいかと思った程度だったので強い記憶にはなっていません。
posted at 11:30:27


被告訴人OKNの方も平成9年の1月に私が福井刑務所から出てきた頃には、中古住宅を購入していました。そちらもだいたいの金額は聞いたような気もするのですが、被告訴人KYNと似たようなものだったような印象がぼんやりと残っている程度です。
posted at 11:32:58


被告訴人OKNの中古住宅は金沢市円光寺でした。この円光寺や高尾のあたりが金沢市内でも住宅地としては土地の値段が特に高いという話は聞いたことがあり、また被告訴人OKNからもそのように聞いていました。
posted at 11:35:19


よほどの掘り出し物かとも思ったのですが、5千万円とかそういう金額ではなかったと思います。よくよく考えてみると黒田1丁目の被告訴人KYNの中古住宅も高くて3千万ぐらいにも思えてきました。
posted at 11:37:00


円光寺の辺りは店も多くバス停もあって利便性は高いのかと思われますが、能登に帰ることを考えると逆方向の金沢市内の外れに近いというイメージもあって、個人的に交通の便が良いという感覚にはなれなかったです。
posted at 11:41:13


被告訴人KYNは黒田1丁目でしたが、車がないと生活は相当不便な場所だと思います。間明にマルエーというスーパーが一つあったので、歩いて買い物に行けないこともなかったとは思いますが。
posted at 12:05:05


それにけっこう大きな川の土手沿いというのも地価が低くなる要因とも思われます。水害発生のリスクがいくぶん高くなると考えられるからです。
posted at 12:07:20


ついでに書いておきますと、いつだったか被告訴人OKNの付き合いで、どこかの喫茶店での不動産の商談の場に居合わせたことがありました。被告訴人OKNのお奨めは金沢市粟崎の物件でした。
posted at 12:09:08


相手は粟崎で以前水害が起こったという知識もあったらしく、かなり慎重な様子で、被告訴人OKNの説得に応じないような対応をしていました。金沢市内のどのあたりの喫茶店だったかも思い出せないのですが、既に被告訴人HTNの住宅が粟崎ということは私が知っていたと思います。
posted at 12:12:34


粟崎の辺りは金沢港の一部のような場所で、山の方からはるかに遠く離れていますが、どうも地盤が低いような話ではなかったかと思います。
posted at 12:15:10


被告訴人HTNの粟崎の住宅に関しては、項目のタイトルをつけただけで、まだ説明を書いていないと思います。こちらは中古物件ではなく、「○○邸新築工事」になっていました。○○の部分はもちろん被告訴人HTNの家の名前です。具体的な金額を書面として見ています。
posted at 12:17:29


書面といってもMicrosoftのWordのファイルだったので、改変も自在の状態ではあったとは思います。細かいことは別の項目の方で書きます。
posted at 12:18:26


被告訴人OKNに対しては、円光寺の中古住宅に関して被告訴人KYNに借金の保証人になっていないのか尋ねましたが、被告訴人OKNははっきりと保証人にはなってもらってはいないと答えていました。
posted at 13:18:16


円光寺の中古住宅に関しては、頭金をいくら入れたとかどれぐらいのローンを組んだとか込み入った話は聞かなかったと思います。
posted at 13:19:28


福井刑務所に迎えに来た時点での被告訴人OKNや被告訴人KYNの様子がおかしかったので、へたに突っ込んだ質問をして警戒心を与えても良くないと考えてはいましたし、本当のことを答えるとは限らないとも思っていました。
posted at 13:21:12


石川県金沢市円光寺 - Google マップ bit.ly/1hA1omX ← 円光寺というのは金沢市内のこの辺りです。地図で見たことは余りなかったのですが、思っていたよりは狭い範囲という印象もあります。
posted at 16:57:41


SMの先輩であり上司にもなる蛸島出身のKさんが、ふと被告訴人OKNに関して不動産の仕事をしているのに、自分でシロアリの家を買った、というようなことを口にしたことがありました。前後の会話は記憶にないですが、その部分だけよく憶えています。
posted at 17:01:17


とりあえずKさんとしましたが、これは上の名前ではなく通常○○さんと呼ばれていた下の名前の頭文字のイニシャルを使いました。上の方の名前も憶えていたはずですが、思い出せなくなっています。
posted at 17:03:18


そのKさんに関しては名前だけはSMから頻繁に聞いていたように思います。前に少し触れていると思いますが、初めに東金沢の方の建設会社で働いていると聞いていた頃より、その名前を聞いていたようにも思います。かなり世話になり慕っている様子でした。
posted at 17:05:34


東金沢の方というのは星陵高校の近くとも聞いていたように思います。私自身、星陵高校の場所というのは漠然としか認識していませんでしたし、用事もなく滅多に行くような付近でもなかったと思います。高校野球で有名になった星陵高校です。
posted at 17:08:53


私立星稜高校 - Google マップ bit.ly/1hA41Fj ← 確認もかねて調べてみたのですが住所が次のようになっていました。石川県金沢市小坂町南206
posted at 17:12:55


この小坂町というのはけっこう見覚えのある地名です。鳴和から森本の方に行く主要道路沿いに小坂町というような看板のついた交差点があったと記憶しているからです。鳴和から反対側にまっすぐ行くと橋場の交差点があって、その先には金沢地方裁判所の側の兼六園下の交差点に出るはず。
posted at 17:16:45


その辺りは市内配達などの仕事でもちょくちょく通っていました。とりわけ記憶に残っているのはその道路沿いの森本の手前だったかに「大鶏」という鶏肉の加工場のような会社があったことです。昭和59年当時はよくブロイラーを積みに行っていました。
posted at 17:20:51


その主要道路沿いで森本の町を抜けてしばらく走ると河北郡津幡町の手前辺りで国道8号線に合流しましたが、そのしばらく手前の道路沿いには日野自動車の工場がありました。その後、8号線バイパスに大きな新工場が出来ていましたが、その頃には日野の工場に出入りすることはなくなっていました。
posted at 17:24:08


それでも考えてみると最後に乗務した市場急配センターの10トンウィング車3068号も日野のトラックでしたが、そういえば平成4年の1月頃に、その森本の工場に行ったことがありました。
posted at 17:26:30


会社に掛けた電話で被害者AAさんに、「今日仕事終わったらラーメンでも食べにいかんけ」と誘ったとき、工場のすぐ近くの公衆電話から掛けていたと思います。彼女は「いけるけど、今日はいけん」と意味ありげな感じで断っていました。いける、とは行ってもいいけど、という意味です。
posted at 17:29:21


平成4年3月23日の夜の電話でも彼女は同じような返答をしていましたが、問い詰めるとその時は、「こわいし」と行っていました。今から自分(私)のアパートに来るように言っていたときのことです。
posted at 17:31:47


金沢市場輸送で乗務した最後の10トンウィング車も日野のトラックでした。もっともこの2台は新車だったので故障というのもほとんどなかったとは思います。その前の108号とかいう冷凍機付きの保冷車も日野でした。
posted at 17:33:44


なにかトラックに不調があって日野の工場に行ったのだと思いますが、思い出せなくなっています。あるいは定期点検のようなものであった可能性もあるかとは思います。
posted at 17:35:11


SMの仕事先については小坂町の近くと説明を受けていたのかもしれません。会社の名前とかもたぶん聞いていたのだろうとは思いますが、憶えてはいないです。
posted at 17:38:07


はっきりと印象に残っていることは、SMがようやく落ち着いて土木工事のような会社で腰を落ち着けて頑張っているというような話でした。高校卒業の資格を得るため夜間学校に通うとか、あるいは通い出したという話も聞いたように思いますが、その後、卒業したような話も聞いてはいません。
posted at 17:40:42


夜間学校というのは金沢市でも少なかったと思います。中央高校というのがそうだったと思いますが、通っている人と何人か知り合ったこともあったので、多少知識もあったかと思います。4年制だったはずで、そんな長い間、今も通っているという話も聞かなかったです。やめたとも聞かなかったですが。
posted at 17:44:44


本陣住宅が倒産しました。今後の家の修理や保証はどうなるのでしょうか - Yahoo!知恵袋 detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_de… ← 調べていてこういう情報を見つけました。
posted at 18:08:27


※Twilogからコピペしたデータの終わり。


<2014-04-14 月 18:53> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]


<2014-04-15 火 17:57> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]


見出しの本文編集における記述範囲の開始と終了の時刻に関する説明も済ませたので、これからは各項目間を移動しながら全体的な構成を整えて行きたいと思います。


この項目では、繰り返しになりますが、平成9年当時の被告訴人OKNと被告訴人KYNの関係に焦点を当てています。


当時のことを振り返ってあらためて考えてみますと、被告訴人OKNの紹介というか口利きで、SMが部長をするK建設に働くようになりましたが、よく考えてみると、被告訴人OKNとSMが顔を合わせた姿というのも一度も思い浮かばないのです。


SMに関しては馬替のマンションに住んでいると聞いていたような気もしますが、遊びに行くようなことは一度もなかったし、そういう雰囲気すらなかったです。被告訴人OKNの方でもなにか距離をとっているような慎重さもうかがえなくはなかったです。


ずいぶんすんなりと口利きで仕事が決まった割には、付き合いがまったく見えてこず、私がいない間にあった昔話に触れるようなこともなかったと思います。ただ、金沢の伝統芸能の仕事をする家に婿養子に入り、名前が変わったとは聴いていましたが、これも何時頃のことかはよくわかっていません。


私自身、再審請求や被害者とその家族のことで頭がいっぱいだったので、気がつかずにいたこともあろうかとは思います。合同法律事務所の西村依子弁護士のところに相談に行ったのも、まだK建設で働いている頃でした。午後からの仕事を休んで行ったように思います。


西村依子弁護士の場合は、受任を断られたものの相談料もいらないと言われたので、さほどのダメージでもなかったと記憶しています。当時は新聞でもちょくちょくと名前を見かける弁護士でしたが、相談の電話を入れたのは合同法律事務所でたまたま西村弁護士が応じたようにも思います。


合同法律事務所に関しては共産系の弁護士が集まる事務所で、刑事弁護に熱心に取り組むと福井刑務所で聴いていたことがあったので、電話をしてアポをとりました。


その話をしたのはFという同じ2工場の受刑者でした。彼も金沢市近郊の運送会社に働いていて、わいせつ事件の犯人にされたとか話していました。再審請求をするとも言っていたと思いますが、まったくの濡れ衣か嵌められたようなことを言っていました。


その運送会社のことは知っていました。運転手仲間だった二人が一時、その会社のトラックに乗務していたからです。一度、夜中に福井県の敦賀市の海岸線から急な坂に登るところにある大きな駐車場の食堂で一緒に食事をしたこともあり、その会社のトラックに乗務していました。


中西運輸商とも関連のある人物ですが、プライベートな問題を含むので、あやふやな表現にとどめておきたいと思います。もちろんこれまで検察や裁判所に提出した書面では、名前もはっきり書いておりますし、記憶の新しい時期に詳細を書きつづっているはずです。


その一人の運転手は以前、小木のYMさんと関係があったと話していました。YMさんに関する説明も途中になっていると思いますが、被告訴人OSNが鳶の仕事をするようになったきっかけらしい人物です。引き継ぐかたちで清水建設の仕事をするようになったと被告訴人OSNは話していました。


YMさんは、昭和59年10月に私が金沢市場輸送をやめたあと、しばらくのあいだ金沢市場輸送で4トン車に乗務していたとも話していました。当時は市内配達だけの仕事というのはなかったはずなので、長距離だったのだと思います。


何時頃、どれぐらいの間、金沢市場輸送にいたのか細かいことは聴かなかったか、聴いていても忘れているのだと思いますが、本人から直接その話を聴いたのは、どこかで説明が中断したままになったはずの、崎山の商店の前でした。


実は今日の15日、昼過ぎに宇出津新港のどんたく宇出津店に買い物に行って、その帰りに崎山を通ったのですが、スマホでそのあたりを写真撮影してきました。どうも店の看板は外され、文字の跡だけが残っているようでした。紙子商店と書いてあったように思いました。


店の方は撮影せず、前の道路と反対側のあたりを撮影しました。桜の並木があることに気がつきましたが、他の宇出津の桜より花は少ないように見えました。日当たりがよいので早めに咲いて散り始めたのかもしれません。それに崎山は風も強いです。


とりあえず一枚をTwitterにアップロードしましたが、URLは次のようになります。


Twitter / hirono_hideki: 2014-04-15_15.12.20.jpg ... https://twitter.com/hirono_hideki/status/456005699521085440/photo/1


このファイル名はスマホのアプリの方で自動的に付けてくれるものなのですが、本当は日付と時刻の間が半角のスペースになっています。これではスクリプトの実行時にエラーが出るので、半角スペースを半角アンダーバーに変更しました。


Linuxだと、rename s/\ /_/ *.jpg とやるとカレントディレクトリのjpgを拡張しに持つファイルの半角スペースを半角アンダーバーに全て置き換えてくれます。UNIXやvimではお馴染みの作法です。


崎山にバス停があるというのも今回初めて知ったのですが、桜のある側のバス停の看板があるちょうどそのあたりに停めた車の中で、YMさんと話をしました。昭和63年の8月の中頃、お盆休みのときだったと思います。


時分も大型車に乗務してみたかったと話していたことも印象的でした。今の仕事のことについても話を聴いていたのかもしれませんが、そういうことは記憶に残っていません。


小木のYMさんが金沢市場輸送にいたということは、その時初めて聞いた話ではなかったと思います。本人に会ったのも久しぶりだったので、本人から話を聴いたのはその時が初めてだったとは思いますが、それほど驚きもなかったと記憶しています。


ただ、YMさんが他の運送会社でトラックに乗ったという話は聴いてはいなかったと思うし、意外性はありました。


前にも書いていると思いますが、今一度、昭和59年に金沢市場輸送に入社した私の友人知人について整理しておきたいと思います。YMさんもその一人だったと思いますが、意外性が強かったため半信半疑で聴いていたような気もします。ごく短期間とも思いました。たぶん聴いたときの相手の話しぶりでも。


まず最初に私が紹介したのが被告訴人OKNでした。そのあと被告訴人OSNが入社しましたが、これも私の紹介のようになっていて、被告訴人TSK社長の夫人にずいぶんと感謝されたことも覚えています。普段は不機嫌そうな顔で無口な夫人だったので、余計に印象的に憶えています。


その後、9月か秋頃になって、珠洲の三崎のHMが入社しました。これは私の紹介だったと思います。私自身がやめる一月ぐらい前だったように思います。HMはずいぶんと仕事を頑張っていたと聞き、それまで不可能とも聴いていた歩合をもらっているとも聞きました。


ちょうどバブル景気が近づいて景気が上向きになり仕事が増えてきた時期にも重なっていたのかもしれません。昭和59年当時の4トン車の運転手の給料は売上が80万円まで20万円と決まっていました。80万円を超えると歩合がつくと聞いていましたが、運賃が安いので無理と聞いていました。


昭和59年当時の金沢市場輸送の記述はしばらく中断して、さきほど取り上げた福井刑務所の受刑者Fの話について、項目を別にして記述したいと思います。とりあえずFとしたと思いますが、現在もフルネームはだいたい記憶しています。


上の名前はまず間違いないと思っています。他に聴いたことがない名前ではありましたが、埼玉県の市町村名と同じと言うことも覚えやすくしていたと思いますが、それでもこれまでは何度か忘れてしまい、思い出すのに時間の掛かったこともありました。


下の方の名前も90パーセント以上は正確性があると思っていますが、漢字二文字の下の方となるとちょっとだけどうかという気もします。これまでの私の作法通り上の名前と下の名前のイニシャルの連結でこれからはFKと表記したいと思います。


前後の文脈で分かりづらいと思われる場合は、福井刑務所の受刑者FKという書き方もすると思います。このスタイルもこれまでと同じものです。


金沢市場輸送の昭和59年当時の状況に関しては、これも別の項目として分けた方が良いかとも考えています。相当の分量にもなりそうですし、整理の必要性も感じるようになってきました。もうしばらく検討します。


<2014-04-16 水 01:51> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]


|

« TODO 被告訴人OKNがバックアップを頼んできたノートパソコンにあった新築工事見積書のファイル | トップページ | DONE 宇出津あばれ祭りでの被告訴人KYNとの再会と、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)に対する刑事告訴について 2014年7月6日 »

「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1177043/60560921

この記事へのトラックバック一覧です: TODO 平成9年当時における被告訴人OKNと被告訴人KYNの関係 :

« TODO 被告訴人OKNがバックアップを頼んできたノートパソコンにあった新築工事見積書のファイル | トップページ | DONE 宇出津あばれ祭りでの被告訴人KYNとの再会と、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)に対する刑事告訴について 2014年7月6日 »