« TODO 元金沢弁護士会会長でもある若杉幸平弁護士の事件への関与と疑惑について | トップページ | 拘置所の接見室のアクリル板に張り付けて見せた平成4年4月2日付北國新聞夕刊の事件報道、という内容を書く予定だった項目 »

2015年6月30日 (火)

若杉幸平弁護士と被告訴人OSN、被告訴人OKN兄弟との関係、勧められた面談

若杉幸平弁護士と被告訴人OSN、被告訴人OKN兄弟との関係、勧められた面談
<2014-03-26 水 10:28> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]


時期としてははっきりと思い出せないのですが、平成11年の2月頃だったと思います。不思議なぐらい前後のことが思い出せなくなっているのですが、ある意味それだけに考えさせられた問題であり、そこに意識が集中していたため記憶の周辺がはっきりしなくなっているのではと思います。


当日の状況は今でも鮮明に覚えています。まず午前中だったと思います。意外なほどあっさり短時間で北安江の借家に送り届けられ、往復で1時間は掛かっていなかったと思います。借家に戻ったのが11時頃だったようなことも憶えていますが、なんとも言えない気分に浸っていました。


まだ十分な説明をしていませんが被告訴人OKNの誘いでNテックの仕事を始め、それも終わりの頃ではなかったかと思います。


Nテックに関しては平成11年の1月の20日頃に被告訴人OKNから誘いがあったと記憶しています。予めしっかりと計画された段取りの運びという感じでした。当時の私は被告訴人OKNが見方なのか敵なのかも迷っていましたが、結果的には見極めることにもつながったと考えています。


Nテックに関しては別の項目でしっかりと説明をしておきたいと思います。ここでは若杉幸平弁護士が説明のメインです。


まず被告訴人OKNから、自分の裁判のことで納得がいかないのであれば、弁護士を紹介するので相談してみればどうかと勧められました。具体的に相談という言葉を使っていたのかも、現在ははっきりと憶えてはいませんが、話をしてみれば、という感じではなかったかと思います。


被告訴人OKNがそんな話を持ちかけてから実際に若杉幸平弁護士に会いに行くまでは、時間も短かったと思います。あるいは3,4日前、あるいは前日だったような気もしますが、前もって考える時間というのは余りなかったという印象です。


当時、被告訴人OKNはボルボという会社に乗っていました。確かスエーデンの車でとても頑丈な車だとも聴いたことがありましたが、他の外国車同様に日本車とは異なり、モデルチェンジも少ないとは聴いていました。左ハンドルであったようにも思いますが、記憶ははっきりしません。


平成9年の2月から4月頃には、割と新しい感じのマークⅡのような国産車に乗っていたことも記憶していますが、いつからボルボに乗るようになったのかも、現在ははっきりしません。


はっきりしていることは平成10年の11月ぐらいまで、かなり長い期間、会ったり連絡をする機会がとても少なかったことです。ちょうど西金沢駅の近くの一水(いっすい)という小料理屋に行った頃が、被告訴人OKNとの関係の変化の始まりだったと思いますが、これも別の項目で説明を書きます。


Nテックの仕事と言っても、実際には仕事らしいものでもなく、結果的に私が受けた収入というのも0円でした。残ったのは15万円かあるいは20万円の被告訴人OKNに対する借金でした。当初は月に20万円ぐらいの収入は保証するというような話もしてはいたのです。


いちおう仕事としておきますが、Nテックの仕事では朝の8時半か9時頃からの自宅待機という感じで、被告訴人OKNからの連絡を待っていました。


Nテックの仕事内容についても別の項目で書きますが、N・K興産株式会社の金沢市荒屋の内見会の仕事が終わった頃が潮時で、私自身利用されるだけだと見切りを付けましたが、若杉幸平弁護士の事務所に誘われたのもその数日後ではなかったかと思います。


平成11年の2月の20日過ぎには私は別の仕事を始めていました。仕事を始めて2,3日後ぐらいの2月25日だったかに、金沢地方裁判所から再審請求棄却の書面が届きました。書面の日付が25日で、家に届いたのは翌日の26日であったかもしれません。


書面が届いた翌日の夕方だったと思いますが、暗くなった時間に私は金沢市木越付近から被害者の父親AKさんに電話を掛け、再審請求棄却の書面が届いたことを話しました。思えばこのあたりからAKさんの態度にも変化が見られるようになったとも思います。


再審請求棄却の書面が届いたときは、理由ものみこめず戸惑いがあったと思いますが、AKさんの態度に変化が出てきたことで、それからはむしろ前向きに、物事を考えられるようになったような印象が残っています。


それは私の希望的な観測だけではなく、実際にPHSの電話番号を教えてもらって、そちらに連絡を入れるようになりました。それは加賀市山中温泉の山奥の現場に通っている頃だったので、6月頃かとも思います。


なお、6月の中頃には被告訴人KYN夫妻を介して前菜から連絡があり、日曜日だったと思いますが、加賀温泉駅に向かいに行き、名古屋まで送る車の中で色々と話をしたということがありました。


その頃になると私は被告訴人KYNともほとんど連絡をとらない関係になっていました。前菜から連絡があったという話は、堀田建設の野々市町の外れの方の土場において、携帯電話で話をした状況を記憶しています。


堀田建設の仕事というのは河川の災害復旧工事の仕事がほとんどだったと記憶しています。山中温泉の現場も川の災害復旧工事でした。山中温泉の全体が水没するような危機的状況でもあったと聞いたことがありました。


それは前年つまり平成10年秋の大雨でのことと思われました。私自身その日は辰口庁舎の現場でK君と作業をしていたのですが、午後に大雨が続き、夕方遅くなって金沢に戻った頃には、あちこちで道路が水没したり、田んぼが水浸しになっていました。記録的な大雨としてニュースにもなっていました。


私は平成11年の2月の20日頃から金沢市鳴和にある職業安定所で紹介を受けた、永久開発で建築・建設現場への派遣労働をするようになっていました。こまかくいえば名友ソーワ(めいゆう)という会社に入ったことになりそうでしたが、グループ会社がややこしい構成になっていました。


ひらたくいえば日雇い労働の人夫出しです。金沢市近郊というのは石川県内も同じだと思いますが、最大規模であったと思います。関連先では金沢駅に寝泊まりするホームレスも参加していると聞いていました。


私は金沢市諸江の会長の自宅を兼ねた事務所に出社していましたが、そこで他の人夫を車に乗せ、金沢市玉鉾の永久開発の会社に行っていました。諸江の出社が朝の5時半ぐらいだったと思います。玉鉾と行っても大豆田大橋のたもとに近いあたりでした。


今インターネットで調べたところ、玉鉾の永久開発の場所はそのままで、Googleのストリートビューを見ると「完全工業」という社名になっているようです。「ビルガード」という看板も見えましたが、平成11年当時のグループ会社の一つと聞いていました。


鳴和の職業安定所には数回通った記憶がありますが、当時は仕事を探すことにずいぶんと焦っていました。それでも再審請求のことは誤魔化したくないという気持ちが強く、そのように係の人に相談したところ、どのような人でも採用してくれるはずと紹介されたのが永久開発でした。


永久開発には夕方に背広を着て面接に行ったことも記憶していますが、後で聞くと偽名を使って入る人も多いぐらいだという話しでした。焦りもありましたが先行きの生活の不安が強く、気持ちの余裕もなくなっていました。


玉鉾の永久開発では裏の方に集まる部屋があって、早朝から会長が采配をしていました。一言でいって異様な雰囲気でしたが、そういう他に見ないような世界でした。


外から解放された部屋にはボードに請け負い先や現場名が書いてあって、そこに派遣される人の札が掛けられていました。現場の欄に札がなければ、その日はあぶれで仕事も収入もないということでしたが、自分の札の存在を確かめに来るのが一日の始まりでした。


私自身、初めの頃の1,2回と、先輩の人夫と行った現場で請け負い先の指示に従わなかった人たちに、同行したペナルティのような感じで1回だけ外されたことがありましたが、仕事はほぼ毎日というだけではなく、日曜日もほとんどが仕事になっていました。


仕事ぶりを評価されてのことでしたが、仕事をもらえない人も少なからずいたようでした。私の場合は業者からの指名というかたちでの派遣も多かったようです。堀田建設のその一つという感じでしたが、一番多い仕事でもあったと思います。


堀田建設は野々市か松任市の会社だと聞いていましたが、本社については記憶にも残っていません。河北郡の高松に同名の会社が会って、そちらの方が規模が大きいとも聴いたことがありました。社長の姿は時々見かけていましたが、けっこう若い感じでした。


初めの堀田建設の現場は金沢市山科だったと思います。山科の川の災害復旧工事だったことは間違いないです。ただ、雪が降るような時期には行っていなかったような気もします。まあ、春先ぐらいから行くようになった現場だったと思います。


石川県金沢市山科1丁目6 - Google マップ http://bit.ly/OYgvLC ← 山科の現場というのはだいたいこのあたりだったと思います。


玉鉾の永久開発から山科の現場に行くには、被害者AKさんの家の近くを通っていました。大通り沿いではなかったですが、大通りからも家の裏の方が見えていました。その家のリフォームが始まったのも、ちょうど山科の現場に通い出した頃だったと記憶しています。


つい最近に似たようなことを経験していました。被告訴人KYNが設備工業の事務所として購入した隣の家のリフォームをしていたことです。このリフォームは、私が彼の仕事をやめてからNテックの仕事をするようになった一月ぐらいの間に、完成していたのではと思います。


前に書いていると思いますが、安原工業団地付近のS設備の新年会に参加するように言われ、テルメを出たのは翌朝の遅い時間で10時か11時頃だったようにも記憶しているのですが、帰りに被告訴人KYNの家にも少しだけ寄ったような記憶が残っています。


被告訴人KYNのところにいったのはその時以来だったと思います。平成11年の2月の前半だったと思いますが、あるいは1月の終わり頃かもしれません。西宅建株式会社のことを鉄塔の近くの詐欺師のような会社と、被告訴人KYNが言ったときのことです。


その時は被告訴人KYNの自宅ではなく、隣の家の事務所の方に顔を出していました。リフォームがほぼ完了したような感じだったと思いますが、少しの間にずいぶんと変わったものだとも感じていました。


その場には同じ宇出津のYSという同級生がいました。前に少し触れているような気もするのですが、被告訴人KYNの妻となった彼女を紹介したという間柄でもありました。


私自身、YSとは幼い頃より付き合いがあり家も近所でした。今も正月やお盆には帰省していると思いますが、私の方で会わないようにもしているので、あれ以来はっきり顔をあわせたこともありません。


YSも被告訴人OKNと同様、金沢高校に通っていましたが、中退したのも同じ頃だったかと思います。理由はまったく別で、原因らしい話しを耳にもしていましたが、本人に確認を取ったこともありませんでした。


YSは昭和57年頃は宇出津で仕事をしていたので、ちょくちょく顔を合わせていました。彼の働く店にもちょくちょく行っていたことを憶えています。


その後、私自身、宇出津にいることも少なくなり、車での移動も多くなったので、顔を合わすこともほとんどなくなっていたように思います。金沢に出たとは聴いていたと思いますが、彼に関する話題を耳にすることも余りなかったように思います。


YSの話しを再び聞くようになったのは被告訴人KYNが金沢に出てきた後でのことです。昭和62年頃ではなかったかと思いますが、一度YSのアパートに遊びに行ったことがありました。場所は入江だと聞いていましたが、ニュー三久神田店の裏の方でした。あるいは昭和63年だと思います。


YSとは被告訴人KYNの結婚式の時にも顔を合わせていました。1月の中頃でしたが、平成1年かと思います。既に書いているはずですが、小林健一らと四国の観音寺市あたりにイワシのダンベを運んだ数日後の結婚式でした。


その後YSとは顔を合わすこともなく、話を聞くことも少なかったと思いますが、独立して内装の仕事をしているようなことは聞いていました。


平成11年の2月と思われる日に、被告訴人KYNの事務所になっていた部屋で顔を合わせたときも、直接には挨拶程度だったと思いますが、その場の雰囲気もあわせてリフォームの仕事をしたのはYSではないかと思いましたし、遊びに来たという感じでもなく打ち合わせのような感じでした。


内装の仕事は言っても、それまでは単純なボード張りのような仕事をしているのかと思っていたのですが、もっと本格的に大工やデザイナーにも近いような仕事をしていたのかと思いました。その場で出会ったことが意外でしたが、予め被告訴人KYNから呼び出しを受けるような成り行きだったとも思います。


何か用事があって出向いたことに間違いはないですが、それがなんであったかは思い出せなくなっています。


その後、被告訴人KYNとは一度は直接会っています。一緒に酒を飲んで私は代行タクシーを呼んでそれに乗って北安江の家に帰ったような場面を憶えています。彼の家のすぐ近くから代行タクシーに乗りましたが、飲みに行ったのもその近くの居酒屋のような店だったかもしれません。


その居酒屋のような店のことは割と最近になって思い出すようになりました。被告訴人OKNも含めて飲みに行ったような場面も記憶しているですが、記憶がごく断片的で、時期もはっきりしません。


その近所の居酒屋のような店というのは住宅地に目立つような電気をつけた店でしたが、仕事で被告訴人KYNの自宅に通勤していた当時には、店の電気を見ていたような記憶もなく、すぐ近くでありながら、店に入ったこともなかったと思います。M君とも入ったようには考えにくく思っています。


ただ、これは逆に被告訴人KYNのところで仕事をする前のことで、平成9年の夏頃ではなかったかというような気もするのです。2回ぐらいはその店に入ったことがあり、一度はけっこうな人数で店に入ったように思うのですが、そんなことも十分に思い出せなくなっています。


その被告訴人KYNの自宅の近所の居酒屋のことですが、よくよく考えてみると、平成10年の11月頃、被告訴人OKNと久しぶりに顔を合わせたときに一緒に行った店であったような気もしてきました。一水に行った流れにもつながっていたような気もします。


その近所の居酒屋のことは、被告訴人OKNと一緒に若杉幸平弁護士の法律事務所に行ったときの場面に似て、そこだけが時期的な流れに当てはめにくいというか、浮いたような感覚にもなっています。


まあ、代行タクシーで帰ったときのことは、ようやくお金の面での心配も少なくなってきて落ち着いてきた頃でもありました。また、被告訴人KYNの態度もそれまでの攻撃性のようなものが影を潜め、様子見のような態度にも思えました。


彼としても思惑がことごとく外れ、いらだちもあったのではないかと思いますが、実際のところはかなり見えにくいと想っていました。


いらだちや焦りのような態度が、よりはっきりとストレートに伝わったのは若杉幸平弁護士でした。もともと若杉幸平弁護士の名前には記憶があったと思います。書面でのみ見た名前でしたが、それは平成7年の7月頃のことだったと思いますが、書面には日付も記載されていたかと思います。


先に資料として午前中に収集したインターネット上の情報を、新たな方法の第一歩としてご紹介しておきたいと思います。その方法についての説明は別の項目で後ほど書く予定でいます。後回しにしました。


<<>> [[#LINK-ID_1]] 資料写真/若杉幸平弁護士 - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム


上記参考資料にあるとおり、若杉幸平弁護士の法律事務所は現在、丸の内法律事務所という名称になっていました。以前は若杉幸平法律事務所ではなかったかとも思いますが、いつの間にか変わっていました。


金沢地方検察庁の建物のお隣のような場所にあるのでわかりやすいですが、金沢地方検察庁の住所が金沢市大手町なのに対して、どうも金沢地方裁判所と同じ丸の内という住所になっているようです。


Googleマップやストリートビューの画面をパソコンでスクリーンショットした画像ですが、ストリートビューの写真の撮影日が数年前と思われるもので、金沢地方裁判所の新庁舎が工事中になっています。


これまでにも気になったことなので調べたこともあるのですが、Googleのストリートビューの撮影日を確認する方法というのは、私の調べた限りでは見つかりませんでした。


金沢地方検察庁の建物は平成4年当時と変わっていないと思いますし、金沢地方裁判所が新庁舎になった以外は、周辺の状況というのはさほど変わっていないと思います。ただ、気になる点として木梨松嗣弁護士の事務所の場所が少し変わっているように思えることはあります。


歳月の経過とともにそういうこともありうるかと思いますので、参考資料の状態はなるべく正確に記録をしておきたいと考えています。単にURLを紹介しただけでは、内容が変わってしまうこともあり得るからです。


さきほどから繰り返しているように、若杉幸平弁護士の法律事務所に行ったときのことは、私の記憶から浮いたような一場面になっています。もしかすると平成9年の秋のことではなかったのかと、思えることもあるぐらいです。


過去に私が作成した裁判の書面においてはより近接した時期に具体的な記載があるだろうとは思いますが、今の私自身にすっきりしないもどかしさがあります。


直前のこととしてはっきり憶えていることは被告訴人OKNが若杉幸平弁護士のことを、兄の被告訴人OSNの仕事関係で親会社のような存在である清水建設の顧問弁護士で、その関係で知り合っていると話していたことです。


清水建設というのは私個人としても特別な記憶のある建設会社でした。小学校の高学年の頃ではなかったかと思いますが、誰かに日本一大きな建設会社だと聞いた憶えがあったからです。


はっきりとは憶えていないのですが、宇出津小学校の新校舎の建設現場に清水建設という看板が出ていたような気もします。新校舎は旧校舎とほぼ同じ場所に建設されていましたが、建設中の状況とかはほとんど記憶にも残っていません。


はっきりしていることは新校舎が完成したときに丁度6年生に進級したことでした。宇出津の町も漁業で潤っていた時期だと思いますが、デザイン的にも目新しい新校舎で、それは現在においても古さを感じさせない建物となっています。


おそらくはペンキの塗り替えなどもされているものと思いますが、卒業してからはほとんど後者にも入った憶えがありません。近くで眺める程度ですが、他の土地やテレビで見る学校の建物と比較しても立派な校舎ではないかと思います。


一階の玄関の横には大きな食堂があり、二階が体育館になっていました。以前の旧校舎が古すぎたということもあるかと思えるのですが、ギャップも大きかったです。特に旧校舎の便所や音楽室は今でも忘れられないような不気味な雰囲気がありました。


学校紹介 - 能登町立宇出津小学校 http://cms1.ishikawa-c.ed.jp/~ushite/NC2/htdocs/?page_id=29 ← こちらに校舎の写真もありました。立て替えはされていないと思うのですが奥の方の建物などは記憶がはっきりしなくなっています。


歩み - 能登町立宇出津小学校 http://cms1.ishikawa-c.ed.jp/~ushite/NC2/htdocs/?page_id=31 ← こちらに年表があります。昭和51年7月に新築落成式を挙行となっています。


落成式のことは記憶に内ですが、6年生の進級と同時に新校舎での生活になったように憶えています。


清水建設 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%BB%BA%E8%A8%AD ← 比較的新しいと思われるこちらの情報をみてもスーパーゼネコンの5社の一つに数えられているようです。


私自身、近年は行動範囲も大幅に限られているので、清水建設の看板が出た工事現場を見ることもありませんが、平成9年や平成11年の時点においては、日本を代表するような大きな建設会社であるという認識でいました。


被告訴人OSNが清水建設の仕事をしているような話しを聞いたのはずいぶんと前のことだったと思うので、驚くこともなかったです。


被告訴人OKNが金沢港に近い金沢市無量寺のアパートに住んでいる頃、昼間、被告訴人OSNのライトバンのような車が停められていたことがあり、後部のガラスの部分に大きく「○○組」と書いてありました。○の部分はもちろん彼ら兄弟の家の名前です。


本書において昨年中になるかもしれないですが、被告訴人OSNが東京で仕事をしていて岡山県内で交通事故を起こし、金沢市入江の病院に入院していたことは書いているかと思います。病院の名前は記憶にないですが、さほど大きくない個人病院だったと思います。


八幡のすしべん入江店の裏側になる通りにある病院でした。八幡のすしべん入江店は、当時金沢市近郊では深夜に食事の出来る数少ない店の一つでもあり、ヤクザ者や暴走族が集まるようなイメージも強い店でもあったと思います。


今、Googleマップで確認したところ、八幡のすしべん入江店の方は昔と同じ場所にあると思われるものの、病院らしいものは見当たりません。野田専光寺線に面した辺りの住所は入江と思われますが、病院のあった並びは東力と思われます。


保険金の誤魔化しもやりやすいような病院でうさんくさい患者がいるような病院だとも話しを聞いていました。ダンプと相撲を取ったという被告訴人KYNが入院していたのも同じ病院だったと思いますが、被告訴人OSNの入院との重なりやずれは記憶に残っていません。


どちらも特に寒い時期や暑い時期ではなかったように思います。回数は少なかったと思いますが見舞いに行ったこともあり、似たような年頃の若者数人で楽しそうに生活しているという印象がありました。


当時のこととして割とはっきり憶えている記憶は、昭和61年6月の初めの時点では被告訴人KYNは金沢市松村のずいぶんと古びたアパートに一人暮らしをしていました。大通りである金石街道からもけっこう離れた場所であったと思います。


石川県金沢市松村 - Google マップ http://bit.ly/OZpmg1 ← こちらで確認したところ松村というのは私が思っていたより範囲が広く、犀川の川沿いにも近い辺りがあるようです。


金沢市内の松村には昭和60年当時、金石街道沿いの交差点の角に加州銀行の支店があって、個人的にはその交差点のあたりが中心のようなイメージがありました。


その松村の交差点から金沢市内に向かい、8号線バイパスにぶつかる辺りの一帯は藤江という町名になっていました。反対の金石方面に向かうと、畝田という町名があってこの畝田もけっこう広いという印象でした。畝田の先を進むと説明が途中になっている寺中町があります。


被告訴人KYNが松村の古いアパートから何時頃、黒田2丁目のマンションに引っ越したかもはっきりとは憶えていませんが、松村のアパートに住んでいた時点では、金沢市幸町辺りにあるという小さな配管工事の会社に勤めていたと思います。


石川県金沢市幸町 - Google マップ http://bit.ly/OZs9Wz ← 金沢市の中心部に近いところです。その辺りに社長の家があると聞き、何度か車でその近くに同行して、車の中で待っていたような記憶も残っています。


やはり被告訴人OSNが入江の病院に入院していたのは昭和62年の春頃ではなかったかと思います。あるいは昭和63年の同じ頃ですが、一月ぐらいの入院で、怪我の程度も含め詳しくは知らなかったですが、長くても3ヶ月ぐらいの入院ではなかったかと思います。


東京で仕事をしていて出張中の岡山県内で事故を起こしたという話しでしたが、退院した後は東京には戻らず、そのまま金沢で生活を始めたような話であったと思います。


石川県金沢市増泉2丁目8−37 - Google マップ http://bit.ly/1h8TKze ← だいたいこの辺りの場所のアパートだったと思います。同じ増泉でも1丁目と異なり、普通の町並みに近いような雰囲気も感じられました。


私より一つ上で珠洲市出身の女性のアパートだと聞いていました。その女性とはその後結婚もしているはずです。私は昭和56年の夏にもその女性と会っているはずなのですが、まったく別人のような雰囲気になっていました。名前に特徴もあったので憶えていたのですが、同じ人に間違いはなさそうでした。


それはそもそも被告訴人OSNとの関係の始まりでもあったのですが、昭和56年の夏、被告訴人OSNは金沢市増泉一丁目のアパートに住み、私は金沢市問屋団地のガソリンスタンドで寮住まいをしていたのですが、ちょくちょく遊びに行くようになり、その後仕事もやめて転がり込んだのです。


これも説明が途中になっていますが、七塚のMKや東金沢方面のMSという当時17歳の少女らと知り合ったのもその増泉のアパートでした。少女と言っても当時私は16歳で、学年も一つ上だと聞いていました。


被告訴人OSNの妻となる珠洲の女性には地中海とか言う近くの喫茶店のようなレストランで食事をごちそうになったことも憶えています。浅野本町の私のアパートにも一度は遊びに来たことがあったと記憶していますが、個人的に話しをするようなことはほとんどなかったと記憶しています。


前々から気になっていたのは姫のNさんも同じく珠洲の私の一つ上の女性と交際しその後結婚したように聞いていたことです。その女性とも多少面識はあったのですが、名前などは憶えておらず、Nさんとの付き合いもなくなる少し前の頃だったと思います。


昭和58年の春頃でしたが、私は珠洲の三崎の方のFNさんのアパートに世話になっていた時期でした。増泉一丁目とは野田専光寺線の大通りを挟んで向かい側にもなる白菊町のアパートでした。古い建物でしたがアパートという体裁ではなく平屋の借家に近かったような記憶もあります。


そのアパートには被告訴人HTNが以前所属していたと聞く暴力団松元組のMUという人物が頻繁に出入りしていて私も世話になっていたのです。松元組の組事務所を含め、いくつかの暴力団事務所にも連れて行かれたことがありました。


当時40代ではなかったかと思いますが、幹部とも聞いていました。上位団体である北友会の幹部と聞いていたようにも思います。当時の石川県内の暴力団のほとんどは山口組系一会北友会という系列とも聞いていました。


七尾市に本拠を置く福島組と小松市に本拠を置く紺谷組が山口組の直系とか直参になったという話しを聞くようになったのは、その数年後のことではなかったかと思います。一和会との抗争よりは前であったとも思いますが、はっきりとは憶えていません。


山一抗争 - Wikipedia http://bit.ly/1h8XLDz ← こちらの情報を見ると、昭和59年から平成元年まで続いた抗争のようです。当時は情報源も限られていたので詳しいことは知らなかったですが、そんなに長い期間に渡っていたとは意外でした。


当時は金沢市の繁華街片町のすぐ近くの中央通りに北友会の事務所があったので、今考えてもずいぶんと時代が変わったものだと思います。


FNさんは当時、瓦屋の仕事をしていてまじめに働いていましたが、私はしばらくの間、仕事もせずに彼のアパートでぶらぶらしていたのです、ちょうど小林運送の長距離助手の仕事をやめた後ではなかったかと思います。


白菊町のFNさんのところにいたのは長くても一月ぐらいだったと思いますが、毎日そこで寝泊まりしていたわけでもなかったと思います。友人の出入りも色々ありましたが、宇出津のDKさんもよく出入りをしていたので、被告訴人OSNが顔を出すことはなかったはずです。


DKさんについても既に触れている箇所があるはずですが、被告訴人OSNが大きなハサミを持って馬乗りになった相手で、昭和57年の春頃に仲違いをして、以来関係が修復することもなかったはずですが、被告訴人HTNもDKさんの家にはよく出入りをしていて、その後同じ漁師仲間にもなったはずです。


MUさんとの付き合いは白菊町のFNさんのところにいた一時期だけでしたが、MUさんが姫のNKさんにひどく腹を立てて、探し出して見つけたら痛い目に遭わせてやる、というようなことをそのアパートで口にしていたことがありました。


何があったのか詳しい話しは聞きませんでしたが、よほど怒らせるようなことをやった感じで、そうなるとNKさんもFUさんのところには寄りつかなくなっていました。珠洲の彼女らしい女性の姿を見たのはその少し前だったと思います。


私は姫のNKさんと個人的に親しく連絡を取り合う関係ではなかったですが、DKさんや同級生のKMを介して一緒に遊ぶ機会は多くありました。被告訴人OKNを含めることもありましたが、それは奥能登の夏祭りから秋祭りの時期でした。


奥能登の祭りは7月初めの宇出津のあばれ祭りがかわきりとも言われていますが、細かい在所の祭りを含めるとかなりの数になります。当時私は酒やビールを飲むのも嫌いで、先輩に強要されることが多くてなおさら苦痛だったのですが、付き合いの機会もけっこうありました。


被告訴人OKNなどはそれをとても楽しんでいたのですが、彼らは自分らのことを神主とも呼び、在所の祭りに行っては、全く見ず知らずの家にも「あんさまおるかね?」と声を掛けて上がり込み、飲み食いをすると言うことを繰り返していました。


昭和57年や58年だったと思います。珠洲市の蛸島や、柳田村の祭りにも行った憶えがありますが、これはどちらも9月の下旬の祭りだったと思うので昭和58年ということになるかと思います。昭和57年は9月の初めに名古屋に行き、年末まで一度も戻らなかったからです。


宇出津の山側で柳田村の間には神野という地区があってほとんどが農家の集落になっていました。宇加塚とか鶴町、曽又、藤ノ瀬という細かい集落にも分かれていたのですが、祭りもその集落単位であったようです。曽又の祭りには私も行った憶えがあって、昭和57年だったかもしれません。


あるいは昭和58年ですが、たしか曽又に家があると聞いていたので同じ曽又の祭りだったと思われます。私はその場にもおらず、金沢で生活をしていたような気もするのですが、被告訴人OKNが当時はやりの言葉でタイマンをするといった相手にボコボコにされ、顎の骨を砕かれたことがありました。


今ではそういう話しも全く聞かなくなりましたが、当時は柳田村や神野地区の人のことを「ざいご」と呼び、ものすごく馬鹿にするような風潮が残っていました。自分のシル範囲でその傾向がもっとも顕著だったのが被告訴人OSNでした。


「ざいご」というのは小さい頃からの地元の方言だと思っていたのですが、インターネットなどで情報を見るようになってどうやら「在郷」の発言の訛りではないかと考えるようになりました。まあ、部落差別に近いようなものがあったとは思います。


自分の同級生が二人いたとは聞きましたが、その一人と被告訴人OKNが喧嘩になりタイマンと言うことで、バックの暴力団抜きの対決をしたそうですが、顎の骨を砕かれるほどの大怪我を負ったと聞きました。


これもごく断片的に記憶している場面ですが、私は河北郡内灘町にある医科歯科病院に被告訴人OKNの見舞いに行ったことも憶えています。彼は話しが出来る状態ではなかったですが、悲しそうな顔をしていました。


やはり私が普通免許を取得した昭和58年のことであったと思いますが、七尾市の暴力団福島組の「葵会」という暴走族が幅をきかし、ほとんどの能登の地域の暴走族のような若者たちを支配下に置いたような話しがありました。


宇出津も例外ではなかったのですがそれを拒否しているような話しでした。被告訴人OSNも七尾市に父親の用事で行ったときに、さらわれたような話しをしていました。金沢でも同じでしたが暴力団のケツ持ちというかバックがなければ、暴走族をやっているのは厳しいような状況になっていました。


私も暴走族仕様のシャコタンという当時はやりの車に乗っていたので、いろいろと緊迫した思いで過ごすこともありましたが、暴力団との付き合いは持たないようにしていました。その傾向は私より周囲の方が強く意識していて同調するような雰囲気もありました。


被告訴人OSNはもともとそういう暴力団とのつながりにも抵抗がなかったのだと思いますが、周囲の拒絶が強すぎて周りをまとめることが出来ず、離脱を進め孤立化していったような側面もあったかと思います。


神野の同級生二人も七尾の暴走族の息が掛かっているような話しを聞きましたが、そういう関わりをなしでの勝負をしたところ、こてんぱんにやられたような話しを聞いていました。


他所の祭りに顔を出し浮かれたことをやっていてのことなので自業自得だろうという気持ちもありましたが、被告訴人OSNは幼い頃から蔑視していたザイゴの人間に弟が痛めつけられたことにも、相当に根深い不満を持っているような様子で具体的な口吻を漏らすこともありました。


改めて考えると、被告訴人OKNがバイクに乗って大阪に向かったのは顎の怪我の退院の後であったような気もします。バイクはVTとかいうV型エンジンの250ccの黒いバイクであったとも思います。秋であったとは思いますが、寒くなり始めた季節であったような印象も残っています。


被告訴人OKNが大阪に行ったのは昭和60年の秋だったと思います。後に妻ともなった彼女がその年の春に水産高校を卒業し、大阪に働きに行っていました。大阪でも兵庫県に近いところだとも聞いていました。


彼女は私より二つ年下でしたが、私の同級生が高校を卒業したのも2年前で昭和58年のことでした。


前にも書いていると思いますが、被告訴人OKNは初め平ボディのトラックに乗る仕事をしていたと言い、そのあとは宝塚市のステーキ店で住み込みで働いていたとも聞きましたが、神戸市内で生活するようになり、彼女とも一緒に暮らしていると聞いていました。


神戸の住所は聞いていたと思いますが、北区という話しでもあったか山の手の方だとも聞いていました。彼女の仕事は聞いていなかったようにも思いますが、高校卒業と同時に入社した大阪の会社に通勤していたのかどうかもわかりません。


大阪というか神戸方面に行くときはばらばらという感じで被告訴人OKNが後を追いかけたという感じでもありましたが、戻ってきたのは一緒という感じではなかったかと記憶しています。


前にも書いていると思いますが、その戻ってきた時期というのもはっきりとは思い出せません。昭和63年のお盆休みにはシトロエンというフランスの車に乗って帰ってきていたように思います。宇出津新港の堤防で一緒に映した写真もありました。あの写真はその時のものだったと思います。


夜には宇出津小学校で盆踊りがありそこでも誰かのカメラで写真を撮り、そのうちの一枚も以前は持っていました。そのような写真のほとんどは前妻が持ったままいなくなったので、私の手元に残されているものはわずかですが、私自身、カメラを所有していなかったので、家族の写真も多くはなかったです。


宇出津の盆踊りは私が小さい頃から宇出津小学校の運動場で行われていましたが、なにか衝突があって行われなくなったと聞きました。その盆踊りをみたのもその時が最後であったような気もしています。


宇出津新港の堤防も余り行った憶えがなく、宇出津新港の埋め立て地自体がいつの間にか出来ていたという感覚でいました。宇出津新港の埋め立て工事がいつ頃から始まったのかもよく憶えていませんが、出来上がっていく過程というのも不思議と見た記憶がありません。


普通に考えて徐々に埋め立てが進んでいったのだと思いますが、自分が気がついた頃には埋め立て地自体が出来上がっていたように思います。幼い頃から遊んでいた近所の辺田の浜が埋め立てられていったので、それなりに関心も持っていたとは思うのですが、振り返れば何時の間にという感じです。


夜の盆踊りで写した写真には私の長男と、姫のDMが一緒に写ったものがありました。彼女は被告訴人OKNの彼女の同級生でもありました。金沢市八日市のアパートに、私の一つ年上でHSの従兄弟でもあるHSさんと同棲して一緒に暮らしていました。


被告訴人OKNと彼女が神戸から戻ったときも宇出津に帰る前に、彼らの八日市のアパートで落ち合っていたことを憶えています。


これも浮いたような断片的な記憶なのですが、日曜日ではなかったかと思われるある日の午後、金沢市北安江にある結婚式場の2階で、被告訴人OSNやHSと顔を合わせていました。私は長男を連れていましたが、彼らはなぜか浮かない顔にも見えていました。


HSとはかなり久しぶりに顔を合わせたようにも記憶しているのですが何か不満そうで口数も少なかったように憶えています。それは従兄弟のHSさんと姫のDMとの結婚式だったと思いますが、私は招待されたわけではなく、会場の外で彼らと顔を合わせ、新郎新婦の姿も少しだけ見たように記憶しています。


その結婚式場というのは平安閣ではなかったかと思います。その後マリアージュとかなんか違ったような名前でテレビのCMにも出ていたような気がしますが、当時は平安閣と呼ばれ、看板にもそう書かれていたように思います。


当時はまだ駅西という言葉はそれほど馴染みもなかったような気がしますが、その金沢駅の裏手の大通り沿いにその結婚式場はありました。被告訴人OKNらが結婚したのも同じ結婚式場で、半年ぐらい前だったようにも思っているのですが、こちらも時期がはっきり思い出せないでいます。


結婚式の後、片町で二次会のような集まりがあり、その後に片町のスクランブル交差点の近くのおでん屋に集まったこともはっきり憶えていますが、その時は夜が遅い時間だったと言うこともありますが、かなり寒かったように憶えています。


「赤玉」という名前のおでん屋ではなかったかと思います。店自体が目立つ場所にありましたが、中に入ったのも最初で最後だったように思います。そのおでん屋の座敷で、私は被告訴人OSNの連れの人物にビール瓶で頭を殴られそうになりました。


やってみろという感じで開き直ったのですが、うれしそうに期待した被告訴人OSNの顔が視界の隅に入りました。相手も面子があるので当然にやるだろうと思いながら静まった状況で、意外なことに止めに入ったのが被告訴人HTNでした。


その人物は「コウジ」と呼ばれていたと思います。初対面ではありませんでした。被告訴人OSNが連れて二人で私の東力のアパートに遊びに来たこともあったからです。控えめで大人しくも見えましたが、ヤクザ者のような雰囲気の人物でもありました。


被告訴人OSNが東京に住んでいる頃に知り合ったと紹介も受けていたと記憶しているのですが、被告訴人OSNと被告訴人OKNの兄弟の父親が命の恩人であるというような話しも聞いていました。


余り具体的な話しは聞かなかったような気もするのですが、自分から細かい話しを聞きたいという気持ちもなく、あえて聞かないでおいた方が良いだろうという気持ちもあり、被告訴人OSNとも距離を置いたような関係を心掛けるようにしていました。


自分のアパートに遊びに来たときにも悪い印象というのは全くなかったのですが、当日のおでん屋では立ち上がってビール瓶を振りかざされるような事態になっていました。その前にO兄弟ともなにか言い合いをしていたような気もしますので、そちらの方に原因があったとも思います。


その場には東京のOという人物も同席していました。おでん屋の支払いを仕切ったのもその人だったように思いますが、東京で暴力団員をしていると聞くのと一緒に、O兄弟の父親の兄弟分とも聞いていました。


被告訴人OSNに説明を受けないと気がつくこともなかったはずですが、そのOという人物とも私は初対面ではなかったようです。以前に会ったときの印象とは違いすぎていたので、同じ人だという説明を受けても実感が伴わない話しでもありました。


「コウジ」という人物に関しては、東京で知り合ったものの元は九州の福岡の人間とも聞いたように思いますが、当時は仕事の関係で耳にも馴染んでいた博多弁や九州弁のようなアクセントは感じられなかったことも印象に残っています。


その後、姿も見かけないようになり話しも聞かなくなったように思いますが、一時期はいつも一緒に被告訴人OSNと行動を共にしているような感じでした。


Oという人物は姫の出身と被告訴人OKNから聞いていましたが、宇出津の魚市場のあたりによくある同じ漢字二文字の名前とは、読み方が異なっていました。違うのは一文字目でしたが、そのような読み方はその後も聞いたことがなかったので、それだけでも印象的でした。


Oという人物と初めに会ったのは昭和57年の4月頃ではなかったかと思います。東京の観光ではけっこう薄着をしていた記憶もあるので、あるいはもっと夏に近い時期で5月や6月であった可能性もあるのかもしれません。と思いましたが、やはり4月頃であったと思います。


まだ被告訴人OSNとDKさんとの間に衝突が起こる前の時期でもあったからです。そういえば能登有料道路の穴水の横田料金所辺りでは、まだ雪が残っていたような記憶もぼんやりとですが、なんとなく残ってもいるのです。


被告訴人OSNが大きなハサミを振りかざしてDKさんに馬乗りになった頃、私は自動二輪の免許を取得した後でホークⅡという400ccのバイクにも乗っていた頃だったと思います。


6月の初めではなかったかと思うのですが、ちょうど金沢の百万石祭りというのが始まった頃に、当時は香林坊の近くの中央公園のあたりにあった石川県警本部で、免許取り消しの処分を受けたことを憶えています。弁明の機会があったのですが、反省の弁を述べると色めき立って驚かれたことも印象的でした。


百万石の祭り自体は見ておらず、その後もテレビ以外で見た記憶は一度もないのですが、百万石祭りが始まるようなアナウンスを耳にしていたようなことは断片的に憶えているのです。


O兄弟の家は当時、プロパンガスの配達と器具の販売、それと自動車の整備工場をやっていました。その慰安会のような旅行に同行するかたちで東京に遊びに行ったのです。ワゴン車に乗っていったと記憶しています。


7人はいたと思います。事務員のようなおばさんが同行していたかどうかは思い出せなくなっています。私自身東京に行ったのは能都中学校の修学旅行以来のことで、車で行ったのは初めてでした。東名高速から首都高速に入っていた状況を記憶していますが、夜の遅い時間になっていたと記憶しています。


夜中に東京に着いてからのことは記憶にないのですが、昼に浅草あたりのアーケードの観光地のようなところに行き、名古屋にいるときよく食べていた吉野家の牛丼を久しぶりに食べたことと、同じく昼に後楽園遊園地に行ったことは記憶に残っています。


自分の記憶では夜ではなく朝の午前中だったようにも思うのですが、同じく浅草あたりで、上の方が斜めになっているマンションの上の方の買いに行き、そこで人ずつシャワーに入れてもらったことを憶えています。


上の方が斜めになっているマンションというのは、長距離の仕事で東京に行くようになってからも当たり前のように見かけていたのですが、石川県の金沢市でもほとんど見かけたことのない建築様式だったので、ずいぶんと珍しく見えていたのです。


長距離トラックの仕事では全国の主要都市もほとんどを回りましたが、あのような建築様式のマンションというのは余り見かけた記憶もないので、東京でも台東区の浅草あたりに特に多かったような気もします。


風呂というよりシャワー室のような感じだったと思いますが、それも全く初めて見るようなものでずいぶんと珍しく見えていました。その部屋にはO兄弟の父親と同年代と思われる夫婦がいましたが、とても優しくて対応が丁寧だったのもすこぶる印象的でした。


そのマンションで雑魚寝をしたという記憶もないので、いったいどこで一泊したのだろうとも思うのですが、あるいは車中泊をしていたのかもしれません。不思議と吉野家の牛丼以外は、食事のことも記憶には残っていませんが、何か出前のようなもてなしを受けたような気もしなくはありません。


京都の親戚のところに遊びに行っていたのも小学校の低学年の頃までのことで、他は修学旅行ぐらいしか宇出津から出たこともなかったので、何かと珍しかったのだと思いますが、あの親切な夫婦のもてなしぶりが、際立って印象的だったとも思います。


その親切やもてなしは、都会での生活のなみならぬ苦労や厳しさにも裏打ちされているようにも感じましたし、自分が田舎で生きた来た体験では理解の難しい世界なのかもしれないと考えることもありました。


O兄弟の父親に対して、ひとかたならぬ気の遣いようをしているとも感じられました。当時のO兄弟の父親には、そのようなある種の威厳のようなものも備わっていたと思います。それだけに平成3年の春頃の被告訴人HTNの態度には驚かされました。


O兄弟の父親は、被告訴人OSNと被告訴人OKNの二人の兄弟に対しても、優しく語りかけるようなところがありました。田舎の宇出津では他に見かけないようなタイプの子どもに対する接し方にも見えていました。


家にはいる時期といない時期があって、金沢や県外の方に出ていることも多かったと聞いたようにも憶えています。被告訴人OSNも丁度大地震があった頃の新潟市内で生まれたという話しを聞きました。


母親の姿というのは見たことがなく、離婚した後長女の姉と北九州の方だったかに住んでいると聞いていて、被告訴人OKNの部屋のアルバムにはその姉の写真もありましたが、母親の写真のことは私の記憶に残っていません。


私も3歳の頃に父親と死別していて父親の顔もほとんど記憶にないのですが、片親というのは同級生でも他にほとんど聞いた記憶もないという時代でした。


当時はまだ祖父が健在でしたがかなりの高齢でもあったと思います。父親が悪くなったのも昔気質の祖父が厳しすぎたからだと、被告訴人OKNは不満を漏らすこともありました。傍目には優しい祖父にも見ていましたが、気性の激しい一面は年をとっても残っているような感じではありました。


父親は当時の宇出津の人としてはかなり珍しく、話し言葉も標準語に近かったように思います。それだけ家にいない時期も長かったのかもしれませんが、中学生の頃にも父親に関してはよからぬような噂を小耳に挟むことはありました。


泥棒をして捕まったとか、そういう話しだったと思いますが、周囲はO兄弟に同情的に見る向きがあったという印象が残っています。兄の方は小学生の頃から手癖の悪いこともやっているような話しで、それなりに迷惑も掛けているのかと想像することはありましたが、批判めいた話しも聞かなかったと。


彼らO兄弟の家は宇出津の町の中心部でもありましたが、特に大きな商売をやっている家が並んでいるような辺りでもありました。その後は商売を辞めたりする店もありましたが、ソ連との間の二百海里問題が起こるまでは、景気も商売も順調ではなかったかと思われます。


被告訴人OKNは中学生の頃からしっかりと目的意識を持っているような様子で、迷わず金沢の高校に行って一人暮らしをすることを来ていていたようです。他にも金沢の高校に行った同級生はいましたが、地元の高校の受験に落ちたり、部活の推薦での進学でした。


昭和55年になるかと思いますが高校一年の夏休みに友達3人で、金沢の被告訴人OKNのアパートに遊びに行ったこともありました。夜に片町の近くの中央通りの屋台のような店に案内され、豚足のような食べ物を教えてもらったのも印象的でした。


金沢の大和町というところのアパートでした。徒歩でも金沢駅に近い場所でした。その部屋か同じアパートに自殺があったという話を聞いたといい、それをずいぶんと気に掛けている様子でもありました。


その自殺の話しを近所の店で聞いたという話しが原因だったかはわかりませんが、その後、玉鉾のアパートに引っ越したと聞いていました。その玉鉾のアパートには行ったこともなく場所も知らなかったのですが、「たまぼこ」という名前が珍しく感じられ、印象的でした。


後になって聞いた話だったようにも思いますが、大和町のアパートにいる頃、父親が訪ねてきてしばらく一緒に生活をしていたところ、警察がアパートに踏み込んできて父親が逮捕されたという話しを聞きました。


父親が何かいろいろと品物をくれたのでおかしいとは思っていたとも話していましたが、数年後に聞いた話であったようにも思います。本人が話す以上に、ショックも大きかったのかもしれないと考えることもありましたが、立ち入った話しを聞くこともなかったです。


彼の父親に関しては遠慮もあったのか、あまり具体的な話しを被告訴人OKN以外に聞くこともなかったのですが、泥棒のようなことをやって警察に捕まり、刑務所を出入りしているとも聞き、そのうち窃盗団のようなものにも入っていたような話しを、曖昧でしたが小耳に挟むこともあったと思います。


競馬などギャンブルにものめり込み、泥棒をしても金をつぎ込むような話しも聞いていました。あるいは賭場のような場所に出入りしているような話しであったかもしれません。とにかく人が変わったようにギャンブルにのめり込む一面があったようです。


大きな家も部分的に人手に渡り、別の店が商売をするようにもなっていました。祖父が亡くなったあとではなかったかと思いますが、家の方も別の場所に引っ越していました。昭和61年頃かと思います。


末の妹が茨城の万博のようなイベントで仕事をしているような話しをしていたことがありましたが、ちょっと前に見たテレビ番組では昭和60年と出ていたと思います。その時点ではまだ、前の家で茨城の話しを聞いていたという記憶が残っています。


その妹と最後にあったのも平安閣での結婚式の時ではなかったかと思います。すっかり落ち着いた感じにもなっていましたが、被告訴人OKNらがいなくなった後も、神戸で生活していると聞いていました。


妹は被告訴人OKNの妻となった彼女とも同級生で仲の良い関係でしたが、思えばその後も、妹の話を聞くことはなかったと思います。唯一聞いたのが被告訴人KYNの話しで、父親の殺人事件の時に泣き続けて大変だったという話しでした。


実の娘なので当然かと思いましたが、思い出すのもたまらないぐらい痛手を負ったという被告訴人OSNの妻の話には違和感を覚えていました。被告訴人OKNから聞かされていた話です。


そもそも被告訴人OKNはその妻のことをもの凄く毛嫌いした時期があったのです。不満をぶつけるように反していましたが、原因としてうなずけるような話しとは思えず、反りが合わないという性格的な問題が大きいのではと感じられていました。


それも先ほど書いたお盆休みに神戸から帰省したときのことでした。久しぶりに会ったこともあり、久しぶりに帰ってきたという懐かしさもあるように感じられて、終始上機嫌に思われていましたが、兄の妻のことに関しては痛烈な批判のような話しを並べ立てていました。


憤懣やるかたないとも見えましたが、どうしてそこまで他人にぶつけるような話しなのかと、少々疑問に思っていました。まあ、テレビのドラマにも出てくるような親族間の軋轢かとも思いましたが、よほど相性が悪いのかという感じでした。


平成9年の2月か3月頃と思いますが、宇出津から被告訴人OKNの車に乗せてもらって金沢に行き、そのまま初めに被告訴人OSNの家に行ったことがありました。割と大きくて新しい家なので、けっこう驚いたことも憶えています。場所は米泉あたりの住宅地でした。


妻と思われる女性の姿もありましたが、落ち着いていて気分も良さそうな感じでした。その時も昔のイメージとはまるっきり違うので同一の人とは思えないと考えたのですが、別れたという話しも聞いてはいなかったので、同じ人には間違いがないのだろうと考える他はなかったのです。


増泉2丁目のアパートに住んでいる頃は、水商売の仕事をしているとも聞いていたように思うので、家庭に入って変わったというところもあったのかと思いますが、一番のギャップは昭和56年の夏に初めてあった頃の姿でした。浅野本町ので会った頃にはまだ落ち着いた感じにはなっていたと思いますが。


言い方を変えるとずいぶんと穏やかで、しあわせそうな姿にも見えました。そういう印象が強く残っていたので、間に挟んだような被告訴人OKNの話しにはかなりの違和感を覚えていたのです。


ついでに書きますと、福井刑務所の出所直後からの被告訴人OKNの行動には親切心以上のものを感じていました。頻繁に宇出津にも来ていて、その帰りに金沢に連れて行ってもらうことも何度かあったのです。


まあ、約5年ぶりの社会復帰だったので好意的に受け止めた方がよいという思いもありましたが、それでも度が超えているように思えることがあり、予め予定した段取り通りに事を運んでいるようにも感じられました。


まず、私の父親が残した辺田の浜の家を性分するという話しがすぐに出ましたが、あの物件を見て欲しがる人から問い合わせがあったような話しを切り出されたときには、どうかと思いました。取り分けよい立地条件があるともとうてい考えられなかったからです。


その家の処分に関しては何度か、昔、父親の部下だったという人と電話で話をすることもありました。父親が亡くなったというのも昭和42年か43年のたしか4月と聞いていましたが、そのあとの商売を引き継いでいたのも、その人でした。


私が小さい頃には鵜川の近くの七見の町営住宅のような場所に住んでいて遊びに行ったようなこともうっすらと記憶に残っていたのですが、もともと口数の少ないような人だったので、その後は毎日顔を合わせながらも余り話しをした記憶もありませんでした。


父親がやっていたのはタイヤ屋でヨコハマタイヤの看板が出ていました。高校を卒業すればヨコハマタイヤに修飾することも決まっていることのように母親から話しを聞いたこともありました。


父親が死んだ後もヨコハマタイヤの商売は続けられ、私は店の奥の住居で生活するような状態でもあったのですが、母方の親戚の都合で昭和50年の4月に宇出津に引っ越したのです。


長い間、昭和40年代の終わり頃に引っ越してきたと思い込んでいたのですが、比較的最近になって辺田の浜の春祭りの復活が昭和50年だったという情報を見つけ、それで昭和50年だったとわかりました。


また、宇出津に引っ越したのは小学校4年に進学した4月とも思ってきたのですが、先ほど宇出津小学校の新校舎の落成式が昭和51年だったという情報を知り、それから計算すると4年生ではなく、5年生に進学したときだという計算にしかならないということに気がつきました。


昭和58年の夏に普通免許を取って車に乗り始めた頃には、同じ場所のヨコハマタイヤに行ってタイヤ交換をしてもらったような憶えもあります。その後、ヨコハマタイヤの場所は宇出津新港の方に移ったと思いますが、父親の死後長い間、同じ場所で商売を続けていました。


部下と言うよりは弟分のような関係でもあったと聞いたことがありました。家の処分に関してはなにか色々とあって金沢に電話を掛けて長い時間話しをしていたような記憶が残っています。金沢のヨコハマタイヤで社長になっているような話しも聞いていました。


家の処分のことで必要のある話しをしていたことは憶えていて、電話の回数も一度や2度ではなかったと思うのですが、その内容については現在思い出すことも出来ません。


結局のところ、被告訴人OKNが仲介に入って世話を焼いてくれたかたちで売買が決まったのですが、それも見ず知らずの相手ではありませんでした。4月の初めの時点では契約が決まると同時に手付け金をもらって、すぐに金沢にパソコンを買いに行きました。


裁判のため絶対に必要な投資だと考えていたので全く迷いはありませんでした。


売買の相手は同級生の弟でした。その同級生とは小学生の頃に付き合いが多く、よく彼の家に遊びに行っていました。その弟のこともよく憶えていましたが、当時は私が小学校5年生ぐらいで彼はまだ小学校に上がる前の幼稚園児ぐらいだったように憶えていました。


実際にどれぐらい年が離れていたのかよく憶えていませんが、その幼稚園児ぐらいの頃の印象だけが強く残っていて、その後の成長の記憶もないまま再会したのだと思いますが、昔の面影のようなものは残っていて、同席していた母親の方が昔の面影を残していました。


その同級生の家というのは学者タイプの家で本が山積みなっているような古い家でしたが、同級生も成績が良く学業に専念するタイプで、その後付き合いもなくなっていったのです。私の知る限り子ども時代は被告訴人OKNとの付き合いも全くなかったと思います。


近くに家を買ってその場所で新たな商売を始めることになって、すぐ近くで一応は国道沿いでもある私の父親の残した家の土地が駐車場にするのに必要だったというのも、十分に納得できる話しではありましたが、出所直後にすごいタイミングで売買が決まったものだとも思ってはいました。


つい2,3日前に他の捜し物をしていてたまたま見つけたのですが、平成9年の4月に買ったノートパソコンの領収書のようなものが見つかりました。やはり4月の初めでしたが、思っていたよりは数日、4月の初めの日付になっていました。あるいは10日に近い頃だったかもと思っていたからです。


探していたのは西宅建株式会社の上荒屋の建て売り住宅の広告を撮影した写真ファイルを記録したCDかDVDでした。けっきょく未だに見つけることが出来ずにいますが、不思議とそのファイルが他にバックアップしたデータの中からも見つからずにいます。


その写真というのは羽咋市に住んでいた頃、昼に公園の中でベンチなどの上に置いて撮影したものでした。当時はデジカメの性能も悪く、室内ではきれいに撮れないことがあったので、公園で撮影したのです。


その公園というのは買い物に行くとき裏道として利用していた町外れにある目立たない公園で、ほとんど足を踏み入れたこともなかったのですが、じっくりなかに立ち入ると縄文遺跡のような展示まであって、少々驚いたことも憶えています。


周りに建物というのもほとんどなく、知らずに通過してしまうような公園でもありましたが、ひとつの発見でもあったので、当日のことは印象的に憶えています。


今となって残念なのはその西宅建の広告についてもさほど価値も考えずに、ついでの一応という感じで撮影していたことでした。現物の広告も被告訴人OKNにもらった黒い鞄と一緒にあったはずなのですが、いつのまにか行方しれずになって見つからなくなっています。


その黒い鞄というのも、Nテックの仕事を始めた頃に被告訴人OKNがくれたものでした。他にスーツやカッターシャツのようなものもくれたと思います。N・K興産株式会社の西永ひろみの名刺は、金沢刑務所を出所直後の頃に他のものと一緒に御庁に郵送したものと記憶しています。


ひろみ、の漢字ついては忘れてしまったのですが、宏美ではなかったと思いますし、広美の可能性があるいは一番高いかもしれません。被告訴人OKNの手先となって親子共々、私に対して工作的な活動を仕掛けてきた可能性のある人物です。


<2014-03-27 木 03:51> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]



<2014-03-27 木 09:14> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]


項目の主題である若杉幸平弁護士の関与ですが、清水建設の弁護士という辺りから、おおきく別の説明にずれていったかと思います。宇出津小学校の盆踊りのときの話しに戻るのですが、そのとき撮影した写真には小木の二つ上の先輩YMさんの姿があったと思います。


私自身、カメラというのは所有した記憶がなかったです。小学校の5年生か6千世の頃に白黒のカメラを買ってもらい、珍しくてしばらくは使っていたのですが、ほとんど使わなくなって、そううちどこにしまったのかも忘れてしまったように思います。


当時はデジカメが世に出る遙かに前だったので、撮影したフィルムはカメラ屋で現像してもらう必要もありました。フィルムを借りて現像に行ったという記憶もないので、出来たものを好意でもらっていたのだと思いますが、誰からもらったのかも記憶には残っていません。


昼に写した写真には被告訴人OKNと彼女、私と私の長男の姿が数枚の写真になっていたと思います。夜の盆踊りの会場で撮影した写真には既に書いたように姫のDM、そして小木のYMさんの姿が写っていて、被告訴人OKNらの写真もあったとは思います。


夜の盆踊りの会場で小木のYMさんに会ったことは、私自身の記憶にはっきりとは残っていないのですが、一人で写っているYMさんの写真が家にあったので、その場にいたことも間違いはないと思っています。


私の記憶にはっきりと残っているのは昼のことでした。当日の可能性が高いと思いますが、場所は崎山の店の前に停めた車の中でのことでした。その車の中でしばらくの間、小木のYMさんと話しをしていたのです。


崎山というのは私が小学生の頃に造成された新興の住宅地でしたが、崎山台地とも呼ばれ海から見ると宇出津の港の左側にある台地で、昔から台地の崖の上に灯台も設置されています。


住所は能登町崎山となっているはずで、能登町宇出津とは別になっていると思いますが、宇出津の町内に含まれ3丁目まではあったと思いますが、各町内が宇出津のあばれ祭りにも参加しています。


ゴミ収集日お知らせサービス53cal(ゴミカレ) ゴミの日メールをお届けします:


能登町[能都]宇出津B地区(川原町、新村本町、新村浜町、昭和町、音羽町、小棚木、大棚木、たなぎ団地、城山、城野町、下岩屋町、上岩屋町、漆原、梅ノ木、平体、大平、源平、崎山1丁目、崎山2丁目、崎山3丁目、崎山4丁目)のクリーンカレンダー http://bit.ly/1hYYfds


取得したURLのタイトルが長すぎたのでツイートする関係で2行に分けましたが、この情報によると崎山は4丁目まであるようです。私自身、崎山の何丁目がどこへんかということも知らずにおりますし、用事もないので崎山に行くことは気まぐれだけで年に数回程度です。


崎山は住所も能登町崎山になっているはずですが、上記のような宇出津の町内というのは住所の記載にないもので、たいていは宇出津新や宇出津山分に番地がついているものと思います。厳密に言えば平体や源平は、祭りも宇出津とは別になっていました。


源平を「げんだろう」と読める人は地元でも今は少ないかもしれません。「おおでら」を大平と漢字で書くと言うことは私自身、たまたま知ってからまだ一年も経っていないぐらいです。


石川県鳳珠郡能登町崎山 - Google マップ http://bit.ly/1rCIhMI ← こちらをみればわかりやすい範囲かと思いますが、谷のようになったところなど高低差もあるので、見ただけではわかりにくい面があり、全体に範囲が狭くも感じました。


Googleマップですが、驚いたことに能都中学校の場所が以前のままの四明ケ丘の場所になっていました。昨年の夏頃だったと思いますがたまたまバイクで行ったとき、跡形もなく校舎がなくなっていたのは驚きました。


以前、宇出津高校があった場所に能都中学校の新校舎が完成し移転したと言うことは知っていましたが、取り壊しになると言う話しは聞いたこともなく、ずいぶんと早い間に完全な取り壊しになったようです。グランドのあった場所にはソーラーパネルの設置の工事をやっていました。


現状のGoogleマップを見ていると、宇出津新港に「クスリのアオキ宇出津店」があることは確認できましたが、ホームセンター橋本の建物には名前がついておらず、ホームセンタームサシ能登店になっていることは確認できない状況のようです。


クスリのアオキが出来てから3年ぐらい経つのかなと思いますが、はっきりとは憶えていません。ホームセンタームサシがオープンしたのも去年の春だったような気もするのですが、これもはっきりとは思い出せなくなっています。ホームセンター不在の時期は不便でした。


<<>> [[#LINK-ID_2]]_
資料写真/能登町周辺 - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム


今後もGoogleマップの状況は変わっていく可能性もあるので説明の整合性を保つため、画面をキャプチャーしたものをPicasaウェブアルバムにまとめました。必要に応じて参考にしていただければ処理もいくぶんはスムーズに進むのではないかとも期待します。


能登高校とあるのが石川県立水産高校本校のあった場所でもあります。その後は宇出津高校と合併したり、北辰高校などという校名の変遷もあったかと思います。


参考にしたGoogleマップの航空写真では四明ケ丘の能都中学校の校舎が残っていますが、体育館の裏にあった第二体育館が存在しなくなっていたということも初めて知りました。


その能都中学校の学校から崎山を通って水産高校に行く道は、ほとんど一本道なので、ざっとみておわかりいただけると思います。何度か書いていると思いますが、相撲部の練習に通っていました。その時の人間関係は社会に出てからの人間関係にも多少影響を与えていると思います。


崎山の中心部には50メートルぐらいか間を挟んで2軒の店がありました。小さな個人商店でしたがパンやアイスも置いてありました。買い食いをすることがありましたが、手前の店に入ることの方が多かったとも思います。水産高校に向かって手前の店です。


その懐かしくもある店の前、車は水産高校の方向を向いていたので左側車線で、店の前からは道路の向こう側になりますが、そこに車を停めて話しをしていました。


車には4人かあるいは3人が乗っていたように思いますが、小木のYMさん以外のことは思い出せません。たぶん当時交際していたと思われる宇出津で私の一つ年下のTHという女性がいたので、はとは思われます。


ついでに書いておくと昨夜書いた白菊町のアパートに、THが遊びに来ていたことがありました。神野の同級生KMが連れてきていたのではないかと思いますが、あるいは他の友達関係であったかもしれません。


私としては友達の友達というような関係の一人でしたが、宇出津のO兄弟の家では何度か顔を合わせたことがあるものの、金沢ではそのとき一度だけだったような気もします。会う回数も少なかったです。


あるいは姫のNKさんの女友達の関係で遊びに来ていたことも考えられます。この私の一つ年下の年代の女子というのは男子に負けないぐらいに不良化してもいたのですが、近い世代との交流は乏しい感じで、ずいぶんと年の離れた世代の男子とも交際していたようです。


少し具体的に説明すると、確か私より3つ年上からの世代が「能都ピエロ」という暴走族グループの世代でもありました。私が16歳の頃の昭和56年夏の時点で、グループの最年長者は24歳だと聞いていたと思います。被告訴人OSNの整備工場で働いていた時期も割と長かったように思います。


特徴のある改造車が整備工場というか自動車工場にいつも停めてあったのでよく憶えてもいるのですが、昭和56年の秋になるとやめていたと思います。その後も多少の付き合いは被告訴人OSNとの間にあって、一緒に自宅に遊びに行ったこともありました。


当時は暴走族が全国的な流行の時期でもありましたが、ピークは過ぎていましたし、警察の取り締まりも強くなって活動もやりにくくつつあるという過渡期であったと思います。同時に、暴力団による干渉も増えつつあるという時期でした。


「暴走列島」というバイブルのような写真の本が被告訴人OSNのところに置いてありましたが、全国的にはブラックエンペラーやスペクター、極悪という関東の暴走族が有名で、ピエロというのもその一つでした。


宇出津のグループの一人が船員で横浜の港に行っていて、そこで横浜ピエロという暴走族のステッカーなどをもらったことで、宇出津でピエロという暴走族を立ち上げたと聞きましたが、それは私が中学生の時期でもありました。


世代も離れていたので詳しいことは知らないのですが、解散することになったのは輪島の海士町の連中が干渉してきたのが原因とも聞いたことがありました。なにかトラブルがあったような話しも小耳に挟むことはありましたが、詳しいことはわからないです。


グループのメンバーでも年が上の方の人は24歳の人を除けば、名前を聞くだけで顔も全然知らない人が含まれていましたが、幼い頃から顔見知りという人も何人かいました。


年代が離れるほど知らない人が多くなると言うのも当然かと思いますが、名前や顔をしているという人は3つ上の世代ぐらいまでで、それより上となると個人的に多少の接点があった人に限られるという感じであったと思います。名前だけはちょくちょく耳にすると言うのもその上の世代でした。


私の場合は小学校4年生まで宇出津ではなく辺田の浜に生活していたので、なおさら年の離れた人との付き合いは少なかったと思いますが、人付き合いや交際範囲は広い方だったとは思います。割と抵抗なくいろいろと付き合いをしていました。


姫のNKさんと一緒に金沢市場輸送で市内配達の仕事をするようになったK村さんもそのような離れた世代の人でした。それぐらい年が離れているのか被告訴人OKNから具体的に聞いたことはあったように思いますが、正確には覚えていません。


<2014-03-27 木 13:18> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]


|

« TODO 元金沢弁護士会会長でもある若杉幸平弁護士の事件への関与と疑惑について | トップページ | 拘置所の接見室のアクリル板に張り付けて見せた平成4年4月2日付北國新聞夕刊の事件報道、という内容を書く予定だった項目 »

「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1177043/60560828

この記事へのトラックバック一覧です: 若杉幸平弁護士と被告訴人OSN、被告訴人OKN兄弟との関係、勧められた面談 :

« TODO 元金沢弁護士会会長でもある若杉幸平弁護士の事件への関与と疑惑について | トップページ | 拘置所の接見室のアクリル板に張り付けて見せた平成4年4月2日付北國新聞夕刊の事件報道、という内容を書く予定だった項目 »