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2015年6月30日 (火)

被告訴人木梨松嗣弁護士を紹介した可能性の高い被告訴人OKNについて 2013年8月29日

被告訴人木梨松嗣弁護士を紹介した可能性の高い被告訴人OKNについて 2013年8月29日
さきほどGoogleマップで地図を作りました。→ 金沢市場輸送と市場急配センターに関する地図 https://mapsengine.google.com/map/edit?gl=jp&mid=zW8zvRyoSBg4.kL7nxxt6orVw


私が金沢市場輸送に初めに入社したのは昭和59年の1月のことでした。同じ宇出津の先輩が大型車に乗務しているので、採用してくれるかどうかきいてみればどうかと周囲にすすめられたのも動機でした。いきなり電話で面接を申し込んだように思いますが、職安に求人があったので職安を通したという


可能性もあるかと思います。いずれにせよ簡単に採用が決まり、4トン車に乗務することが決まりましたが、一月近くか比較的長い間、免許取り消し中だった先輩運転手を同乗させていました。当時はほとんどが長距離の仕事で、大型車より少し4トン車の方が多いぐらいだったと思います。


当時は運転手の出入りも多かったと記憶しています。私が初めに紹介したのが被告訴人OKNでした。彼はその年の春先ぐらいに、それまで住んでいた東京を引き払い石川県の方に戻ってきていました。細かいことは憶えていないですが、仕事をするようになったのは4月に入ってからではと思います。


一緒に仕事をするようになって一月もするかしないうちに、一緒にアパートを借りて住むことになりました。割とすぐに物件も決まり、住むようになったのが金沢市東力2丁目のアパートでした。これは現在でも私の本籍地になっているのではと思います。家賃は折半という約束だったと思いますが、


借り主の名義は私になっていました。平成4年の4月1日事件当日まだ住んでいたアパートで、次の土曜日に被告訴人OKN、被告訴人KYNが手伝ってくれると言うことで引っ越しも決まっていたアパートでした。新しいワンルームのマンションの契約で入居が出来るようになったのも4月1日当日でした。


元からいた宇出津の先輩はOKNが入社した頃やめていたか、入社してまもなくやめていました。当時の大型車の仕事は、一度出るとなかなか帰ってこないものがあったので、顔を合わせる機会というのも少なかったです。半年に一度ということもあると聞いていたように思います。


当時の大型車の仕事はいわゆるエサというものが多かったと聞いています。主に宮城県の石巻港から冷凍の小魚を満載にし、片道一週間ぐらい掛けて鹿児島や宮崎県など南九州のハマチの養殖場まで運ぶという仕事でした。私は時代が変わってから大型車に乗務するようになったのでやったことはなかったです。


後に金沢市場輸送の社長となった被告訴人MTKも当時は大型車の運転手でした。そして平成2年の秋頃に金沢市場輸送に現れ、策士参謀役を務めた可能性の高い七尾市の被告訴人TYNと出会い、親しくなったというのも、そのエサの運ぶ、大型フェリーの船内であったと、MTKは話していました。


宇出津の先輩ですが年は私より5つぐらい上だったと思います。それぐらい学年が離れると知らない人ばかりでしたが、名前の方は先輩たちの会話などからよく耳にしていました。その後、中西水産輸送でも一緒になりましたが、私が入ってすぐにやめていきました。


話が少し飛びますが、私が中西水産輸送に初めに入社したのは昭和59年の12月の下旬でした。年末に社長の家で忘年会があり、その席には宇出津の先輩の姿がありましたが、年が変わるとそのまま出てこなかったような気もします。先輩とはその後もたまに顔を合わすことがあり木材の運搬もやってました。


確か4月の下旬から半月か長くて一月ぐらいの間であったと思いますが、午後に開かれる競りで金沢の中央市場から筍を運ぶ仕事がありました。東北の酒田と仙台、新潟県内と東京都内の行き先が多かったと思います。後には四国の缶詰工場にも運ぶことがけっこうありました。忙しい時期です。


次に6月から7月の初め頃ではなかったかと思いますが、金沢港から昼にスルメイカを運ぶ仕事が集中してありました。これも東北の酒田や仙台、東京、名古屋も多かったです。被告訴人OKNの兄、被告訴人OSNが金沢市場輸送に入社したのも、その金沢港の仕事が忙しい時期であったと思います。


かたちの上ではOSNも私の紹介ということになったいたようです。社長の夫人に感謝され、中身のことは憶えていないですが、少しお札の入った封筒のようなものをもらったような記憶も残っています。


書いているうちに思い出したのですが、被告訴人OSNが名古屋市内で街路樹に正面から激突し、4トン車を大破させたという話がありました。車体自体は廃車という話だったと思いますが、保冷車の箱の方はどうなったのかまで記憶にはありません。


当時はまだ保冷車の多い時代でしたが、その後平成ぐらいになると同じ保冷車でも冷凍機付きでないと仕事にならないような時代になっていたと思います。細かいことは記憶にないですが、車体と保冷の箱(荷台)は同じぐらいの値段だと聞いていたように思います。


会社としても相応の損害は出たものと考えるのが普通で、他の人の事故であればはるかに些細なものでも大騒ぎしていたと思うのですが、社長夫妻が何食わぬ顔の上機嫌のままで、社内でさほど話題にならなかったというのも不思議と言えば、不思議でした。OSNに危険なものを感じ刺激したくなかった、


という可能性はあると思いますし、実際に当時はそういう解釈で済ませたと記憶しています。弟の被告訴人OKNの方も、似ていると言えば似たようなことがありました。仕事外の問題になりますが、どうも職務上の災害のような扱いで、うまく処理をしてもらったように見えました。
怪我というのは地元、宇出津のあばれ祭りでのことです。現在は7月の第一、金土曜日になっていますが、当時は毎年7月7日と8日に決まっていました。私は仕事を休まず宇出津にも帰らなかったので、詳しいことは知らないのですが、キリコを担いでいて腰を痛めたという話でした。
担いでいたキリコは宇出津の城野町のキリコであったとは聞いたように憶えています。彼の家の町内は、当時はまだ大橋組にいたと思うのですが、あるいはすでに音羽町の家に移っていたかもしれません。


その宇出津のあばれ祭りが終わった頃、私は一週間ほどの運行で、北海道の根室市花咲港まで行っていました。急な仕事の入り方だったような気もするので、あるいはOKNの怪我のことを知ったのも、北海道から帰ってきた後であったかもしれません。


まあ、次に合ったとき被告訴人OKNが会社にも近い、金石街道の中央市場入り口交差点付近の波多野整形外科という病院に入院していたことは間違いないと思います。今考えると、宇出津で怪我をしたのに金沢の病院まで、どうやって行ったのかという気もします。


彼が痛めたというのは腰でした。二度と立ち上がれないかもしれないと医者に言われたようなことをこの時も言っていたように憶えています。彼の場合、それがあながち嘘とは思えない事情もありました。というのも中学生の時、彼は能都中学校の古い第二体育館の天井裏で遊んでいたところ、


天井が抜けて乗っていた板ごと下に落ちたと聞いています。板に乗ったまま落ちたのが幸いしたものの腰の骨が折れ、二度と立ち上がれない可能性もあるというような話でした。まあ、入院していた病院が宇出津の持木病院だったので、それほど深刻な大怪我でもないだろうという思いもありました。


持木病院は学校の通学路のようなものでもあったので、数人の友人とよく病室に見舞いに行っていたことも憶えています。半年ぐらいの入院という話を聞いたような気もするのですが、留年もしていないですし、3ヶ月ぐらいの入院ではなかったかと思います。


波多田整形外科に入院していたのは一月ぐらいではなかったかと思います。いつの間にか退院していて遊び回っていました。金沢市場輸送に復帰することもなく、自然消滅のようなかたちで会社を辞めたはずですが、さほど話題にもならなかったと記憶しています。


私は当時、黄色い色のトヨタカリーナ1600GTという車に乗っていたのですが、その年の春ぐらいかに60万円か70万円ぐらいで買ったものでした。ローンの組み替えをやったのでローン自体は150万円ぐらいでした。ボーナスなしの3年払いで月の支払いが5万7千円ぐらいだったような記憶もあります。


3台分の車のローンでした。長距離の仕事をしていたので車に乗る機会は少なかったです。それで頼まれて被告訴人OKNに車を貸していたのですが、ある日、事故を起こして廃車にしたので、これで許してくれと現金10万円を渡されたことがありました。


それはちょうど金沢市場輸送をやめた頃で、入社したのと同じ昭和59年の10月の中頃のことでした。ちょっとした事故処理のことで事務員ともめ、机を蹴飛ばしたことなど憶えているのですが、翌日から2,3日、出社しても社長らから無視され、そのまま行かなくなると言うやめ方でした。


はっきりいって、仕事と勤務態度の評価はすこぶる悪かったです。トラックの運転も暴走族の延長のようなつもりでやっていたということもありますが、サンダル履きで保冷車の中で魚を積む仕事をしたりしていました。まあ、それがかえって、別人のようによくなったという高評価にもつながったようです。


2度目の入社は昭和61年の8月でした。このいきさつも被告訴人YSNが絡んでいました。本来ならば9月から12月ぐらいの間、ライスセンターの仕事をするという条件で、その年の6月頃から岐阜県の海津町に行っていました。工務店の仕事で、ナマズがいるという川の草刈りも多かったです。


一種の出稼ぎですが仕切っていたのは珠洲市の当時45歳ぐらいの人でした。YSNは珠洲市の人間との付き合いもあり、その関係でライスセンターの仕事をするようになっていました。3ヶ月ほどの期間で110万円ぐらいのまとまった収入になり、その後出稼ぎ手帳で失業保険ももらえる、


という話でした。結局人数の調整がつかなくなったとかで、新参の私が外されることになったのですが、YSNは条件が違うといい、強く掛け合ってはくれていました。元々は3人で平屋の集会場のような家に住んでいたのですが、ライスセンターの仕事が近づく、他の参加者も珠洲から集まってきた頃


でした。岐阜から金沢に戻ってきたのは8月20日頃だったと思います。そのまま居座れば、ライスセンターの仕事に参加させてもらえていたのかもしれないですが、とにかく夜中に車を運転して帰ってきたことを憶えています。


それで金沢に戻って2,3日した頃に、ふと思い出して金沢市場輸送に使ってくれないかと電話を掛けたのです。岐阜に行くことになったのも120日と90日の免許停止を一度に受けたことが原因の一つでした。岐阜に行ったのは免停開けの直後だったとも思います。


たしか翌年の1月か2月まで、交通違反がなければ免許点数の15点が満額戻るという計算が大きいものでした。普通免許取得から3年でいよいよ念願の大型免許が取得できるという時期にもなっていました。


金沢市場輸送が支配配達の仕事を始めていると言うことも人伝に聞いていました。昭和60年のはずなので、今考えるとちょうど一年前ということにもなりそうですが、YSNが金沢市場輸送で市内配達を仕事をしていると、誰かの話で聞くことがあり、当時乗務していた中西水産輸送の9200の4トン車で、


午後に金沢市場輸送の会社の前に行き、トラックに乗ったままクラクションを鳴らし、2階にある事務所の窓から顔を出した人に、YSNのことを尋ねたところ、先日岐阜に仕事に行くということで、会社を辞めたばかりだと言われました。


ライスセンターの仕事というのは12月の10日過ぎまで、と聞いていたと思います。この仕事が終わると、YSNが私の東力のアパートにちょくちょく顔を出すようになっていました。なぜ金沢市場輸送に入社したのかも気になっていたので尋ねたはずですが、多くを語らず要領を得た回答はなかったと


思います。このあたりのことも引っ掛かりがありました。当時彼は、珠洲の友達が暴力団員になったという話もよくしていたと思います。フルネームは忘れましたが、呼び名と思われる下の名前は今も覚えています。先程のライスセンターの45歳ぐらいの人も上の名前は覚えています。


そのヤクザになったとか言う珠洲の友人の借り物だったと思いますが、フェアレディZという車に乗って遊びに来ることが多く、そのあとカマロというアメ車にも乗ってきていたと思います。ヤクザになってずいぶん人が変わったと感心するように繰り返し話していました。


当時は余り気にもとめずに聞いていたのですが、そのあたりの人間関係も、その後のYSNの仕事や生活に影響を与えていたことも考えられます。こまかいことは思い出せないですが、その後のYSNは片町でバーテンの仕事をするようになっていました。


なお、中西水産輸送というのは運転手の社員が所属する会社で、会社自体は配車の手配をメインとするような営業形態で、社名も中西運輸商となっていました。佐川急便の広島・九州便が主な仕事でしたが、もとは白ナンバーで冷凍物や魚を運ぶ仕事をしていました。


金沢市場輸送の社長は昔、中西運輸商の社長を助けてやったことがあるとも話していましたが、もともと話していることの真偽がとりとめもなく不明な人物でした。中西運輸商の評判は悪かったです。運転手を酷使しペナルティを含め過大の負担をかけることでも有名でしたが、噂を知った上で、


あえて飛び込んだ会社であり、鍛えられた面も強かったです。いろいろと未熟さもあったと思いますが、生死の危険も日常のようなことがっりました。仕事の少ない暇な時期もあったり、行きたいというと北海道の仕事をとって行かせてくれることもありました。


人の出入りの激しい会社でもあり、たいはんの社員は九州各地の人でした。その方が自宅に帰れる機会が多いとも言われていました。自分の場合、当時は4トン車だったので仕事の内容も大型車の人とは違っていました。4トン車は少数でした。


被告訴人との関係が最も密であったのは昭和58年のことです。同年の8月の終わり頃から11月の10日頃まで、金沢市観音堂の彼のアパートに居候し、食事などの面倒もほとんど彼にみてもらっていました。一日一食で、280円ぐらいの唐揚げかのり弁当、それに100円のうどんを一杯、というような


生活でもありました。実際、倒れて病院に行き、栄養失調と診断された少女もいたと聞いています。ちょっと変わった古い長屋のようなアパートでしたが、4室が、仲間同士のようなアパートでもありました。たまり場のアパートで、沢山の少年少女が出入りしていました。


当時は私も11月の誕生日前で18歳でしたが、二つ年上で12月生まれというYSNは、20歳になっていたことになりそうです。向かい合った奥の方の部屋には、同じく二つ年上の珠洲のYが住んでいました。その部屋にもよく遊びに行っていたのですが、そこによく女の子と遊びにきていたのが、


河北郡内灘町のUという男でした。年は同じでした。思えば、このUという男との出会いが、そののち被告訴人OKNの人生を方向付けたともいえるかもしれないです。偶然という要素も絡んでいたとは思いますが。


書いているうちに、10年以上ぶりにふと思い出したことがあります。Uとの再会が、いろいろな人間との出会いにつながったのですが、そのうちの一人にOYという男がいました。私は次第に距離をおくようになっていたこともあり、付き合いや会う機会も少なかったのですが、確か平成元年か2年頃、


片町を舞台にした違法薬物の摘発があり、それにOYが関与していたような話を聞いたと思います。新聞で名前を見たような記憶もありますが、10年以上忘れていたことでもあり、余りはっきりとは思い出せないです。下の方の名前も思い出しましたが、憶えやすい名前なのでたぶん間違っては


いないと思います。思い出せないのはそのOYとよく一緒にいた男でした。確か自宅が金沢市東力で、金沢市大額の方で居酒屋のような店を出したとか言う話があったり、一度はその店に行ったような気もするのですが、記憶が相当薄れています。


もしかすると日通の幹部社員の息子のような話もあったかもしれません。家がお金持ちでいい生活をしてきたような話は聞いていたと思うし、実際、そういう雰囲気の男でした。彼も年は同じだったと思います。


わりと大柄な体格でした。東力に家があるという点とその体格、多少の雰囲気の共通性で、平成4年になると被告訴人YSKと重ねて思い出すことも少なくなかったと憶えているのですが、その後今日まで長い間すっかり忘れていたので、名前の方も思い出せなくなっています。ありふれた名前だったような


気はします。日通というのも気になるキーワードになっていたような気がします。ヤクザの組長をしていたとも土建屋をやっていたとも聞く、金沢市場輸送の社長でしたが、昔、日通で働いていたこともあると聞いていたからです。日通と言えば当時日本最大の運送会社とも言われていました。


実際、昭和59年当時も日通の仕事は少なくなく、まだ新車の状態に近い日通カラーの10トン平ボディ車も2台いました。乗務員の一人はその後、中西運輸商に移り、売り上げか何かは忘れましたが、社内一の成績として表彰される姿も、同じ部屋で見ていた憶えがあります。


その後、中西運輸商をやめたあとだったと思いますが、平成元年頃でしょうか、群馬県の高崎市あたりの国道で追突事故で死んだという話も聞きました。中西運輸商から私の紹介というかたちで金沢市場輸送に来て配車係もしていたYTから聞いたように思います。


昨年になると思いますが、宇出津新港の堤防で釣りをしている人と話が弾んだところ、そのYTのことをよく知る人で、いろいろと話を聞くということもありました。その時点では、昔と同じように運送の仕事を経営者の立場でやっているような話でした。何月頃かは思い出せないですが、寒い時期では


なかったように思います。YTは同じ中西運輸商にいた頃、付き合いが多かったので、ライスセンターの仕事を終えた被告訴人YSNが遊びに来たとき、一緒になることもあり、昭和61年の12月か62年の1,2月の時点で顔見知りだったということにもなりそうです。


被告訴人YSNが一度だけ金沢西警察署に面会に来たときも、YTから被害者と付き合っていたのかと尋ねられ、「付き合っとったんじゃないか、とゆうてやった。」と押しつけがましいともとれる、口調で話していました。後で知ったことですが新聞には「半年前から交際」となっていたので、


やむなくそう答えたという可能性もあるのかもしれないですが・・・。YTの話を持ち出してきたのは被告訴人YSNの方でした。余り親しくないという口ぶりでしたが、どちらも社交的だったので、より深い付き合いというのもあるいはあったのかもしれないと考えることはありました。


そういえば半ば独立したかたちで運送の仕事をしていると聞いていたYTの仕事を手伝っていたのも被告訴人YSKでした。YSKの私に対する接近自体が仕組まれたものであった可能性が高く、供述調書には事実のすり替えのような明白な虚偽も含まれていました。


被告訴人YSKはYKに頼まれて、臨時で仕事を手伝っていると話していましたが、今考え直すと、正式な社員か運転手というかたちでYKのトラックに乗っていたのかもしれません。自分には珍しい日産ディーゼルの新型車に乗務していたこともあり、中央市場の青果売り場あたりを少し運転させて


もらったこともありました。しかし再びよく考えると、被告訴人YSKのメインの仕事は持ち込みダンプでのイワシの運搬であったとも考えられます。そういえばYSNが払い下げで購入したようなことを話していたポンコツのダンプは、元は日通カラーだったような気もしてきました。


ダンプと言っても土砂積み禁止の特殊なダンプで、大型車にしては小型にも見えるダンプでした。そういえば私が市場急配センターに移ってからしばらくの間は、駐車場でそのダンプを見かけていたのですが、どこへ持って行ったのか、その後ダンプの姿を見かけることはなかったように思います。


この被告訴人YSKも被告訴人OKNと接点がありました。本来は能都と金沢で地元も違い、年も6つ離れていたので、考えにくい接点でもありましたが、どうもよく理解できないかたちで、それらしい話を聞いていました。余り関心もなく、聞き流していたので、把握できずにいた点というのも


あるかもしれません。その前に時間を戻したところから説明をしておきたいと思います。遊びまわっていた被告訴人OKNが、確か250ccのバイクにまたがり、大阪へ行くと旅立っていったのは、昭和60年の11月ぐらいだったように思います。


東力のアパートの前で、私と一緒にいた結婚する前の前妻に旅立ちの挨拶をして走り去っていきました。いささか哀愁と決意を感じさせるような旅立ちが印象的な場面でもありました。


彼が大阪に向かった一番の目的は、二つ年下の彼女が高校を卒業して大阪に働きに出たのを追いかけるものではなかったかと考えられます。私の同級生は昭和58年に高校を卒業しているので、やはり昭和60年の卒業と言うことになりそうです。4月を就職の時期と考えると、彼が大阪にむかったのは、


もっと早い秋口のような時期だったのかもしれないのですが、私のなかには木枯らしが吹く、晩秋、あるいは12月頃ではなかったかというイメージが残っていました。そのほかの友人関係の状況をあわせると、やはり冬が近づく時期になっていたという気もします。


もう少し時代を巻き戻して思い出しながら事実を追いたいと思います。昭和59年の夏の前後であったぐらいにしか特定できないのですが、観音堂の珠洲のYHの部屋でちょくちょく顔を合わせていたUが、西念町の古いアパートに住んでいると知って、遊びに行くようになりました。


珠洲のYHもその近くのアパートではないですが、ちょっとしたビルの3階あたりに住んでいて、そこにもちょこちょこ遊びに行くことがあったのですが、Uとの出会いは別であったように思います。少なくともUのアパートでYHの姿を見ることも、YHの部屋でUの姿をみることもなかったと思います。


初めは私が被告訴人OKNを一緒にUのアパートに連れて行くという感じだったと思います。まもなくそこで羽咋郡富来町出身のOTと金沢生まれで三重県育ちだったようなHMと知り合い、全員が同じ年でもあったのですが、またたくまに親密な間柄になりました。


西念町は金沢中央市場と同じ住所でもあったと思いますが、わりあい広い範囲で、Uのアパートもそう近い距離ではありませんでした。OTは広岡町のしゃれたワンルームマンションで年下の少女と同棲していました。HMも北安江のマンションで少し年下の女と同棲していました。


三人とも仕事はしていなかったと思います。OTは一度、金沢市場輸送で仕事をしたのですが、一回か二回の運行ですぐにやめていました。私は長距離の仕事をしている時間が長かったので、一緒にいる時間も少なかったのですが、彼らは四六時中に近いぐらい一緒に遊び回っていたようです。


Uは個人的に深刻な問題を抱えていたので暗い感じがありましたが、それでも女遊びは人一倍やっていたようです。すごい数の女の子の電話番号を書いた分厚いメモ帳のようなものも持っていました。私はその後、Uと会う機会も少なかったと思います。


プライバシーの問題もあるので詳細はさけないですが、Uは少年時代に大きな交通事故を起こし、多額の賠償金を背負っていると聞いていました。内灘の家も一度遊びに行ったことがありましたが、賠償のため手放し、あの西念町の古いアパートの住むようになったと聞いていました。
Uと最後に会ったのは平成9年の8月か9月のことでした。怪我をしていて野々市の赤十字病院に入院していたところを、HMと一緒に見舞いにいった時のことです。その後もちらほら近況を伝え聞くことがあったのですが、小さな自動車修理工場を経営し、何かのレースに出場することもある、


という話を聞きました。今考え直すと、OYが片町で薬物事件で逮捕されたというのは、あるいはこの平成9年頃のことであったのかもしれません。しかしそうなると当時の年齢が30歳を超えていることになるはずなので、そのあたりも記憶にはそぐわないのです。


OYの薬物事件とは別になると思うのですが、平成2年頃も、なんどか新聞で片町の薬物事件が大きく報道されることがありました。その主犯格で片町でずいぶん有名だったという人物とは、福井刑務所の工場で同じ班になり、その人物が班長でした。これも偶然ではないと思います。


いまでもフルネームを憶えていますが、ここで書けるはずもありません。まもなく班長と娑婆で親しい関係であったという金沢の元暴力団員YKが同じ班に入ってきました。二人が一緒だった時期はそんなに長くはなかったと思います。まもなく班長のTKが仮釈放で出て行くと、次にYKが班長になりました。


TKとOYは、ともに金沢市場輸送と市場急配センターの会長になったTSKのことをよく知っているような口ぶりで話していましたが、あまり具体的な話は教えてくれなかったように思います。どちらも裏の世界で相当長い間、キャリアを積んだ人間という感じでもありました。


どちらか、あるいはどちらもであったかは忘れましたが、同じ片町でバーテンをしていた被告訴人YSNの名前は知らないかと尋ねたところ、すぐに知らないという返事が返り、本当は知っていそうだな、という印象は受けていました。


賞味期限の分からなくなった残り物の白菜の漬け物を食べていたら、ふと閃くようにおもいだしたのですが、下の名前は「かつとし」だったと思います。プライバシーに配慮して、このあたりにとどめておきます。


もうひとつより重要度が高いかもしれないと考え直すことがあったので先に書いておきます。それは平成11年の2月頃のことです。被告訴人OKNが住宅のリフォームや建て売り住宅のセールスを口実に、積極的な罠を仕掛けてきた時期でした。


ある日、なにかを理由に金沢市役所につれていかれることがありました。なにかの調査のような話であったような気もするのですが、現在ははっきり思い出せなくなっています。かなり詳しく説明を受けましたが、必要性も理解しがたいもので意図がつかみにくいものでした。


そういう疑問はその時が初めてではなく慣れていた部分もあったので、当時はそれほど深く考えることもなかったと思います。とにかく、かなり長い時間、金沢市役所のなかで、被告訴人OKNと一緒にいました。市役所は金沢市の中心部、片町や香林坊の近くでもあります。


なにかくどいぐらいの説明を受けていましたが、とにかく、以前、2トン車の持ち込む運転手として仕事をしていたこともある宇出津の川か河の字を含むK、と落ち合うことになっていきました。当時は既に携帯電話を使っていた思うのですが、直前の電話連絡で、駐車場のことを話していました。


つまりKの車が外車の大型車で大きすぎて駐車できる場所がないという話でした。アメリカ車ではなくヨーロッパ車で、ベンツではなくBMWという話だったような気がするのですが、BMWというのはそんなに大きな車だったのかという疑問も少しよぎりました。


Kに特段の疑いの目を向けるのが私の目的ではなく、むしろそのような目を私に向けさせ、知られなくないあるいは気づかれたくない事実を守りたいというのが、彼の真の目的であった可能性もあるとは考えています。それでなくても挙動不審でしたから。


被告訴人は中央公園の横の県庁の敷地に大きな車を駐車できる場所があるという説明をしていたと思います。たぶん県庁は元の県庁の跡地で、それほど離れていない近年に現在の金沢市鞍月あたりの新庁舎に移転していたと思います。


書いているうちに思い出したのですが、Kの用事は中小企業向けの融資の相談のような話であったと思います。かなり心配そうな顔をしていました。私のことはよく知っているはずと思っていましたが、まるで眼中にない様子でした。もともと性格的に真意や表情の読み取りにくいタイプにも思えていました。


なお、その時、被告訴人OKNが乗っていた車も古いものでしたがスウェーデンのボルボという外車だったと思います。特別大きいと感じる車ではなかったと思いますが、一般の国産車よりは大型であったと思います。その車は金沢市役所の中の駐車場に普通に駐車していたように思います。


黒い色のボルボだったと思います。かなり長い間乗務していたと思います。平成9年の7月から平成11年の春頃までの間、彼が他の車を自分の車として乗車していたというのは思い出せないです。なにか国産車に乗っていたような気もするのですが。


昭和62年か63年か記憶上いまのところ特定できないのですが、彼が当時住んでいた神戸市内で会ったときは、フランス製のシトロエンとかいう珍しい車に乗っていました。お盆休みに宇出津に帰省したときもその車に乗っていたような気もします。


私は金沢市場輸送で昭和62年の4月から昭和63年の12月の20日頃まで、イスズ自動車の「石7599」というナンバーの10トン保冷車に乗務していました。大型車です。その翌年辺りからナンバーが「石」から「石川」に変更されたことも憶えています。


当時は新車に乗務するまで長ければ入社して10年掛かるとも言われていました。古参の運転手から優先的に新車が与えられるからです。年功序列言うのも昭和の時代の世の習いでした。バブル景気に突入するちょっと前であったかもしれません。


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