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2015年6月30日 (火)

被告訴人木梨松嗣弁護士を紹介した可能性の高い被告訴人OKNについて 2013年8月28日

被告訴人木梨松嗣弁護士を紹介した可能性の高い被告訴人OKNについて 2013年8月28日
被告訴人OKNとは小学校時代からの友人のひとりでしたが、小学校低学年あるいは幼稚園の頃から中学生の頃の関係は、一時的にしばらくの間つきあいが続いたという感じでした。他に色々友達がいたのと部活で忙しい時期もあったので、いわば気まぐれな関係で特に親しいわけでもなかったです。


それでも中学生の頃は、何度か泊まりがけで彼の家で一緒に徹夜の勉強をしたり、グループみたいな多数でしょうちゅう彼の家に遊びに行くことも多かったです。彼の家はだいぶん前に取り壊しになっていますが、当時の面影というものも現在はほとんどなくなっていると感じます。


初めに共同生活も多いいわば身内のような関係になったのは彼の兄の被告訴人OSNの方でした。昭和56年の6月頃からのことです。そういう関係は昭和58年の夏頃ぐらいまで続きましたが、暴力団を巻き込んだトラブルのようなこともあり、疎遠にはならなかったものの会うことは減っていきました。


同じ暴走族でリーダー格だった被告訴人OSNがほとんど断りもなしに暴力団員との関係を結んだのが離散の原因だったのですが、当時私は金沢市の浅野本町に住んでいたこともあり、知らないこと知らされていないことも多かったと思います。浅野本町にいたのも短い期間でした。


印象的に憶えているのはその浅野本町のアパートで就寝中に起こされたところ、部屋一杯に特攻服の少年が集まっていたことです。そこで被告訴人OSNから、特攻服を持っているかといわれ、ここにはないと答えると、そのまま踵を返して帰って行きました。声を発したのも彼一人だったと思います。


起きてからも夜中の出来事が夢か現か確信が持てませんでした。少し前まで彼も金沢市内の自動車修理工場に住み込みで働いていたのですが、それをやめ、宇出津の家の自動車修理工場の仕事を手伝っていた頃です。どちらも規模は小さかったですが、彼ら兄弟の家は自動車修理工場とプロパンガスの販売


をやっていました。昼休みの時か、仕事をしているはずの被告訴人OSNのところに電話を掛けたところ、夜中のことは本当のことで金沢刑務所でヤクザの出所祝いに参列してきたと聞きました。


今思えば、この夜中のことが原因だったのかもしれないですが、アパートから徒歩1分もなかったような近場の、勤める小さな自動車修理工場の主人から暴走族をやめるか工場をやめるか決断を迫られ、工場をやめてアパートを引き払い、宇出津に戻ることになったのです。


浅野本町から宇出津に戻ったのは昭和57年の4月頃だったと思いますが、あるいはまだ3月中だったのかもしれません。私は一度も出所祝いに行ったことはなかったのですが仲間の話では3,4回あったような話も聞いたように憶えています。かなり短期間に集中したような話でしたが記憶に自信はないです。


もともと暴力団やヤクザに対しては拒絶性の高い地域性でもありました。被告訴人OSNの同級生で兄弟分ともいう関係の被告訴人HTNも金沢市で暴力団組員であった時期、一度も地元には帰られなかったとも聞いていました。


被告訴人HTNは同じ高校の一つ先輩でもありましたが、2年生に進学してまもなく退学処分となり、すぐに金沢市に出てガソリンスタンドの店員として働いたものの、まもなくある問題で暴力団員になったと聞いていました。


被告訴人は学業に専念していて退学は実に不本意なものであったと聞いています。同じく暴力団組員になったのも不本意な成り行きであったと聞いていますが、プライバシーの問題でもあるので、ここでは書かないです。事実関係で必要な範囲最低限のことを書いています。


被告訴人HTNが退学になったのは昭和55年の5月か6月だと思います。春の遠足が赤崎海岸であり、それが退学の原因にもなりました。被告訴人KYNは私の同級生で当時クラスメートでしたが、彼も同じ問題で停学処分を受けていたと思います。処分者は25人ぐらいいたようにも聞いた憶えがあります。


はっきりしたことは分かりませんが被告訴人HTNが暴力団員になったのは昭和55年の夏から秋頃ではと思います。当時未成年者でしたが、何か組の若頭のような立場になったようなこととも聞き、その界隈で相当の顔役になっているような話も聞きましたが、直接会うことは少なかったです。


昭和56年の秋、金沢市入江のアパートに被告訴人HTNが姿を見せたことは憶えているのですが、たまたまその場に被告訴人YSNがいたような気もするのですがこれは現在記憶がはっきりしなくなっています。女友達が鍵を預かっているという服役中の暴力団員のアパートと聞いた憶えがあります。


被告訴人YSNは私より二つ年上でした。彼も同じ能都町(現在の能登町の一部)でしたが鵜川という地区で中学校も違っていました。石川県立水産高校の漁業科で卒業しているはずです。水産高校は宇出津にありますが現在は能登高校になっています。


被告訴人OSNも水産高校に入学しましたがすぐに中退したと聞いています。当時のOSNの家は大きなたまり場になっていましたが、OSNも出入りしていたと聞いています。O兄弟の家は旅館のような大きな家で、私より二つ年下の妹もリーダー的な存在で、人の出入りがとても多い24時間営業の


旅館のような家で、とても開放的でもありました。中学時代の被告訴人OKNは、学業と極真空手に専念し兄に反発、軽蔑するような一面が強くありました。趣味と方向性を同じくするようになったのは昭和56年の夏頃かと思います。元はといえば余り仲の良い兄弟ではなく、


すぐにうち解けた訳でもなかったかと思います。昭和56年の8月28日の早朝、シンナーの吸引とかで金沢中警察署に補導されたのですが、前夜にたまたま遊びに来ていたOKNは当時、金沢高校の学生で、この補導の件で退学処分になったと聞きます。男女13人の補導で新聞にも大きく出ていました。


13人中、私とOSNを含めた少年4人と少女1人が、金沢中警察署で取り調べを受けた後、家庭裁判所に連れて行かれ、そのまま小立野の金沢少年鑑別所に入りました。私が試験観察の処分を受け鑑別所を出たのは9月の23日ぐらいではと思います。26日か28日いたはずですが、長く感じられました。


試験観察にはなりましたが割と早く3ヶ月か長くて半年ぐらいで不処分となり保護観察を受けることはなかったです。OKNの方は保護観察がかなり長い間続いていたような憶えがあり、19歳の頃まで続いていたような気もするのですが、これも記憶がややあいまいになっています。補導時は16歳でした。


その試験観察中、家裁の調査官に会うため七尾市の家裁に行ったとき、待合室でYSNと会うことがありました。その時すいぶんと不健康そうな様子に見えたのですが、それからまもなくシンナーを吸引中発狂して金沢の精神病院に入院したと聞きました。


YSNはその後も精神病院に入ったことが原因で、かっての仲間内から疎遠にされるようになり、孤独を感じている様子にも見えました。単に精神病院に入っただけではなく、いきなり他人の家に駆け込んで就寝中の婦人の首を締め上げたという、話も大きく、周囲に危機感を与えていたのかもしれません。


首を絞められたという婦人の夫は、仲間内の離散にもなった暴力団員の舎弟と聞く人物でした。会った機会もあったので顔はよく覚えていたのですが、当時金沢市西念町にあった金沢市場輸送の社長室から出てくる姿を見たことがありました。昭和61年の秋だったような気もするのですが、


現在時期ははっきり思い出せないです。暴力団員の舎弟というあいまいな表現になりましたが、同じ正式な組員であると聞いていました。なお、出所祝い用に支給されたと聞く特攻服には「福島組」という当時石川県内最大勢力とも言われた組の名前の刺繍がありました。自分は支給を受けていないです。


関係者のプライバシーのこともありここでは細かく書かないですが、YSNが飛び込んだ家で婦人の首を絞めた件と、OSNの間には別の接点もありました。大怪我をしたような話は聞いていないです。飛び出した後、「カラスが鳴いている」などと口走ったか叫んだとは聞きましたが、真偽の程は不明です。


昭和57年の1月頃かと思いますが、同級生の友達と3人で、金沢市小立野の精神病院にYSNの面会に行ったこともありました。一人が弟だと嘘を言ったのですが閉鎖病棟に簡単に入れてくれました。YSNは正常だと訴えていましたが、言動には異常性が感じられ、独房でお仕置きを受けることもあるなど、


不遇というか不満を訴えていました。彼との長いつきあいで、言動に異常性を感じたのはその時ぐらいで、さほどの問題もなく社会生活を送っていたようです。時にやることが大胆でどうかと思うことはあり、車の運転に同乗していて身の危険を感じたこともありました。


彼が初めに精神病院に入院したのは昭和56年の12月ではないかと推定されます。その少し前、珠洲市飯田のシーサイドの通りの急カーブで自分の所有するブルーバード510を横転させ、横転直後の静寂を破り、突如、「ギンギラギンにさりげなく、それが俺の生き方」などと当時の流行歌を歌い出した、


とも聞いています。恐怖体験のように同乗していたという一つ年上の女の人から聞きました。OSNとも関係性の強い女の人です。夫妻そろってOSNとは強い結びつきがあり、自分も親しくしていて、金沢でもアパートに遊びにいくことがありました。


彼女にはとても親しい同級生の女の人がいて、いつも一緒にいることが多かったです。当時は未成年者の少女で年も一つだけ年上でしたが、姉御肌のような一面もあり、ずいぶんしっかりした大人の人というイメージが残っています。


二人の女性に最後に会ったのは平成3年の12月21日の夜でした。被告訴人HTNに連れて行かれた金沢市の繁華街、片町のスナックのような飲み屋でした。片町に来て、最初に入ったのがその店だったような気もするのですが、現在細かいことは思い出せなくなっています。


その夜、HTNに連れられて4軒の店に行ったと思います。一つは旧大和デパートの裏側辺りの場所で、屋台が集まるような場所になっていました。観光都市の金沢は屋台が禁止になっているとも聞いていたのですが、博多の中洲を思い起こすような雰囲気もあり、屋台と言うよりは建物がしっかり固定


されている感じで仮設の店舗という感じでした。順番としてはその屋台のような店が2軒目で、3軒目が同じスクランブル交差点より内側の一角で余り大きくないビルの上の方にあるスナックのような店でした。ここには事前に連絡を受けていた被告訴人OSNも姿を見せたと思います。もう一人同伴者の人


がいたような気がします。同じ宇出津の5,6歳以上年の離れた人で名前はよく聞く知られた人でした。以前別の先輩の車で軟禁状態に巻き込まれた記憶もある人物と記憶していますが、その時とは別人のような雰囲気で、おとなしくお酒を楽しんでいるという感じだったと思います。
かなり年の離れた人で6歳ぐらいは年上だったと思いますが、今思えば宇出津のKという人物と年も同じぐらいで、つきあいがあったのかもしれません。宇出津のKという人は今でも名前を覚えていますが、感じの一部が河なのか川なのかは不明のままです。一見するとおとなしい人物ではありました。


しかし被告訴人OKNと同じく上昇志向が人一倍強い商売人タイプの人でもあったようです。これは被告訴人HTNにも通じるところがあり、気の合うところであったと思います。被告訴人OSNも金銭欲は強い方だったと思いますが、義理人情を大事にこだわるようなところも強かったと思います。


はじめに宇出津のKの話を聞くようになったのは昭和63年の春か夏頃かと思います。この辺りは今一度記憶の整理が必要なのですが、とりあえずそういう時期の設定にしておきます。能都町姫のNという先輩と二人で、魚の行商のようなことをやっているとOKNが私に話していました。宇出津のKという


人物は私としては全く心当たりのない人物だったのですが、なにか知っていることを仮の前提にしたというか当たりを窺うような調子で話をしているようにも見えたのが少し印象に残っていました。突っ込んだ言い方をすれば、探りを入れて反応を窺っているような不自然さもなくはなかったのです。


姫のNはよく知る人物でした。直接の友人という関係ではなかったですが、共通の友人が多く、一緒に遊び、行動する機会が多かったからです。それだけ彼が遊び回り車を乗り回していたということもあるのですが、スカイラインのジャパンにはよく同乗させてもらっていました。


姫のNは、昭和56年12月頃と思われる頃、YSNがシンナー遊びで発狂したとき一緒にいたと聞く全部で4人のうちの一人であるとも聞いていたように思います。なお、YSNは松波駅付近で保護され、後日本人から聞いた話だと一週間ほど昏睡状態で生死の境をさまよっていたそうです。


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