« DONE 宇出津あばれ祭りでの被告訴人KYNとの再会と、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)に対する刑事告訴について 2014年7月8日 | トップページ | DONE 宇出津あばれ祭りでの被告訴人KYNとの再会と、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)に対する刑事告訴について 2014年7月10日 »

2015年6月30日 (火)

DONE 宇出津あばれ祭りでの被告訴人KYNとの再会と、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)に対する刑事告訴について 2014年7月9日

DONE 宇出津あばれ祭りでの被告訴人KYNとの再会と、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)に対する刑事告訴について 2014年7月9日
CLOSED: [2014-07-10 木 13:00]
<2014-07-09 水 10:55> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]


被告訴人KYNのことですが、あばれ祭りで会った時の彼の反応、態度というのは威圧的にも感じるものでしたが、それは何度か繰り返した「帰れ」という言葉にも現れていましたし、時間が経って考えてみてもそれは命令にのようなものであったと思います。


被告訴人KYNと会ったのは数年ぶりのことでした。調べてみないと今の私の記憶だけでは正確な時期がわからなくなっていますが、平成16年かあるいは平成17年の1月であったように思います。その時の会話というのは音声ファイルとして保存し、御庁にも提出してあるはずと思います。


冬だったような気もするのですが積雪はなかったと記憶にあります。何か思い出せそうで思い出せないもどかしさもあるのですが、まだ平成9年の9月ころに買ったホンダの軽四に乗っていた頃だったと思います。


その後しばらくしてそのホンダの軽四が故障をして、修理に随分とお金が掛かるということで、日産の軽四を新車で購入しました。その軽四の二度目の車検の時、私はそれまで住んでいた石川県羽咋市のアパートから今の宇出津の家に帰ってきました。


それ以来軽四の車検は入れなかったですが、車検が切れるのに合わせて宇出津に戻ってきました。2009年3月16日のことであったと思います。私自身最近はもっぱら西暦を使っているので把握もし難くなっているのですが、平成だと平成21年だったと思います。


平成18年ころまではほとんど西暦ではなく平成の年で物事を考えていたと思います。だから記憶の方も平成として覚えているのですが、ここ数年はもっぱら西暦のみなので、現在が平成何年と言っても自信を持って答えることができません。


軽四も新車の時は車検が3年だったと思います。それで2度めの車検となるとちょうど5年ということになるかと思います。平成21年の5年前となると平成16年となりそうです。


そうやって考えてみると、私は平成14年の11月の下旬から6年3ヶ月ほどの間、羽咋市のアパートに住んでいたことになりそうです。前にも計算したことがあったのですが、どこで間違えたのは5年ちょっとだと思っていて、それでもそんなに長く羽咋市にいたのかと考えていました。


記憶の整理を兼ねておさらいをすると、羽咋市のアパートに軽四に乗る一台分の荷物を積んで、来たのは平成14年の11月25日を過ぎた頃だったと思います。派遣社員の寮だったのですが、初めはそのうち2人で住んでもらうと言われていたものの、最後までずっと一人で住んでいました。


事実上は自分のアパートのような生活ではありましたが、アパートの合鍵も派遣会社の人が預かっていたようです。仕事そのものも不安定な立場でしたし、落ち着くことはなかったです。


一時は1月の後半から2月頃だったと思いますが、一月以上仕事がなく、宇出津の家に戻っていたこともありました。まるまる一月仕事がなかったので、収入がないばかりではなく、社会保険など5万以上、マイナスになっていたこともありました。


書いているうちに思い出しましたが年末の12月一杯で仕事がなくなりました。インドネシアで大津波があった翌日か翌々日のことでした。近くで作業をしていたインドネシアの青年とも津波のことで話をしたので、それはよく憶えています。羽咋郡志賀町の電子部品工場でした。


インターネットで調べたところ、スマトラ島沖地震となっていて2004年12月26日の発生となっていました。私の場合、すぐに頭の切り替えができないのですが、平成16年になるのかと思います。


次に派遣先の仕事が決まったのが2月の中頃ではなかったと記憶しています。派遣の仕事はもうこないかもしれないと諦めていた頃に担当者から電話がありました。面接をする前から既に決まったような話しぶりだったので安心もしましたが、人が居着かない仕事なのかもしれないと思いました。


連絡があった当日は、春めいた日和の天気で、夕食に母親がシチューを作ってくれたことも記憶に残っています。改めて考えるとそれが平成17年だったのだと、自分のことですが改めて確認ができました。


このあとの仕事というのは羽咋市の鋳物工場への派遣でした。バラシと呼ばれる現場での作業でしたが、出来上がって鉄板のコンベアに流れてきた鋳物の枠の不用部分を取り除く作業でした。材質によって手で直接壊すものと機械を使って壊すものがありました。


ちょっと前まで赤く灼熱状態だった鋳物なので高温のことが多々あり、手早く的確に作業をしないと手を痛めて仕事が続けられなくなるような作業でした。それまでに派遣された人も、手が火傷と血豆だらけになってやめていったということを聞いたのも、仕事を始めてかなり後のことです。


鋳物工場での仕事を始めて、半年か一年ぐらい経った頃だったと思いますが、派遣の担当者を通して正社員にならないかという話がありました。ちょうど御庁に告発などをやっていた時期だったので、先のことの見通しも経たず、その時は、生活も落ち着かない状態なので1年ほど考えせて欲しい、などと。


返事をしたように思います。ストレートに断るのも角が経つし、何時やめられるかわからないと判断されると、こちらの生活も安定しなくなるという思いがありました。その前、宇出津の電子部品工場で仕事をしていた頃も、真面目に仕事をやるだけに、経歴で仕事を転々としてきたことを不審に思われました。


仕事だけではなく私の場合、計算すると7年半ほど警察の留置場、拘置所、刑務所に入っていた期間があって、2度の逮捕による仕事の断絶もあったわけです。平成14年頃の時点でも履歴書の経歴をどのように書くかは、ずいぶんと頭を悩ませました。


もっと前のことから順番に書くと、金沢中警察署に逮捕されたのが平成11年8月12日だったと記憶しています。9月の20日頃には拘置所に移送されたと思いますが、翌年の平成12年の同じ9月の20日頃には、最高裁での上告棄却と続く即時抗告の申し立ても棄却されて判決が確定したように思います。


判決が確定してからは未決から既決の受刑者という立場になって、同じ金沢刑務所の敷地内でしたが、拘置所から別の舎のの独居房に移され、分類審査を受けて、金沢刑務所での受刑が決まり、そのあと2週間だったと思いますが、新入教育を受けて、第5工場に配役されたのが11月の初めかと思います。


第5工場ではミシンの作業をしていましたが、一般の大方の受刑者とは異なって雑居房での集団生活にはならず、工場に出る以外はずっと独居房で生活をしていました。これは夜間独居とも呼ばれていました。工場には出ないで軽作業をしながら過ごす昼夜独居というものもありましたがよほどの処遇困難と。


懲役は1年10月か1年8月のどちらかだったと思いますが、そんなことも余り考えないでいると忘れるものです。検察の求刑は2年だったとも思うので、平成4年の事件とは違って満額の判決ではなかったですが、満期での出所となり、仮釈放の話も全くありませんでした。


満期で金沢刑務所を出所したのは平成13年12月31日のことでした。満期日の翌日に釈放という決まりになっていたかと思います。私はその半月か20日ほど前まで12月21日を満期日か釈放日だと思い込んで刑務所で生活をしていました。刑務官からそのように聞いたと思い込んでいたからです。


金沢中警察署にいた頃は、母親の面会もありましたが、拘置所に移ってからは一度もなかったかもしれません。受刑中は一度もなかったと思います。出所するときも事前の連絡のようなものはほとんどなかったと思います。


本来ならば刑務所にいる間に、出所後の生活のことなど話し合って調整するようなことを耳にもしていましたが、私の場合そういうことはほとんどなく、本当にいきなり刑務所から放り出されたような感じでした。


バスにでも乗って金沢駅まで向かい電子屋に乗って宇出津に帰るつもりで、金沢刑務所の門をでたように思います。警備隊の隊長とか聞いていた、いつも険しい顔をしている若い刑務官が釈放時の立会のようになっていました。大晦日だったので本来は休日でもあったはず。


金沢刑務所の正門から出たのはその時が始めてだったと思います。平成4年の事件では平成6年3月17日に福井刑務所に移送されましたが、車で外に出るときは裁判所に向かう時と同じく、他の出入口を使っていたと思います。


そういうこともあって、正門を出て歩き始めても状況がのみこめなかったのですが、すぐに近くの駐車場に一台のワゴン車が駐車していて、人が乗っている姿が見えました。あるいはクラクションで合図を受けて気がついたのかもしれません。


ワゴン車には被告訴人大網健二が一人で運転席にいました。向かいに来ているとは全く思っていなかったのですが、それよりどうして出てくる日を知っていたのかと思いました。普通に考えて私の母親から聞いたのだとは思いますが、そのことは後にも母親には話を聞いていません。


この金沢刑務所を出た日のことについては、本書でも既に記載をしているように思うのですが、だとしてもかなり前のことになっていそうなので、はっきりとは思い出せません。念の為、おさらいを兼ねて書いておきます。


金沢刑務所を出て少し行くと、若松というような交差点があったと思います。これは裁判所に出廷に行く時にも通っていたので、印象にある交差点でした。金沢刑務所からその交差点までの時間も距離もわかりませんが、5分もかかるような距離ではないのではと思います。


若松の交差点は坂道を降ってきたところにある交差点だったと思います。その途中のゆるやかな下り坂を走行中に、現在はサッカーとかスポーツ関係の学校の理事をやっているとか、ヤクザに1億とか2億とか言う借金が出来たか、そんな関係者に取り立てをを受けるようになって困っているとか。


そんな話をしていましたが、私の方から聞き返したり、質問することはしなかったのでその会話も長続きはせず、若松の交差点に来た頃には終わっていたように思います。


どう表現すれば良いものか迷いますが、おだやかで親しみやすい態度で、媚をうって同情を誘っているようにも見えました。彼と被告訴人KYNには金沢市北安江の借家を引き払って宇出津に引っ越しをするのにずいぶんと迷惑を掛けたとも聞いていましたが、そんなことはおくびにも出さない感じでした。


被告訴人大網健二が最初に向かったのは金沢市円光寺の彼の自宅だったと思います。何か家に用事があるような行動でした。忘れ物をしたとはいっていなかったですが、今考えると、自宅から田上の金沢刑務所に向かってきた可能性が高いのに、すぐに自宅に戻ったのもどうかという感じです。


自宅の前に着くと、彼は一人で家の中に入って行きましたが、しばらくすると川のコートと防止を一つ手に持って、私に手渡そうとしました。家の前でお互いに立っている状態だったと記憶にありますが、反射的にいらないと断ると、泣きそうな顔になってもう一度渡そうとしてきたので、受け取りました。


そのあとだったと思うのですが、車で金沢市黒田の被告訴人KYNの自宅の前を通り過ぎたと思います。どこへ行くのかと聞いてはいなかったようにも思いますし、そのまま宇出津に帰るように聞いていたか、あるいは預かっていた車を見せに行くと聞いたように思います。


被告訴人KYNの家というのは、普通、車で通りぬけをするような道ではないと思います。間明の方から橋を渡ってきたのであれば、通り抜けで多少の近道をすることはあったと思います。住宅地ですが道幅も広いです。


間明の方から橋を渡ってくるということは、野田専光寺線を走ってきたということにもなりそうですが、そうではなく西金沢の駅の方から来たような気がしますが、細かいことは思い出せなくなっています。


いずれにせよ、被告訴人KYNの家の前を素通りしたことは間違いないと思います。私の方から被告訴人KYNのことを話題にしたと思いますが、会っていないと答えたか、はぐらかされたような感じで話は聞けなかったか、まあ、変わりはないというような簡単な返事だったように思います。


被告訴人KYNの家の前を素通りして少し行くと、広い道にぶつかります。その道は私も近くの東力に住んでいたのでよく使っていたのですが、左に行けば保古町、右に行けば金沢西インター近くのトラックターミナルの正面で8号線バイパスに出る道でした。


バイパスに出る手前の左側にはパチンコタイガーというパチンコ店がありました。前にそのあたりをGoogleマップで見たのですが、現在は以前の原型がないほどに変わっている様子でした。


ついでに書きますと、以前一度、被告訴人大網健二と被告訴人大網周一の3人でそのパチンコタイガーに行き、パチンコをしたということがありました。時期がはっきり思い出せないのですが、他にはない珍しい体験だったと記憶に残っています。


パチンコではなくパチスロをやったようにも記憶していますが、被告訴人大網周一はすごく慎重でギャンブルを恐れているようにも見えました。人一倍父親思いという感じでもありましたが、その父親のど外れたキャンブル癖で、小さい頃から迷惑も受けてきたのだろうとは思います。


それはまだパチンコオメガの間明店が営業していた頃でもあったように思います。黒田に入る橋の手前、野田専光寺線から入るところにオメガ間明店はありました。間明の陸橋のたもとでもあったと思いますが、野田専光寺線を挟んだ向こう側にはマカオというパチンコ店もありました。


そのパチンコマカオには被告訴人KYNのところに仕事に行っていた平成10年の頃にも、ちょこちょこと入って遊ぶことがありました。かなり古い店になっていましたが、昭和の終わりの頃のパチンコ店の雰囲気を色濃く残しているような店だったので、懐かしさもありました。


もしかするとまだ軍艦マーチの音楽が流れることもある希少なパチンコ店であったかもしれません。独自の口上でのアナウンスも流れることがあったかもしれません。「じゃんじゃんばりばり」とかいうやつです。


軍艦マーチは昭和の時代のパチンコ店の定番で、流していない店のほうが珍しかったような気もします。


パチンコオメガ間明店は、小さいパチンコ店でしたが比較的新しく見える店だったと思います。いきなり休業状態になり、改装をして新装開店をするような話も聞いたように思うのですが、そのまま再開することはなく潰れたような感じでした。当時、パチンコ店が潰れるというのは珍しいことでした。


パチンコオメガ間明店は、東力の私の住んでいたアパートからは、一番近いと思える場所にあるパチンコ店でもありました。大通りに出ることもなく行くことも出来たので、気軽に向かえたとも思います。当時の私は乗用車での信号待ちをかなり嫌って避ける傾向があったと思います。


普段、長距離運転手の仕事をしていた反動もあるのかと思いますが、東力から二口町への通勤もかなり苦痛に思っていたと記憶に残っています。若い頃というのは他にも、妙なこだわりを持っていたと思いますが、今でも割と強くそのようなことは記憶に残っています。


中央市場と東力のアパートの間には、長田オメガというパチンコ店もあったと思います。そこにも会社の帰りに寄ってパチスロをすることがありました。もっと中央市場に近いところには駅西オメガというのもありましたし、パチンコオークラもありました。


テレビのCMでも長田オメガと出ていたように思いますが、間明オメガというのは見たことも聞いたこともなかったような気がします。CMで見かけるようになった頃には、間明の店がなくなっていただけのことかもしれませんので、間明オメガにもしておきます。


その間明オメガで忘れられない思い出は、子ども二人を連れて行った時のことで、床に這いつくばって拾い集めたパチンコの玉やパチスロのコインを、真っ黒になった手で差し出してきたことがありました。服の方もところどころ真っ黒になっていました。


そこのとを書いておきたくて、ながながとパチンコ屋の話を書いたようなものです。


平成13年12月31日の話に戻します。被告訴人KYNの家の前を通って出た広い道を右に曲がると少し行った先に道幅は同じくらいの交差点があって、交差点の右の方には8番ラーメン、左側の交差点の向こう側にはコンビニがありました。サークルKだったような気がするのですが、平成10年頃の記憶。


そのあたりの住所は金沢市古府だと思います。交差点を左に行くと東京ストアの西南部店の前を通って八日市、さらには御経塚で国道8号線にぶつかる道でした。その東京ストアより手前のうどん屋で、初めに被告訴人大網健二と被告訴人KYNの3人で、仕事の話をしたことも既に書いていると思います。


交差点を右に行くと野田専光寺線の間明の陸橋を降りてきた辺りの交差点にぶつかりましたが、そのまま真っすぐいくと高畠の方に行き、玉鉾の方から来る広い道とぶつかっていました。直進すると8号バイパスの下をくぐって、金石に向かう川沿いの土手のような道につながっていました。


交差点を直進すると先ほどの説明のように、西インターのパチンコタイガーの横から8号パイパスに出ることが出来ましたが、これは一直線の道ではなかったようにも思います。一度パイパスが見える辺りまで近づいてから道路が直角に左に曲がっていたようにも思います。


交差点を越えてから突き当りの左に折れるカーブまで距離にしてどれぐらいだったか。その半分ぐらいのところだったように思うのですが、バイパスの方から来ると右手にまるでデパートにも見えるような割と大きな建物がありました。建物も新しく見えました。


交差点のコンビニの方向から向かったはずなのですが、私の記憶では、その問題の建物のコンビニの方角とは反対側にある横に入る道から、その建物の側面を通り右折してコンビニの方向に向かった場面が、記憶に残っているのです。


正面玄関がどこにあるのかもわからなかったですが、コンビニの方から来た道が優先道路で、そちらの方に正面があるように感じました。私が被告訴人大網健二の説明を受けながら主に見ていたのは、横の道に面した部分でした。見上げるような感じで見ていたと記憶に残っています。


記憶にあるのかないのかはっきり出来ないのは、その場で自分の軽四を見たのか見ていないのかということです。わざわざそこまで行ったのですから、その場に軽四が置いてあった可能性はあると思います。ただ、あったとしても路上に駐車したようなかっこうであったと思います。


建物の前は、この時も通過しただけだったようにも思いますが、停車をしていたとしても中にはいるようなことはなかったですし、建物の中に駐車場があるようなビルでもなかったはずです。


ビルは5階建て以上あったような気もしますし、一見したところビジネスホテルの建物にも思えましたが、看板のようなものは何も見当たらなかったように思います。以前、そこでその建物を見ていたという記憶もなかったのですが、普段余り通るような道でもなかったし、意識することもなかったと思います。


Googleのストリートビューに出てくる可能性は高いかと思いますが、まだ確認はしていませんでした。その辺りというのは住宅も少なく、以前はほとんどが空き地かあるいは田んぼにでもなっていたような気がします。


そのビルを被告訴人大網健二は自分の会社か学校のように話していましたが、近いうちに津幡の方に移転をするとか、津幡の方で建設中とも、あるいは言っていたかもしれません。いきなりの話でぴんとこなかったのですが、2年4ヶ月ぶりほどで社会に出てきたところだったので、感覚が鈍ってもいたと。


その後は、石川県庁にも近い8号バイパス沿いの、ヤマダ電機の大きな店舗に行って家電を見たことを憶えています。大きな画面のプラズマテレビという商品を見たのが特に印象的でした。ただ、私としては刑務所を出てそうそう家電のことは頭になく、そこでパソコンを見たことも印象には残っていません。


本来パソコンこそが私が最も関心を持つ電化の商品だったはずですが、それを見たという記憶も全く残ってはいないので、被告訴人大網健二が自分の考えてその店に連れて行ったのだと思いますが、今考えるとその場で誰かに私の姿を見せて記憶させるというのも、あるいは目的だったのかもしれません。


買い物をしたという記憶も残っていませんが、その時は久しぶりに社会に戻ってきたのでサービスとして気を利かせ、立ち寄ってくれたのかと、割と軽く考えていました。


金沢市内のどの道を走ったのかも余り記憶には残っていないのですが、大晦日ということもあってか、交通量も少なく感じていました。


その後は、粟崎の交差点の先にある回転寿司に入って食事をしました。代金を支払ってくれたのも彼だったと思います。粟崎の交差点からはどれぐらいか直進した左手にある店だったと思います。


粟崎は金沢市内だと思いますが、河北郡内灘町に隣接していて、内灘は私達能登の人間から見れば、金沢の出入口というイメージも強いのですが、内灘ではなく宇ノ気の方を通ることも多かったので、必ず通る場所でもありませんでした。


何度か書いていると思いますが、能登有料道路は昨年辺りに無料化され、名称も「のと里山海道」とかに変更になっています。2009年の3月以来、私は走行したことがないので現在はどのように変わっているのかもわからないのですが、昔からなじんできた道路でした。


バイクでは一度、志賀町の能登中核工業団地の国道側の入り口まで行ったことがありますが、スクーターだと有料道は走れませんし、バスや他人の車の同乗でも能登有料道路を走行したことはありません。


内灘から羽咋市の近くまでは左手がほぼ海岸線という道路で、その先はほとんどが山間の道路でしたが、当時の終点は穴水だったと思います。料金所は穴水の大分手前にあって、横田の料金所と呼ばれていたように思います。


料金所を過ぎてからは他に入る道もなかったですが、穴水に入ると此木という交差点があって、左が門前、輪島。右が穴水の町中、直進すると柳田村から珠洲方面になっていました。これは今も同じですが、終点は能登空港の近くまで伸びています。


山間の道を走るようになってからは、私の方から金沢刑務所でのことをいろいろと話したと記憶していますが、主に刑務官らの普通とは思えない行動や態度について話をしたと思います。映画の話もしていたかもしれません。


彼は金沢にいた頃より、よりいっそう神妙な感じになっていましたが、無口になってほとんど話しの聞き手になっていました。相当注意深いとともに万全に臨んでいるような感じだったので、何を考えているのか読めないところもあったのですが、妙に落ち着いていて、安堵しているようにも思えました。


表現の難しいところですが、その日のことは私の動向をうかがうという目的も感じさせず、終始控えめで、今考えるとまるでご機嫌取りに来たような感じでありました。


穴水の此木からはそのまま直進して山間の道を走り、柳田村の上町で、側道から降りて高架の下を右折して宇出津の町に入るという道と、此木の交差点を右折して穴水の町に入ってから国道249号線を左折して宇出津に向かう道がありました。その道だと鵜川を過ぎて宇出津に近づくと海岸線になります。


穴水からどちらの道を通ったのかも今は記憶にありませんが、まだまだ明るい時間に宇出津の私の家に着きました。帰った時、母親は不在で誰もおらず、しばらくはそこで被告訴人大網健二と話をしていたことも憶えています。何かを見せながら何かの説明をしたようにも思うのですが、これも今では。


今では記憶のはっきりしないことです。母親が戻ってくるまではかなりの時間があったようにも思います。少なくとも30分ぐらいはあったように思うのですが、母親が被告訴人大網健二と顔を合わせたのかどうかも、今の私の記憶でははっきりしません。


母親が戻る前に被告訴人大網健二は帰っていなくなったような気もするのですが、会って言葉を交わしたという場面を見た記憶もありません。さらに言えばその日のことは、夜、母親が作ってくれた熱いおでんを食べながら、紅白歌合戦を観ていたことです。


被告訴人大網健二との間には腹の探りあいのようなところがありました。私の方も相当慎重に構えていたと思います。いきなり刑務所から出てきたところだったので、正月という実感もなかったのですが、正月休みの予定について話をすることもなく別れました。


被告訴人大網健二と顔を合わせて話をしたのも、それが最後だったと思われます。開けて平成14年の春から初夏よりは前だったように思うのですが、一度電話で口喧嘩をしたようなことがありました。


余り自覚のないまま不快な思い出として思い出さないようにしていたのかもしれませんが、金沢刑務所を出たあとの被告訴人大網健二との関係の記憶というのは、平成11年当時のことより、薄くぼんやりとなっているような気もします。


どちらから何の用事で掛けた電話なのかも思い出せないのですが、昼の電話で自分の家の2階から掛けていた電話ということは憶えています。不信感を持っていることをストレートに伝え、警察のほうが調べている可能性が強いとも言ったように思います。


同じような頃、被告訴人KYNとの間にも似たような電話があったような気もするのですが、これも記憶がはっきりしません。


はっきりと記憶にあるのはその平成14年の春に、被告訴人KYNが突然家を訪ねてきて、自分の家の2階でパソコンを見ながら話をしたことです。インターネットにつながっている状態で、田舎に住んでいてもこんなことが出来る時代になったのだな、と感慨深げの彼の言葉だけが記憶に残っています。


いきなり傷害事件を起こして拘置所に入り、その後始末の引っ越しをさせられたのですから、ろくな挨拶もしない私こそ非常識と思われそうでもありますが、そういうことは全く眼中にないという感じだったとも思います。


いつ頃、引っ越しをしたのかその時期もはっきりとは聴いていない気がしますので、拘置所に移る前の金沢中警察署にいる段階で引っ越しがあったのかもしれません。


被告訴人KYNが一度、金沢中警察署に面会に来たことははっきり記憶していますし、配管の工事に来ていたこの金沢中警察署の建物に、こんなかたちで面会に来るとは思わなかったと話していたことだけ、その面会の内容として記憶に残っています。


母親も一回か二回は金沢中警察署に面会に来ましたが、すっかり諦めた様子でした。こころなしか、さっぱりした表情にも見えることもあったのですが、多くも語らず、そのうち面会にも来なくなったので、あとのこともわからなくなりました。


思えば、被告訴人大網健二の面会というのは金沢中警察署ではなかったように思います。


今細々としたことを書いていますが、それも先日あばれ祭りで被告訴人KYNに会ったことが大きいと思います、どちらかといえば優先順位も下げていたので、そのうちに錆が出て鈍くなったような頭の記憶の部分もあるのかもしれません。


元検事ともいう若い弁護士が、当番弁護で金沢中警察署に来ましたが、それは当番弁護の制度的にも、逮捕から時間の経っていない時期であったと考えられます。名前も聞いてはいたはずですが、まったく記憶に残っていません。


10分もいたのかと思いますが、言われたことは、再犯になるので実刑以外にはないという話でした。事件の資料を見た上でのデータ上の判断だったのだと思いますが、いっさいの期待を持たせないような対応でした。


逮捕されたのが8月12日で、拘置所に移送されたのが9月の20日頃だったので、改めて考えてみると金沢中警察署には一月半もいなかったことになりそうですが、今まではけっこう長い間いたような記憶でいました。やたらと一日の時間が長く感じられていたようにも思います。


たしかにそれは思い過ごしではないです。警察署の留置場の生活ではまともに陽の光を浴びることも出来ず、外の景色も見ることができませんでした。運動の時、大きな格子の間から、空や建物のごく一部が見えるだけ、あとは全て室内もしくは屋内という生活でした。


施設による違いもあると思いますが、金沢刑務所の拘置所の場合、独房においても日当たりもよく、風通しもよい生活環境でした。社会から切り離されたという諦めもはっきりするので、健康的な修行僧のような生活になったとも言えそうです。食生活もはるかに良くなっていたと思います。


同じ拘置舎の2階での生活でしたが、平成4年の時は被害者の意識も戻らず、植物人間の可能性や死んでしまう可能性も高い状況下だったので、それはそれは息苦しく重苦しい精神状態での拘置所生活でもありました。


判決が確定するまでちょうど一年ぐらいの拘置所での生活だったのかと思いますが、短くも思える生活で、面会もほとんどなかったので、記憶に残っていることも少ない生活でした。そういえばプログラミングの勉強をすることの多い生活でもあったと思います。


面会というのは母親の友人で遠縁にもあたるような人が、足の悪い母親に変わって代理のような感じで、何度か来ていたと思いますが、多くても2,3回だったような気もします。


金沢中警察署の面会で言えば、逮捕当時の日雇い労働派遣の会社の会長が来てくれたことがありました。200人の人夫を束ねる人で独裁者のような評判もある強面の会長でしたが、忙しい中来てくれて、弁護士を世話してやるとも言ってくれたように憶えています。


その会長との会話の中でも出たのですが、はっきりとは聞かなかったものの傷害事件のことが夕刊に出ていたような話でした。同じようなことは他にも一度耳にしたのですが、出所後、図書館にある北國新聞では確認が出来なかったので、北陸中日新聞に載った可能性はあるかと思います。


過去の北陸中日新聞の記事を見る方法は知らないので、未だ調べたこともないです。平成4年の事件にも触れられているような感じではありました。私自身、拘置所での一時期以外は一度も夕刊を購読したことがないので、夕刊というのも余りピンとこないのですが、平成4年の事件が載ったのも夕刊。


金沢刑務所での服役生活では身柄引受人とか、そういう話もほとんど出なかったと思います。未決勾留もあったので、一年ちょっとという短い刑期だったので、さほど深刻には考えなかったですが、なんの相談も見通しもないまま釈放され、母親がいたのでその時は宇出津に戻ることも出来ました。


金沢刑務所から出てきた日が大晦日だったので、一晩寝ると平成14年になっていました。すぐに行動に出なかったのも今考えるとどうかと思うのですが、平成11年の8月まで金沢で使っていたパソコンを組み立て、起動させたのは5日か一週間ほど経ってからだったと思います。


拘置所の生活ではプログラミングと情報処理の資格試験の勉強に力を入れていました。拘置所にいる間というのは裁判中でもありますが、裁判所に上申書を出すよりは、直接御庁(金沢地方検察庁)に上申書を郵送していたように思います。


その主な内容というのも被告訴人大網健二と被告訴人KYNの工作活動としか考えられない、不審な言動に関する事実の詳細だったと思います。刑務所の許可が出なければ書面を作成することも郵送することも出来なかったはずですが、どういう理由の記載で願箋を出していたのかも思い出せなくなっています。


それ以前の段階でも被告訴人KYNの不審な動向に関しては、再審請求の上申書として金沢地方裁判所に提出していたはずです。よりデータ化された日々の細かい行動の記録で、仕事と私生活の区別なく詳細な作業日報のような内容にもなっていたかと思いますが、日時と場所、人の記録には特に留意。


金沢の被告訴人KYNの家も電話番号は変わっていなかったと思うので、いつでも連絡をしたり話をすることは出来たように思うのですが、それをやったという記憶もほとんど残っていません。


一つ記憶に残っているのは、宇出津に帰っていた被告訴人KYNに電話をした時、真脇温泉にいるなどと話していたことです。この会話も録音はしていたように思います。


その録音に使ったボイスレコーダーというのは平成14年の12月の20日頃だったと思いますが、野々市の百満ボルトという家電店で買ったものでした。店の漢字があるいは間違っているかもしれません。あとでインターネットで確認します。


時刻は7月10日12時45分です。昨日は18時頃から中断したままになっていたと思います。昨日も公共施設である宇出津の図書館でノートパソコンを使っていました。今日も同じ場所で同じように始めたところですが、この項目は締めて、続きを書きます。


<2014-07-10 木 12:48> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]


|

« DONE 宇出津あばれ祭りでの被告訴人KYNとの再会と、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)に対する刑事告訴について 2014年7月8日 | トップページ | DONE 宇出津あばれ祭りでの被告訴人KYNとの再会と、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)に対する刑事告訴について 2014年7月10日 »

「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1177043/60560946

この記事へのトラックバック一覧です: DONE 宇出津あばれ祭りでの被告訴人KYNとの再会と、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)に対する刑事告訴について 2014年7月9日 :

« DONE 宇出津あばれ祭りでの被告訴人KYNとの再会と、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)に対する刑事告訴について 2014年7月8日 | トップページ | DONE 宇出津あばれ祭りでの被告訴人KYNとの再会と、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)に対する刑事告訴について 2014年7月10日 »