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2015年6月30日 (火)

DONE 宇出津あばれ祭りでの被告訴人KYNとの再会と、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)に対する刑事告訴について 2014年7月25日

DONE 宇出津あばれ祭りでの被告訴人KYNとの再会と、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)に対する刑事告訴について 2014年7月25日
CLOSED: [2014-07-30 水 10:19]
<2014-07-25 金 08:27> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]


田ノ浦の民家については以前にも触れたことがあると思います。地元暴力団の干渉で、暴走族の仲間内の分裂にもつながりました。時期的にははっきり思い出せないところもあるのですが、ほとぼりがさめた頃に、被告訴人大網周一がチャンスボールに使うようになったのです。


民家は現在、ばらばらになって残骸が残っているようです。小木港に魚釣りに行くのに決まって通る道なので、バイクで走りながら横目で見ることはありますが、立ち止まってまで見たことはありません。


宇出津の周辺というのは海岸線の平地が少なく、標高は高くはないと思いますが山が多いです。山の方は雪が多く、雪の重みで潰れたような木造の廃屋を見ることもありますが、それも屋根が崩れ落ちたとか部分的なもので、部分的に壁や柱は残っていたりします。


田ノ浦の民家の場合はあとかたもなく潰れています。まるで重機で解体作業をしたとしか思えないのですが、廃材はそのままになっているようで、長い草の下に隠れて部分的に見える状態です。雷でも落ちて木っ端微塵に吹き飛んだようにも見えるのですが、自然に朽ちたものなのか不思議には思ってきました。


石川県鳳珠郡能登町宇出津ロ - Google マップ http://bit.ly/1ukJ3SD


ポイントとしての情報取得はできなかったのですが、範囲としての情報取得ができたのが上記のGoogleマップです。どうも田ノ浦という住所はないようです。


田ノ浦は昭和60年代か平成に入ってから、住宅も増えたように思いますが、昭和57年当時は家も少なかったように思います。田ノ浦には同級生もいなかったので余り知らないのですが、宇出津の町内ではなく、あばれ祭りにも参加していないと聞いたことがありました。


思えば源平も住所は宇出津山分になると近年になって知りました。源平には同級生が二人いたので遊びに行ったこともあり、祭りを見に行ったこともありました。田ノ浦の祭りというのは聞いたこともないですが、源平の方がずっと宇出津の町からは離れています。


道路は県道35号になるようです。看板は出ているのかもしれませんが、意識したこともなく今日初めて知りました。宇出津から羽根、小浦、真脇、姫、小木に行く、ほとんどが海岸線沿いの道路です。


宇出津からその県道で小木方面に向かうと、初めに右手に海が見えて、すぐ左側にあるのがその民家でした。周辺には家もなく、人の住む他の家まではけっこう離れていたと思いますが、主要道路沿いにあるので、車で通っていると割と目立つ場所でもあったとは思います。


珠洲市に行くのも山沿いの珠洲道路で直行というのが当たり前になり、宇出津の町にもバイパスの道路ができたし、小木港の遠洋漁船も激減したので、交通量も昭和57年当時の方が、多かったことも考えられます。人口が減った割に車の所有率は増えたと考えられ、比較は難しいですが。


チャンスボールに使われていた部屋は厚い記事のカーテンが張ってあったと思います。外に光がもれないようにしていたと思いますが、チャンスボールの部屋自体は電気をつけずに使っていたとも思います。前の廊下の方には人が集まり、十分に顔が識別できる程度の明かりはついていたと思います。


外に光がもれなかったとも考えにくいのですが、ちょうど左に曲がる狭い道のカーブの手前でもあったので、よほどでないと注意して見る人はいなかったとも考えられます。


大ぴらに夜に電気をつけることはなかったと思いますが、被告訴人大網周一からもさほど警戒心や注意を感じることは、今考えても不思議になかったように思います。


当時、宇出津にはK組というヤクザがありました。聞いた話だと私の父親も弟分のようなOさんと二人で、賭博にでかけ、すってんてんになって帰ってくることがあったそうです。そのOさんは平成9年の春頃、金沢でヨコハマタイヤの社長をしていると聞いていましたが、何度か電話で話をしていました。


藤浪の辺田の浜に父親が残した家の処分の話でしたが、私が普通免許を取得した昭和58年の夏ころはまだそこでヨコハマタイヤの仕事を継続し、Oさんはずっと所長のような立場ではなかったかと思われます。


父親は酒飲みで魚釣りも本格的にやっていたと聞きますが、働き者でなくなったときには短期間で借金を返済した上、けっこうまとまった額のお金も残していたと聞いています。


K組ですが、私が宇出津に引っ越してきた小学生の頃から話は聞いていました。娘という小さい子供の姿は見た記憶がありますが、組長に関しては有名人でよく話を耳にしていたものの、それという人を見たことは一度もなく、未だに顔も知りません。ずいぶん前に亡くなっているようには聞いています。


K組長に関しては、輪島の方から来たという話を聞いたこともありましたが、昭和57年頃には半ば隠居状態で、表立った活動はしていないと聞いていましたし、よく魚釣りをしているとも聞いていましたので、それとはしらず見かけていたという可能性はあるかとは思います。


私自身、中学生の頃以降は魚釣りをすることはなく、釣り道具も持っていなかったと思いますが、泳ぎに海に行くことは多かったと思います。


K組はちょっと大きな普通の民家でしたが、遠島山公園の入口にも近い町外れにありました。建物は現在もそのまま残っていると思います。5月頃には近くを通りかかって見ているのでそのままだと思います。空き地があるので普通に見える建物です。


そのあたりは地元で「城山(じょうやま)」と呼ばれてきました。遠島山公園も城山と呼ぶ人が多いのではと思います。そのあたりも現在はいつの間にか住宅が増えていますが、昭和の時代は家も少なかったように思います。


住宅は少なかったと思いますが、遠島山公園の方はまだ人が訪れる観光地のようにもなっていて、夏はかき氷などを売る海の家の売店のような店も、まだやっていたと思います。現在も維持管理はされていますが、観光はごくわずかで、近所の人の散歩ぐらいしか見かけることはありません。


城山というのは高台になっていて、坂を登り切るとすぐに道が二つにわかれています。直進するとそのまま遠島山公園の入り口に突き当たります。


左の方のやや狭い道を行くと、突き当りにはユースホステルがありました。昭和の時代には利用客もいたようですが、ずっと前から営業しているような様子は見たことがありません。建物はそのまま残っています。春に桜の見物と写真撮影に、吊り橋を渡って足を伸ばしました。


能登広域勤労青少年ホーム - Google マップ http://bit.ly/1nYZn1O


平成9年の4月か5月ころだったと思いますが、上記の場所にパソコンの無料講座があって、半月ほどの間だったでしょうか、歩いて通ったことがありました。建物の裏側は崖になっていて、その下にあるのが田ノ浦です。航空写真ではちょっとわかりづらいかもしれません。


この時はK組の家の前を歩いて通っていました。講座も終わりに近づいた頃だったと思いますが、ふと目をやるとそのすぐ近くに、「大脇昆布」という看板があって驚きました。


平成2年になるかと思います。金沢市問屋町のトナミ航空、物産展の荷物を積み込んでいたところ、ライトバンだったと思いますが、大脇昆布という名前と宇出津山分と住所の書いてあるダンボールを持ってきました。


宇出津で昆布というのも見たことも聞いたこともなかったので、意外だったのですが、大脇というのも聞いたことのない名前でした。あるいは、宇出津大棚木と書いてあったかもしれません。


昆布ということで海の側や天日干しを想像したのかと思いますが、棚木の海岸でそれらしい会社や昆布を干す姿は見たことがありませんでした。小さい頃は辺田の浜で天草を干す姿は見かけていましたが、それも宇出津では見かけることがなかったと思います。


宇出津に昆布というのも宇出津の町に生まれ育った私にすれば意外な組み合わせだったのですが、車を運転して荷物を持ってきていたのが、宇出津のKという人物でした。漢字一文字の苗字で、読みはひらがな二文字になります。


今しがた、家にある2012年版の能登町の電話帳で調べてみたのですが、意外なことに能登町全体では19件の登録がありました。小木や松波、鵜川にまであって能登町全域にある名前のようです。


宇出津では2件、崎山に1件ありました。崎山は住所が能登町崎山になっていはいますが、宇出津の町内のようなものであばれ祭りにも参加しています。一丁目から四丁目まであるようです。昔は崎山台地とも呼ばれていましたが、城山とは向き合う感じで港というか宇出津湾を挟む高台です。


そのKさんですが、宇出津のK村さんと姫のNKさんが、2トン車の持ち込みで金沢市場輸送で市内配達の仕事を始めた頃に、一緒に同じような市内配達をやっていました。宇出津の人であることとKという名前は、被告訴人大網健二から聞いたのだと思います。


角田ストアーというのは宇出津の中心部に昔からあっておなじみなのですが、Kという名前を聞いたのは初めてだったので、よけいに強く印象に残りました。


被告訴人大網健二から聞いた話か、私の想像力が先走ったのか、今では自身を持ってはっきりできませんが、宇出津の角田ストアーのあたりから宇出津小学校の前辺りの人と聞いたように憶えています。


宇出津の小学校の前辺りの地域というのは、総称的に「田町(たまち)」と読んでいました。最近になって人から聞いたのですが、田町という町内はなく、「上田町(かみたまち)と横町(横町)」のことをまとめて田町と呼んでいる、とか。


現在は人の数も減り、車でどこにでもいけるので、特色も薄くなっていると思いますが、昭和の時代の頃の宇出津は、昔ほど町内や地区ごとの特色が、人の生活様式や性格にも及んで、色濃い特色を属性のようにしていましたが、実体験の積み重ねによる共通認識のようなもので、一般にはわかりにくいかと。


おおざっぱにわけると、マチ、新町、新村、棚木という区分もありました。春の曳き山祭りもそれぞれに1台ずつ4台出ていましたが、現在は思い出せないぐらいの前からマチと棚木の2台だけになっています。


マチと棚木は、あばれ祭りでぶち壊しをする酒垂神社と白山神社の神輿にも対応しています。マチは崎山台地の下から坂に家のある地区ですが、魚市場の辺りの天保島という町内から警察署のあるあたりの桜町まで、たしか9つの町内になっているかと思います。


漁師の多い地区でもありましたが、現在は往時の面影も感じられません。外にいる人の姿を見ることも少ないです。このマチの9つの町内のキリコは、あばれ祭りで順番の先頭の特別枠になるという決まりも昔からあるようです。


他の町内だと、その町内のキリコを探すのも大変というか、知っている人に順番を聞くか、一つずつ探しまわるしかありませんが、マチだと先頭から9番以内ということでかなり探しやすくなります。


これも最近になって人から聞いた話ですが、宇出津は36の町内がキリコを出しているとのことで、今年は横町が人手不足で出さず、35の町内だったと聞きました。キリコは大きい町内だと大中小と3台出す町内もありましたが、数も減ってきているそうです。


キリコには江戸時代の時代劇に出てくる御用のような提灯があって、そこに町内名が書いてあることもあるのですが、別の言葉が書いてあることもあって、私がみても町内のわからないキリコもありました。


大脇昆布は、たまに角田ストアーで展示即売をやっているのを見かけますが、昆布を作っているのではなく、削って加工をしているようです。ネット上の情報だと代表者の名前も大脇になっていました。全国の物産展で販売をしているとも書いてありました。


昨夜は、金沢市尾張町の被告訴人大網健二の金沢高校での同級生のことを書きましたが、その同級生の家というのは設備会社だと聞いていました。3,4ヶ月ほど前になるでしょうか、インターネットで検索したところ、現在は社長になっているらしいということもわかりました。


設備会社という呼び方には配管設備を含むことが多いようです。スプリンクラーの設置とか防災関係の仕事もあるようですが、水の浄化設備とかもあるので、手がける業務の内容というのも幅広さはあると思います。


人によって配管屋と呼んだり、設備屋と呼んだり、あるいは水道屋とも呼ぶかと思いますが、仕事の内容が多岐に渡ることも、私が実際に経験して感じたことでした。


金沢の西インターの近く、たぶん住所は新保になるかと思いますが、そこに作業場兼事務所をかまえるKさんについては、既に書いている部分があると思います。平成4年の2月か3月頃に、被告訴人KYNのマンションで顔は合わせていた人のことです。


見た感じは若くも見える人でしたがKさんは私達よりけっこう年上と聞いていたようにも思います。私より一つか二つ年下と聞いていた珠洲市蛸島の青年と二人で配管の仕事をやっていました。青年と書きましたが、当時はまだ20代の終わり頃と聞いていたような気もします。


被告訴人KYNのところで配管の仕事を初めて2,3日後には、そのKさんの現場である能美郡辰口町の北陸先端科学技術大学院大学の地下ピットで、応援での配管の仕事をしていたことも、既に書いていると思います。


いつ頃かは思い出せませんが、一度、夕方遅い時間にKさんの作業場に、尾張町のY君が来ていました。被告訴人大網健二の同級生であることを含め、私が当然に知っているように被告訴人KYNは話していたこともありましたが、私は言葉を交わすことも、目を合わせることもなかったと記憶にしています。


被告訴人KYNからも、被告訴人大網健二と今でも親交が続いているような話は聞きませんでしたし、私も尋ねることはなかったので、話題として触れることも少なかったと思います。


被告訴人KYNの仕事の取引相手や関係先については、大量の名刺をあずかって自宅に持ち帰り、パソコンにデータ入力をしていたので、Y君と付き合いがあるらしいことは、わかってもいました。データは年賀状にも利用していたと思いますが、長い間名刺をあずかっていました。


Y君と書いたのは被告訴人大網健二が、その全国的にもよくある名前に、なぜか君をつけて呼ぶことが多かったからです。他に君付けで誰かの名前を呼ぶことはなかったと思いますが、その金沢高校時代の友人に関しては君付けで呼んでいました。


データ入力のためたくさんの名刺をあずかったのは、年賀状を出す正月前より、かなり前だったと思うので、被告訴人KYNのところで仕事をはじめてすぐのことであったと思います。平成9年の11月になっていたことは憶えていますが、11月のいつ頃であったかは、現在、よくは思い出せません。


11月26日の私の誕生日の夜、アンカーインに私を呼び出したことは既に書いていると思います。その一週間から10日、あるいは半月前と思われるので、11月の中頃か、10日頃になるのではとも思われます。


アンカーインに関しては、Googleのストリートビューで、建物を見つけ、それをスクリーンショットにしましたが、まだ、本書では取り上げていないと思います。店が営業をしている状況には見えなかったですが、夜に行くことがほとんどだったので、昼の姿を見ると少し違ったような印象もありました。


当時の私は、宅地建物取引主任者の資格取得の勉強もしていました。10月ではなかったかと思いますが、実際に試験に行ったこともありました。金沢工業大学が試験会場でした。住所は石川郡野々市町かと思われます。現在は野々市市になっています。能美郡も能美市になっているかと思います。


試験に行く前に、被告訴人大網健二と電話で話していましたが、彼は試験の申し込みをしているけど、試験には行かないと話していました。不動産の仕事をしているので試験で有利になる条件も持っていると話していましたが、まるで行く気がないという話しぶりでした。


既に合格して資格を持っていれば、当然に試験を受ける必要もないことですが、ちょうどその年は法律が変更になって、宅地建物取引主任者の資格者がいなければ、契約の締結ができないということにもなっていたと記憶しています。


話を聞いても私は半信半疑で、本当は既に資格を持っているのではとも考えていました。試験自体もそれほど難しいものとは思えず、不動産の仕事をしていれば自然に覚えることも多く、また、わからなことは教えてもらいやすい環境にもいると考えたからです。


被告訴人大網健二は合格していない、資格を持っていないと話していましたが、それを確認することもできませんでした。彼は遅くても平成2年には不動産の仕事を始め、8年から9年程度の経験は積んでいたはずなのです。


たしか試験自体の合格率は高くなかったと思いますが、資格マニアのような素人が、とりあえずで資格の取得を目指す例も多かったと思いますし、未経験とは大きな開きのある職種だとも思えました。


既に何回か書いていることと思いますが、笹田がS藤を連れて金沢港のイワシの現場にやってきた。その平成1年12月を基準に、その数カ月前には本陣不動産株式会社で、不動産の仕事を始めていたという記憶を前提にした計算であります。


不動産の仕事としては、接待の送迎待ちでタクシーの運転手のようなことをやらされているとか、愚痴も多く、腰の定まっていない時期でもあったとは思いますが、本当は中古車売買の仕事がしたいのかとも、傍目から見えていた時期でもあったと思います。


実際に被告訴人大網健二は、中古車売買の仕事を不動産の営業の仕事をしながら手がけ、それで笹田とトラブルになりました。どことなく腑に落ちない変な話で、過剰な演技にも思えることがありましたが、目的からは理解することができませんでした。


中古車売買の売買に関しては、被告訴人安田繁克との間にも関係があったと聞いています。もっともその時点で私は被告訴人安田繁克の顔を知っていたものの、名前は全く知りませんでした。


本来はイワシの運搬の松浦さんの愛人の息子だったのですが、私は取り違えて堂野さんの愛人の息子だと長い間勘違いしていたような記憶もあります。


誰からどういうかたちで聞いていたのかはっきり思い出せない部分もあるのですが、市場急配センターというか市内配達の若い運転手に、BMWを紹介したような話を聞いていました。背の高い若い運転手というのが、キーワードになっていたようにも思います。


実際に私は、金沢市場輸送の駐車場でそれらしいBMWを見たことがありました。スポーツタイプのようなBMWです。私が小学校の5,6年生の頃なので昭和50年頃になるかと思いますが、おもちゃ屋にプラモデルとして置いてあったような古い型のBMWです。


ネットで調べればそれらしい写真を見つけることはできると思いますが、平成2年ころの当時でもほとんど見かけることのない、古い車になっていました。


私はその車を、大型トラックの運転手の窓越しに見たような記憶があります。午前中という記憶もあるので、鮮魚の青森定期便でも積んでいたのかもしれません。急いでいたので、近くで車を見る余裕もなかったですが、遠目にみてもBMWの状態はかなり悪そうなポンコツに思えました。


サーキットの狼 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%AE%E7%8B%BC


上記の漫画の中で出てくるような型のBMWでした。1975年(昭和50年)から1979年(昭和54年)にかけて「週刊少年ジャンプ」(集英社)に連載、とあります。


状態が良ければ相当な高値がついたと思いますが、壊れて動かなくなるのが時間の問題のスクラップにも見えました。そのBMWを金沢市場輸送の駐車場で見たのは1回かあるいは2回なので、売買は成立しなかった可能性が高いと思われますが、被告訴人大網健二にどうなったのかと尋ねることはなかったと。


私が被告訴人大網健二に被害者AAさんとの交際について相談をしたのは、平成3年の12月に入ってからだと思います。21日にネックレスのプレゼントを買って渡そうとして、一週間から2週間ほど前ではなかったかと思います。


どちらが先立ったかは現在はっきりと思い出せないですが、被告訴人安田敏と被告訴人大網健二のどちらかにクリスマスにプレゼントを贈ってみればどうかと提案というかアドバイスを受け、どちらにもそれがよいと割と心よい返事をもらったことはよく憶えています。


その後も何度か、被告訴人大網健二には被害者AAさんのことで相談をしましたが、一度、牙を向いたような罵り調で、「あの時、あの男と車の事で喫茶店で会った時、あの男が一緒に連れていた女か」と吐き捨てるように言ったことがありました。


残念なことに具体的な言葉が思い出せないのですが、「あの男」とは言っていなかったにせよ、被告訴人安田繁克意外にはあり得ないような口ぶりでした。それは間髪をおかない反応でもあったと思います。


似たようなことは前妻との間にもありました。まだ正式には付き合っていないが、というような前置きで被害者AAさんとの関係を話した時のことです。電話での話だったと思うのですが、平成3年11月前半の可能性が高いと思います。


前妻は「あのチャラチャラした女やろ。ソバージュ掛けた。茶色い髪の女。」と憤慨したような口調で、即座に反応しました。


私は被害者AAさんが、パーマをかけたのも髪を染めたのも一度も見たことがなかったのですが、一時的にそういうこともあって、金沢市場輸送に給料袋を取りに来た時に姿を見たのかと、ちょっとだけ考えたのですが、そんな短期間に直毛に戻したり、髪を黒に染め直すはずはないと頭の中で否定しました。


ソバージュ - Google 検索 http://bit.ly/1keMbuY


確認を兼ねて調べてみたのですが、ソバージュと言ってもいろいろなタイプがあるようです。平成の初期の私の世間的イメージでは、相当にチリチリのインスタント焼きそばの麺のような髪型というイメージがありました。


今考え直してみると、前妻は谷口さんと勘違いしていたのかもしれません。谷口さんのことは、これまでにも少しは書いたことがあるかもしれませんが、出していても匿名にしていると思います。


別にかなり重要な事実に関わる人なので、公益性とのバランスも考えて、あえて実名記載に切り替えます。


谷口さんは女性事務員でした。いつ頃から会社にいたのかはっきりとは思い出せないですが、被害者AAさんの姿を金沢市場輸送で見るようになる、かなり前からはいたように思います。ただ、西念町に事務所があった頃には、姿はなかったように思います。


歳のことは聞いていなかったと思いますが、自分よりはけっこう年上だとは思っていました。私が25歳ぐらいの時のことです。二十代の終わりから三十代前半といったところでしょうか。推定ですが。年配という話も聞いたことはなかったと思います。


暇を持て余している時に、何度か話をしたことがありました。当時は女性として余り意識もしなかったですが、後になって思うと、豊満で色っぽいところもあったかな、という気もします。独身じゃないような話は少し耳にしていたと思いますが、家族の話などを耳にすることもありませんでした。


話をすると、被告訴人竹沢俊寿会長の夫人について、息が詰まるとか愚痴のようなことをこぼしていたことを憶えています。けっこう日頃の不満を溜めこんでいるようにも見えました。経理とか事務に関しては厳しいところもあったようです。


夫人は運転手に対して睨みをきかせるようなことはなかったですが、ことお金の問題に関しては被告訴人竹沢俊寿を尻に敷いて抑えこむ性格とも聞いていたので、そういう一面が出ていたのかもしれません。


私から見れば、西念町の事務所にいた頃の夫人というのは、無口で無愛想。事務所にいるときは机に向かって仕事をするだけで、無表情でもあったと思います。常になみならぬ不満を抱えているような感じにも見えていました。経営がそれだけ危機的状態とも聞くことはありましたが、暗かったです。


事務所が二口町に移ると、事務所も広く明るい日差しが全体的に入るようになりましたが、夫人も別人のように明るく穏やかな顔を見せるようになりました。移転してからは夜の片町での飲み屋の仕事もやめて事務に専念するようになったと聞き、常時事務所にいるようになっていました。


時刻は7月26日10時17分になっています。昨夜は久しぶりにテレビをつけたまま朝まで寝ていました。夜中に目が覚めたのですが、テレビを消さないうちにまた寝てしまいました。天気が良いです。気温がかなり上がると昨日予報が出ていました。


今日は一つ気になっったツイートをご紹介してから項目を新しくして続きを書きたいと思います。


深澤諭史 (fukazawas)さんはTwitterを使っています https://twitter.com/fukazawas


2014-07-26-101617_深澤諭史 (fukazawas)さんはTwitterを使っています.jpg pic.twitter.com/vVbQIP8rUJ


リツイートしているだけでブロックされた実名の弁護士ツイッターアカウントです。トップにツイートを固定していますが、共著で出版した本の紹介をしているようです。


また,ネット上でまことしやかに流れる「神話」「デマ」についても徹底解説しています。 ← とも書いていますが、やたらと改行を入れています。Twilogでも初めの改行以下は全部切り捨てになる仕様なのですが、仕様上、運用の場面によっては他にも支障が出そうです。


フォロワーが974件ということに先ほど初めて気がついたのですが、自著まで紹介していてフォロワーが千に満たないとは、社会的にどんな評価を受けたのかと考えてしまいました。弁護士のアカウント全体にも通じる傾向ではありますので、参考にご紹介しました。


<2014-07-26 土 10:34> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]


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