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2015年6月30日 (火)

DONE 新しい事務員を紹介予定だったという運転手について_平成26年6月24日

DONE 新しい事務員を紹介予定だったという運転手について_平成26年6月24日
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内容的に一部[[*平成3年11月、被告訴人安田敏が自ら乗務している大型ウィング車で、わざと工事現場に突入したと思われる件について_2014年6月24日]]の続きになります。


被告訴人安田敏が身動きできなくした大型トラックを引き上げた時には、夕立のような強い雨が降っていました。夕立と言ってもすっかり暗くなった時間帯です。雨は引き上げる前から降っていたと思いますが、引き上げに成功すると皆すぐにその場を立ち去りました。


私はその時、誰かと一緒に側にいたワゴン車に乗り込み、それですぐ近くではなりますが、市場急配センターまで送ってもらいました。誰の車かもわからなかったのですが、運転をしていたのは顔をよく知る人物だったので、ワゴン車はその人の車だったのだと思います。


その人は木村という名前で呼ばれていたと思います。今思えば名前をちょくちょく耳にする機会はありました。金沢市場輸送にいる時から姿は見かけていて、顔も知っていたと思いますが、その頃には名前も知らなかったと思います。


かなり前から顔は見ていたと思いますが、いつ頃からとなると記憶ははっきりしません。まだ市場急配センターの建物がなく金沢市場輸送に同居していた頃から、見かけていたような気もしますし、そうでもない気もしますので、その辺りの記憶はかなり曖昧です。


市場急配センターの事務所が出来てそちらに移転してからも、市場急配センターの運転手の姿は、金沢市場輸送の給油機のところで見かけることがありました。


そういえばその木村さん本人が、石川県加賀市の片山津温泉「ながやま」での慰安会の世話をしたものの、被告訴人竹沢俊寿に代払いしたお金を踏み倒されたような話をしていたことがありました。信じられないとんでもない人間だという話しぶりでした。


その話は市場急配センターの一階休憩室で聴いたようにも思いますが、差し向かいで直接話をしていたわけではなかったように思います。直接言葉を交わしたことは一度もなかったような気もしますが、その時は会話の輪の中で聴いたような気もします。


あるいは平成4年1月11日の夜のことで、場所は片山津温泉「せきや」の客室のなかでした。出入口に近い方に小さい部屋があって、そこで数人が集まって麻雀をやっており、木村さんもメンバーとしてその場の麻雀に参加していました。


強面という風貌の人でもありましたが、普段はあえてそれを隠しているのかと思えるほど、地味な格好の作業服姿でまるで農家のおじさんという出で立ちでしたが、客室で麻雀をしているその時だけは、黒い革のチョッキを羽織り、ギャングかマフィアの要人にもみえるぐらいでした。


酒も入っていたのかもしれませんが、普段は無口なのに、割と陽気な感じでもあったと記憶しています。その時は近くで言葉を交わす会話に私が加わるようなことはなかったと思います。


年齢は60代にも50代にも見えたので、はっきりしたことはわからず、年齢の話を聞くこともなかったと思います。


割と早い段階で、コンパニオンの仕事をしていると聞きました。増泉とも聴いたと記憶しています。加賀温泉のホテルに派遣するようなコンパニオンの仕事だったと思います。


どちらかといえば金貸しにも見えるようなタイプで、お金に困っているようにはとても見えませんでしたが、運動でも兼ねていたのか運転手をしていました。それも社員ではなく、ポンコツの2トン車を持ち込みにして仕事をしているような話でした。


そのトラックは何度か見かけていましたが、相当かなりのポンコツにみえました。宇出津のK村さんや姫のNKさんが、同じく持ち込みで乗っていた2トン車もポンコツには見えていましたが、それと比較しても状態が悪いようにみえるトラックでした。


さきほど片山津温泉「ながやま」の慰安会について書きましたが、時期は平成2年の6月の後半ではなかったかと思います。これも一つの目安になっていますが、被告訴人浜口卓也が来る前だったと思います。いればいたはずの姿がなかったからです。それにいたらどうなっていたのかと思うこともありました。


配車係の一人だったYTの姿もその慰安会の時点ではあったように思います。あとになってラウンジのような場所で飲んでいて、イワシのダンプにも乗務していたSSと、ケンカになったとかケンカになりかけたという話を誰かに聞いた覚えがあります。


なんとなく7月にはYTはやめていなくなっていたという感覚があるのですが、同じく配車係の仕事をしていたFHも一緒にやめたはずです。そういえばFNの方は、多少なり被告訴人松平日出男と仕事上の付き合いもあったようで、年も近く気が合う関係だったことも考えられなくはないです。


2月の初めに福岡に行った時も、帰り荷はそのFNの関係でした。中西運輸商で一緒だった二人の人物とも、電話で話をする機会がありましたが、一人は九州の人でした。九州に駐在員かちょっとした支店をおいているような話だったと思います。


河北郡津幡町に会社がある運送会社だと聞いていましたが、今Googleで調べたところ、それらしい情報は見つかりませんでした。運送会社の名前も一部記憶がはっきりしなくなっています。


あれも平成4年の1月か2月頃だったと思いますが、北陸ハイミールでその会社の大型トラックを見ることがありました。その時の運転手ですが昭和59年に私が初めて金沢市場輸送に入社した時にいた運転手だったと思います。


言葉を交わすことはありませんでしたが、その人に間違いはないと思いました。彼は免許取り消し中で、私のトラックに同乗して指導などしていたことがありましたが、まもなくやめていなくなりました。


ながやま 大江戸温泉物語ながやま【公式サイト】 石川県 http://bit.ly/V8y4fz


片山津温泉のながやまはホームページも見つかりました。数年前はテレビのCMでも見かけていたような気がしますが、そういえば最近は温泉旅館のCMというのもほとんど見かけなくなっています。


私が子供の頃は、一番良く見かけるようなCMが石川県内の温泉旅館のCMでした。バブル景気の崩壊で大打撃を受けた業界とも聞いていますが、数年前の一時期はちらほらとCMを見かける時期もあったかと思います。今はネット社会なのでテレビCMの必要性も低くはなっているのかもしれません。


金沢市場輸送での温泉での慰安会というのは、私が経験したので2回だけでしたが、いずれも全員参加型になっていました。それまでも希望者だけを募ってやってはいたようですが、ほとんどが麻雀好きのメンバーの参加だと聞いたこともありました。


ながやま、での慰安会の時点で、私は被害者AAの存在を意識していたように思います。彼女の姿はありませんでしたが、不参加なのかと考えたようにも思います。


金沢市場輸送の事務所で彼女の姿を見かけるようになって一月あるいはそれに近いぐらいの経過があったようにも思います。市場急配センターの事務員という意識はなかったようにも思うのですが、部分的にそのことは自分の意識の状態として記憶に残っています。


次も同じような時期ではなかったかと思いますが、翌年つまり平成3年のことです。その時の慰安会は同じ加賀温泉でも山代温泉であったと聞いたように思います。運転手以外の事務員や社長だけでの慰安会があり、それには被害者AAさんも参加したように聞きました。


被告訴人竹沢俊寿がその慰安会の時に、被害者AAさんに自分の車である2枚ドアのジャガーをやるとか言っていたという話も聞いたように思いますが、これは別の機会にも聞いた覚えがあり、彼女本人から聞いたようにも思います。温泉の時とは聞かなかったとは思います。


その話を誰から聞いたとなると、被告訴人安田敏から聞いた可能性が高いと思いますが、そういう情報の多くは、被告訴人多田敏明から聞いた話らしく、被告訴人安田敏もそのように話すことが何度かあったと記憶しています。


被告訴人安田敏がいつ頃から市場急配センターで仕事をするようになったのかはっきり思い出せないところもありますが、初めに接触をして来たのは4月の終わり頃だったとは記憶しています。


その後、まだ務めていた輪島屋鮮冷の運転手として4トン車に乗って金沢市場輸送に来て、荷物の積み替えをしたことも記憶しています。冷凍物だったと思いますが、パチンコオークラの駐車場の敷地での積み替えでした。給油機のブロック塀の裏側です。


遅くても5月の10日頃には金沢市場輸送の入社が決まって、市場急配センターで市内配達の仕事をするようになっていました。50万円の前借りの保証人であり紹介者である私にも説明がないまま、当然の事のようにすぐに市場急配センターでの仕事が決まっていました。


金沢市場輸送の社員として金沢市場輸送での仕事というのは一日もなかったように思います。金沢市場輸送は長距離が主体の運送会社ではありましたが、前にいたYTとFHの二人の配車係も、配車係の仕事というのは被告訴人本恒夫にほとんんど与えられなかった様子でありながら時々の仕事はしていました。


私の知らないところで打ち合わせができていたとしか思えないような事の運びでしたが、私が市場急配センターに移った直後、たぶんその初日から毎日、市場急配センターで被告訴人池田宏美の姿を見るようになったのも、偶然とは思えませんでした。


それまでは毎日、金沢市場輸送の事務所で姿を見ていて、運転手なのでいつも事務所の中を見ていたわけではなかったですが、席を外している姿を見たことがなかったような被告訴人池田宏美だったのです。市場急配センターの仕事をしていたというのは説明はなくても納得出来ましたが。


その後も市場急配センターでは被告訴人池田宏美が席を外す姿というのは、滅多に見かけることがなかったと思います。被害者AAさんとは違い、いつも割と遅い時間まで事務所で仕事をしていました。18時ころは普通に事務所にいたとも思います。


19時ともなれば二階の事務所に電気が付いている事自体、かなり稀だったとは思いますが、被告訴人池田宏美が帰っていく姿というのも余り見かけなかったような気もします。


被告訴人池田宏美はいつも会社事務所の正面前に車を駐車していました。一階の休憩室から外を見ていれば、姿は見えていたと思いますが、帰っていく姿というのは余り見かけることがなかったように思います。


長距離の運転手は当日の運行がない場合、一応は17時が定時の退社時間ということになっていたかと思いますが、タイムカードというのもなかったと思いますし、そのあたりはかなりいい加減だったと思います。


早く帰ってもすることがないし、17時から18時というのは道路が渋滞で混み合う時間帯でもあったので、時間を潰すことも多かったと思います。アパートに戻ってテレビを見ようとは考えたこともなかったと思います。


一階の休憩室にも、半分近くが畳の座敷になっていて小さなテレビが置いてありましたが、そのテレビをつけてみること言うことはほとんどなかったと思います。


それだけに平成4年4月1日の事件当日、そのテレビで全国的に話題の注目選手になっていた松井秀喜選手の金沢の星稜高校と昔、芸能人が多いと聞いていた東京の堀越学園の高校野球の試合を見ていたことは、そのテレビが点いているもの余り見た覚えがないということで、強く印象に残っています。


そのテレビは赤い色の小さいテレビだったと思います。平成3年の9月、被告訴人安田敏と二人で8号線バイパスの電化のコジマに行ったのですが、店に入って少しすると被告訴人池田宏美とAAさんが来ました。テレビはその時に被告訴人池田宏美らが買ったものだと思います。


休憩室の内装が完成した直後だったと思いますが、その建築工事中に、被害者AAさんのフイルム貼りの手伝いがありました。テレビと電化のコジマのことは9月の20日頃かと思います。


自由テーマのような感じになってきて、何を目的に書いているのか自分でも把握しづらくなってきました。この項目では木村さんのことがメインテーマだったと思いますが、関連した雑多な事実関係も盛り込んでおこうかと思います。


当時は、ホテルながやま、という名称であったようにあったように思い、ながやま、だけではわかりにくいと思うので、ホテルながやま、ということで書いていこうと思います。


木村さんが世話をしたというホテルながやま、の仮払代金を被告訴人竹沢俊寿が踏み倒したという木村さんの話は後日談でありますが、私自身、ホテルながやま、の慰安会で木村さんの姿を見たという記憶は残っていません。


そもそも私にとってそのホテルながやま、での慰安会は記憶の少ないものでした。旅館に入ってから大浴場に入ったような記憶も微かには残っているのですが、夕方に宴会がありました。これもなんとなくは記憶していますし、市内配達の社員との合同であったことも覚えています。


ただ、その宴会の途中に私はものすごく眠くなりました。直前の仕事や運行のことも記憶にはないのですが、たぶん酒を飲んだので急激に眠くなったのだと思います。


私は誰にも告げず、宴会場を抜け出し、部屋に戻って布団に入って眠りました。熟睡していたと思いますが、何時間か寝ているうちに起こされ、急かされて車に乗り込み、そのままホテルながやま、を出て金沢に帰ってきました。


状況がのみこめないまま、一緒に車に乗って金沢に帰ってきたのですが、それから金沢市場輸送の給油機の前辺りで、けっこう長い時間話をしていました。だいたいの推定ですが、ホテルながやま、を出たのは22時から23時の間ではないかと思います。


長い時間、金沢市場輸送の前の給油機の辺りで話をしたあと、その場にいたたぶん全員で、8号線バイパスの住所は諸江になるのではと思いますが、そこの「くるまやラーメン」に行って夜中にラーメンを食べたことを印象的に記憶しています。


給油機の前辺りの会話では、なぜホテルながやま、を抜けだして帰ってくることになったのか事情を理解することが出来ました。


宴会場ではなかったと思いますが、その後に行った酒を飲むような場所というか店でのことであったと思います。どこまで具体的な話を聞いたのか細かくは思い出せませんが、話を聞いた私としてはそのような理解でしたし、宴会場というのは止める人も多いので考えにくいと思います。


なにが原因だったのか話を聞いていてもはっきりとはわからない部分がありましたが、金沢市場輸送の運転手と市場急配センターの運転手の間で、衝突というかケンカがあったという話でした。社員ではなく運転手と書いたのは、双方に運転手ではない持ち込みの運転手が含まれていたからです。


そのケンカの構図は市場急配センター対金沢市場輸送ではなく、むしろ能登の内浦対能登の輪島という構図にも見えました。


輪島というのは輪島市ということでわかりやすいと思いますが、内浦というのは、能登半島の外浦との区別で使われる言葉です。要するに富山湾に面した宇出津や小木、松波辺りを指す言葉ですが、その意味では珠洲市の飯田や蛸島も含まれるはずではあります。


その珠洲市は狼煙に近い禄剛崎灯台の辺りを境に、外浦と区別されているかと思います。珠洲市でも折戸、高屋、木ノ浦海岸、馬緤海岸、大谷という辺りは外浦になります。


大谷は小さなスーパーもあるその辺りでは町らしい町で、その先の真裏海岸が輪島市との境です。輪島市に入るとそこは割と知名度も高い景勝地、曽々木海岸です。それから輪島市全体を外浦というと思いますし、富山湾とは反対側の富来町など羽咋郡の海も外浦に含まれていると思います。


富来町には能登の景勝地として有名な巌門などもありますが、能登金剛とも呼ばれているかと思います。外浦に共通していることは、風が強く波が荒いことでもあります。その点、富山湾に面した内浦は海も遥かに穏やかです。


平成17年辺りに市町村合併があって、それまで珠洲郡内浦町であった松波や小木は、私が生まれ住む宇出津の鳳至郡能都町、それと柳田村と合併して、鳳珠郡能登町となりました。


ちなみに同じ頃だったと思いますが、富山湾とは反対側でもあった同じく鳳至郡の門前町は、輪島市に吸収されました。宇出津から輪島市の曽々木海岸までも距離的には22キロ程度なのですが、小さい頃の感覚が未だに残っていて、ずいぶん遠いところという感覚が私には残っています。


宇出津より珠洲市の飯田の方が町としては大きいですが、宇出津には、あばれ祭り、という割と有名な祭りがあり、それと石川県立水産高校という寮もある高校もかってはありました。小木港は北洋の遠洋業業の中心地で、それらが人のつながりにもなっていたと思います。


金沢市場輸送には輪島の運転手が、M、O、Y、H、S、Kと5人いました。いずれも大型車の運転手ですが、Yは初め4トン車に乗務していました。都合よくダブりがなかったので苗字のイニシャルで列挙することが出来ました。


Oが輪島崎という他は、海士町の者だとだと聞いていました。最近では余り聞かないことですが、輪島市でも海士町というのは特別な存在でした。輪島崎も海士町と同じく輪島市内の漁師町ですが、海士町とは仲が悪く、Oはかなりの例外とも聞いていました。


おまけではないですが、もう一人海士町でYという運転手がいましたが、彼だけはなぜか例外的に鮮魚を運ぶ保冷車には乗務せず、大型車でも平ボディ車に乗務していました。仕事の内容も異なるので、仕事で一緒になることも比較的少なかったと思います。


事件とも関連が薄いのので説明から除外してもいいぐらいなのですが、ひとつだけ気になることがあったので、そのことを先に書いておきたいと思います。


それは平成3年の9月、市場急配センターの一階休憩室が完成した直後のことであったと思います。その輪島のYがその休憩室に来ていたのですが、その場には被告訴人安田敏もいました。Yが一緒に来たのは被告訴人安田繁克ではなかったかと思うのですが、このところ思い出すこともなかったので。


このところ思い出すこともなかったので、はっきりとは思い出せないのですが、同行者がもう一人いて、私にはかなり意外な組み合わせにも思えました。


彼女か結婚の話題になった時、被告訴人安田敏が彼女がいることについて、「好きな人がいても言えないので不自由」という趣旨の発言をしました。その口ぶりを聞いた時、被害者AAさんのことを指しているようにも思いましたが、同時にかなり演技臭い台詞にも思えました。


微かではあったと思いますが、被告訴人安田敏が何かを企んでいるのではないかと、ふと感じた最初の機会であったようにも思います。横恋慕をしているのかと考えたこともありましたが、そうとは考えにくい言動も感じられていましたし、同棲している彼女がいるのにという思いもありました。


その横恋慕に関しては同じく、被告訴人東渡好信により強く感じることもありましたが、あるいは本気の部分もあったのかもしれません。その被告訴人東渡好信も彼女がいると話していましたし、平成4年の正月明けの深夜には入江の八幡のすしべん、でその彼女と一緒にいる姿も目撃していました。


やはり輪島のYと被告訴人安田繁克は一緒に来ていたと思うのですが、同行者として一緒にいたのは、私の過去に作成した正面の内容が正確だと自信を持って言えます。現在の私の記憶では、このことに自信を持って断定することは出来ません。


あるいは電化のコジマのテレビと同じ日であったようにも思います。どちらも午後の比較的夕方に近い時間であったと思います。あれも偶然ではなかった企ての一つだった可能性があるとは思いますが、冬至の私にはそういう警戒的な意識もなかったので、見落としもあったものと思われます。


輪島のMは、その後に続く輪島の若者の入社のきっかけとなった人物ですが、本書ではMYと表記してきたかと思います。そのMと竹林は、慰安会のようなものは大嫌いなので絶対参加しないと言っていたので、たぶん参加もしていなかったと思います。


竹林に関しては、ホテルながやま、の慰安会の時点で金沢市場輸送に在籍していたのかも微妙な時期かと思います。たぶんやめていなくなっていたと思います。


ただ、竹林本人が慰安会のような温泉の一泊旅行に対する否定的な意見を強い訴えとして聞かされていた記憶があるので、どうなのかなとは思った次第です。一言で言えば変わり者という一面でしたが、ふとしたことに強いこだわりを持ち、理屈で説明をするような人物でした。


時刻は6月25日10時29分になっています。ほぼ昨夜の状態を維持して、続きを書いていこうと思います。書いているうちに思い出すこともあるかもしれませんが、20年以上前のことなのでしんどいところもあります。


夜にホテルながやま、から一緒に戻ってきたメンバーとして、はっきり記憶に残っているのは輪島のO、同じくH、同じくSでしょうか。加えてたぶんいたと思うのが輪島のY。はっきりしないのが輪島のKで、Kは金沢市場輸送に入るのも一番後であったと思いますし、いたのかも時期的に微妙。


いたような気もするしいなかったような気もするのが平ボディ車に乗務していた輪島のYでした。彼は輪島のyや同じくh,同じくk、同じくhらより、学年で一つ年上と聞いていたと思います。前者の4人は確か私より学年で2つ年下と聞いていたように思います。


もう一人いたと思う人物でその場にいたのが意外に思っていたのが、珠洲郡内浦町新保出身と聞く、KOでした。KOに関しては本書において、これまでに何度か書いていることがあると思いますが、私が大きく重視するのが、関越道での勘違い飛び降り自殺のことです。


仮にその話が作り話であるとすれば、KOは金沢市場輸送と仕事以外の特別な関係があり、組織的な工作活動員であった可能性も出てくるのではと考えています。重要なことだけに割とぼかした表現で中途半端に書いていたところもあるかと思います。警察や検察なら簡単に確認できるはずですが。


新潟運輸の長距離運転手で、石川県珠洲郡松波の松波中学校出身。昭和53年頃には松波中学校の相撲部で個人戦の優勝候補とも目されて活躍、という具体的な事実をKOは私に話していました。


私は昭和52年の4月に能都中学校に入学し1年生になったようです。昭和55年の4月に水産高校小木分校に入学したことは記憶がはっきりしているので、そこから逆算してみました。35年以上前のことになるので、思い出すのも容易ではありません。


能都中学校に入学してすぐに相撲部に入部しましたが、時期としてはっきりと覚えているのは9月の10日頃にあったと思う羽咋郡富来町の富来中学校での新人戦でした。この時は民宿に一泊しましたが、民宿に泊まったというのはその時生まれて初めての経験だったと思います。


他にも相撲の大会はいくつもあったのですが、何月頃だったかとなると記憶にありません。相撲では外でほとんど裸に近い状態ですが、特に寒い思いをしたという記憶もないので、10月以降3月などには大会はなかったのではと考えられます。4月でもまだけっこう寒そうです。


他に強く印象に残っている大会が松波大会でした。松波中学校の場所ですが、私は2009年ぐらいになって初めてその場所を知りました。バスで珠洲市に行くようになり、松波中学校の前のバス停にも停るようになったからです。


その場所は割と町外れで、松波から新保の海岸線経由で小木港の方に行く道路の初めの方にありました。もう少し行って左に入って行くと、松波の自動車学校があって、そこには若い頃よく行くことがあったのですが、松波中学校の場所というのは気が付かなかったです。


松波には他にも説明の箇所があるので、Googleマップのマイプレイスを作っておこうかと思います。


告訴状の説明に伴う旧珠洲郡内浦町松波付近の場所 https://mapsengine.google.com/map/u/0/edit?mid=zWXtOqvyZ-Jo.kmNqnYbHRmoQ


上記がリンクです。地図を作成しました。作成の過程で私はこれまで長い間、大きな勘違いをしていたことに気が付きました。


それは新保の場所です。ざっと地図を見回していても発見できなかったので、検索機能の「現在のビューの場所の近くを検索する」というのを使いました。これは今日初めて知った選択肢です。


すると一発で新保の場所にマークがついたのですが、自分がそれまで新保だと思っていた場所とは異なり、その辺りの海岸線では全く反対方向の位置でした。


私は小木から向かって行くと、白丸の先に新保があって、その辺りが道沿いの海岸線の終端だと思っていました。ところが実際は小木から越坂の少し山間の道を抜けて海岸線に出た初めの辺りが新保で、五色ヶ浜海水浴場より手前側にあるのに驚きました。


どうも越坂の隣がすぐに新保になるようです。同じ能登町でも細かい地名があって、どこなのか知らないものもありますが、やはり隣接している可能性が高そうです。


小木から一ノ瀬、越坂の辺りは九十九湾周辺ということもありますが、小木と同じという意識が強いです。中学校に通うのも小木中学校と決まっていると聞いていました。


KOから以前、新保では小木中学校、松波中学校とどちらでも選べると聞いていました。私は新保が白丸の先で松波の町に近いと考えていたので、KOはあえてより離れているとも考えられる小木中学校を選んだのかと考えていたのです。


前にも書いていることと思いますが、KOは私が当然に関越道から飛び降り自殺した松波の昭和53年当時相撲部の有力選手のことを知っているような前提で、話を始めたという印象があり、これがずいぶんと長い間気になってきました。


小木港から海岸線で松波に向かうと、白丸を過ぎた辺りから海岸線を離れ、田んぼや山間の道に入っていきます。その辺りには立壁や川尻という地名もありますが、松波中学校への通学範囲と考えられます。


個人的な感覚ですが、その立壁や川尻から小木中学校への通学を希望するというのはよほどの事情がない限り無理があると思いますし普通にないことだと思います。


繰り返しますが、私はなぜか勘違いをして新保を白丸より少しだけ松波の町に近い在所だと思い込んでいました。仮に白丸だとしても私はどこの小学校の通学範囲なのかわかりません。白丸小学校というのは聞いたことがあったかもしれませんが、あったような気はします。


その相撲部の有力選手は白丸の周辺に家があって、KOとは幼なじみか小学校が同じ関係で、有力選手は松波中学校を選択し、KOは小木中学校を選んだんとかと考えることもありました。二人が学年で同級生であることは間違いないと思います。


松波での相撲大会ですが、これはやはり昭和53年で私が中学校2年生の時と考えられます。先ほどから説明している松波中学校の有力選手は学年で私の一つ上でしたが、優勝候補の一人だと聞いていました。私が1年生の時の3年生のメンバーの姿というのも思い浮かんでは来ません。


他に珠洲市の緑ヶ丘中学校にも優勝候補と目される選手がいましたが、かなりの巨漢でした。松波中学校の有力選手の場合は体格はいいものの、オリンピックの水泳競技の水泳の選手によく見かけるような体型であったと記憶に残っています。


私としてはKOに中学校の時相撲部にいたという話はしていないと思うのですが、あるいは珠洲市大谷のYSさんのことで話すことはあったかもしれません。KO自身が相撲部に関係していたという話は全く聞いた覚えが無いですし、それはまずなかったと思います。


KOは珠洲市大谷のYSさんのことをよく知っている口ぶりで話をしていたような記憶があります。その時はさほど気にも留めなかったので詳しい話は聞かなかったように思いますが、小木の遠洋漁船で知り合ったような関係だと、私は捉えていたように思います。


KOは自分で、小木中学校を出てすぐに遠洋漁船の漁師になったと話していたと思いますし、漁師をやめて初めての丘の仕事が金沢市場輸送だと話していたように思います。丘というのは出漁したあとの海の上での生活に対応にした陸上での生活のことです。


昭和59年の10月の時点ではKOの姿はありませんでしたが、ほぼその直後に入社したとも聞いたように思います。小木港の船に乗っていたと言う割には、付き合いのある親しい共通の友人、知人という話は聞かなかったようにも思います。仕事以外でもKOの名前はほどんど聞くことがなかったと。


高校に行っていれば、昭和57年の春に卒業して社会に出ていると思いますので、4年ぐらい小木の船に乗っていたことが推定されます。誰かの紹介で金沢市場輸送に入社したという話は聞かなかったですが、職安を通して入社した可能性が高そうだとは思っていました。本人に確認はしていませんが。


姫のNKさんが金沢市場輸送に入社して4トン車に乗っていると話を聞いた頃にも、そのKOの入社時期は重なっていると思います。KOは割と親しげな感じでNKさんの通称を呼んでいたような気もするのですが、そうだとすれば漁師をしていた時に付き合いがあったことも考えられるかと思います。


初めは4トン車に乗務していたともKO本人から聞いた覚えがありますが、私が二度目に入社して初めて知り合った頃には、冷凍機付きの三菱ふそうの大型車に乗務していました。その頃は三菱ふそうのトラックというのはそれ一台だったと思います。


KOが小木中学校で学年が私の一つ上でしたが、その当時の小木中学校の相撲部の人とは面識もありました。KOがいることはなかったと思いますし、いたというような話も聞くことはありませんでした。


私は能都中学校でしたが、その辺りでは大きい中学校でした。一学年200人前後の生徒がいました。小木中学校の規模というのははっきりわかりませんが、生徒数も3分の1ぐらいかとも考えられます。直接小木中学校に行ったことはなかったと思いますし、現在の校舎とは場所も違うのかもしれません。


いろいろと育っていた環境も異なるので一概には言えないことですが、能都中学校でも他の部活の大会のことが話題になったり、他校の有力選手について話題になることは、まずなかったと思います。


KOがなぜ松波中学校の有力選手の名前を知っていたのか、たまたま親戚関係があったとか、親戚の近所に住んでいる子供で一緒に遊んだことがあったという事情でもあったのなら別ですが、宇出津でも普通には考えにくく、聞いたこともない話です。


その松波中学校の有力選手の名前ですが、1年ほど前までははっきり憶えていたものの、数カ月前からやや記憶に自信が持てなくなっています。前に松波の町中をバイクで走っていて、同じ名前の店を見たのですが、久しく松波には行っていません。


今は松波にバイパスの道路があるので、珠洲市に行く時も町中を通らずに行くことがほとんどです。松波に用事があることもないですし、買い物に行くような店もありません。


宇出津から松波に行くのは十八速(じゅうはっそく)と呼ばれる山間の道路が国道249号線でもあり最短です。小木経由の海岸線だと倍ほど時間もかかるかと思いますが、バスは2つの路線があって、本数も少ないので時間のかかる小木経由でも乗ることが多かったです。


十八速から珠洲市に向かうと松波の町の手前からバイパスに入って海岸線から離れた道を走って飯田の町中まで入るのが普通です。以前は必ず松波の町中を通って恋路海岸を通り、ほとんど海岸線に近いところを走って飯田まで行くのが普通でした。


松波の周辺は小さい山のような地形が多かったり起伏があってて、割と複雑かと思います。Googleマップでも航空写真にしないとわかりにくいところがあるかと思います。


昭和53年と思われる松波の相撲大会の記憶ですが、松波駅に近い場所で小高い山のなかに相撲大会の場所があったと記憶しています。その辺りは金沢の兼六園にも似た自然の風景で、宇出津の遠島山公園にも似ていました。


割と最近になって、松波駅があったバス停の正面の小高い山の上に「松波城址」というような看板があって寺院のような建物も見えていました。相撲場があったのはあの辺りかと考えていたのですが、今日Googleマップの航空写真を見たところ、違うように思いました。


寺院と隣接して職業訓練校の建物があるのも意外でしたが、思いの外海にも近く、相撲場があるようなスペースもあるとは思えなかったからです。その大会の時に、松波中学校の有力選手の話も誰から聞いていたという記憶があります。


今日改めてKOのことを考えてみると、同じ鮮魚の運転手をしていた当時でも、出先ではあまり一緒になることがなかったような気がしました。出先で運転手が一緒になることが多いのは、定期便のある塩釜港、石巻港、それと九州の福岡、長浜の魚市場です。


それでも金沢の中央市場での荷降ろしでは割と一緒になることがあったように思いますし、そういう場合、荷物の積み下ろしを手伝い合って、終わってから一緒に食事をするのが多かったのですが、彼にも何度かおごってもらっていたような気もします。


彼は妻帯者で、輪島の運転手は全員が独身だったという違いもありますが。他の運転手とは生活のスタイルも違ったり、一緒になるようなことも割と少なかったと思います。会社にいてぶらぶらしていることも少なく、アパートも近かったので必要以外は会社にいないようにしていたのかもです。


思い出しましたが、彼は無線が趣味というか熱心で何か大きなグループに所属していたと思います。トラックにその無線のグループのステッカーを貼っていたかもしれません。


ちょっと思い出したので次のように検索をしてみました。インターネットも携帯電話も普及していない時代のことだったと思いますが、情報は散見されるようです。


石芽クラブ - Google 検索 https://www.google.co.jp/?gws_rd=ssl#q=%E7%9F%B3%E8%8A%BD%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%96


「石芽会」というスッテカーを運転席のガラスの前においているトラックを見ていたようなことも思い出したのですが、やはり記憶は曖昧で、KOが所属していた無線のクラブとは違うかもしれません。


割とはっきり覚えていることはKOが、自分の使っているハンドル名について「不動の番人」とか言っていたようなことです。全国的にも名の通った大きなクラブだったようには覚えているのですが、記憶は断片的で薄くなっています。


KOがやっていたのはパーソナル無線ではなく、本格的なCB無線だったと思います。ただ、金沢市場輸送でKOと同じ無線仲間というのは私の知る限りいなかったと思いますし、話を聞くこともなかったと思います。


KOの無線仲間については余り話を聞いた覚えがありません。どこの運送会社に多いとも聞かず、それらしい仲間と一緒にいるような姿も見たことがなかったです。


中央市場の近く、もう少し絞って言えばウロコ運送の近くだったと思いますが、無線のショップがありました。子供の頃に行っていた水産高校の文化祭での実習室のことを思い起こすような店内だったと記憶にありますが、倉庫に手を入れたような店内でもありました。


その店には何度か行くことがあったのですが、KOとも一緒に行ったようなことを憶えています。関越道からの飛び降り自殺の話を聞いたのもその頃だったと思うのですが、今考えると無線仲間から得た情報であったのかもしれません。


平成2年の春から夏の時期であったかもしれません。輪島の運転手もほとんど無線をやっていたと思いますが、彼らだけの仲間内でやっていたと思う反面、本格的なCB無線をやっているような話もあるいはきいたかもしれません。


私は輪島のSにパーソナル無線を安く譲ってもらい、それをトラックにつけるようになったのですが、余り使うことはなかったです。


無線といえば、被告訴人多田敏明も無線のクラブに入っているようなことを話していましたが、自分から具体的な話をすることはなかったように思いますし、乗務しているトラックに無線機を付けたいたという記憶もはっきりしません。無線をやる場合は、トラックにアンテナもつけていました。


ある日、夕方の遅い時間に市場急配センターの一階休憩室で、西口がいたのですが、被告訴人多田敏明に連絡をとったところ、無声のクラブの集まりで金沢港の近くにいるような話をしていました。その時、被告訴人多田敏明は無線をやっているのかと、かなり意外に思ったような記憶があります。


断片的な記憶なのでつながりも思い出せないのですが、その後に被告訴人多田敏明が来て、3人で北安江に焼肉屋に行ったのだと思います。平成4年3月の中頃のことでした。この時の西口の登場も、偶然ではないと思います。


西口の登場というのは主なものだけで、その時が3回めでした。初めが平成3年11月26日のことです。次が平成3年12月の28日と思われる日のことです。その時は西口と被告訴人多田敏明の二人に誘われる形で、被告訴人浜口卓也のアパートに行き、そのあと諸江の焼肉店に行きました。


被告訴人多田敏明が平成3年の秋頃から主に乗務していたのは日野の新型のモデルで、4トンのウィング車でした。初めは被告訴人梅野博之と交代で乗務していることが多かったようにも思いますが、平成4年ころになるとほぼ専属のような常務になっているような様子でした。


免停が明けてからの被告訴人多田敏明は、受け持ちの仕事を持たず、いわばフリーの運転手として、その時々の荷物を運んでいたようです。大型車に同乗して荷物の積み下ろしを手伝うこともありましたが、話し相手以外の必要性などほとんどないものと思われます。


事実上、被告訴人多田敏明は私の動静を監視し、情報を収集するための工作活動に従事していたものと思われます。


事件を起こしたあとに思い出したことかと思いますが、当日の平成4年4月1日、私は翌日の運行の指示として東京行きの引っ越しの荷物を積み込むことと、被告訴人多田敏明を同乗、同行させることを受けていました。


あるいは私の早とちりだったのかもしれないですが、東京への運行に同乗させていくものと考えていました。「トッチを連れて行け」というような言葉での指示であったと思います。


被告訴人多田敏明に関しては、被害者AAさんの父親の仕事について弁護士だと私に吹き込んでいたことも、徹底的に検討するべき問題の一つですが、いずれも別の項目にて言及したいと思います。


ホテルながやま、での説明に戻ります。片山津温泉でもホテルながやま、片山津温泉の外れの方では北陸道の片山津インターからもそれだけ離れていましたが、国道8号線にはより近い位置でもありました。高速道路を使ったのか国道8号線を走ってきたのかも思い出せないですが、誰かの車に乗って金沢へ。


誰の車に乗って帰ったのかも記憶にないのですが、車の中での会話というのはほとんどなかったようにも記憶にはあります。前にも書いたように、金沢に戻り金沢市場輸送の事務所の前の給油機の前辺りから道路の辺りで、しゃがんだりした状態で話をした場面が記憶に残っています。


すべては私が一人客室の布団で寝ている間に起こったことのようでした。市場急配センターの運転手と金沢市場輸送の運転手の間で、ケンカになったという話でしたが、どこか要領を得ないところがありました。まず、誰一人多少なりとも怪我をした様子はなかったです。


双方ともに小木港の遠洋漁船の漁師をしていた者が多かったので、かなり腕力のありそうな者が多かったです。殴り合いがあったとはとても思えなかったのですが、彼らの話を聞いていても、その辺りがわからず掴みどころないものを感じていました。


市場急配センターの側でそのケンカに参加したと聞く人物は、姫のNKさん、珠洲市大谷のYSさん。さらに誰かの口から被告訴人安田繁克らしい男も加わって、その威勢がよく、あるいは暴れていたような話であったと思います。


姫のNKさん、珠洲市大谷のYSさんの二人に関しては、輪島対内浦という因縁の対立という構図として、十分に理解できるものがありました。普段抑えに抑えていたものが、酒が入ったこともあり爆発したものと考えられたのです。


まず姫のNKさんのことですが、曽々木海岸あたりをドライブしていたところ、輪島の暴走族とトラブルとなり、ずいぶんと屈辱的な思いをしたと伝聞ですが聞いたことがありました。神野のKMから聞いた話の可能性が高いと思います。


現在の私はかなり以前に比べると人との付き合いもめっきり減っているので情報量も少ないですが、輪島市の海士町について話を聞くこともほとんどなくなりました。海士町は海女の町でもあり、全国的にも規模が大きいということでテレビでも見かけることはありましたが、別のイメージが強いです。


聞いた話ですが、本来の海士町は舳倉島で海女漁などをして暮らし、海が荒くなる冬場は漁も出来ないので本土の輪島市内で生活していると聞きました。以前は海女漁の話より、暴力団もものともしないような攻撃的、暴力的な集団として名を馳せていました。


歴史的にも近新婚を繰り返し、集団としての結束がとても強く、年配者を敬い厳しい環境で育っているとも聞いたことがあります。泣く子も黙るとは大げさかもしれませんが、能登半島でも特別な地区だと知られていました。


歴史的には九州の福岡県から流れてきた男女が輪島の海に住み着き、そのうち加賀藩の前田家からもお墨付きをもらって、海女漁をするようになったと聞きます。いずれにせよ、輪島市と言っても海士町はとりわけて特別な地区でした。


海士町は漁師町でもありましたが、どういうわけかほとんどの若者は、北洋の遠洋業がある小木港の遠洋漁船に乗り組むとも聞いていましたが、金沢市場輸送で運転手をしていた輪島の若者も、輪島崎のOと平ボディ車に乗務していたYを除いて、小木港の遠洋漁船に乗り組んでいたと聞きました。


地元小木港の話では、海士町の若者は気が荒く手に負えないので、一つの船に二人かあるいは一人以上は乗せないことになっていると聞いたこともあります。二人か一人かの違いは、私自信の記憶の状態によるものです。20年以上前に聞いていた話なので、記憶もはっきりしません。


海士町の話は地元の宇出津や、小木港の遠洋漁船に乗っている漁師の間でも聞いていましたが、より物凄いと感じたのは、被告訴人安田敏と金沢の観音堂のアパートで遊んでいた頃のことでした。既に本書で書いてある部分もあると思うのでなるべく省略したいですが、藤江の陸橋の付近の溜まり場のことなど。


金沢で暴走族のリーダーをやっていたKTは、どちらかといえば貧弱そうな体型で腕力があるとはとても思えないタイプでしたが、事実上統率力はあって、暴走族のリーダーにもなっているという感じでした。


時刻は6月26日13時05分です。あらためてこの項目の見出しを見てみたのですが、新しい事務員を紹介する運転手、のことになっていました。これはもちろん木村さんのことですが、ずいぶんと外れた内容を書いていたようです。


どうしたものかと思いますが、木村さんのこともKOらのことも、事件そのものと関係があるとは断定できない点で、その他というような共通項はあるとおもいます。また、個別には無関係に見えても、全体としては看過できないつながりや事実が含まれています。


木村さんに関しては中野さんのことも併せて書くつもりでいました。二人とも実名にしましたが、それも私の考えぬいた上での判断です。事件の音の深いところで関わりのある人物という可能性もある一方、全くの無関係でありながら、しがらみからも影響を受ける可能性も考えられるからです。


実名にするのは必要最低限という配慮は常にやっております。実名にしたからと共犯者としての嫌疑が濃厚というわけではなく、また、匿名にしたからと言ってそれが薄いわけでもありません。ありのままの事実を書いておりますが、理解を超えている部分や断片的な認識しかない部分があります。


そういう中で誤解を生じ、混乱を招かないためにも特定すべきところは特定しておくというのが私の方針であり、ツイッター等での反論意見の場も事実上用意されています。警察、検察に相談するのもよいことでしょう。タイトルにも金沢地方検察庁御中と看板を掲げています。


とりあえず、見出しに対応した内容のことを書き上げ、次のことに移りたいと思います。新しい事務員の話です。


平成4年の2月の中旬から3月の中旬の間ではなかったと思うものの、割と最近になってこの部分の記憶があいまいになってきました。その時期としては、かなり天気の良いさわやかな天候でした。


これもWとかを改めて実名にしますが、和田くんと二人、それぞれの乗務する大型ウィング車で、北陸道を福井県鯖江市に向かってきました。たぶん積み荷はミールだったと思います。浜田漁業金沢工場よりは北陸ハイミールの可能性も高いという気もします。


ミールは倉庫移動という地場というかローカルの仕事も多かったのですが、福井に行ったのはその時、一回だけだったと思います。


片山津インターと加賀インターの間だったと思いますが、尼御前サービスエリアがあって、そこに入りちょっとした休憩をしました。福井に向かっている時のことです。


その尼御前サービスエリアのなかで和田君が話しかけてきたことですが、新しく事務員が入るらしい、Aちゃんは話しかけても余り喋ってくれんし、返事だけ、というようなことを言っていました。


和田君の口から被害者AAさんのことが出たのはそれが2回めだったように思います。現時点での私の記憶なので、忘れていることもあるかもしれません。


余り日にちの近接はなかったと思いますが、同じ頃に、和田君と被告訴人多田敏明の3人で、確か長野市の市場まで行ったことがありました。何を持って行ったか思い出せないのですが、果物だったようには思います。それと日通の増泉支店で荷物を積んだような記憶も場面として残っています。


日通の増泉支店に行ったこともずいぶんと久しぶりだったような気もしますが、昭和59年ころは割と行く機会があったと思います。前にも書いていると思いますが、展示会の荷物を積んで福島県いわき市の大黒屋というデパートに行ったことがありました。


そしてこれも既に書いているのではと思いますが、被告訴人竹沢俊寿が以前、日通と関係があって社員であったような話も聞いたことがありました。土建屋の社長とかヤクザの組長だったという話とは、普通に合わないとは思いますが、どちらも被告訴人竹沢俊寿の過去として聞いていた話です。


いくらかはっきりしていることは小島という事務員が昭和59年当時にいたことです。日通から来たと聞いていました。保険の係をしていると聞いていましたが、小さい会社で度々保険の仕事があるとは考えにくく、電話番以外に何をやっているのかよくわからない存在でした。


顔の方もいまでもなんとなく記憶に残っていますが、真面目でおとなしいいかにも事務職と行った感じの人だったと思います。年齢は40代にも見えましたが、若いのか年配なのか、どちらにも見えるようなタイプでした。体型はがっしりして見えました。肩幅も広く。


これも前に書いていると思いますが、昭和59年の時点で日通カラーの大型平ボディ車が2台いました。1月に私が入社した時点であったようにも思いますが、どちらも最近に納車された真っさらの新車という感じでした。


乗務していたのは棟方さんと原田さんでした。変わった名前だとお守ったこともあり棟方さんの名前は憶えていますが、無口でおとなしい感じの人でした。北海道から来た人と聞いたような気もします。庄和61年の8月には既に姿が見えなくなっていたと思います。


原田さんは前にも書いていると思いますが、そのあと中西水産輸送の運転手となり、中西運輸商で配車係もしていたYTから聞いた話では、国道18号線の群馬県高崎市付近で、追突事故だったかで死亡したと聞きました。


被告訴人安田敏から聞いた話で、大倉さんが事故を起こして死んだと聞いたのも、同じ高崎市付近という話であったと思います。大倉さんは以前、割と大きな会社を経営していた社長とも聞いていました。どんな仕事をしていたのかは、よくわからない説明を受けました。


大倉さんは金沢市場輸送での麻雀の常連メンバーにもなっていたと思います。被告訴人安田敏の工事現場突入の時、ワゴン車で現場に来ていた木村さんも、たぶん金沢市場輸送で麻雀をしていたのではと思われます。


ただ、私自信の記憶では金沢市場輸送で木村さんが麻雀に参加している姿というのは見かけていなかった気もするのです。それもあって片山津温泉せきや、の客室で麻雀をやっている姿を見た時は、その普段とは違う服装とも相まって、かなり意外に映ったのだと思います。


会社で木村さんの姿を見かけていたのも、金沢市場輸送の給油機でトラックに給油している姿や、市場急配センターの裏駐車場で仕事を終えて帰っていくような姿を、たまたま見ていたもので、いずれも割と早い時間で16時前だったとも考えられます。


和田君のことですが、これも前に書いているところがあるかと思います。平成3年の11月の20日頃だったかに、市場急配センターに入って大型ウィング車に乗務していました。確かそれまで被告訴人東渡好信が乗務していたトラックに乗務しましたが、いきなりだったかはわかりません。


今まで結びつけて考えたことがなかったのですが、思えば、被告訴人東渡好信が古河の市場でベルトコンベアーに指を詰めたとか言い出し、トラックの仕事をやらなくなってから、配車係になったのも同じくその頃だったと思います。


ベルトコンベアーの件に関しては、私はその場にいました。いきなり大きな声をあげて怪我をしたと騒ぎ出したのですが、傍で見ていて呆れるほどわざとらしい演技のようなものでした。怪我をすれば血が出なくても内出血なりするはずと思いますが、怪我をしていない手で抑え続けるだけで見せなかったです。


東渡が乗務していた大型ウィング車というのは、金沢市場輸送でその平成3年の4月ぐらいに入った日野の新車でした。それまでの金沢市場輸送のトラックのデザインやカラーとは一新して、ベースが白で赤と青のラインがデザインされていました。


これは2台同時に入った新車で、どちらも日野のトラックだったと思いますが、もう一台に乗務したのが輪島の浜上さんでした。浜上さんも海士町の出身だと聞いていました。被告訴人東渡好信とは長い付き合いという感じで、共にトレーラーで木材を運ぶ仕事を多くやっていたような話でした。


どこに書いたのか記憶にはないですが、本書では既に書いていると思いますが、被告訴人東渡好信が市場急配センターの事務所やその周辺の路上で、包丁を手に握り、被告訴人松平日出男を追いかけまわしたという原因になったのも、その日野の新車のことだと聞いています。


同じく書いていると思いますが、石川丸果の売り場で、荷受けのじいさんの首根っこをつかまえて、キャベツの箱のなかに押し込んだということもありました。まるで海面に沈めて溺れさせるような行為です。無言でいきなりやったので、じいさんもさぞや驚いたことだと思います。


じいさんの姿は、今でもなんとなく記憶に残っているのですが、市場では珍しいぐらいの高齢の人でした。荷受けをやっていたところを考えると石川丸果の社員であった可能性が考えられます。平成3年の春のことなので、他の雇用形態というのも考えにくそうに私は思います。


被告訴人東渡好信と浜上さんと河野秀美さんの3人が、市場急配センターに来たのは9月に入ってからだったと思います。いずれも金沢市場輸送で乗務していたトラックともに移ってきたと思います。


河野秀美さんに関してはもともと金沢市場輸送で鮮魚を運ぶ保冷車に乗務していました。少なくとも私が金沢市場輸送にいた6月20日ころまではそうだったと思います。


今、市場急配センターで河野秀美さんがどんなトラックに乗務していたのか、思い出すのに集中しているのですが、残念ながら思い出すことが出来ません。新しいトラックでなかったことは間違いないと思いますが、平成4年になってから被告訴人浜口卓也と同じく日産の新車に乗務したかもです。


この3人は金沢市場輸送を退社したのではない扱いで市場急配センターに移動したとも聞きました。私の場合は、金沢市場輸送をやめてから新たに市場急配センターに入社したことになっていると、聞かされたのですが、誰に聞いたのかはっきりしませんし、真偽もどうなのかと思っていました。


3人は9月に入ってすぐに来たようにも思うのですが、9月中というのは長距離の仕事も本格的にはなっていなかったようにも思います。古河の市場の山三青果の仕事も、ローテーションでまわるような状況にはなっていなかったように思います。


9月中は東京の晴海埠頭や有明から外果の果物を運ぶ仕事が多かったとも記憶していますが、9月、10月、11月というのは、中央市場の裏の倉庫から馬鈴薯を運ぶ仕事が多かったと思います。利益が出るとは考えにくい仕事で、間に合わせという感じでもありました。


改めて考えてみると、古河の市場で河野秀美さんと一緒になったという場面を思い出すことが出来ず、あるいは一度もなかったのかもしれません。浜上さんも余りなかったような気がします。この二人は特に仕事の選り好みも強かったようです。


馬鈴薯でも河野秀美さんの場合は、大勢の人を動員して、市場周辺から壊れて捨ててあるパレットを拾い集めでそのパレットの上に荷物を積み込んでいました。荷降ろしさの市場に着いてからは、フォークリフトで降ろして指定された場所に並べるだけで済むそうです。


私はかえって面倒そうにも思っていたので、全くではなかったかもしれませんが、やることはなかったと思います。そこまでやるというこだわりには感心し理解も超えていましたが、それぞれにこだわりを持つというのは運転手の考えと経験にもよるもので、強くありがちな傾向です。


河野秀美さんは金沢市場輸送でも権利意識の強い運転手だったようで、それで配車係の被告訴人本恒夫とも衝突することがあるとか聞いていました。仕事ぶりはともかく、会社の側では扱いづらい運転手でもあったようです。


人それぞれの考え方もあることで、労使関係というのは本来そういうものなのかもしれませんが、どうもそういう権利主張の傾向がある人で、独自のこだわりももっていたようです。余り評判の良い話としては耳に入ってこなかったような気もしますが、曲者的なところもあったかと思います。


多かれ少なかれ他の運転手もクセのようなあったと思いますが、基本的に個人プレーのような仕事内容なので、見えない部分も沢山あったと思います。同じ会社の運転手でも半年に一度も顔を合さないことがあると聞くこともあったぐらいです。エサをやっていた時代の話だとは思いますが。


もともとそういう自己主張の傾向が強かった河野秀美さんなので、被告訴人東渡好信や浜上さんとは方向性も同じく気があったようです。平成3年春の金沢市場輸送のストライキにもまっさきに参加していたように思います。


ストライキに関してもまだまとまった説明は書いていないかな、と思いました。どさくさのような状況でもありましたが、その時に連絡を寄越してきたのが被告訴人安田敏でした。計画された行動であった可能性があるので、徹底解明が必要と思います。


時刻は6月27日22時14分となっています。本日は人様との関わりにおいて、私の人生のおいても特別な経験をする日となり、思いを致すところがありました。プライバシーを尊重するうえでも具体的な内容については触れませんが、関わりの中で今後を含め社会に向けた影響もあると思います。


昨日になりますか、河野秀美さんについて書いていたと思います。私自身、真意を疑う衝撃的な発言ではありましたが、ありのままの客観的事実として、記録に記しておきたいと思います。被害者AAさん及びその家族の人生に対しても影響を与えた可能性があるとりわけ重要な事実であることを申し添え。


平成3年で、11月のことかと思います。不思議と前後の事実とのつながりが記憶として喚起できないのですが九州産と思われるミカンが市場に出始めた時期だったと記憶にあります。たまたまだったのは天候も良くなく、寒い日だったという記憶も残っていて、12月ではなかったかと感覚的に思えることも。


その日は珍しい仕事として会社から指示を受け、たぶん金沢の中央市場からであったと思いますが、ミカンを大型ウィング車に積んで、私の地元である宇出津のAコープ能都店に運びました。かなりの確率で私が乗務していた3068号であったとも思います。


宇出津のAコープ能都店には夕方遅くすっかり暗くなった時間に着いた場面も割と鮮明が聴くとしてありますが、Aコープ能都店は改装工事中だったのか、向かい側に仮店舗として営業していたことを印象的に記憶しています。


私はその飛び込みのような臨時の仕事に、河野秀美さんさんと一緒に、二人で同じ一台のトラックに乗務して出かけていました。


その仕事の帰路で七尾市付近を走行中のことであったと思います、まず近所のレンタルビデオ店で、たまたま被害者AAさんと出会ったことを話していました。女友達と一緒だったとも言っていましたが、これはまず11月26日と同じKNさんのことであったと思います。


11月26日のことについては特別枠として項目を立てて、詳しい記述を予定しています。浜上さん、被告訴人東渡好信、西口が絡んでくる事実です。


諸江と思われるレンタルビデオ店で被害者AAさんと出会ったという話の後であったと思います。耳を疑うと言いますが、衝撃な気な話を耳にしたので、前後の記憶が飛んでいるようなところもあるかと思うので、想像で適当に補うわけにもいかず、それはそれとして明確にしておきたいと思います。


ということで、会話の前後の脈絡が正確に思い出せないのですが、河野秀美さんの口から、笑いながら娘が強姦されたら嬉しい、という発言があり、その後同じく笑ったような感じで、「とてもよい人生経験になるから」というような、とってつけたのではないかと思われる理由付けがなされていました。


私も河野秀美さんも独立した大型車の長距離運転手でした。少しでも楽をさせたいとか協調性を育む場として、会社の方針、配慮があったということも理屈上100%の否定は出来ないと思いますが、同時に計画された工作活動の一つであったという可能性もあるのではと思います。


家族としても深く考えさせられるところがあるのではと思います。これはこれまでの記録においても何度か記述してきた事実のはずです。一見すると都合次第で他者の尊厳をも冒涜した言い分に映るかもしれないですが、紛れもない事実です。反論を受ける用意を含め、大々的に公言をしておきます。


ミカンに関しては九州から何度も運んできたという経験があります。近年スーパーの売り場を見ていると品種改良のためか、温室栽培以外のミカンでも、出始め、終わりともに店頭に並ぶ期間が長くなっているように思われます。


市場急配センターにおいては、九州からミカンを運ぶことはなかったですが、和歌山県のかつらぎ農協へは何度もミカンを積みに行きました。ただ、意外に早い時期1月の中頃にはほとんどミカンの出荷がなくなって、イヨカンか何か類似の別の果物に切り替わっていたように記憶しています。


時刻は6月28日7時59分になっています。改めて見出しの内容に沿って書いていきたいと思います。


和田君のことに関して書いていたと思いますが、彼の場合、独立した項目を立てて書くような必要性は感じていないので、なるべく関連の有りそうなことを早めに書いて片付けておこうと思います。事件と関わりを持ったということは事実ですが、本人の自覚の程度というのも不明かと思います。


現在日付まで正確に思い出すことは出来ませんが、以前は特定できていた事実の一つだと思います。平成3年の年末の一番最後の方の仕事の時であったと思います。夕方でしが、17時20分か30分ころになっていたように思います。年末の忙しさで被害者AAさんは残業をしていたのかもしれません。


その頃になると似たようなことは何度かあったと思いますが、現在はそれも思い出せなくなっています。事務所一階の休憩室にいたところ、二階から呼び出しの電話が掛かりました。二階の電話とは親子電話のようになっていましたが、当時は珍しく珍しくおもえるものでもありました。


乗り降りした東名高速のインターは豊川インターだったと思います。どちらが先立ったかも記憶がはっきりしなくなっていますが、初めて行った時、指定された場所にトラックを停めて寝ていると、真夜中に小林運送のYさんに起こされて、手短に説明を受けたと記憶しています。


これは全く予想外のことで、しかも熟睡中にいきなり起こされたので、夢か現かという感じでした。Yさんは実際の年齢より気も若く、見た感じも若く見える人でした。はっきりした年齢は忘れましたが、私が助手をやっていた頃、既に大型車に乗務していたので、少なくともその時点で21歳以上のはず。


やんちゃでケンカ好き、小林運送の社長となった息子とは年も近く、二人で中央市場の近くの百万石うどん、の板前に営業中に殴りこみを掛けたというような話も聞いたことがありました。Yさんの方が小柄でしたが、俊敏そうな腕力もありそうな感じでした。社長は体じたいが大きかったと記憶しています。


私が助手になった時点で、社長となったばかりの息子はヤクザをやめて家に戻り家業の運送会社を引き継ぐことになったと聞いていました。


昭和61年の8月、2度めに金沢市場輸送に入社して市内配達の仕事を始めた頃、市内配達が数社の運送会社の集まりでありながら束ねていたのが高田という当時50代ぐらいに見えた人物で、トラックの数が圧倒的に多いのも金沢市場輸送でした。


はっきり思い出せないものもありますが、小林運送、石川日通、など5つぐらいの運送会社が2トン車を運転手とともに出していましたが、いずれも一台ずつだったと思います。小林運送も一台だけでしたが、その運転手がYさんでした。


小林運送に関しては社長となった息子の母親が気の強い人で、青果の仕事の奪い合いのことで金沢市場輸送に怒鳴りこんできたという話も聞いたことがありました。既に金沢市場輸送の事務所が二口町に移転した頃であったと記憶に残っています。


私自身、YTと一緒に小林運送の事務所に連れ込まれることがありました。一番の近くで道路の譲り合いでトラブルになった相手が小林運送の息子で、そのまま事務所に連れて行かれ、いろいろと言われたのですが、直接的な内容でもなく意味のわからないところがありました。


たぶん前に助手をしていてその後、金沢市場輸送で運転手をしたいることも知っていたはずなのですが、知らない相手を前提にしたような対応で、それに直接相手にしているような感じでもなかったと記憶にありますが、理解のできないところがあったとその場の記憶として残っています。


もともと中央市場の青果物の仕事は小林運送が仕切っていたという感じでした。トラックにも宝船のような野菜の絵や、「金沢中央卸売市場」と割と大きな文字でどのトラックも書いてあったと記憶しています。平ボディ車が多かったとも思いますが、そちらは絵を描くスペースはなかったかも。


高田という人物もとても真面目そうに見える反面、訳ありの人物にも思えていました。特に悪い話というのも耳にはしていなかったと思いますが、忽然といなくなり、会社の金を持ち逃げしたような話を耳にしたこともありました。


富山の右翼団体の青年が高田を探しに来たことも、本書では既に書いているように思います。呉服屋とかのいかにも番頭という感じの人物で、今でも顔は不思議とはっきり記憶に残っていますが、その後噂を聴くこともなく、今考えるとちょっと不思議なぐらいの自然消滅という感じでした。


会社の金の持ち逃げに関しても曖昧な話しか耳にしませんでしたが、被告訴人竹沢俊寿が実害を受けたらしく怒っているという話は耳にすることがありました。被告訴人竹沢俊寿としては割と珍しいことです。


被告訴人竹沢俊寿が運転手のことを悪く言ったり、批判することは余りなかったと記憶しています。


例外として過去にはまず、能都中学校の2つ年下のOTがいました。宇出津の近くですが住所は宇出津ではないところに家がありました。今もあるとは思いますが。昭和56年から58年ころまでは個人的な付き合いも多い間柄でした。


久しぶりに会ったのは昭和60年の夏頃だったように思いますが、金沢市高畠の被告訴人大網周一のアパートでした。岐阜の帰りに山道を通り、4トン車を崖下に転落させて、そのまま逃げてきたというような話をその場で聞いたように記憶しています。


金沢市場輸送の4トン車のことですが、その後私は被告訴人竹沢俊寿が、そのOTの名前を出して、許さない懸賞金を出して探しだすなどと息巻いている姿を、金沢市場輸送の事務所で見た記憶があります。


思えばOTの姿を見たのもそれが最後だったような気もします。その後ほかの友人とともに大阪の方に行き、共同生活で仕事をしていたという話も聞きましたが、そのあと友人との付き合いもなくなったらしく、さっぱり話を聞かなくなりました。


その時に大阪の方に行ったグループというのは小木港で遠洋漁船に乗っていた連中なのですが、地元には全く帰ってこなくなったのか、さっぱり噂話も耳にしなくなりました。


伝聞の上、断片的で要領を得ない話ではありますが、遡ると被告訴人大網周一が金沢で鳶の仕事を始めたきっかけにもつながるようです。大阪に行って以来、交流があったという話も聞いたことはないのですが、私からすれば忽然といなくなったようなグループです。事情もあったことかとは思いますが。


OTの件に関しては、崖に転落させたトラックを放置して逃亡したのですから、被告訴人竹沢俊寿の怒りももっともかと思いましたが、それでも本気で怒っているような感じにも思えないことはない、という感じでした。


高畠のアパートにHMと同棲していた頃の被告訴人大網周一ですが、直市商店という金沢港の仲買人の魚屋の運転手をしていました。4トンの保冷車です。運送会社ではないので白ナンバーのトラックです。


雪が降る時期で昭和61年の1月か2月だったと思いますが、ある日の夜中、私は九州方面から来て金沢に向かっていました。福井県の敦賀インターから先が大雪の影響か何かで通行止めになっていたので、国道8号線を走りました。


途中までは海岸線の多い国道で、その海岸線のカーブだったと思いますが、道路に魚を満載にした4トンの保冷車が横倒しになっていました。箱の後ろの上部が壊れて発泡スチロールのケースが見えていたので、満載であることはすぐにわかりました。


その事故を起こしていたのは直市商店の4トン車で運転していたのは被告訴人大網周一でした。その場で話をしたのですが、誰にも言うなと言われたので黙っていたところ、数日すると自分から人に話していました。


さらにしばらくすると直市商店をやめたとかやめさせられたと聞きましたが、積み荷の弁償のことなどは責任を問われなかったようです。直市商店をやめたあとの被告訴人大網周一の仕事となると、すぐには思い出せなくなっています。


まもなく高畠のアパートにもいなくなったように思いますし、同棲していたHMとも別れたと風のうわさを聞いたような気がします。その後もしばらくは金沢で仕事をしていたのかもしれませんが、そのうちに東京に行ったと聞くようになりました。


東京での仕事で岡山県に出張中に交通事故を起こし、けっこうな大怪我をしたと聞きましたが、金沢市入江の八幡のすしべん、の裏の病院に入院するようになっていました、このあとのことも既に本書で書いているところがあるかと思います。


他に被告訴人竹沢俊寿ににらまれた運転手として記憶に残るのは昨夜も書いたところの河野秀美さんでした。


河野秀美さんの場合は、中西運輸商からトラブルを引きずったままのいわくつきの入社であったとも聞いていましたが、これも話を聞いても要領を得ないものであったと記憶に残っています。別の言い方をすると、合点がいかないというか腑に落ちない話でもありました。


私はその話のほとんどを金沢市場輸送のなかではなく、当時中西運輸商で配車係をしていたYTに聞いていたと思います。自宅に固定電話はありましたが、携帯電話など全く存在しない時代でした。自宅の電話で会話をしたという記憶もあまりないのですが、YTから何らかの連絡があったのだと思います。


YTに関してはこれまでも書いている内容量が多いと思います。平成3年の夏から秋頃には、被告訴人安田繁克を臨時の運転手として仕事をさせていたようです。アルバイトに近い感じという話にも被告訴人安田繁克の説明からは聞こえましたが、実際のところはわからないです。


YTと最後に会ったのは平成3年12月の初めころだったと思います。私が山形県の寒河江市からリンゴを積んできたところで、石川丸果の売り場で出会い、話をしましたが、そのあと一緒に食事に行ったことがあったようななかったような感じで、記憶ははっきりしません。


石川丸果の売り場にいたのは22時とか23時とか比較的早い時間で、そういう時間に石川丸果の売り場にいることは珍しくもあり、割と混み合って忙しそうだったという記憶も残っています。


古河の山三青果の仕事でも、昼過ぎに出発するときは、似たような時間には石川丸果の売り場に入ることはありました。夕方に競りがあると出発は20時から21時の間になって、石川丸果に入るのは朝方に近い時間になることもありました。


山形に行った運行ですが、行きの荷物は城西運輸の仕事であったと思います。羽咋市の平鍛造とかいう会社からなにか鉄鋼製品か部品のようなものを積みました。


平鍛造ですが、調べたところ現在は他の会社と合併をして社名も変わっているようです。次のホームページに書いてありました。


羽咋丸善株式会社 鍛造部 http://tairatanzo.co.jp/


城西運輸ですが、金沢では町中でもよく見かける大きな運送会社でした。重機関係のトラックが多かったと思いますが、建設、建築現場でクレーン車を見ることも多くありました。


こちらも調べてみました。能登の宇出津に住んでいるとトラックや重機を見かけることもないですが、次のホームページをみたところ、以前よりさらに大きな会社へと成長しているという感じです。


JOUSAI│クレーン、トレーラー、高所作業車のレンタル・リース http://www.jousai.co.jp/


ホームページのタイトル名をみるとレンタル・リースも手がけているようです。一時は噂話を耳にすることもあったように思いますが、内容も忘れてしまいました。


山形行きの荷物は羽咋市の平鍛造の工場で積み込んだと記憶していますが、その前に安全靴が必要だと言われ、被告訴人松平日出男の指示でどこかの城西運輸の小さい営業所のようなところに行き、靴紐のない半長の安全靴を借りたことを憶えています。


その時の被告訴人松平日出男の話しぶりでは城西運輸の担当者とは気心もしているという感じで、被告訴人松平日出男から安全靴は返さなくても良いと言われたので、そのまま返さずに使っていました。事務所のドアに穴を開けたのもその安全靴です。鉛が入っているので軽く蹴っただけで開きました。


行き先は山形と言っても、山形市の少し先で天童市ではなかったかと思います。住所は自衛隊の基地の近くだったので、自衛隊の門番のようなところで道を尋ねました。外に出てもさほど寒いとも思わなかったのですが、道の濡れたところががちんがちんに凍っていたのも印象的に憶えています。


思えば、市場急配センターのトラックで東北に行ったのもそれが最初で最後だったと思います。金沢市場輸送では宮城県の塩釜港、石巻港の定期便が多かったので、山形市内は通過する場所としてしょっちゅう行っていました。


被告訴人松平日出男の前身としては、石川トヨタで営業の仕事をしていたというのと、そのあと自分で中古車店をやっていたというのを聞いていましたが、城西運輸に知り合いがいるというのも、意外と言えば意外でした。


城西運輸の仕事というのは、後にも先にもその時一度だけだったような気もするのですが、それとは別に、以前羽咋市の平鍛造から大掛かりな何かの移動のような仕事がありました。


羽咋市には平鍛造の工場がいくつかありました。見た感じどれも似たような建物だったような気もします。そのどこかから何かの荷物を積んで、同じ石川県内ですが小松市の方まで運びました。


まだイワシの運搬の時期だったとも思いますが、イワシの運搬の運転手が総出で取り掛かるような仕事でした。松浦さんや堂野さんの姿もあったと思います。日報に記載する必要もあるので、荷主の名前は聞いていたはずですが、城西運輸であったかどうかを含め、記憶には残っていません。


小松空港より加賀市に近い工業団地のような場所で、コマニーだったかもしれません。コマニーには他にもトラックの仕事で荷物を積みに行くことがあったので、記憶がはっきりしない部分がありますが、品物ではなく設備の部品のようなものを運んだ気もします。


ぼんやりとした記憶ですが、やはり山形から積んできたリンゴの荷物を降ろし終えたあと、どこかでYTと食事をしたような気がします。YTは被告訴人浜口卓也とも一緒に食事というか飲みに行くことがあると聞いたこともありました。


すでに書いたあることかと思いますが、YTは被告訴人安田敏とも顔見知りだったはずです。私がまだ中西運輸商で4トン車に乗務していた昭和60年の12月から昭和61年の2月ころの間になるかと思います。何度か私のアパートで顔を合わせることがありました。


同様に被告訴人KYNもYTとは顔を合わせることがあって、被告訴人KYNの方ではYTの名前も憶えていたと思います。


私が見た範囲では被告訴人安田敏とYTは余り言葉を交わすこともなく、意気投合するような感じではなかったのですが、YTというのは一時一緒に中西運輸商で仕事をしたこともあり、珠洲の三崎のHMとは親しい関係でした。


知り合った頃のYTは彼女と同棲して、どこか米泉あたりの古い民家の一室のようなところで生活をしていました。久安にも近い辺だったと記憶にあります。栃折組というちょっと派手なダンプの会社で仕事をしていて、夜のアルバイトとして中西運輸商で佐川急便金沢支店のホーム作業に来ていました。


栃折組のダンプは目立つということもあったと思いますが、ダンプの会社としては珍しく4トン車のようなダンプも所有していてYTはそれに乗務していると話していました。まもなく私の誘いもあって中西運輸商で長距離トラックに乗務するようになったのですが、それも初めのうちは4トン車でした。


年も私の1つ下年下だったと思うので、まだ大型免許は取得できない若さであったとも思います。私の場合、自動二輪での免許取り消しを受けていたので、普通免許を取得するのも半年ほど遅れていました。


普通免許を取得したのが昭和58年の7月の20日ころだったと思いますが、大型免許を取得したのは昭和61年の11月27日になっていたかと思います。


私が中西運輸商をやめたのは昭和61年の2月いっぱいではなかったかと思います。差し向かいで中西運輸商の社長と話をしてやめることにしました。給料のことは事務の方で決めるので自分は知らないというようなことを言っていましたが、あれこれ差し引かれてごく僅かな額になっていました。


具体的なことは現在忘れてしまいましたが、結婚式をあげたのが3月の10日ころでした。その結婚式の時には失業中になっていたと思いますし、120日と90日あるいは60日ぐらいの免停がダブルで来ていました。


その免停が明けた頃に、被告訴人安田敏の誘いに乗って、岐阜県海津町に出稼ぎに行ったことも、だいぶん前にもなりそうですが、本書で既に記述しているのではと思います。


被告訴人安田敏は色々と珠洲方面にも付き合いのある男でした。岐阜での出稼ぎの仕事も珠洲の人間との付き合いの中で出てきたと聞いていました。珠洲からは宇出津の石川県立水産高校に通っていた生徒もけっこうな数はいたと思います。


観音堂のアパートには、ちょくちょく蛸島のSMが遊びに来ていました。被告訴人安田敏はミッチョと呼んでいましたが、男です。年は被告訴人安田敏と同じではなかったかと思います。


ぼんやりとした記憶ですが、その頃は母親が蛸島で飲み屋をやっていて、彼女と一緒にそれを手伝っていて、たまに金沢に遊びに来ているという話であったと思います。その彼女の一人がHとRのどちらかであったようにも思います。


はっきりしていることはいつも一緒にいる仲良し女友達のHとRの一方は、金沢市内神田のアパートで珠洲のKと同棲していました。Kが遠洋漁船に乗るという決心をしたことで、彼女はずいぶんとショックを受けている様子でした。私はそのアパートで実際にその姿も見たのですが、深刻に悩んで見えました。


30年近くも前の記憶になっているのではっきりしない部分もありますが、そのHとRは野々市のアパートに住んでいて、UHと二人で金沢市場輸送の4トン車に乗ってぶらぶらしている時に、そのアパートに行き、中には入らなかったように思いますが、二人の女をトラックに乗せて、ゲームセンターに行きました。


マルモ設備のすぐ近くのゲームセンターだったので、マルモ設備の待ち時間などのそのゲームセンターに行くと、HとRのことを思い出すことがありました。酒やシンナーの匂いというのはなかったと思いますが、ちょっと錯乱にも近い状態で陽気でもありましたが、以前見た時とのギャップも大きかった。


UHに関しては金沢市場輸送の4トン車に同乗させて、岐阜の中心部に行ったことも夕方に近い街の景色として記憶に残っています。新潟か関西方面にも連れて行ったことがあったかもしれませんが、細かくは思い出せません。


そのUHにしても三崎のHMのことはよく知っていたように思います。そういえばUHも初めにHMが中西運輸商の4トン車に乗務していた頃、トラックに同乗してどこかに行ってきたと話していたかもしれません。同じ三崎出身のSKに関しても、同乗してどこかに行ってきたという話は聞いたと思います。


既に書いているかと思いますが、私もHMの中西運輸商の4トン車に同乗して、山口県の宇部市から静岡県の清水市まで行ったことがありました。静岡からは山梨を通って長野、新潟県の糸魚川市に出て、富山の方から金沢に戻ってきました。


昭和59年の10月に私が金沢市場輸送をやめるときも、その少し前に私の紹介というかたちで、三崎のHMは金沢市場輸送に入社していました。これも既に書いているかと思います。


そして昭和61年の2月いっぱいで中西運輸商をやめるときも、その1,2ヶ月ぐらい前でしょうか、その時も私の紹介というか口利きという感じで、再び中西運輸商に入社をしていました。この間にYTとは仲良くなったのだと思いますが、住まいが近かったのも大きいと思います。


中西運輸商で仕事をするようになるとYTは金沢市黒田のアパートに住んでいたと思います。そのうち長女も生まれていたので、結婚もしていたと思いますが、よくわからないところもありました。


YTの彼女というか妻とは、私の前妻が仲良くしていて、初めの家での時も少なからず影響を受けたような話であったと思います。その辺りは被告訴人KYNの妻との関係にも似ているところがあると思うのですが、東力2丁目と黒田ということで、歩いても遠くない距離だったと思います。


三崎のHMはその前から黒田の広い道路沿いのアパートの2階に住んでいました。あれは昭和58年の秋になるかと思います、珠洲市の三崎の彼の実家まで一緒に行って、引っ越しの手伝いなどしたので、よく憶えています。


YTは私が金沢市場輸送をやめたあとも、しばらくは金沢市場輸送にいたように聞いていますが、ちょうど景気もよくなり始めた時代でもあったのか、4トン車で100万円あるいは120万円ぐらいの売上をあげて、歩合給ももらっているという話を聞きました。


昭和59年、私がまだいたころの金沢市場輸送は売上が80万円を超えると歩合がつくような話でしたが、運賃も安くて不可能に近いというような話を聞いていたと思います。不可能ではないにせよ、かなり難しいような話でした。


私は昭和60年には中西運輸商で4トン車で178万円の売上をあげたと褒められたような記憶がありますが、荷物が普通の大型車より沢山積み込めるような4トン車だったので、それもあったかと思います。それでも給料は大したことはなかったと思います。


当時は大型車の運転手で給料が30万円と聞くだけでも大きな額だと思っていましたが、まだ景気のよくない時代であったと思います。そのうちバブル景気にも入って、いろいろと相場も様変わりしていきました。


市場急配センターの場合、仕事内容は以前と比べると比較にならないぐらい楽でした。あちこちに高速道路が開通したり、バイパスが出てきて交通事情が良くなったのもありますが、高速道路の利用が大幅に認められるようになっていました。


昭和59年当時は鮮魚を積んでいても富山県内はずっと国道を走っていました。夕方の混みあう時間にも重なっていたので、金沢東インターから朝日インターまでの高速道路の利用とは、2倍から3倍近くの時間もかかっていたと思います。その先の親不知は国道8号線だけの一本道でした。


積み荷の条件も大幅に悪かったと思います。ただ、そういう経験があとあと役になったというか、何をしても大した仕事に思えないことも多かったです。その辺りも後から運転手を始めた人や他分野の運送をしていた人とは感覚の違いにもなっていたのかと思います。


東北便にしろ、笹谷トンネルが開通して山形市内まで有料道路か高速道路が伸びて、どれだけ楽に思えたか大きかったと思います。冬場など何もなければ新潟市内に近づく時間にも、まだ山形県にも入れないこともあったかと記憶にあります。鮮魚なので緊張感も高いです。夕方になると路面も凍結したり。


HMですが、その後、守田水産輸送と輪島屋鮮冷を行ったり来たりしていました。守田水産輸送とは1年間ほど青森の定期便を交代でやったこともありましたが、そのうち顔を合わせても、以前のように話はしなくなったと思いますし、顔を合わせることも少なくなりました。


ずっと4トン車に乗務していたと思いますが、姿を見かける終わりの方は守田水産輸送で大型車に乗務している姿を見たかもしれません。金沢市場輸送の事務所が二口町に移ってからは、出会うことも滅多になくなっていたように思います。


二口町に移転した当初は、守田水産輸送のトラックが金沢市場輸送で給油をしていたこともありました。何があったのかはっきりした話を聞くことはなかったと思いますが、ある辺りを境に仕事の関係はほとんどなくなったように思います。


どういうわけかこれもはっきりした話を聞くことはなかったと思いますが、平成3年に入ったあたりでしょうか、輪島屋鮮冷とは多くはなかったと思いますが、仕事上の関係が出てきました。


輪島屋鮮冷の大型車の運転手と一緒に自衛隊の基地で爆弾の荷降ろしをしたような記憶も残っています。宮城県の岩沼市だったか、あるいはそれより福島県寄りの自衛隊の基地であったと思います。


輪島屋鮮冷の大型車が北陸ハイミールにミールを積みに来ていることもありましたが、それは平成4年の1月ころだったかもしれません。たしか福岡県行きのミールを積んでいると聞いたように思います。


平成3年の春頃には、なんどか冷凍物の小口の積み替えのようなことを、輪島屋鮮冷のトラックとの間でやることがありました。私がたまたまその場に見ただけで何度かあったので、けっこうな回数ではやっている感じでしたが、なにかよくわからないような仕事内容でもありました。


前にも書いたと思いますが、そんな中で被告訴人安田敏も輪島屋鮮冷の4トン車に乗って、金沢市場輸送に積み替えか何かの仕事に来たことがありました。


気がつくとまたしても見出しとはかけ離れた内容に突き進んでいたようです、どの辺りから外れていったのかも、ちょっと思い出せないぐらいです。


和田くんのことと山下強のことではあったと思います。いったんそちらの方に戻して説明をしたいところですが、どこからYTや三崎のHMの話になっていったのか、書いている自分でもすぐには思いさせない状態です。


まあ、山下強がもう一度、北陸ハイミールに倉庫移動の仕事に戻るような話になりかけたのですが、その日の倉庫移動の回数は彼が一番多くなっていたようで、そういうことをポツリと言いました。


明るく仕方がなさそうな感じでもありましたが、私の目にも被害者AAさんが独断で強引に、私以外の運転手に北陸ハイミールに行かせようとしているように見えました。それが裏駐車場の行動とも重なりましたが、少なからず他の運転手にも迷惑を掛けているだろうという自覚はありました。


その頃になると被害者AAさんは、自分の軽四を裏駐車場でも乗用車や2トン車を並べる側ではなく、大型車は4トン車を並べる側に多く駐車するようになっていたと思います。それは間違いないことですが、時期的なこととなると、今はっきりと思い出せない部分もあります。


Googleマップというかストリートビューや私が以前撮影した写真でも、大型車の姿というのは見当たらなかったので、わかりにくいと思いますが、長さの長い大型車は車体を斜めにして駐車する必要がありました。


これだとたとえ小型の軽四自動車の一台でも、かなりのスペースの無駄として邪魔になっていたのです。それは被告訴人松平日出男や被告訴人池田宏美の協力と同時に、被害者AAさんのわがままや身勝手な振る舞いとして映ることもありました。


ちなみに車検証を見ると大型車の長さというのは通常12メートルぐらいになっていました。4トン車でも私が中西運輸商で乗務していたものは荷台の箱の長さで9メートル20センチ。全体としても12メートルに10センチほど短いだけという感じでした。


市場急配センターの4トン車というのは4トン車としては標準的な長さだったと思いますが、正確に何メートルぐらいであったかとなると、記憶にはありません。平成4年当時は4トン車の数も少なかったです。新しいウィング車は2台だけだったような気もします。


砂利道の駐車場でもあり、大型車の駐車場としてはもともと狭かったようにも思います。長距離なので入れ替わりの駐車が多かったとは思いますが、他のトラックの駐車スペースにも気を使う必要があったと思います。


私は彼女の身勝手な行動で他の運転手に迷惑をかけるわけにもいかないと思い。二階に上がって、彼女に北陸ハイミールには自分が行くと伝えました。彼女は見たことのないような顔と目で、私の顔を下の方から見上げていました。精神的に参って神経が張り詰めているようにも見ました。


実際、彼女との関係では私自身そういうことが多かったです。精神的な負担が強く、神経が張り詰めているような感覚になりました。


怒っているようには見えなかったのですが、訴えかける目線というのか、そんなのを感じていました。この年末の彼女は特に、そういう不安定な状態が多かったと思いますが、泣き出しそうな顔を見せることもあったり、外をさまよい歩くような姿もあったと思います。


年末最後の大掃除の時であったと思いますが、いつまでも玄関のガラスの拭いているようなこともありました。私はそのすべてを彼女自身の内心の問題だととらえていたように思いますが、被告訴人池田宏美らの影響も大きなものがあったとも考えられます。


そのあたりのことは、また別の項目で書きたいと思います。裏駐車場と連動した自宅の電話に出ない対応にも関係していますが、彼女は19時ころを含め、電話に出ないことを「寝てたんじゃないか」ととぼけていました。常識でとぼけていたとしか考えられないことです。


結局、私は和田君と二人で北陸ハイミールに行くことになったのですが、私の大型ウィング車の助手席に彼が同乗しての付き合いだったと思います。


他に市場急配センターでの仕事では余り記憶にないことですが、私は日栄運送の前の道路を通って、突き当りの金沢港の道路を右折しました。


日栄運送の前を通ったであろうことはそれ以外の道がないということで間違いないと思うのですが、昭和59年当時を含めその道は、藤江の陸橋の辺りから側道に入り、金沢西高校だかの正面辺りを左折して田んぼ道を走るという裏道でした。金沢港に行くのによく使っていた裏道です。


金沢西高校というのもその前か後で学校の名前が変わっていたような気もします。あの辺りは近くに県庁が出来て移転したこともあり、原型をとどめないぐらいに様変わりしているのではと思いますし、いつ頃にどう変わったのかも、思い出せないところがあります。


金沢港の広い道にぶつかると通常は左折して県漁連の市場などに行くことが多かったのですが、その時は右折をして北陸ハイミールに向かいました。


後の方でも会社から北陸ハイミールに向かうときは、東インターの方に8号線バイパスを走って田中の交差点から内灘に向かい、内灘の陸橋の手前の広い道を右折して行くことが多かったように思います。その陸橋の手前の広い道が、金沢港からつながっている広い道です。


通った道のことなどどうでもいいのですが、ちょうど金沢港に出た道を右折するのに大きく大型車のハンドルを切り返していたところだったと記憶にあります。


不意にチューこと和田君が、「広野さん。嫁さんおらんかったら不便やろ。会社のAちゃんなんてどうや」と言い出したのです。私自身どのように受け答えしたのか、今はすぐに思い出せなくなっていますが、適当にごまかしたような返事で、会話の続きを打ち切るようにしたように思います。


彼とはその後も何度か付き合いがあって、彼の自宅というアパートに遊びに行ったこともありました。諸江と聞いたように思いますが、浅野川の土手の道路にも近い場所で、内灘駅に向かう電車の浅野川線の側ににあるアパートだったと記憶しています。


あと、1月12日の午前中、片山津温泉せきや、から戻るときも彼の乗用車に乗って帰ったことを憶えています。二人で帰ったと思いますが、なぜ二人になったのかとなるとおもい出せないところがあります。


何人かはそのまま福井県の三国ボートレース場に競艇をやりに行くという話も出ていたかと思いますが、誰が行ったのかもよくわかりませんでした。


和田くんは自分の乗用車で高速道路を180キロのメーターを振り切るようなスピードで走っていたので、会社に着くのも早かったと思います。それでもチェックアウトまでもたもたしていたところもあったので、10時頃にはなっていたかもしれません。


ほどなくだったように思いますが、3,4人の年配の市内配達の運転手に混じって被害者AAさんも帰ってきました。彼らの車に同乗して帰ってきたという様子でした。少しして休憩室の電話から諸江の女友達のところに電話を掛けているような様子もありましたが、細かい事実は思い出せなくなっています。


3月の14日ではなかったかと思われる土曜日には、和田君が苦しそうに裏駐車場でゲロを履いているような様子を見かけたこともありました。ピンポイントでその部分だけ現在の記憶に残っていますが、他にも何かあったような気はします。


夕方に西口が来て、そのあと被告訴人多田敏明の3人で北安江の焼肉店に行ったのも、その土曜日のことであったように思います。当日かどうか、被告訴人安田繁克のものらしい車を会社の前で見かけましたが、その姿はみかけませんでした。


被告訴人安田繁克のものと思われる車のことに関してはできるだけ詳しい状況を書いておきたいのですが、以前からインターネットで車種について調べておきたいと思っていたものの、まだ実行はしておらず、車種の名前もわかりません。


被告訴人安田敏が150万円とかで新車で買ったという車についても同様のところがありますが、被告訴人安田繁克の車はなんとなくトヨタの車だったという気がして絞り込みが出来そうですが、被告訴人安田敏の車に関してはより難しいかもしれません。


当時かなり珍しい感じのデザインの車で、第一次世界大戦当時のドイツ軍の軍用車にも見えるような車だったという印象は残っていますが、普段生活をしていても長年、それらしい車を見かけることはなく、すぐに絶版になったのかもしれないです。


Googleで画像検索をしていたところ、被告訴人安田敏が150万円で買ったという車は日産のパオという車ではないかと思えてきました。しかし、平成2年に生産を終了したという情報もあって、被告訴人安田敏は新車で買ったと話していたようにも思います。


日産・パオ - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%94%A3%E3%83%BB%E3%83%91%E3%82%AA


後ろの方の見た感じが私の記憶とは違っているようにも思うのですが、水色の絵の具のような色の車というのは、当時珍しかったと思いますし、まさにこんな感じの色の車ではあったと思います。


日産・フィガロ - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%94%A3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%AC%E3%83%AD


上記の車だと「フィガロ (Figaro) は、日産自動車が1991年と1992年に販売していた乗用車である。」ということで時期的にも一致しそうですし、後ろの部分がそんな感じだったような気もするのですが、被告訴人安田敏の車は2枚ドアではなく4枚ドアだったような気もします。


被告訴人安田敏の買った車などどうでもいいといえばどうでもいいことなのですが、タイミングとして私が2月14日の白菜散乱のことで25万円だったかを被告訴人安田敏の50万円の前借りの保証人として会社に一括払いしてしばらくした2月の終わりか3月の初めの行動でもありました。


現在の私の記憶では北國銀行中央市場支店のATMで私が引き落としたのは多くて25万円、少なくて20万円なのですが、それは2月14日の午後のことで、12月の時点では被告訴人安田敏が理由をつけてまだ会社に一円も前借りを返していないような話を被告訴人松平日出男から受けたように思います。


私は20万円か25万円の現金を被告訴人松平日出男に渡し、被告訴人安田敏に関してはもう一切責任も負えないし、本人に自覚も反省もないので大きなことにならないうちにヤメさせたほうがいいと思う、などという話をしたと思います。


思ったよりずいぶんと手間取り、これだと思うものも見つけることが出来なかったのですが、被告訴人安田繁克の乗っていた車は、次の車の可能性が高いのではと思います。


【カーセンサーnet】「ハイラックス シングルキャブ」に関する中古車情報|中古車ならカーセンサーnet http://bit.ly/1rJr8jl


どうもダットサンというのは日産の車種で、それに近いモデルがトヨタではハイラックスということになるようですが、車種も年代ごとに細かい違いがあったり、輸入車なども混在しているようです。


歴代のダットサンの写真もGoogleの画像検索でかなりの数見たのですが、それらしい型式はなかったので、やはりハイラックスの可能性が高いかと思います。荷台の方の側面のボディにも丸みがあったような記憶がありますし、他にもデザインとして丸みを強調する部分はあったような気がします。


こうやって考えてみると、事件を起こしたのに近い3月の後半には和田君と会う機会も少なかったような気もします。事件当日に少しだけ姿を会社で見たような気もするのですが、いろいろと記憶の減退も改めて感じます。


前に書いたように福井県の鯖江市だかに向かう北陸道の尼御前サービスエリアで、和田君が事務員の探しているらしい話をしていたということは書いたと思いますが、よく考えてみると木村さんの紹介という話は出たのか出なかったのか、現在の私の記憶では判然としないところがあります。


それは私がミールを積んで徳島県小松島市に行ったのと近い時期であったとも思えてきました。その日のことは確か前後の運行の状況から日付も特定できていたように思います。


なぜだか日付が近いような気もしましたが、そうではなかったような気もしてきました。徳島に向けて出発した日は、なんとなく天候も悪かったような気がするのですが、そういう天気と同じようにめくるめく、彼女に対する見たかも変化の激しい時期で、一喜一憂でもあったと思います。


これも大事なところなのでまた別の項目でも記述をしておきたいと思いますが、被告訴人松平日出男は17時なるとすぐに帰宅しようとした被害者AAさんに、声を掛け次のように言いました。


「Aさん、今からKNさんのところか、それとも例の彼氏と今からどっか行くんか?」。


被害者AAさん本人の耳にはどこまで聞こえていたのかも不明ですが、出入口のドアから出ようとした時に声を掛け、彼女は足も止めず、振り返りもしないでドアの先の階段を降りて帰っていったように思います。


すぐに被告訴人池田宏美が困ったような声で、「あの子、彼氏なんかおらんよぉ」などと言ったところ、被告訴人松平日出男は自信ありげな意味有りげな口ぶりで、「わっしゃあ、いい彼氏紹介したんや。かたい。」などと言いました。


その時には被害者AAさんの姿は完全になくなり話が聞こえることもなかったと思います。あるいは階段を駆け下りる彼女の足音から、階段を降りて外に出て行ったことがわかるような状況であったのかもしれません。工事現場にも似たものがあるような鉄板の簡素な階段だったと記憶しています。


彼女は勢い良く飛び出すように帰ってきました。17時になるのをずっと待っていたような感じにも見えましたが、前後のことは余り記憶に残っていませんし、私はちょっと前に外から戻り、二階に上がったところだったようにも思います。今考えても何かあったという感じではあったと思います。


18時か18時半頃には徳島に向けて出発をしたように記憶しています。雨が降っていたような状況も一つの場面として記憶には残っています。たぶん重量オーバーでの検問を避けるため、遠回りですが金沢東インターから北陸道に乗ったのだと思います。


徳島県の小松島市のことはなんとなく記憶に残っています。荷物のミールを降ろしたと思われる場所の記憶というのはあまりないのですが、自衛隊の基地の前のようなところを通ったような記憶が残っています。天気も良かったと思います。


徳島というか小松島市で荷物を降ろすと、すぐに松山市に向かったように思います。あるいは金沢を出る前に松山に行くことは決まっていたのかもしれません。


午後の4時ぐらいには愛媛県の新居浜市のあたりにいたと思います。名前は記憶にないですが高速道路で、どこかのパーキングに入って、そこから会社に電話を掛けました。


今、ふと思い出したのですが、私は被害者AAさんが電話に出る時間帯を狙って16時以降に会社に電話をすることが多かったように思います。14時から16時前の時間帯は、金沢市場輸送に行っていていないことがあったとも記憶にありますが、これにも何か変化が出たことを印象的に憶えてはいます。


それは私が出先のことではなく、会社にいる時だったと思いますが、彼女は私のいない時間に合わせて、金沢市場輸送に仕事に行くようになったと記憶していますが、それも2月の初めに裏駐車場での駐車をやめたあとに、始めたことであったと思います。


これも細かいことは思い出せないですが、愛媛県内のパーキングからの電話でも、2月の初めの福岡県内からの電話の時と同様に、やたらと被告訴人梅野博之が電話に出て、面白がったようなわざとらしい対応をやっていました。


被告訴人梅野博之ほどではなかったとも思いますが、河野秀美さんも薄ら笑いを浮かべて面白そうに見物していることがありました。初めにそれをはっきりと感じたのは12月21日の夕方のことであったと思います。二階事務所の正面道路に向かって左側の隅の方に何人かでいましたが、彼の顔だけ特に。


事件後、金沢西警察署に面会に来た時の被告訴人安田敏の話であったと思いますが、その被告訴人梅野博之と河野秀美さんの二人が、私に対して厳しい意見を述べ、会社への復帰を反対したと聞きました。被告訴人梅野博之に至っては殺してやるようなことも口走っていたと聞こえました。


平成16年ころだったような気もしますが、被告訴人梅野博之との会話は録音したものを御庁に提出したと思います。被告訴人安田敏も被告訴人KYNも同様ですが、被告訴人安田敏とのやりとりが特に時間も長く、録音の回数もあったように思います。


ファイルは探せば今でもあると思いますが、私は少なくとも5年以上一度も聴いたことはないように思います。羽咋市から宇出津に戻ってからは一度も耳にしていないようにも思います。少なくともここ2,3年は全くないはずです。


平成4年4月1日の傷害・準強姦被告事件の事件当日のことですが、レストラン十字に入って席につき、早い段階で出た話だったと思いますが、被害者AAさんが、木村さんの紹介で事務員を入れるらしい、というような話をしていました。


それは彼女の後釜を意味するようにも受け取られたからです。そもそもこの当日も彼女の態度はめくるめく急変をしていました。そもそも被告訴人梅野博之や被告訴人池田宏美が不安を煽る発言と注意喚起をしていたからですが、それは彼らが供述調書において述べている事実でもあります。


4月1日に会うことになったのは、3月30日の午後に古河の青果市場から掛けた電話がきっかけでした。古河の市場には敷地の外の人がほとんど通らないような場所に、なぜか公衆電話の電話ボックスがありました。雨にも濡れないような完全な電話ボックスではなかったかもしれません。正面入口付近。


ようやくこの項目の主題を書いたと思いますが、同時に中野さんについても書くつもりでいました。木村さんと中野さんに面識があると聴いた話はなかったですが、その可能性は十分にありそうだと思っていました。


その中野さんですが、私が金沢市場輸送で東北便の仕事をするようになった早い段階で、その東北便の福井中継をやるようになった人でした。私の知る限り、ずっとその福井中継を続けていたし、事件の5日ほど前にはずいぶん久しぶりに姿を見かけたので、なおさら印象に強くも残っています。


私は昭和61年の秋にも頼まれて何度か、東北便に行くことがありました。当時は4トン車が主体の仕事であったようにも思います。時期的なこともあったかと思いますが、荷物も4トン車に十分に積載できるものであったと思います。


昭和59年に金沢市場輸送の4トン保冷者に乗務していた頃にも石巻港や塩釜港に行くことはありましたが、その定期便とは無縁だったと思います。


よく憶えていない部分もあるのですが、初めのうちは石巻の東北陸運の荷物と、塩釜港の宮城陸上の荷物の一部を積んでいたようにも思います。その頃には宮城陸上の自社便も大型車が運行していて、帰り荷に七尾市のスギヨからカマボコかその原料を運んでいるようでした。


宮城陸上の金沢便を全面的に請け負うようになったのは、私が大型の保冷車に乗務した後のことであったとも思えます。つまり昭和62年の4月よりあとのことです。そのうち東北陸運の荷物も増えていきました。


世の中にグルメという言葉も出てきて、食への感心が高まったという時代背景もあったのかもしれませんが、海産物の荷物の量もだんだんと増えていったような気がします。そのあたりのことは本書で前にも書いているかと思います。


そういえば数日前から思い出している人物ですが、河北郡内灘町付近にある地名と同じ二文字を書く人物がいました。何か読み方が違うような話も耳にしたように記憶にはあるのですが、誰かの冗談かと思って真に受けなかったような気もします。


基本的に無口で大人しい人でした。年もそれほどは離れていなかった気がするのですが、20代の後半かあるいは30代の前半と聞いていたようにも思います。顔は現在でも割とはっきり記憶しています。それだけ特徴もある顔立ちだったとは思いますが、能登ではわりといるようなタイプでした。


能登の出身とは聞かなかったように思いますし、金沢の人らしい話し言葉を使っていたような記憶も微かに残っています。一時は4トン車で長距離の仕事をしていたこともあるいはあったかもしれません。


市内配達の仕事をするようになって、そのうち何か責任のあるような立場で仕事を任されるようにもなったと耳にしたような気もします。そのうち鋼材を運ぶ大きな運送会社の社長の娘と結婚しているような話も耳にしましたが、そのうちに辞めたのか、全く姿を見かけなくなった気がします。


特になんということもないのですが、当時のことをいろいろと考えているうちに、その人のことも頭に浮かんできたのですが、はっきり思い出せない部分もあります。大人しく無口であった割に、色々と話が耳に入ってきたような記憶もあり、ちょっと不思議な存在感もあったかと思う人です。


そういえば最初のうちはその無口な人が、福井の中継もしていたように思います。ただ、その頃の福井中継は、受け持ちになっていた人の責任かどうかも忘れましたが、出てくるか出てこないか当てにならないようなところもあったような気もします。


そうこうするうちに中野という人が福井の中継をするようになったのですが、中野さんは休んだという話を聞くこともなく、毎日決まった時間に必ず、中継の場所にいました。トラックの中で寝て待っていることもあったかもしれませんが、必ずいるという感心感も当たり前のことになっていったと思います。


いるはずの福井中継の運転手がいなかったとか、来なかったという話は、現在の記憶では鮮明になりませんが、まあ、何かあったようなことだけは微かに記憶に残っているような気がします。


いつ頃からというのは思い出せないですが、だいたい昭和62年頃には中野さんはいたように思います。それからずっと福井の中継をやっていました。ポンコツの4トン保冷車で中継をやっていましたが、忙しい時期でもそんなに荷物の量が多くて積みこむのに困るようなことはなかったと思います。


わずかな荷物ということも多かったと記憶にはありますが、それで会社として採算がとれるものなのかと考えることもありました。中継の荷物というのは距離は余り関係なく1個50円というのが相場だと聞いていました。


そういう計算も得意ではなかったですが、真夜中に運転手を雇い。トラックの油代と高速代を払うのに見合うだけの、中継の荷物の量があるとはとても思えないことがあったからです。


今計算すると100個の荷物でも5千円にはなるので、どうかとは思いますが、他の運送会社の中継のトラックは、満載にも近いようなかなりの量の荷物を積み込んでいるのも見ていたからです。


金沢市場輸送の福井中継ではひざ下でも空きのスペースが多いような状態が多かったとも思います。なお、富山県の第二の都市、高岡行きの中継は、守田水産輸送に出していたと記憶にあります。


私の個人的な感想ですが、福井中継のその荷物の少なさも、中野さんの存在を不思議に思われるところがあったかと思います。会社としては他の利益もあってやっていたことかもしれず、いまさら詮索しても始まらないことですが。


中野さんは普通に見れば怖い人にも見えていたと思います。後から仕事に入ってきたということもあり、気を使った態度で接していたとも思いますが、それでも時折、怖い人に見えることもありました。話し方や態度はむしろ安心感を与えるものでもありましたが、それもかえって裏がありそうに思えたり。


中野さんは包み隠さずに、昼は喫茶店の仕事をしていて、夜にこの仕事に来ていると話していましたが、その喫茶店の場所を聞いただけで、普通の人ではなさそうだと思いました。


私の聞き違えという可能性も完全には否定出来ませんが、増泉の一丁目か二丁目で喫茶店をやっていると話、だいたいの場所を教えてくれましたが、だいたいそれらしい喫茶店を見たことがあるような場所でした。


私は昭和56年の夏、短い間でしたが被告訴人大網周一とその増泉一丁目の辺りで生活をしたことがあり、ヤクザ者のような人間がどれほど多い割合で住んでいるかもしっていました。その当時ともなると事情もある程度は違っていたのかもしれませんが、その付近の喫茶店というのは独自の雰囲気の店でした。


増泉の一丁目といっても少し離れると畑や田んぼもあったように思いますし、普通の人も多くは生活していたと思いますが、想定される客層とともに、喫茶店の店が持つ雰囲気が、特別だったからです。


木村さんも増泉でコンパニオンの派遣の仕事をしていると聞きましたが、それは市場急配センターに移ってからであったとも思います。誰から聞いた話なのか改めて考えてみたのですが、被告訴人安田敏から聞いたという可能性が、一番かもしれません。


木村さんの紹介で事務員が入るという話は、他にも耳にしていたと思います。はっきり思い出せるのは尼御前サービスエリアでの和田君の話でしたが、4月1日よりは一月以上前のことで、木村さんの紹介という話が出たことも、現在の私の記憶でははっきりとは思い出せません。


それにしても紹介で新しい事務員が入るような話は耳にしていたかと思うので、それが被害者AAさん本人の口から出たことは、それなりの効果もあったと思います。


レストラン十字で席に座ってからの彼女は、不思議に思えるほど、ちょっと前とは一変して安心した様子で、笑顔も見せて話をしていました。


直接会って話をするということは3月30日の古河からの電話より前に彼女との間で決まっていたようにも思います。


その古河から掛けた電話の少し前に、私は当日、古河から名古屋行きの荷物を積んで走り、夜のうちに名古屋の市場で荷降ろしを完了し、翌日の午前中か午後には、知多半島の碧南市からレンガか瓦のような荷物を積んで金沢に戻ることになっていました。


つまりは31日に碧南市から荷物を積んで4月1日に金沢かその付近で荷物を降ろし、運行が終わるということになったのです。そこですかさず私は金沢に戻ったら、あがりにしてくれと頼んだのです。


あがり、というのは帰り荷の荷降ろしを終えた当日、運行には出ないことを意味します。一応定時は17時になっていたかと思いますが、その時間まで会社にいて指示通りの動きをしていれば、翌日の朝まで自由時間ということでした。


普通の会社の仕事では17時に仕事が終わって家に帰ることはごく普通のことですが、長距離の仕事では、あがり、ということになっていました。当日の午後や夕方に荷物を積んで次の長距離運行にでることを「着発」とも呼んでいました。


たまには会社の指示で、前にも書いた馬鈴薯の積み込みの手伝いに出ることもありましたが、通常はトラックの修理、点検に出かけたり、洗車をやっていましたが、ほとんどは自由時間のようなものだったと思います。


金沢市場輸送にいた頃は、夕方遅くにホーム作業で積み込む雑貨の仕事も多かったので、夕方近くまで会社に出てこないこともありました。決まりでは昼過ぎに出てくることになっていたとも思いますが、次の運行がはっきり決まっていれば、さほどやかましく言われることもなかったと思います。


夕方からホーム作業で荷物の積み込みを始めても出発するのは22時ころとかで、夜通し走って荷降ろしをして、作業が終わるのは翌日の早朝ということも普通だったので、夕方の出勤というのも当たり前といえば当たり前のことかと考えてはいました。大手の運送会社でもそんな話でした。


古河の市場から北陸以外の運行というのはその時が初めてだったと思います。静岡県内でも浜松市の市場だったかに荷物を降ろし、名古屋の市場で荷降ろしを完了しました。


それから知多半島に走って、道路標識が碧南市に入ったあたりにコンビニがあってそのあたりは広い駐車場にもなっていたので、そこで仮眠をとりましたが、寝る頃には夜も明けて明るくなっていたと記憶しています。


午前中に起きて会社に電話を入れたところ、予定されていた碧南市での瓦だったかの仕事はなく、小牧市の方からアサヒの缶ビールを積むことになりました。小牧市までは名古屋市内を横断することにもなるので、それなりに時間も掛かったと思いますが、16時か17時前の明るい時間には滋賀県にいました。


小牧市から積んだアサヒの缶ビールの荷物は石川県の小松市降ろしでした。なんとか酒類とか言う会社であったと思います。金沢にも似たような名前の会社はありましたが、小松降ろしになっていました。


金沢市と小松市の距離は30キロ程度だったと思いますが、時間帯やその位置にもよりますが、早くて30分、余裕を見て一時間という感じかと自分は考えていました。一度、金沢の自宅アパートまで帰るのもいいのですが、翌日はあがり、ということもあり、疲れもあったので直接小松に行くことにしました。


金沢に帰ることを考えると往復で2時間ほどの時間が必要になるのですが、直に小松で荷降ろしをするとなると、時間もかなりの余裕が出来ました。その余裕が出すぎたことも悪かったのかもしれません。考え事をする時間も長くなってしまいました。


初め関ヶ原から国道365号線に入って福井方面に向かい、伊吹山を越えて滋賀県に入った辺りで、右手に食堂を見つけ、そこで食事をしました。初めて入った店だったとも思いますが、まだ16時台だったとも思われる早い時間でした。


その後、国道8号線で小松の市内を抜けたあたりにくるまやラーメンがあって、普通は大型トラックが入るような駐車場とも思えなかったのですが、荷降ろしの会社に近いこともあって、その店に入り、たぶん生ビールでも飲んで一気に眠るつもりでいたと思います。


ところが思いとは裏腹にだんだんと目が冴えてきて全然眠れなくなってしまいました。前の晩は、東名高速の御殿場インターチェンジ付近のサービスエリアでも数年ぶりの睡魔に襲われて、運転中久しぶりに危ない思いをしたところでもありました。


休もうと意識するうちに眠れなくなってしまい、そのうち疲れもたまっている状態なので、朝に寝過ごしてしまうことが心配になってきました。それで何時ごろかは記憶にないですが、夜中に荷降ろしの会社の場所まで移動し、そこで休んだのですが、余り睡眠は取れないまま朝になったように思います。


それでも予定通り朝一番に荷降ろしをすることは出来たと思います。それから金沢に戻ってまずは会社に顔を出しましたが、その時点で被害者AAさんの状態が普通ではなくなっているのに驚きました。何か攻撃的な態勢をも感じさせるものでした。


前の古河の市場からの電話で4月1日の夕方仕事が終わってから会って話をする、という返事をもらった時は、彼女は感情を表に出さず、なんでも受け入れるという態度で、何を言っても「はい、はい」と答えていたのです、それはやけくそでふざけている態度にも思えなくはなかったですが、穏やかでした。


それと時間帯的にも似たようなことが数日前にありました。現在の私の記憶だけでは分析も難しくなっていますが、古河から名古屋に行った運行の前の運行か、そのまた前の運行のことでした。3月24日より後のことでもあります。


現在の私の記憶では多分ということになりますが、加賀市の大同工業に栃木県宇都宮市行きの荷物を積み込みに行く直前だったと思います。午前中に行きの荷物を積み込みに行くという事自体、かなり珍しいことだったとも記憶していますが。加賀市の大聖寺まではそれなりの時間も掛かりました。


その大同工業に荷物を積みに行くことに関した用事であったかは現在思い出せないのですが、なにか用事があって被害者AAさんの机に近づいた時のことです。ちょうど彼女は中野さんからなにか報告を受けているような状況でした。


時刻は6月29日11時02分です。少し前まで強い雨が長い時間降り続けていましたが、ようやくあがったような感じです。少しですが、日差しも明るくなってきたような気がします。


さて、昨夜の続きです。平成3年3月の10日ころに市場急配センターの二階事務所で大幅な室内の模様替えがありました。模様替えというのが正しい言葉かどうかわかりませんが、机の位置などを変更しています。


とりあえず模様替えでいきますが、その模様替えで被害者AAさんの席というか机は、それ以前被告訴人松平日出男社長の机がほぼあった場所になりました。事務所の奥、正面道路側の窓際の位置です。事務所全体を見渡しやすい位置だったとも言えるかと思います。


昨夜の繰り返しになるかと思いますが、彼女の机の脇には中野さんが立って、何か報告のような説明をやっていました。そして、私が机に近づいていった時のことです。真剣な面持ちで仕事の話に看看を傾けながら彼女は下の方からおもむろにメガネを取り出し、そのメガネを自分の顔に掛けたのです。


私も驚きましたがよくある彼女の行動パターンなので、また新しいことを考えたのか、という感じでした。被害者AAさんが会社でメガネを掛けた姿というのは、それまで一度も見かけることがなかったからです。


事件後の彼女の両親のどちらかの供述調書のなかであったと思いますが、彼女は少し視力が弱くメガネをかけることがある、というような記載はあったように思いますが、なにか取り調べの警察官の誘導で出てきたような話に見えました。


それまで全く見たことのなかったメガネ姿の彼女だったので、メガネは演出のための小道具以外に考えられなかったです。さらにそのメガネを取り出して掛けたタイミングです。細かいことは思い出せないですが、似たようなことは他にも色々あり、これは特にわかりやすい例ではないかとも思います。


予想外の行動だったので私もそれなりには驚きましたが、むしろ側にいた中野さんの驚き様のほうがすごいと私の目には映りました。漫画に出てくるようなリアクションでした。


その時間帯ですが午前中の11時前かもしれません。長距離運転手である私が、二階事務所にいることは余りない時間帯ではなかったかと思います。


中央市場が休みではない限りは毎日同じことを繰り返しいるはずの中野さんの仕事内容なので、たぶん毎日同じ時間帯に同じように二階事務所に来ているものと考えられました。しかし、そういう場面を見たのは初めてに近いことで、中野さんの姿を見たのもずいぶんと久しぶりだったと印象に残っています。


なお、私は中野さんが以前の福井中継を続けていたという前提で考えていますが、福井中継をやめて他の仕事をしていたという可能性も十分にあると思います。


中野さんは市場急配センターという会社が独立する前から金沢市場輸送にいた運転手です。夜の数時間だけのアルバイトという印象もあったのですが、社員なのかどうか本人にも他の運転手に聞いたこともなかったので、わかりません。


東北便は早い時で夜の23時ころに金沢の中央市場に着いていたと思います。遅い時でも2時ぐらいでしょうか。年の瀬で荷物の量が多かったり、大雪で交通事情が悪くなれば、当然に到着時間も遅れがちになります。


前にも書いていると思いますが、東北便は年の瀬の一番荷物の多い時で大型車4台、4トン車1台ぐらいの荷物がありました。主な荷物はサンマ、タラ、銀鮭、マグロなどですが、貝類やウニ、カマボコなどの練り製品も多かったです。塩釜では北海道の苫小牧からフェリーで来た荷物も中継で積んでいました。


荷物の行き先は、新潟県の糸魚川市の市場、富山市の市場、高岡市の市場、金沢の市場、福井の市場でした。糸魚川市の市場と富山の市場は荷物を積んでいれば、直接立ち寄って卸していました。前に書いたと思いますが、高岡分は守田水産輸送に中継を出していました。


練り製品などは市場以外に、市場の近くの食品会社への荷降ろしが多かったです。石川中央食品、カナカン、イケウチなどがありました。色々と混載で降ろし場所の違いもあったので、慣れないと大変だったと思いますが、やっているうちいつの間にか慣れていたのでなってことはなかったです。


マグロはほとんどが木箱に入った一本物のマグロで大きい物は300キロありました。木箱は大量の氷も入っています。練り製品は濡れないようにする必要がありました。降ろしやすい順番を考えて積んでおく必要もありました。


荷扱には注意しなければならず、ウニの箱などは横倒しにするだけで50万円の弁償になると聞いていました。練り製品もびしょ濡れにすれば売り物にならなくなります。破損等も基本的に運転手本人が負うということになっていたので、自然に最大限の注意を払うという習慣も身についたと思います。


鮮魚に比べると青果というのは、余り気を使う必要もなく荷物の種類も多くはなかったです。トマトやスイカはそれなりに気をつけましたが、荷受けのほうが心得ているのでその指示に従って降ろすというのも多かったと思います。


大型車は積める荷物の量も多く扱う量も多いですが、気分転換の運動という感覚もあって私の場合、さほど苦になるものではなくなっていました。むしろ昭和59年に4トン車に乗務していた頃の方が、慣れていなかったためもあったのか、しんどく辛い思いをしたという記憶が残っています。


経験の積み重ねもあったのだろうと思いますが、普通に仕事をやっているつもりでも、高い評価を受けるようになっていきました。慣れない人や経験の少ない人だとやはり大変なのだと思いますが、楽をしていても経験は積めないというのが私の持論でした。


そういう意味でも仕事の選り好みというのはしないようにしていて、まあ、会社に言われるままの指示で仕事をしていました。


長距離運転手として鍛えられたのは中西運輸商にいた時でした。何度も危ない思いをしたり、劣悪な条件下であったり、限界に挑むようなことをやっていたので、飛躍的に経験値を高めることも出来たと思います。


中西運輸商ではほとんどが佐川急便の広島・九州便でした。当時の佐川急便の社風も軍隊的な特別なものがあったので、厳しいところもありましたが、積み荷に対する責任や時間の緊迫性は一番の仕事が厳しく、特に鮮魚は生物なので何かあったときの影響も大きいと聞いていました。


鮮魚では石巻・塩釜からの東北便が多かったですが、九州の福岡からもウロコ運送と交代で定期便をやっていましたし、青森便もやりました。九州からは大阪や東京の市場に行くことも多かったです。築地の市場は特別な厳しさもあって、色々と得難い経験も出来たと思います。


同時に私の場合、身体的なことで長距離の仕事には限界も感じていました。もともと視力が弱いのですが、目の負担も大きく感じるようになっていたからです。


時刻は7月3日5時59分です。数日ぶりの記述の再開になると思いますが、今日は用事があって朝5時に起きました。昨日はとてもよい天気だったのですが、今日は朝からどんよりとして梅雨らしいすっきりしない天気です。


この項目で書き上げておきたいと思いながら、思い出せなくなったことがあるようで、そのあたりもすっきりしないのですが、書いているうちに思い出すこともあるかと思います。関連した事実や問題の説明に移ると、元の対象の場所にもどるのが難しくなることがあります。


町内のキリコの組み立ての手伝いに行っていました。たぶん初めてのことかと思います。


明日4日と5日は、地元宇出津のあばれ祭りなのです。被告訴人らとも顔を合わせる可能性が一年で一番高くなる日かと思います。身体、生命に関する危険というのも高まる日かと思いますし、それも含めて今日に至っています。


この項目ですが、主に木村さん、中野さん、河野秀美さん、和田君、山下強について説明を交え事実関係を書いてきたかと思います。河野秀美さんと山下強に関しては、まだ書くことを予定しています。


河野秀美さんに関して重要なことは平成4年2月1日の夜、市場急配センターの休憩室にいたかいなかったかということもあるのですが、現在の私の記憶でははっきり思い出すことが出来ません。仮にいたとすれば、それ自体、かなり珍しいことかと思います。


2月1日の夜のことに関しては、被告訴人多田敏明と被告訴人安田繁克がメインになるので、そちらの項目で書こうと思います。二人が供述調書において決定的に事実とはことなる内容を具体的に述べているところであり、彼らの計画性と共謀共同正犯の関係を強く推認させる問題点でもあります。


そういえば山下強がトラックに乗務中のケンカで路上に頭を打ち、被告訴人安田敏が代わりに愛知県の豊橋に走ったという話を書きましたが、説明に不十分なところがあったかと思います。


まあ、何を書いたところで20年以上も前、岡田進弁護士が完全形式的に無視し、木梨松嗣弁護士が実質握りつぶしたような事実なので、検察、警察が動かない限り、陽の目を見ることはないかとも思っていますが、その必要性を社会に訴える告発という意義も大きいです。


どうも山下強は空車で豊橋に向かおうとしていたものと考えられます。彼の自宅が河北郡津幡町にあるということはその前から聞いて知っていました。津幡町は河北郡のなかで金沢市内にも近く一番大きな町かもしれません。富山県の県境にも近く国道8号線沿いという地理的な特徴もあります。


内灘町も河北郡で割と大きくて地元では誰もが知っている場所ですが、海水浴場もあって海に近いです。現在は無料化に伴い名称も「のと里山海道」とかに変更になりましたが、能登有料道路の内灘料金所もありました。


私は2009年の1月以来、一度も金沢市近郊には行っていないので、道路事情も変わっているかと思いますが、金沢市では北陸道という高速道路で金沢西インターと金沢東インターがあって、ちょうどその2つのインターの間は、北陸道の下に国道8号線バイパスが通っていました。


金沢から国道8号線で富山方面に向かうと、金沢東インターを過ぎてすぐ、バイパスは左方向へ、北陸道はそのまま直進して山間部の方向へと枝分かれしていました。さすがにこれは現在も同じかと思いますが、山側環状という新しい動労もできているので、以前ほど主要な道路ではないかもしれないです。


正確なことは地図を見て確認する必要があるのですが、枝分かれして8号線を少し走ったあたりは、金沢市福久という地名だという意識が強いです。他にも町内や地名はあるのだと思いますが、その辺りの大体の場所を指す会話でも、福久ということが多いかと思います。


富山方面というか津幡の方向から国道8号線を走ってくると、福久をこえてすぐ北陸道と交わるあたりで右にカーブしているかと思います。被告訴人安田敏の簡単な説明でしたが、山下強が頭に怪我をしたというのは、その辺だと聞きました。


また一つ思い出したことがありました、説明が途切れた部分の一つです。それは被害者AAさんの両親の供述調書のことです。現在、私が手元にある情報として確認しているのは父親の告訴調書ぐらいでしょうか。添付資料として写真も用意されているかと思います。


家のどこかにはあるだろうと思いながら見つかっていないのは、母親の供述調書です。少し特別な場所に保管しようと思って動いたことを微かに記憶しているのですが、それが仇となったのか、どこに保管したのか忘れてわからなくなってしまいました。2009年の秋頃かとも思います。


被害者AAさんの視力が少し弱くメガネをかけることがあることは、その母親の供述調書に記載があったように思うのですが、それも現物がどこにあるかわからないので、確認することができなくなっています。


なぜ、供述調書のなかに視力のことが記載されたのか、それも少しは気になりますが、身体的特徴というのはなるべく記載しておくというマニュアルがあるのかもしれません。


中野さんと被害者AAさんがメガネの件ですが、事件の5日ほど前のことであったと思います。他にもっと気になることや、重要と考えていたことがあったので、中野さんとメガネことはさほど意識しておらず重要な事実とも考えていなかったと思うのですが、それでも直近に近いので取り調べでも話したかと。


なお、被害者AAさんの母親の供述調書というのは、金沢西警察署ではなく金沢地方検察庁が作成したものであったようにも思います。


私の知る範囲、被害者AAさんの両親と被疑者である私自身の供述調書以外に金沢地方検察庁が作成した供述調書というのは存在しなかったと記憶にあります。社長であった被告訴人松平日出男ですらなかったと思いますが、その松平日出男だけが例外で期日を別にして2通の供述調書が作成されていました。


私自身、割と最近になって気がついたことですが、金沢地方検察庁というか江村正之検察官が裁判所に証拠として提出したと考えられる供述調書というのは、日付にむらというか偏りがあって、金沢地方裁判所に提出されなかった供述調書の存在がうかがえます。


これは本書において、前にも指摘した箇所があるかもしれません。その記憶にも自身が持てないので確実なものにしておくため、改めて指摘と掲載をしておきたいと思います。


Linuxの端末で対象ディレクトリに移動し「% ls -d -1 乙号供述調書」というコマンドを実行しました。次がそのスクリーンショットの画像のファイル名とツイッターの写真付きツイートのURLです。


2014-07-03-093430_% ls -d -1 *乙号供述調書*.jpg pic.twitter.com/RevlBzmxuU


端末というのはターミナルとも言いますが、文字ベースのコマンドを使ってパソコンに処理をさせたり、操作するものです。普通にWindowsパソコンを使っていると見ることもないと思いますが、Windowsにもコマンドプロンプトという似たようなものはあります。


パソコンといえばビジュアルな画面で主にマウスを使って操作するものという認識が主流かと思いますが、Linuxでは文字ベースの捜査が多いですし、慣れるととても便利なので手放せなくもなっています。


lsというのはファイルやディレクトリを表示させるコマンドですが、-dというオプションでディレクトリのみに絞りをかけています。見やすく縦一列に表示させるため-1というオプションもつけています。


実際は半角ですが*の記号は、全ての文字に当てはまるものです。正規表現だと直前の文字の0回または1回以上の繰り返しというパターンになるかと思いますが、これは正規表現ではなくワイルドカードなので、Windowsパソコンの検索に使う記号と同じ意味かと思います。


正規表現というのはより高度なパターンマッチですが、grepコマンドでさらなる絞り込みに使うことが多いです。ファイルの数も少ないので、肝順なワイルドカードを使いました。


lsコマンドを-dオプションのみで実行するとちょうど2行になったので、次にそのまま紹介します。


H04-04-02_乙号供述調書金沢西警察署 H04-04-10乙号供述調書金沢西警察署 H04-04-14乙号供述調書金沢西警察署 H04-04-16乙号供述調書金沢西警察署 H04-04-29乙号供述調書_金沢西警察署


H04-04-09_乙号供述調書金沢西警察署 H04-04-13乙号供述調書金沢西警察署 H04-04-15乙号供述調書金沢西警察署 H04-04-18乙号供述調書_金沢西警察署


これとは別にH04-04-01_自首調書_金沢西警察署がありますが、それ以外の乙号供述調書は全て谷内孝志警部補が単独で取り調べを行い、供述調書を作成したものです。他の警察官が取調室に入ってきた場面すら、記憶にないほどですが、お茶のようなものは持ってきたことがあった気もします。


現在の警察ではそういう対応はなされていないのではと思いますが、もともと随所にずさんさが見受けられる金沢西警察署の捜査と取り調べでした。ごくごく単純な事件として処理したようですが、最終的な判断は江村正之検察官がするという、おまかせ意識もあったのかもしれません。


4月3日から4月9日までの日付の供述調書というものが全く存在しません。個別に供述調書を何度見ていても、まったく気が付かなかったことですが、ディレクトリごとにファイルをまとめると、否応にも目に飛び込んできた現実でした。


ファイル名の先頭にH04-04-02というような日付を入れているのは、順番通りに並んで表示させるためでもあります。厳密に言えばパソコンの文字コードの順番になるのですが、英数字に関しては普通に規則通りに並ぶはずかと思います。漢字になるとほとんど意味のない並び順になるはずかと思います。


気をつけているのは、ここでは使っていないですが、連番をつけるときのことです。01などと桁を合わせて0で埋めておかないと、1の次が2ではなく11になったりして、意図したように並んでくれません。ディレクトリの中のファイルはそのように連番を使っているはずです。


金沢西警察署での取り調べが始まって少なくとも半月、だいたい20日の間は連日取り調べがありました。そして私の記憶では毎日午後から夕方、供述調書の作成が行われていたはずなのです。


当時は取り調べの意味もわからず、刑事裁判の仕組みも知りようがなかったですが、江村正之検察官が証拠調べを請求した供述調書のみが金沢地方裁判所に提出され、その全ての内容を私が認めたこととされていたようです。


金沢地方裁判所に提出されなかったということは弁護士人の目にも触れなかったものと考えられますが、私の手元にある、あるいはあった供述調書は全て、弁護人の閲覧しうる状況にはなっていたものと考えられます。


当時の私を含めた世間の常識では、弁護人が当然に閲覧つまり目を通していたものと考えていたと思いますが、まともな閲覧を弁護士に期待することがそもそも大間違いであった可能性もありそうです。儲けにならないことは目を背け、見向きもしないという習性も強そうな職種かと思います。。


本書でずいぶん前には書いているとは思うのですが、なくなるはずのない供述調書が相当の数、消失している可能性が高いです。大方は羽咋市のアパートに住んでいる間のことでしたが、処分するはずもないのに、なくなっているものが相当数ありました。


基本的には3部の供述調書がありました。最初は平成5年12月ころの時点で東京の国選弁護人斐川雅文弁護士から郵送で差し入れられたものでしたが、供述調書は全て縮小版になっていました。この縮小版に関しては、明らかに消失したというものを私は確認していません。


どこかにしまい忘れてしまったという被害者AAさんの母親の供述調書というのも、その縮小版であったと記憶しています。


これはとても重要な資料なので確認も兼ねて再度書いておきますが、斐川雅文弁護士から郵送されたものは、上告趣意書の下書きや法規に関する書籍のコピーを別にすれば、もっとも数が少なく最低限の供述調書のみであったと思います。


次に差し入れを受けたのは平成6年の11月頃のことでした。ちょっとややこしかったのですが、金沢地方裁判所の民事部から原告代理人の長谷川紘之弁護士の書証の控えとして送られてきたものと思われました。


民事での損害賠償請求裁判の提起に伴うものでしたが、当時も理解に苦しむところが大きかったです。自分自身で理解の出来ない問題だったので、適切な説明も対応も出来なかったと思いますが、真相解明の手段としてその役割を果たさなければならないのかと、考えるのが精一杯でした。


長谷川紘之弁護士に関しては、今でも理解の出来ない存在ですが、ずいぶんと侮辱的な対応にも思え、好意的に理解するという努力が自分の納得になることは決してなかったです。


拘置所も同じでしたが、舎房の室内に何かを持ち込むのは、物品の受領や保管とは別の手続きが必要でした。郵送での差し入れもそうだったと思いますが、領置という手続きがあって、これは刑務所側での保管にもなっていたはずです。


領地の時点では物の差し入れがあったという告知だけで、現物を見せられることもなかったと思いますので、手にすることが出来ません。


舎房内に持ち込むには別に「仮下げ」という手続きが必要でした。これは房内所持の許可を伴うものでした。扱いとしては郵送や面会で差し入れられた本や雑誌、また所内で購入した本や雑誌も扱いとしては同じだったと思います。


金沢地方裁判所の民事部から郵送されたのではないかと思われる書類は仮下げでの房内所持の条件として、独居房への転房が必要だと言われました。初めに差し入れがあったという告知から2,3日後のようになんとなく憶えていますが、それまでいた南寮306号の雑居房から北寮の独居房に転房しました。


独居房に移ると同時に、仮下げを願い出ていた裁判資料のようなものが与えられたのですが、量が多かったためか、どこの家庭でもあって洗濯物を入れることが多いと思われるプラスチック製の網カゴに入れられていました。サイズもよくあるサイズという感じでした。


2段に分けてその網カゴにちょうど収まるという分量であったと記憶しています。高さは少しはみ出す程度だったとも記憶にはありますが、高くて25センチぐらいかと思います。サイズとしてはほとんどがB4用紙の袋とじだったので、B5の用紙と同じサイズのはずです。


言い方を変えると2つの綴りになっていたと思います。用紙のサイズは当時の裁判所の定型であったB4用紙の袋とじです。はっきりとした時期は忘れましたが現在も同じと思われるA4用紙の横書きになったのは、平成11年より後であったと思います。


その民事で金沢地方裁判所から送られてきたと思われる書類に関しては書証とか書いて番号も振ってあったように思いますが、表紙の部分がどこにいったのかも現在わからないので、確認は難しいかもしれないです。


またその内容物ですが、ひと通りの供述調書は揃っていたように思いますが、多かったのは医学的なデータや病院の領収書などでした。医学的に専門的なことがいろいろと沢山書いてありましたが、あれもどこに行ったものか、長い間見かけていないです。


北寮の独居房に移ってからは、出所までずっと独居房の生活になりました。2階と3階のいずれにも展望になったと思います。そういえば被告訴人安田敏の知人と後になって聞いた二人目の班長も隣かその隣の独居房になったこともありました。


福井刑務所の北寮と南寮については、本書において以前詳しい説明を書いていると思いますので、詳しくはそちらでご覧頂きたいと思います。


独居房に転房になったのは平成6年の11月の10日ころとも記憶にはありますが、11月の初め頃であったというのは間違いないと思います。それから一週間も経たない頃であったと思いますが、示し合わせたように今度は母親を介して木梨松嗣弁護士から記録が届きました。


厚い紙の表紙のようなものに挟まれた一綴りの書面でした。表紙の部分には「一件記録」とかいう記載もあったように記憶しています。これは以前、デジカメで撮影し、インターネットでも公開していたようにも思うのですが、現在のところ私自身確認を出来ていません。


その編綴された書面はそれもほとんどがB4用紙の袋とじになっていたと思いますが、厚みというか高さが30センチに近いだけあったと思います。数時間前になりますがいつも釣ってきた魚の大きさを測るのに使ってる巻き尺で、だいたいの長さを確認しました。


金沢東インター付近で山下強が怪我をしたという話から、別の説明に外れていってしまったかと思います。しっかりと脈絡のある説明や事実ばかりではないので、思い出したことをを思い出した時に書くというのも一つの方針です。


はっきりいって私としては断片的にしかわからないことも多いです。弁護士による説明や話など、かき集めてもごくごく短い時間であり、簡素な内容でした。事実上の幽閉状態だったとも言えますし、人質司法を検察批判として攻撃する弁護士サイドから、その警察検察の落ち度も含め最大限の利用といえます。


木梨松嗣弁護士の刑事弁護にかこつけた権利侵害の攻撃性は、人の生命身体に向けた重大な法益侵害として、殺人未遂の法的評価に十分値するものだと考えておりますし、求める処罰は仮釈放もない無期懲役の一点のみ、娑婆終いの娑婆捨て峠が目標です。


必要な事柄に関しては漏れなく記載するというのが大前提なので、項目の振り分けにかかわらず書くことがありますが、なるべくなら見出しに対応した項目の内容で、おさらいのような触れ方は、少なくともするように心がけたいと思います。


やはり思い返してみたのですが、金沢市花里の被告訴人安田敏のアパートに行き、ネックレスのプレゼントを被害者AAさんに渡してくれるように頼みに行った時と、山下強の代走の電話があったのは同じ夜だったと思います。


ネックレスのプレゼントの事自体、まだほとんど説明をしていないと思いますが、私は直接ではなく、被告訴人池田宏美を通じて頼んでくれと、言ったように思います。実際、被告訴人安田敏からは後日それらしい説明も受けたのですが、被告訴人池田宏美の供述調書とは隔たりというか違いもあります。


平成3年12月21日が土曜日だったので、夜になって被告訴人安田敏のアパートに行って頼み事をしたのは22日の日曜日の夜だったと思います。思いますというか、カレンダーを見ればすぐに確認できることです。


Linuxにはcalという便利なコマンドがあって「% cal 12 1991」と端末でやると、すぐに曜日を確認することが出来ます。やはり土曜日になっていましたが、初めのコマンドの実行では勘違いして1992とやってしまいました。


他にはっきりと覚えていることは、12月24日のクリスマスイブの朝、私は東京都練馬区で荷降ろしをして、池袋あたりから首都高速に乗り、そのまま茨城県古河市の山三青果に向かったということです。


練馬区で降ろした荷物は、石川県七尾市の林ベニアから積んだベニアの荷物だったと思います。同じく七尾市の能登木材からは製材のような荷物を積むことが多く、どちらもほとんごが関東での荷降ろしというか、行き先が関東だったと思います。関東以外というのはちょっと思い出せないです。


これは七尾市に住む被告訴人東渡好信が紹介した仕事で、丸一運輸からの下請けのようでした。丸一運輸の会社事務所には何度か行きましたが、わかりづらい目立たない場所にある会社でしたが、ずいぶんと大きいのに驚きました。割合よく見かけるトラックではありましたが、目立たない感じでもありました。


一見すると、その丸一運輸の仕事を手土産に市場急配センターの配車係におさまって楽をするというのが被告訴人東渡好信の当初の目的と思われました。


ところが、平成4年になると被告訴人東渡好信は無断欠勤を繰り返したり、理解に苦しむ言動や、さらには精神病者を装う演技とも見える、態度振る舞いを見せることもありました。被告訴人東渡好信に関する多くの開設は輪島の浜上さんから聞いていた話でもありました。


そのような被告訴人東渡好信の言動や振る舞いは、被告訴人安田敏の非常識な言動振る舞いとも、似たような時期に足並みを揃えるところがあったかと思います。被告訴人安田敏のそれは憐憫を誘うような要素もあり、同情に持っていくような方向性がありました。


言い方を変えると、正論だけと私(広野)が厳しすぎて、被告訴人安田敏がいじけて悪い方向に進んでいるという印象操作がうかがえました。それは私と被害者AAさんの関係にも通じるもので、その場の状況に即し、効果的なものであったと考えられます。


平成3年12月21日は、七尾市でベニヤか製材の積み込みに行ったことも微かに記憶に残っています。積み置きの関東行きの荷物で、月曜日降ろしだったと考えられます。ベニヤや製材の荷物で、日曜日に荷降ろしをしたという記憶はありません。建設現場でも荷おろしというのもなかったと思います。


ベニヤは倉庫降ろしもあったと思いますが、製材はほとんどが木材店のような敷地での荷おろしでした。事務所の建物自体は小さいのに、敷地がかなり広いという共通した特徴もあったと記憶しています。


ベニヤに関しては東京都の東大和市に行ったこともありましたが、時期の記憶がはっきりしないものの、被告訴人東渡好信の紹介というかあるいは周旋で七尾からの仕事を始めた最初の頃であったようにも思います。


神奈川県に大和市がありますが、東大和という地名を知ったのはその時が初めてで、どこがどう違うのかと考えたことも頭の片隅に残っています。大和市の近くには綾瀬市というのもありますが、柳瀬というのは似ていると考えてこともありました。


ヤナセといえばドイツ車の関係で当時既に知られた会社だったと思いますが、被告訴人安田敏の説明で柳に瀬と書いて「ヤナセ」と読むのは、なるほどと思ったのも印象的でした。妻になった彼女の名前だと被告訴人安田敏は言っていました。


結婚するというより12月の25日ころが予定日で子供が生まれるという話を被告訴人安田敏はしていましたが、それも12月に入ってからであったかもしれません。あるいは11月中ですが、話を聞いてから出産までの間というのも、余りなかったという印象が残っています。


被告訴人安田敏のアパートにちょくちょく行っていたのは、まだ市内配達の仕事をやっていた頃で、9月より前が多かったと思います。12月22日の夜まで、その妻となった彼女が私に対して、頑なに顔を見せないようにしていたことは、本書でも既に書いている部分があるかと思います。


父親の遺影のことや、金沢市諸江の辺りに住んでいたということはまだ書いていないように思います。いちおうアパートということにしていますが、民家の二階をまるごと間借りしているような住居でした。内装はアパートにしか見えなかったですが、外から見るとアパートには見えなかったと思います。


金沢市花里のどのあたりか、前にGoogleマップで調べたこともあったのですが、車で通っていた道はだいたい記憶にあるものの、住宅地図ではどのあたりか、はっきりわからないところがありました。


前には割と広い道路があって、その斜め前のあたりに、団地のような建物があって、被告訴人安田敏はそれを警察官の家族が住む団地と話していたように思います。あるいは別の公務員ですが、後日新聞で見た情報も私の記憶に混じっているのか、検察官か裁判官の官舎という話もあったかもしれないです。


花里というのは地図上の範囲も狭かったと思いますが、町名としても聞くことがなかったので、石川県民でも知らない人が多いかもしれません。涌波の近くと言ったほうが、通りが良いかもしれません。


時刻は23時42分になっています。朝起きるのが早かったためか久しぶりに長い一日だと感じています。夕方には姫の高倉漁港にアジ釣りに行ってきました。夕方の遅い時間から雨が本降りになり、ずぶ濡れになりました。


さきほど思い出したことですが、平成4年3月30日と思われる午後、古河の市場の電話ボックスから電話を掛けた時、被害者AAさんは、なかばやけを起こしたような、抗議の気持ちを全面に打ち出すような態度で、私の問いかけに対して、すべて「はい、はい」と答えていました。


時刻は7月4日6時55分になっています。たまたま早く目が覚めたのですが、天気もすっきりしません。インターネットの天気予報を見ると今日の15時ころに強い雨が降りそうです。


涌波が出たということで書いておきたいこともあるのですが、実名で書くかどうか迷っていました。関係者の関係者ということにもなるのですが、仮名にしておこうと思います。


事件との直接のつながりは見えないものの、今後の対応を含め地域社会的にも影響の想定される人物の関係者なので、正確な情報データとして、実名にしておくことも検討したのですが、仮名にしておこうと思いました。


その人物とは堂野さんのことです。現在市場急配センター株式会社の社長になっている可能性のある人物ですが、同一人という確認はしておりません。軽く9割以上の確率で、普通に考えて同一人の可能性は高いと考えますし、そういう前提でも取り組んでいきたいと思います。


まず堂野さん自身ですが、平成10年11月20頃の時点で、自ら市場急配センターの労務の担当者として、私の事件や裁判について話を聞く必要があると言っていました。被告訴人松平日出男を交えて3人で会見をした時のことです。


次のようにcalコマンドで確認したところ、22日が日曜日なのでその日だった可能性が高いと思います。→ % cal 11 1998


堂野さんは平成15年以降においても、被告訴人安田敏との接触がうかがえました。それは被告訴人安田敏との会話から出てきた話でしたが、私がインターネットで市場急配センターを舞台にした事件について情報を公開していることについて、名誉毀損で訴えることもできる、と言っていたそうです。


当時の被告訴人安田敏との会話の全部ではないですが、主要な部分はICレコーダーに録音し、それを御庁にも提出したと記憶しています。音声ファイルとして当時はCDを使って記録媒体として提出したかと思います。


そのどれぐらいか前の時の被告訴人安田敏との会話ではなかったかと思いますが、堂野さんが運転手として市内配達をしているとも被告訴人安田敏は語っていたと記憶しています。


被告訴人松平日出男は一回だけ金沢刑務所の拘置所に面会に来ましたが、パンツなどの雑貨を数点差し入れてくれました。それも領置ということで告知があり、帳簿のようなものに指印を押すひつようがあるのですが、そこには職業として「会社従業員」と書いてあったのがとても印象的でした。


平成4年8月18日の面会ではなかったかとも思うのですが、木梨松嗣弁護士が初めて接見に来た日と近接していて、同じ日であった可能性もあるかと思います。その辺りは京都の親戚の面会ともかぶって刑務官に注意を受けたことなど、前に本書で説明を書いた部分もあると思います。


私は平成4年と平成11年の2回、金沢刑務所の拘置所に入りましたが、平成12年の11月頃から平成13年12月31日の満期出所までは、金沢刑務所で受刑もしています。思えば金沢刑務所での受刑中は、母親の面会も一度もなかったと思います。足が悪くなったとは聞いていました。


北九州市など大きな規模の都市になると刑務所と拘置所は別の施設になるらしいのですが、金沢のような地方都市では刑務所の中に拘置所がありました。刑務官というか職員もほぼ同じだったと思います。たぶん面会室も同じだと思います。


平成4年6月30日の金沢地方裁判所での公判の時だったと思いますが、絶望視していた被害者AAさんの意識が戻ったと、公判の初めに江村正之検察官から説明がありました。それで一転して気を取り直し、事件に至った経過について深く考えるようになりました。


それまでは拘置所の独房にいても、こぼれ落ちる砂のように思考の像がまとまらない状態でした。


それは予想を超えた形勢の逆転にもなっていたようです。


金沢西警察署から金沢刑務所の拘置所に移送されたのは平成4年5月28日でした。本来は初公判の期日指定になっていた日付なので、これはよく憶えています。


独居房に入る時、あるいは入れられた直後、連行された若い刑務官に、「突然、大声を出したくなるかもしれないが、決して大きな声を出さないように。」と言われました。それだけ不安的な精神状態に見えたのかとも思います。


当然ですが拘置所というのは人の出入りがあります。土日祭日の免業日の決まった時間帯にはラジオ放送も流れますが、平日の日中というのは昼食後の短い時間のラジオ放送だけだったと思います。


たまに草刈機の音がうるさく聞こえますが、ほとんどは静かな状況なので、新規に独房に入る人に刑務官が説明をする声も聞こえることが何度かありましたが、私のように大声を出すなとか言われているのは、聞くこともなかったと思います。


被告訴人松平日出男の面会ですが、金沢西警察署では4,5回あったと記憶しています。少なくとも4月中に2回、5月中に2回はあったと思います。


同じ金沢西警察署の留置場での生活でしたが、4月と5月ではかなり違いもありました。当時は理解していなかったことですが、起訴後には取り調べがほとんどなくなっていました。ある日を境にぴたりと取り調べの呼び出しがなくなったので、変だとは思っていました。


5月の前半だったと思っているのですが、被告訴人松平日出男が被告訴人浜口卓也を連れて二人で面会に来たことがありました。被告訴人松平日出男は私からの問い掛けの機会を減らすために、被告訴人浜口卓也を連れてきたという感じに見え、安堵の表情がうかがえました。


被告訴人浜口卓也がしみじみと「ヤマにあがるんやな」と口にしたのが印象的でしたが、どうも金沢の暴力団の世界では、金沢刑務所や拘置所のことを、ヤマというようです。地理的には富山県との県境の山間部にも近いとは思いますが、山という意識はなかったです。


金沢刑務所といえば、田上として知られていました。だいたい場所は人から聞いていて、近くまでは市内配達の仕事でも行くこともあったのですが、実際にその前まで行ったのは、中に入る時が初めてでした。


今思い出しましたが、たぶんまだ書いていないことです。山下強がケンカで路面に頭を打ったという話を聞いた時も、すぐに思い出したのは被告訴人浜口卓也の傷害事件でした。


市場急配センターで仕事をするようになって半年も経っていない頃だったという記憶もあるのですが、前後に被告訴人浜口卓也と会わない期間が割と長かったという気もします。誰から聞いたのかも不思議と思い出せないのですが、金沢市場輸送にいるときに聞いた話であったことは間違いないです。


片町の飲み屋とも聞いたように思いますが、見知らぬ相手とケンカになり、頭蓋骨骨折の怪我を負わせたという話でした。それで警察の留置場に入ったとも聞きましたが、10日間入っていたとも聞いたので、当時は知らないことでしたが勾留延長はなかったものと考えられます。


罰金刑になったともその後で聞いたように思いますが、その後もしばらくの間、被告訴人浜口卓也本人に会う機会はなかったので、直接その話を聴くことはなかったと思います。


金沢市場輸送の運転手でも、輪島のMYやYAは、被告訴人浜口卓也のことをよく知っているという感じでしたが、小木港の遠洋漁業で知り合ったという感じでした。新保のKOも同じく知っているようでしたが、嫌いというだけではなく何か個人的に恨みつらみがあるようにも感じる話しぶりでした。


基本的に金沢市場輸送と市場急配センターの運転手の接点というのはほとんどなかったと思います。強いて考えると、橋渡しのような話題を持ってきた人物として当てはまりそうなのは、被告訴人松平日出男ぐらいかと思います。


そういえば輪島のMYも金沢市場輸送で麻雀をやっていたことがありました。ここで書いておく必要を感じながら、機会を逸したうえ忘れていたことを思い出すことが出来ました。形式にこだわり後回しにしていると忘れたまま終わっていたかもしれません。思い出すこともなく。


一時期で半月から長くて一月ぐらいの間であったと思いますが、MTの紹介で輪島のAという人物が大型の平ボディ車に乗務していたことがありました。MTと一緒に麻雀のメンバーとして参加している姿を、2,3回見たと記憶しています。


無口なタイプで会話をしている姿も見かけなかったので、それだけ目立たない存在でもあったのですが、確か大型の平ボディ車に乗務しているような姿は、別に見ることもあったように記憶に残っています。


見かけない顔でしたがMTと並んで麻雀をし、年格好も似ていたので、友達を連れてきているような雰囲気は感じていました。たぶんになりますが、輪島のYAから聞いたのだと思いますが、その名前を聞いた時は驚きました。


昭和58年の秋に聞いていた名前でした。◯田という名前で◯の中の感じは、たぶん小学校の低学年で習う誰でも知っている馴染みのある漢字ですが、その一文字の漢字自体、名前に使われることは少ないと思いますし、◯田という名前は後にも先にも他に聞いたことのない名前なので、印象的でした。


すでに何度か説明を書いているはずですが、場所は藤江の陸橋近くの輪島の暴走族の溜まり場でした。そこには被告訴人安田敏と一緒に何度か行きましたが、常に10人以上の若者は集まっているような溜まり場でした。


何人かに分かれて思い思いの会話をするような助右喬でもあったのですが、半分はたまたま耳に入ってきた話でした。その場にいた一人が輪島の○田という男に何か詐欺の被害にあったような話をして不満と焦りをぶちまけていたのです。本人にすれば相当深刻な被害という漢字でした。


その場には神野のKMがいたと思います。その溜まり場には被告訴人安田敏と3回ぐらいは行っていたと思いますが、KMが一緒だったのはたぶん一回だけだったと思います。その場にKMがいなければ、聞き流し、なんの話か知ることもなかったと思います。


神野のKMについてもこれまでに説明を何度かやっていると思います。山水運輸にいたことなども書いていると思います。姫のNKさんとも、彼を間にいれた付き合いが多かったとも思います。


彼は中学校の同級生でしたが、中学生の頃の彼はテニス部の部活にも熱心な様子で、クラスも一緒になった憶えもないので、中学校の頃の付き合いというのはほとんどなかったと思います。なお、当時の能都中学校のテニス部というのは全国大会で優勝することもあるような実力でした。


KMとの付き合いが多くなったのも高校に入ってからだと思います。35年近くも前の話になるので、細かいことは思い出せないですが、宇出津の城野町のHSのところで会うことが多かったと記憶しています。


当時私は石川県立水産高校小木分校に通っていましたが、神野のKMは柳田農業高校に行っていました。能登では他に聞いたこともなかったのですが、全寮制の高校だと聞いていました。休日以外には会う機会もなかったと考えられますが、その割には一緒に遊ぶ機会も多かったように記憶にあります。


彼も学校の勉強より、遊ぶことを優先する遊び仲間でしたが、彼も私が被告訴人大網周一とともに小立野の金沢少年鑑別所に入っている間かその前後に、高校を退学したはずです。城野町のHSも前に書いたHMも同じ頃に水産高校の本校を自主退学しています。


被告訴人大網健二も同じ頃でしたが、彼の場合は8月28日のシンナーの事件で、金沢高校を一発退学になったと聞いたように記憶しています。金沢高校をやめたことで被告訴人大網健二は宇出津に戻り、宇出津を中心に生活するようになりました。


神野のKMと被告訴人大網健二の付き合いが始まったのも、私が鑑別所に入っている間であったと思います。KM自身がHMらと金沢に遊びに行っていたことを話していました。七塚のMKや東金沢のMSらがいたらしい溜まり場です。


神野のKMと被告訴人大網健二の付き合いというのは、城野町のHSや私を介したものが多かったと思います。もともと気が合わない関係というか、根本には被告訴人大網健二の差別意識があったものと考えられます。


それは被告訴人大網健二や被告訴人大網周一に限った話ではなく、私が子供の頃にはまだ割と強く残っていた風習にも近いものなのですが、宇出津には近隣の農村部の地域や農家を「ザイゴ」と呼んで蔑視する傾向がありました。


具体的な対象としてわかりやすかったのは柳田村や神野です。神野と言ってもこれは地区と思われ、地名ではないとも考えられるので地図を見てもわからないかもしれません。姫や真脇を高蔵地区と呼ぶのに似ているとも考えられます。


具体的には宇加塚、藤ノ瀬、鶴町、曽又等の集落の総称として神野と呼ばれていたかと思いますが、神野小学校というのもありました。同級生でもほとんど例外がないぐらい家が農家だと聞いていました。現在でもほとんどが田んぼのような風景です。


神野公民館 - Google マップ http://bit.ly/1mYnguD


神野公民館というのをGoogleマップでみつけましたが、鶴町が神野の中心部だとも聞いていました。神野小学校があったのも鶴町でしたが、ずいぶん前に廃校になっているものと考えられます。


地図をみると宇出津のすぐ近くに見えるかと思います。宇出津と輪島市内も地図を見ると近くに見えますし、距離的にもさほど離れていないはずですが、子供の頃の感覚が抜けないのか、全国を走った長距離運転手の経験もあるものの、未だに輪島というのは遠いところという感覚があります。


神野は地理的に柳田村にも近いですが、買い物などはほとんど宇出津に来ているものと考えられます。柳田村となると地理的に輪島市により近いということもありますが、それだけに輪島の方との交流も多いとは聞いたことがあります。


輪島市でも町野という辺りは、風景も町並みも柳田村に似ていたので、生活スタイルを含め、湊町の宇出津よりは共通する部分も多いのかと考えられます。その辺りは個々人の性格や習慣などにも現れている部分はあるかと思います。


その一つの括り方が「ザイゴ」という差別意識にもつながっていたのかもしれません。私自身、母方が京都の親戚なのと、宇出津の父方の親戚との付き合いも中学生になった頃にはほとんどなくなっていたので、同じ宇出津でも感覚が根本で異なっているのかもしれません。


被告訴人大網健二や被告訴人大網周一の場合は、宇出津の中心部に住んでいたので、なおさらその傾向や意識が強かったのかと考えられますが、そういう傾向は同じ世代では珍しいぐらい、残っていたと思います。


そんな感覚も成人してからはなくなっていたと考えられますし、やはり性格的に合わなかったことも考えられますが、神野のKMと被告訴人大網健二の付き合いというのは聞いたことがなかったです。


二人だけの関係で考えれば何でもない話なのですが、結婚した妻同士がとても仲の良い関係だったので、その辺りはどうなのかなと考えるところがあります。前に書いていると思いますが、被告訴人大網健二の結婚式にもKMの妻は出席していました。


学年としては私の2つ年下になるのですが、上の世代や下の世代のことを考えても、とりわけて仲が良いというか、結びつきの強さを感じさせる関係がありました。


神野のKMは柳田農業高校に行っている当時にも、多少輪島の方と付き合いがあったようです。輪島の方から来ている同級生がいるような話もしていたかと思います。地理的に近い分だけ、輪島に対する関心や親近感も強かったのかもしれません。


現在は廃校になっているのかと思いますが、輪島には町野高校がありました。町野の町は柳田村との境にも近いですが、町野高校はその町野の町からは離れていて、海に近く、観光地でもある曽々木海岸の側にありました。建物は現在でもそのまま残っていると思います。


町野自体が輪島市でしたが、それよりはいくぶん近い輪島高校の辺りも、輪島の中心部からはけっこう離れていました。宇出津から柳田村を通って輪島市に向かうのに、海岸線の国道にぶつかったところが曽々木で、左に行くと輪島市内、右に行くと珠洲市です。


私自身最近になって改めて気がついたことですが、曽々木の交差点から宇出津に向かうとすぐに看板があって、宇出津まで22キロと書いてありました。柳田村までは13キロになっています。距離をみるとずいぶん近く感じるのですが、やはり遠く感じるところです。


私の同級生でも町野高校に行ったのは一人だけだと聞いていました。極端に大人しく無口な生徒だったのでなぜ町野高校を選んだのか話を聞くこともありませんでした。


私の一つ上の学年でも男子が一人、町野高校に行ったのですが、その話を聞いた時は、なぜ誰もいかないような遠い高校を選んだのかと不思議に思いました。TUという名前でしたが、割とよく一緒に遊んだ時期もありました。


私が能都中学校の相撲部に入部するきっかけにもなったHMを介した付き合いがあったのです。二人は同級生にもなります。TUもその頃は近所に住んでいましたが、まもなく宇出津の錦町の方に引っ越して行きました。


HMとは私がちょうど辺田の浜から宇出津の小棚木という町内に引っ越してきた頃に、たまたま赤灯台の海岸で知り合い、仲良くなりました。引っ越してきたのが小学校5年の春で、出会ったのが夏であったと思います。


彼もわりと最近に金沢市から転校してきたと話していたように記憶しています。他の宇出津の子どもとは異なる雰囲気もありましたが、なぜか気もあってよく遊ぶ関係になりました。同じ町内でもありましたが、家はそれほど近くはなかったです。


当時は宇出津の町内で大棚木が一番大きく、小棚木が二番めに大きいと聞くこともありましたが、その後、大棚木でも遠島山公園に近い部分は、城山という町内として独立したという話を聞いたこともあるので、現在は小棚木が一番大きく広いのかもしれません。小さい町内は家が20件とも聞きますので。


HMとの付き合いがなくなってからは被告訴人大網周一らの不良グループで目立つ存在にもなっていました。再び付き合いをするようになったのも、昭和56年の秋以降だったと思いますが、HMだけでなくその同級生も以前とは違い被告訴人大網周一とは距離を置くようになっているという感じでした。


昭和58年の春頃でしょうか。その頃になるとHMと私の個人的な付き合いというのもはとんどなくなっていたように思いますが、金沢市藤江の外れにあったHMの借家にもちょくちょく遊びに行く機会は昭和57年の頃からあったと思います。それも神野のKMと一緒が多かったとも思います。


それには別にはっきりした理由もあって私は昭和57年の6月に1年間の免許取り消しになっていました。たまたまHMを後部席に乗せていた時に78キロのスピードオーバーで捕まり、当時は12点の減点だったと思いますが、他に点数も引かれていたので一発取り消しになりました。


金沢西インターに近い2つ年下のMKのアパートにいるときに、HMに出会い、一緒に松任方面に行った帰りに捕まったことも記憶に残っています。天気の良い日で、捕まる前にたまたま松任警察署の前を通ったことも記憶に残っています。


被告訴人KYNに頼まれて、バイクで彼を金沢に連れてきた時のことでもあったと記憶しており、彼の頼みがなければ取り消しになることもなかったとは思いますが、ずいぶんと無謀な運転もやっていたので、命を落としていた可能性もあるかとは後々考えていました。


自動二輪の免許を失ったのも痛かったですが、普通免許の取得も半年以上遅れてしましました。ほとんどの同級生は昭和58年の春前には普通免許を取得していたと思います。昭和58年の1月頃の時点で、被告訴人大網健二は家の自動車工場にあるポンコツのコロナを乗り回し、私もそれに同乗していました。


バイクも車もなかったので、特に金沢市での行動は他の友人より大幅に制限されていました。同乗で行動することが多かったのもそのためかと思います。


同じ昭和58年の春とは言っても、小林運送の長距離助手の仕事もやめたあとで、初夏に近い6月頃の時期だったとも思いますが、畝田のTUのアパートにいることが多かったと記憶しています。


金沢市での藤江は北や南があって広かったですが、畝田も西などがあってけっこう範囲が広かったと思います。TUのアパートは畝田でも外れのほうで桂町にも近かったと思います。周りにほとんど店がないのも不便でした。店があってもお金がなかったのか、周囲で買い物をした記憶もほとんどありません。


TUのアパートと聞いていましたが、TU本人の姿を見ることは本当に少なかったと記憶にあります。神野のKMが自分のアパートのように使っているという感じでした。TU本人はなにか出張の多い仕事をしていると聞いていました。


石川県金沢市畝田中2丁目2 - Google マップ http://bit.ly/1otgNHL


Googleマップで調べたところTUのアパートがあったのは上記の辺になるのかと思います。アパートの裏には空き地のようなトラックの駐車場があり、その前の道路の向こう側は広い田んぼが広がっていたかと思います。


トラックの駐車場というのは中西水産輸送のものでしたが、宇出津でよく見る保冷車であったのも、印象に残っていました。中西運輸商に入社した最初のころもちょっとだけその駐車場を使うことがありました。


出張が多かったというTUの仕事ですが、一時期、さきほどのHMや真脇のSも同じ会社で同じ仕事をしていると聞いたことがあったかもしれません。4トン車というトラックの話も聞いたように思いますが、運送会社とは聞かなかったです。


なお、これまで昭和58年の秋頃の被告訴人安田敏のアパートのことを観音堂のアパートと書いてきましたが、性格な住所は畝田であった可能性もあるかと思います。金石街道にまたがって畝田は広い町名でした。


畝田から金石に近いところに寺中町がありましたが、これは範囲も狭いという感じでした。中西運輸商の事務所の住所はその金沢市寺中町になっていましたが、堂野さんが住んでいると聞いたのも寺中町だったと思います。一度その辺りまで頼まれて車で送り届けたこともありました。


言われた場所に車を止めると車から降りていったので、アパートなのか家なのかもわからなかったですが、その辺りに住んでいるという話は他にもしていたように思います。


TUは真面目に仕事をしているという感じでしたが、町野高校時代の友だち関係で、輪島の暴走族の集団暴走にも参加することがあるとか、他の同級生も参加したとか神野のKMに話を聞くことがありました。そこには私より一つ年上のHSさんの名前も具体的に出ていたと記憶にあります。


その輪島の暴走族のリーダー格がKTであることは、これまでに何度か書いてきたと思います。彼も私よりは1つ年上と聞いていましたが、高校を出たのか出ていないのか、細かいことは知らないか、聞いていても忘れてしまいました。


輪島の暴走族と言っても、海士町とは別で、KT自身も海士町のことをひどく恐れている様子でしたが、金沢で活動する輪島の暴走族も輪島に帰ると海士町の連中には頭があがらないだけではなく、てひどい扱いを受けているとも聞きました。


ずっとあとになって輪島のMYから聞いた話ではなかったかと思いますが、海士町の男が、輪島の暴走族らを集めて、その場に全裸にさせ、着ていた下着で車の洗車をさせることもあったと聞きました。


輪島の暴走族のリーダー格であったKTですが、戦国武将のような変わった名前だったので未だに名前は憶えています。


これもまだ私が内心で予定しながら書いていないと思いますが、鶴来のHとも付き合いというか交流があったと聞きました。何かの話題でKTのことが出てきた時、最近一緒に飲みに行ったという話もしていました。


鶴来のHに関しては輪島のMYとも以前からの知り合いで付き合いもあったような感じでした。もう一人鶴来の男を加えた4人で、内灘に海水浴に行ったこともありました。


もう一人の鶴来の男はいくつか年下だったと思います。あるいは19歳という少年であったかもしれないです。本書で既に書いていると思いますが、高田が金沢市場輸送の事務所で父親が死んだといきなり伝えた相手です。


何の前置きもなく、いきなり父親が死んだと告げたので、まったく心の準備もなく聞いた方もさぞや驚いたのではと思ったのが印象的でした。


鶴来のHの方は、全国的にもありふれた名前なので未だに名前は憶えていますが、仮名にしておきます。覚えているのは上の名前だけですが、下の方もあるいはですが、勝であったかもしれません。年は私と一緒かあるいは1つ年下だったと思います。


金沢市場輸送で市内配達をしていましたが、入社してきたのは輪島のMYとほとんど同じ頃で、昭和61年の9月ころだったと思います。MYはサンテラスで恥をかいたということで、すぐに長距離に移りましたが、わりと長い間、4トン車に乗務していたとも思います。


ずいぶん前のことなので正確に思い出すことは出来ませんが、MYが4トン車に乗務していたのも半年ぐらいであったかもしれません。あるいは1年ぐらいだったかもしれませんが、鶴来のHが会社にいたのも同じぐらいの期間で、いつの間にかいなくなっていたという感じです。


山中温泉のキャッスルバーデンホテルでの慰安会にも鶴来のHの姿はあったような気もします。ややこしい名前の温泉ホテルですが、当時のテレビCMでは、山乃湯ともなっていたという記憶もあります。


その慰安会には七尾のなんとかの姿もありました。名前を覚えているつもりでしたが、思い出せなくなっているので仮名のイニシャルもつかえません。佐川急便で市内配達をしていたという男で、年は私の1つ年上でした。


普段から威勢のよい大きいことも言うような男でしたが、他の宿泊客とケンカになった時、涙を流しながら縮こまっていた姿が印象に残っています。逆に肝が座って堂々とみえたのが、◯西さんの息子と、仲裁のような行動に出た寺川さんでした。


既に書いてある部分もあると思っていますが、平成3年春のストライキの時、被告訴人東渡好信らが集まっていたのは、その時仮名にした寺川さんのアパートでした。はっきりした場所はわからなかったですが、同じ頃に被告訴人浜口卓也が住んでいたアパートともかなり近かったと思います。


被告訴人浜口卓也のそのアパートに関しては供述調書の住所でも金沢市南新保になっていたと思います。金沢市内には新保という町名もありましたが、金沢西インターにも近いまったく別の場所でした。


輪島のMYが初めにYAと輪島崎のOTが紹介で金沢市場輸送に入社させた時に、たまたま出会った場所がその新保あたりのアパートと話していたという記憶もあります。満足にご飯も食べれない状態になっていたので、誘ったとも話していたと思います。


OTの方はMYと同級生と聞いていましたが、どちらも私の学年で2つ上と聞いていました。YAの方は私の2つ年下と聞きましたが、YAの兄はMYと同級生と聞きました。北都運輸でその兄とも出会いましたが、体が大きいものの大人しくおっとりした性格という感じでした。


さきほど焼きそばを作って食べていたのですが、意外に早く簡単に七尾の男の名前を思い出すことが出来ました。白石だったと思います。全国的にはさほど珍しい名前ではなさそうですが、石川県や私の周辺で同じ名前を聴くことはなかったと思います。


自分の結婚式に被告訴人竹沢俊寿とその夫人の夫妻に出席してもらったとも話していましたが、他にそのような話を聞いたこともなく、普段の言動の中にも虚言癖の傾向が少し感じられていたので、本当なのかと思うことはありました。


白石もいつの間にか、姿を見なくなってやめていったのかという感じでしたが、私の記憶では金沢市場輸送の事務所が二口町に移転してからは姿を見た記憶がないので、山中温泉の慰安会の直後にいなくなっていったのかとも思います。顔の方もなんとなく記憶にありますが、目が細かったという気がします。


山中温泉の慰安会は6月の下旬だったと思います。それより少し先の時期になると金沢港のスルメイカや、その前の筍の出荷で忙しく、ほとんどの社員が仕事を休むという調整も困難ではなかったかと思います。


はっきりと覚えていることは、まだ西念町に金沢市場輸送の事務所がある頃でした、北國銀行中央市場支店のちょうど前辺りから送迎のマイクロバスに乗り組んだからです。私の妻が忘れ物をもって駆けつけてきたことも場面として記憶に残っています。


何を忘れてきたのかも思い出せないのですが、当時妻はまだ車の免許も取得していなかったとも思えるので、どうやって来たのかも不思議です。誰かに頼んで車に乗せてきてもらっていたのかもしれません。


山中温泉の慰安会に行ったのは6月として、昭和62年だったのかと考えます。思えば金沢市場輸送の事務所が二口町に移ったのも7月の初めころだったという記憶があるのですが、慰安会とは近接していなかったようにも思います。


改めてのことですが、初めに被告訴人松平日出男の姿を見たのも、金沢市場輸送の事務所が二口町に移ったのも2ヶ月ほどの間があったという感覚が記憶に残っています。これはやはり昭和63年のことかと思いますが、油断するとちょっとしたことも記憶の整理が難しくなると改めて思いました。


山中温泉の慰安会で高田の姿というのも記憶には出てきませんが、すでにいなくなっていたのかどうかははっきりしません。被告訴人梅野博之の姿は大浴場でみたという記憶が残っていますが、当時は目立たないというか控えめな存在でもあったという気がします。


被告訴人梅野博之はその後、若い運転手の間で「うめじい」とも呼ばれていました。高田がいなくなって市内配達の事務所が別に出来た頃には、事実上代行の責任者という立場にもなっていましたが、山中温泉で姿を見てからは、けっこう長い間があったとも思います。


白石ですが前に書いた小林運送のYさんと、石川日通の田村の4人で、車で片町に遊びに行ったこともありました。石川日通の田村は私の一つ年下だったとも思いますが、わりと長い間市内配達の仕事をしていたと思います。


家は金沢市内の小立野とも聞いていました。石川日通をやめて正式に金沢市場輸送の社員になったという話を聞いたような気もするのですが、そのうち姿を見なくなり、いつの間にかいなくなっていたという感じでした。


はっきりしないところもありますが、私の記憶では二口町に移った金沢市場輸送の事務所で姿を見かけたという記憶は、まったくないではないですがかなり薄くなっています。


田村より一つ年下と聞いたかもしれません。大久保という運転手もいました。家が同じく小立野だと聞いたことがあり、田村の後輩なのかと考えたこともありましたが、確認までするようなことはなかったと思います。


よくいるような若者でしたが、彼も割と長い間、市内配達の仕事をしていて、彼の姿は二口町に金沢市場輸送の事務所が移ってからの方が、なんとなく印象に残っているのですが、西念の事務所ともまたがっていたものと思います。


西念町の事務所での姿が記憶になく、二口町に移ってからよく見かけるようになったのは、S田とM田の二人の運転手でした。S田に関しては被告訴人大網健二との関わりもあるので、ある程度のことは既に書いているかと思います。S藤と二人で金沢港に来て、初めは私に苦情をぶつけるような態度でした。


S藤に関しては面倒ですが、彼の泥棒としての前科もあるので仮名にしておきますが、S田とM田に関してはここで実名に切り替えたいと思います。疑惑があるというわけでもないですが、重要な接点もあるので明確にしておいたほうが良いと判断します。


S藤の泥棒のことに関しては、たぶんまだ書いていないと思います。2,3ヶ月前だと何を書いたかある程度は記憶に残っているのですが、それ以前となるとはっきりとは思い出せません。


偶然以外には考えられない事実でもあるのですが、私は金沢西警察署の留置場でほとんど入れ替えに近い時期に生活をしたようです。留置場の警察官との雑談の中で、ちょっと前までいた泥棒の話をしていたのですが、会話の中の何かをきっかけに私はそれがS藤ではないかと直感しました。


確かめたところやはりS藤に間違いはなさそうだったのですが、警察官らがかなり微妙で際どいと予想するなかで、彼は執行猶予付きの判決を受けたとも聞いていました。


次は偶然とは思えず、警察の作為が介在したことも考えられることです。それはちょうど拘置所に向かうのに、金沢西警察署の二階の刑事課の部屋から出る時、出くわしたのがS藤でした。「おい、金返せや」とだけ一声掛けましたが、向こうも驚いたというか意外そうな顔をしていました。


彼は刑事課の部屋に入ってくるところだったと思います。私の曖昧な記憶ですが、普通部屋にはドアがあるのですが、当時の金沢西警察署の2階というのは正面側に広い通路があって、その先がそのまま部屋になっていたように思います。


笹田と峰田というのは顔は余り似ていなかったと思いますが、背格好も似ていていつも一緒にいる二人でした。他の市内配達の運転手とは違って、夕方遅くに休憩室でくつろいでいる姿を何度か見たという印象も残っています。


冬に近い時期だと外が暗くなる時間というのも早かったと思いますが、外が暗くなったような時間に市内配達の運転手の姿を見ることも少なかったと思いますし、16時頃の早い時間でも、伝票のようなものをを整理してすぐに帰っていく運転手がほとんどであった思います。


何かの割引券のような紙を沢山集めて机に向かっている姿をよくみけていました。伝票らしいものはウェルマートぐらいだったという記憶も残っていますが、それは私自身の市内配達での記憶です。


ずいぶん時間を掛けて机に向かうそんな姿も見かけていたので、よほど大変なことをしているのかと思っていたのですが、実際に自分がやるようになると割と単純な作業だったので、なぜそこまで時間がかかっていたのか不思議にも思いました。


笹田と峰田とは、顔を合わせれば多少言葉を交わす関係であったと思います。大久保とも似たところがあったと思いますが、彼女を交えた個人的な付き合いもあると、誰かから後になって聞いたこともありました。


笹田と峰田は私より6つ年下だったと思います。これは後になってから知ったようにも思いますが、被害者AAさんや被告訴人安田繁克とも同じ年になるものと思われます。


時刻は17時04分、歩いて銭湯にも行っていて中断をしていました。


笹田と峰田の二人ですが、家は金石の方とも金沢港の方とも聞いたように思いますが、どちらであったかはっきり思い出せません。どちらも共通しているのは海の近くということですが、金石の方も漁港のようにはなっていたと思います。


それとは別に守田水産輸送の小柄で年配の運転手と、石巻港の魚市場の前にとめたトラックの中で長話をしていたことがありました。60歳近い年齢とも聞いていたように思います。50代の長距離運転手というのは、当時珍しかったと思います。確か「まっちゃん」と呼ばれていました。


まだ、守田水産輸送との共同で青森定期便が始まった頃だったとも思います。金沢の中央市場から秋田、青森の市場に鮮魚を運ぶ定期便は、もともと守田水産輸送がやったいた仕事でした。


細かい話は忘れましたが、青森県の下北半島の付け根の方であったか地名は忘れましたが、そこから養殖の帆立貝を積んで九州の方に持って行き、九州で荷物を積んで北陸に帰ってくる仕事が守田水産輸送の大型車では多いと聞いていました。


一度出るとけっこう長い運行になるので、月に数回の運行になるとも聞いていました。九州からは鮮魚を積んできたり、時期にはミカンを積んでくるとも来たように思います。


ホタテの仕事がどうなったのかは聞かなかったですが、その青森の定期便を金沢市場輸送と一日交代ですることになり、帰り荷として石巻から東北陸運の定期便をすることになったのです。東北陸運と宮城陸上については、これまでに何度か説明を書いていると思います。


その守田水産輸送との共同の定期便は1年ほど続いたと記憶にありますが、金沢市場輸送の事務所が二口町に移転してしばらくすると守田水産輸送との仕事上の関係自体がなくなったので、その辺りから逆算すると昭和62年の9月頃から守田水産輸送との共同の青森定期便が始まったものと考えられます。


ちなみにこれと似たことは同じ金沢のウロコ運送との間にあって、それが福岡の定期便になっていました。それも一日交代でしたが、富山中央のトナミ運輸から雑貨を積んで、北九州市と福岡市の西武運輸まで運び、翌日の早朝から長浜の魚市場で鮮魚を積み込んでいました。


それは昭和59年に初めに私が入社した頃に始まっていたようにも思います。そして私が金沢市場輸送にいる間は、ずっと続いていたように思います。福岡の魚市場ではフリーとして入って鮮魚を積むことも多かったですが私の場合、北陸ではなく、大阪や東京行きが多かったと思います。


ウロコ運送も同じく石巻から東北の定期便をやっていましたが、それは松川運輸の仕事でした。石巻ではかなり大きな運送会社だと聞くこともありました。松川運輸は塩釜港の方にも会社があったと思いますが、ウロコ運送が塩釜の方にも立ち寄っていたかどうかは、記憶もはっきりしません。


そのまっちゃんという人との会話の中でたまたま出てきた話なのですが、その人の息子が金沢市場輸送で市内配達をしている笹田や峰田と同級生で友達というような内容でした。どこか場所の話も出ていましたが、それは金沢港の近くであったと思います。


いつ頃、誰に聞いたのか現在はっきりと思い出せないところもあるのですが、被害者AAさんはその笹田か峰田の紹介で市場急配センターの事務員になったという話を聞いたことがありました。まだ、私が被害者AAさんのことを余り意識していない時期に聞いたような気もするので、なおさら曖昧です。


紹介というのは笹田ではなく峰田として聞いたようにも思います。被告訴人大網健二ともめたのは笹田の方です。二人ともなんとなくは姿や顔を覚えているのですが、いつもいつも一緒にいたので、どこかで記憶が混同している部分のあるかもしれません。


また、二人とも当時は特に意識するような存在でもありませんでした。市場急配センターの事務所が中央市場の側に出来て、市内配達の運転手がそちらに移ってからは、どの運転手とも顔を合わせる機会は少なくなりましたが、前に何度か書いたように給油には金沢市場輸送に来ていたので、そこで見ることも。


ただ、笹田と峰田に関しては新しい市場急配センターの事務所に移ったと思われる時期以降、ほとんど姿を見た覚えがありません。


かなり久しぶりに姿を見たのは平成3年の夏頃だったと思います。私がまだ市内配達をしていた頃であったと思いますが、だいたい次の場所で会いました。会ったと言っても声も掛けていなかったと思うので、見かけたというのが正確かもしれないです。


石川県金沢市長土塀3丁目22−23 - Google マップ http://bit.ly/1vEEaPt


改めてGoogleマップを見ると自分の記憶とは一致しないような部分もあるので、場所に余り自信は持てないのですが、中央通りから片町のスクランブル交差点につながる道の方から入ると、ちょっとした商店街のようになっていて、コロッケの売っている肉屋等があったような気がします。


それをもう少し先に行くと左の角に「ひまわりチェーン」のような小さいスーパーがあったように思うのです、そこに配達に行くことがあったと思うのですが、稀に行く配達先で、自分の配達範囲なのかも微妙に思える場所でした。


道は小路でちょっと複雑になっていたと思いますが、そのスーパーから少し離れた道路にトラックをとめて笹田か峰田が仕事をしていました。その場で声も掛けていないので、その後他の誰かに話をして、聞いたのだと思うのですが、K村さんや姫のNKさんと一緒になって、仕事をしているような話でした。


2トン車のトラックを持ち込みで仕事をしているとも聞いたように思いますし、荷台で作業をしている姿をみたトラックというのも新車のような箱車であったと思います。被告訴人浜口卓也と同じようなトラックだったとも思いますが、特に箱が同じに見えたように思います。


外見が白い一枚の板のように見える箱車であったと思います。金沢市場輸送の2トン車というのは4トン車や大型車の保冷車と同じく、細かく波打ったようなアルミの箱が多かったと思いますが、そうではないタイプでした。


保冷になっていたのかもわかりませんが、被告訴人浜口卓也の場合は保冷とも聞いたように思いますし、ワイドボディの2トン車でした。幅広の2トン車というのは初めて見たような気もしました。


4トン車だと中西水産輸送でも昭和60年当時に幅広のワイドボディに乗務していましたが、4トン車の場合通常は2つのワイパーが3つのワイパーになっていたと思います。


被告訴人浜口卓也の場合は、初めに2トン車の新車を購入して持ち込み運転手の仕事を始めたと思いますが、トラックの値段というのは全部で300万円とも聞いたように思います。


珠洲の大谷のYSさんも、そのうち同じような新車に乗務していたと思いますが、始めてから長い間はかなりポンコツの2トン車に乗務していたと思います。


笹田か峰田の2トン車を見たその場所でも、そのYSさんか姫のNKさん、あるいは宇出津のK村さんの姿とトラックを見たような気もするのですが、これも現在記憶がはっきりしません。


姫のNKさんと宇出津のK村さんに関しては、ずっと古いトラックに乗っている姿しか見てはいなかったような気がします。被告訴人大網健二が大場町東への引っ越しに借りてきて一緒に返しに行った2トン車も、青色か紺色のそんなトラックでした。


笹田か峰田と書きましたが、その二人が一緒にいて、二人を同時に見たという可能性もあると思います。とにかくその二人は、いつもセットのように一緒にいる姿を見ていたという印象が残っています。


特別な仲良しという感じで女の子では金沢でよく見かける関係でしたが、男となると他に思い出すことも出来ない気がします。


峰田に最後に会ったのは平成3年の年末のことでしたが、その時は笹田の姿がなかったようにも記憶にあります。名前も知らないし言葉を交わした記憶もないけれど、以前は金沢市場輸送の市内配達としてよく見かけていた小柄な若者の姿は記憶にあります。ずいぶん久しぶりに見たという気がしました。


それは前に少し書いていると思いますが、偶然とは思えない成り行きで、被告訴人多田敏明と西口の二人が率先して、被告訴人浜口卓也の自宅アパートに行き、それから焼肉店に行った時のことでした。名前は聞いたことのあるような人気という感じの焼肉店でした。


以前に作成したGoogleマップのマイプレイスがあったと思います。マイプレイスになる前の旧サービスの時に、作成したものであったかもしれません。


告訴事件と関連のある金沢市内の場所 https://mapsengine.google.com/map/u/1/edit?mid=zW8zvRyoSBg4.kcVzYakZOUcc&authuser=1&hl=ja


思いの外早く探し出せましたが、現在余り使っていないGoogleアカウントとして作成した地図です。ここに「諸江の焼肉店」とラベルがあるのが、その場所です。6,7人と説明にあったので、すっかり忘れていたことですが、役立つ情報になりました。


時刻は7月5日9時15分。昨日とは一転して、編めが不理想にない良い天気です。一日雨の心配がなさそうな宇出津のあばれ祭りというのは、何年ぶりか思い出せないぐらいです。少なくとも2009年の祭り以来は、毎年二日間の祭りを通して一度もなかったような気がします。


昨夜はとても大きな収穫がありました。事件の事実関係をまだ優先したいので後回しですが、先にそのツイートを紹介しておきます。


2014-07-05-003421_でも裁判ってもともと真相解明のための手続きではなくルールに従って裁判所が目の前の事案を判断するだけのもの。.jpg pic.twitter.com/CAvAoAwsWN


Twitter / sakamotomasayuk: 被害者遺族が被告人が被告として出廷しないことを非難するという ... https://twitter.com/sakamotomasayuk/status/484988904228274176


2014-07-05-003459_この操作は許可されていない可能性があります。 ページを再読み込みしてお試しください。.jpg pic.twitter.com/obM3ejcS7u


独自に作成したコマンドでファイル名に日時を含めたスクリーンショットを作成していることは既にどこかで説明していると思います。用途は色々とありますが、もうひとつ大事なところを記録しご紹介しておきたいと思います。


2014-07-05-094034_市場急配センター株式会社│代表者 堂野俊一.jpg pic.twitter.com/gtZO9qrzks


昨日は初めに涌波について書くつもりで、関連した説明を始めるとあちこちに飛び飛びなってしまったかと思います。私がこれから説明をする市場急配センターの堂野さんは、平成10年11月22日に自ら労務の担当者として話を聞く必要がある、と言った人物です。


現在の市場急配センターの担当者とホームページに掲載されている堂野俊一という人物と同一人という保証は出来ないですが、その可能性は一般的な判断として疑いの余地はないものと思いますが、可能性が0ではないことは、先にお断りをしておきますので、その旨ご留意願います。


私はこの市場急配センター株式会社という存在自体を、社会的な問題の対象として告発しなければなりません。その会社の現在の代表という立場と、事件そのものの事実やその関係者との関係というのも峻別しておく必要があるとも考えます。会社が個人の持ち物ではないという意味を含め。


被告訴人安田繁克から涌波に住んでいると聞いたのは、当時、金沢市場輸送でイワシの運搬をやっていた堂野さんの愛人という女性の息子でした。はっきりしたことは聞かなかったと思いますが、堂野さんの実の息子とは聞いておらず、当時16歳で市場急配センターで働いていました。


私自身、最低でも一回はその16歳の少年を2トン車での市内配達に同乗させて一緒に仕事をしたことはあったと思います。私の場合、その少年よりもその少年の同級生で高校の夏休み中のアルバイトと聴いていた少年を、同乗させることが多かったことを、書いてすぐたった今思い出しました。


愛人の息子という少年、それは私が市場急配センターで市内配達の仕事を始めてから知ったことで、被告訴人安田繁克に聞いていました。当時は他にそういう話を聞く相手もいなかったので、それは間違いないことだと思います。


当時ははっきりと意識しなかったようにも思いますが、被告訴人安田繁克が堂野さんのことをよく知っている人物のように話していたことは、改めてかなり不自然にも思います。なぜなら当時の堂野さんというのは一緒に仕事をした私でさえ、会社との関係がほとんどわからない人物だったからです。


まず、堂野さんが金沢市場輸送の社員ということは考えられないと思っていました。彼は松浦さんの紹介でイワシの運搬をするようになりましたが、私の記憶ではシーズンの終盤になっての登場であったように思います。


堂野さんはダンプの持ち込みと聞いていました。最初に姿を見た時からそのダンプと一緒でしたが、そのダンプというのも割と珍しいタイプだったので余計に印象に強く記憶に残っています。


私自身、ダンプというのは建設現場などで4トン車までしか乗ったことがなく、専門のダンプの運転手として仕事をした経験もないので余り知らないところがあるのですが、町でよく見かけるダンプというのは土砂積みのダンプです。


それとは別に土砂積み禁止というタイプのダンプがいました。多いのは木材のチップを積みようなダンプで、かさばる割に重量が軽いので荷台もずいぶんと高く、それ専門となるとぱっと見は箱車で、上に網を掛けているものが多かったと思います。


網まで書けるようなチップ専門のダンプとなると金沢ではほとんど見かけていなかったように思います。金沢港も木材の多い港ですが、チップ専門の工場がないためか、少なくとも私の記憶では見かけることはなかったか、ごく稀だったと思います。


金沢市場輸送のダンプというのはその木材チップ専門に近い感じのダンプでしたが、完全なそれとは違っていました。補強についてもずいぶん考えられたような作りで、見た目もそれだけ頑丈そうに見えましたが、ダンプ自体の重量も重かったと思います。


トラックの重量に関する法律もずいぶん前に大幅な変更があり、規制自体が変わったと聞いているので違っているところも多いかと思いますが、当時の大型車に関しては車体の総重量に対する積載量が決められ、その重量がステッカーとして後部に貼り付けてありました。


正確な記憶はないですが、例えば金沢市場輸送の大型保冷車の場合、「最大積載量9250」などとステッカーが貼り付けてありました。平ボディ車だと10800とかになっていたような気もします。


冷凍機付きで頑丈そうな大型保冷車だと8トン台になっているのが普通だったと思いますし、中には7トン台というのも見かけていたように思います。細かく言えば箱の高さも長さも車検上の限界はあるものの、トラックごとにまちまちでした。


トラックの高さは3.8メートルと決まっていました。中西運輸商というかその社長が普通の考えではない証左の一つですが、扁平率の低いタイヤを車検時に使ってトラックの高さをごまかしているという話を聞きました。箱の内積量を少しでも増やしてより多くの荷物を積めるようにするためです。


普通に考えると、思い重量を積むトラックほど頑強な補強も必要になるのですが、その補強材がずいぶんと車体の重量を増やすと聞いていました。まともにやると僅かな最大積載量のステッカーを貼らなければならなくなるので、どこもかなり誤魔化しているのが普通だと聞いていました。


過積載のトラックの危険性というのは実際に運転を経験したものでないとわからないところがあるかと思います。ブレーキー性能の良くなかった時代となるとなおさらのことです。ブレーキーが焼けて煙があがることもあります。


基本的にはトラックもダンプも同じかと思いますが、大きな違いの一つはダンプの場合デフが2つだと聞いていました。普通の10輪のトラックの場合、デフというか駆動しているタイヤは横から見て後方の手前側のタイヤだけです。いずれもタイヤはダブルになっていますが、その後ろは引きずりと呼ばれ。


乗用車でいえば4輪駆動にも近いと思います。私自身、2デフというのはほとんど運転したことがなかったですが、エンジンブレーキの効き具合も全然違うとは聞いていました。雪道でも歴然とした違いが出ます。


引きずりの10輪だと、雪道の坂の上で止まってしまうと、動けなくなるということが普通にありました。そうではなくても重心が前に掛かりすぎていると、急で長い坂道を登り切れないことがありました。


一般には知られていないか、普通に聞くこともない話なのでついでに説明をしましたが、冬場の長距離トラックの仕事というのは、そういうことでもずいぶんと神経を使います。事故や渋滞、通行止めの可能性も雪が降る時期だと高くなります。どこへ行くにも山間部を通ることは多いです。


長々と説明しましたが、金沢市場輸送のダンプというのは2台だけでしたが、イワシをより沢山運ぶために考え抜かレたような設計になっていました。本来、加工イワシの本場というのは石巻港などですが、同じようなダンプというのも見ることがなかったと思います。


石巻港には鮮魚の定期便があったので数日おきのように年間を通じてしょっちゅう行っていました。港に近い河口に日和大橋という大きな有料の橋がありました。その橋を渡って魚市場の方に入ると料金所があるのですが、その周辺というのはイワシや鯖の加工と思われる独特の匂いが強烈でした。


石巻港の場合、イワシに限らず小魚を冷凍加工して、養殖の魚のエサにするという工場が多かったようです。既に書いていると思いますが、それに近いことは金沢港でもダンベとしてやっていました。生の状態で水槽に入れて運ぶものでしたが、平ボディ車の仕事でした。


ダンベの行き先のほとんどは三重県でした。そこは個人のような小さい工場で、養殖用のエサの加工をやっていることが多いという感じでした。三重県も養殖漁業の盛んなところだと聞いたことがありましたが、石巻のエサでも行き先はほとんど四国と九州と聞いていました。


日本海側と太平洋側では都市の規模も港の規模もまるで違いますが、イワシに関しては漁獲の時期が、地球の裏と表のように入れ替わっていると聞いていました。


太平洋側の港でイワシの仕事が多いのは、福島県の小名浜港、宮城県の石巻港、青森県の八戸港、北海道の釧路港だと聞いていました。


時刻は7月6日11時22分です。雑多な番外編ともいえる内容になったかと思いますが、他に重要な問題も出てきたので、この項目を締めます。


<2014-07-06 日 11:25> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]


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