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2015年6月29日 (月)

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年03月06日

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年03月06日
金沢刑務所の復帰寮ですが、なにか違った名称の看板が大きく掲げられていたように思い出しましたが、名称の方は思い出せません。そのまんまというわかりやすい言葉で寮を入れて3文字だったとは思います。


通路の突き当たりの出入り口は頑丈そうな扉でしたが、上の方は縦に粗い鉄格子になっていたように思います。透明なガラスのように見えましたが、おそらくは強化されたアクリル板かと思われます。独房の窓も同じでガラスではなかったように思うのですが。外の窓はガラスであったかも。


外からも見通しが良く、私の独居からも中にいる人の動きを含め、ある程度の範囲が見えていました。扉の内側はいくつかの小さい部屋に分かれ個室になっているように思われましたが、内部に鍵はなく自由に行き来できるようになっている感じでした。


福井刑務所の親和寮もそのように聞いていました。私はちょうど下の3階の独居にいたので、日曜日の昼食後に午睡の時間が始まった頃には、テレビからのど自慢の音声が聞こえてきていました。コタツがあるとも聞いていました。


何年か前ならもっと具体的に思い出せていたと思うのですが、今は本当にぼんやりしか思い出せない風景です。刑務所や拘置所の独居房というのは、どこもだいたいは同じ大きさになっているのではと思いますが、広さも多少の違いはあったと思います。


人の居住スペースには間違いないのですが、倉庫の収納ケースというイメージがずっとありました。ドアも引きとになっていてかなり薄かったです。


独居の部屋の横幅ですが、はっきりしたことはわからないものの、あっても1メートル50センチぐらいかと思われます。二部屋分でも3メートルぐらいかと思われます。独居の華の方によれば実質2メートルぐらいの距離であったかとも思われます。


扉の向こうにはXと金沢中警察署で一緒だったTさん、そして同じ5工場だった埼玉の青年の3人が、ニコニコと笑って立っていました。通路の延長なので立っているのは当然のことです。2回か3回ぐらいそんなことがあったと思いますが、短い時間でした。前に書いたように具体的な会話もなし。


Xからはハガキが入っていました。本当の年賀状のような葉書で、なにか短い言葉と携帯と思われる電話番号が書いてありました。出所の当日に一度見ましたが、それっきりになったように思います。捨てた憶えもないですが、電話を掛けることはなかったです。


Xに関しては自分のいた5工場内の情報で、覚醒剤事犯であること、女がきっかけだったこと、逮捕時は車の中で生活していたらしいこと、初犯なのに再犯刑務所に来たこと、前に暴力団に所属していたらしいような曖昧な話等を聞いていました。


この話は主に以前同じ雑居房で生活していたという大人しい感じの受刑者に話を聞きました。その人には前にいたという網走刑務所についても話を聞くようなことがありました。更生教育の進んだ施設で食べ物の処遇も良く、暖房もきいて暖かいという話でした。他にも同じような話は聞きました。


その人とは別に、暴力団組長の人からもXについて話を聞くことがありました。大阪の人でしたが、石川県の加賀市の方とも関係があるような話を聞いていました。Xについて知っていると言うよりは、T班長のことをよく知っていて関心もあるという感じだったと思います。


その人は同じ班だったので、作業中でもよく話をする機会がありました。大阪の人でしたが、金沢や石川県の暴力団関係者にもつながりや付き合いが、かなりありそうな感じでした。途中から5工場に来たと思います。たぶん懲罰開けの工場配役ではなかったかと思われます。


仮に復帰寮と書いた一区画の扉が通路の突き当たりにあって、その二つ手前の独居で私が生活していたことは既に書いていると思います。他の部屋に移った記憶もないので、5工場にいる間はずっとその独居房だったと思います。3舎3階とも呼ばれていたかと思います。


所内ではたまにラジオ放送で、優良房の発表というのがありました。整理整頓が良くできているというような評価であったと思います。そんなときに、何舎何階という言葉を耳にしていました。普段は余り意識せずに使っていました。


4舎と5舎が雑居房の建物だったと思いますが、自分のいる工場の受刑者の舎房がどの辺にあるのかとか、誰と誰が同じ舎房という話はほとんど聞いていませんでした。ただでさえ変な疑いを受けていたので、詮索をしていると思われるような発言は避けるようにしてもいました。


拘置舎も同じだったと思いますが通路の手前の方から順番に番号がついていました。2階の6番目であれば、206という感じです。これは受刑者の舎房も同じだったと思いますし、病院のような欠番はなかったはずです。最近は知りませんが昔は4という数字を使わないとか聞いていました。


拘置舎の独居は26まであったと思います。前にも触れましたが、受刑者の方は少し多くて28ぐらいあったような気がします。28だとすれば、私は3階の奥から2番目だったので、327の独居房にいたことになりますが、そういう番号も今は記憶に残ってはいません。


隣の一番奥の独居房には、地元金沢の暴力団関係者の人がいました。高齢に近いようにも見受けられましたが、その分、その世界での生活、経験も長く、付き合いや情報も豊富で、顔も広いという感じでした。年齢を聞いていたような気もするのですが、思ったよりは若かったような気もします。


独特の雰囲気のある人物でもありましたし、達人のような趣も感じられました。入れ墨を入れていましたが、それも随分と年季が入っている感じで、そのような世界での生活の長さを感じさせるものでした。入浴は工場全員で行われていたので、すぐにわかります。


金沢刑務所の方はけっこうな大浴場でした。福井刑務所の方は遙かに狭くて小さく、比較的少人数で交代で入っていましたし、待っている時間は長いすに座って、黙想をさせられていたように思います。今、けっこう黙想が多かったな、と思いだしました。目を開けてはならない決まりです。


今考えてみると顔や存在感は強く記憶しているのですが名前の方が出てこなくなっています。けっこうな回数、刑務所を出入りしているとも聞いたように思います。仮にZさんということにして説明をしたいと思います。


Zさんは私とは班も違っていて、通路の反対側の方によくいたと思いますが、工場全体のミシンの不調を直したりもしていたように思います。班長という感じでもありました。班は4つぐらいに分かれていたように思います。


ミシンのメンテのようなことをしていたので、願い出があって職員の許可が出れば、工場内のどこにでも行って、誰とも話が出来るという立場でもあったように思います。レクの時間であれば、誰とでも話が出来るので、特別なことではないとも思いますが、そういう面でも世話役的な人でした。


昨日辺りにも福井刑務所のことで雑役というのを書いたと思いますが、一般の人にはなじみのない言葉だと思うので、少し説明をしておきたいと思います。簡単に言えば工場内での世話役兼湖上担当の刑務官の秘書的なことをやっていて、会社の経理の担当者という感じでもありました。


計算工とも呼ばれることがあったように思いますが、この計算工というのは、刑務所全体の経理をするような人たちとも聞いたことがあります。3人ぐらいの少人数でコンピュータのある小さな部屋で作業をしているとも聞いたことがありましたが、刑務所全体の受刑者の個人情報に触れるとも聞きました。


工場内には担当台というのがあって、高くなったところから全体の見渡しも良くなっていたのですが、刑務官のいる場所です。その近くに雑役の作業スペースがありましたが、ごちゃごちゃと事務関係に必要なものは何でもあるという感じでした。


雑役の場合、他に受刑者の洗濯物を集めたり配ったり、食堂の掃除をしたりする本当の雑務のような人もいましたが、通常、雑役といえば工場の事務をやっている受刑者のことを指していたように思います。私本など物品の購入や交付の手続きもなっていたので、許可なく工場内を動いたりもしていたと。


Zさんは自分から人に話しかけるようなことは滅多にない感じでしたが、話しかけると返事以外にも会話に応じてくれるような人であったと思います。レクの時など、何度か話をしたことがありましたが、金沢の寺中町に住んでいると話していたと記憶しています。


金沢の寺中町というのは、とてもなじみのある場所の一つでした。中西運輸商の会社というか事務所があったからです。初めの頃は近くに駐車場がなかったので、会社の前の金石街道にトラックを停車させ、事務所に入っていました。


その後、金石街道を挟んだ道路の向かい側に、トラックの駐車の出来るスペースが出来たと記憶していますが、余り広くもなかったので、会社に立ち寄るための臨時の駐車場という感じでした。


事務所の方には必要最低限の用事にしか立ち寄らないように言われていたので、その分、自由でもありました。金沢市場輸送のように他の運転手の荷物の積み卸しを手伝えに行けと言われるようなことはなかったです。


中西運輸商の仕事のメインは佐川急便の広島・九州便でした。岡山、広島、山口、福岡が多かったです。前にも書いてあると思いますが、中西運輸商は配車の会社で、運転手は中西水産輸送の社員と言うことになっていました。


もともとは水産関係の仕事をやっていて、私がいた頃も数台の保冷車が残っていました。私自身、大型の保冷車にも乗務したことがありました。


初めの方は大洋まるは、の仕事をやっていたとも聞きましたが、白ナンバーで摘発を受け大打撃を受けたと聞きました。密告があったとも聞きましたが、窮地を救ったのが広島県東広島市にあった西日本運輸興業とも聞いていました。


私自身、一度その西日本運輸興業の会社には行ったことがありました。社長に頼まれ他の荷物と一緒に積んでいった贈答用の米俵を持って行ったのです。町外れの田舎のような場所だったと思いますが、かなり規模の大きい運送会社であったと記憶しています。


私は昭和59年の12月の20日頃から昭和61年の2月一杯までの間と、昭和62年の1月から3月ぐらいまでの間、の2回。中西運輸商にいました。2回目の時は大型車です。金沢市場輸送で乗務する大型車の空きがなかったことと、福井出身のYTに強く誘われたのがきっかけでした。


福井のYTに関しても本書において、かなりの紙面を割いて書いていると思いますが、どこまでどの程度書いているのか、時間の経過とともに正確には思い出せず、把握しがたくなっている部分もあるかと思います。重複は避けたいところでもありますが、ポイントはその都度抑えるようにします。


YTが金沢市場輸送をやめたあと守田水産輸送の仕事をするようになったことはたぶん書いていると思います。余り詳しい話はわからなかったですが、守田水産輸送の社長に手形の裏書きをしてもらって大型車を3台か4台購入し、運転手を雇うようになったと聞きました。


この辺りは初め本人ではなく噂話のような感じで誰かから聞いていたようにも思うので真偽の程もわかりません。守田水産輸送と似たようなトラックで仕事をしていたことは間違いなく、何度かそれらしいトラックも見かけていました。


守田水産輸送の保冷車とは少しデザインも違っていたように思います。はっきりしていたことは「都商事」と荷台の箱に書いてあったことです。保冷車で冷凍機付きだったと思いますが、当時珍しかった保冷のウィング車であったかもしれません。


この都商事というのは○西さんが現場責任者になっていたような、守田水産輸送の中継の仕事と同じという感じでした。中継は中央市場の一角で行われていて、4トン車がほとんどだったと思いますが、都商事という看板のようなものを見かけていました。


都商事という会社が二つあったとはまず考えられないのですが、その違いについては疑問に思いながらも、誰かに質問するようなことはなかったように思います。


もともと守田水産輸送というのは鮮魚の青森定期便をやっていた運送会社でしたが、青森の新生運輸とも関係があったようです。数ヶ月前なにかの機会にテレビニュースだったかで、青森の新生運輸のトラックを見かける機会がありました。見かける頻度も多く、大きい運送会社かと思います。


守田水産輸送についても金沢に似たような会社が3つあると聞いていた時期もありました。社長が兄弟であると小耳に挟んだような気もしますが、他の守田という運送会社は鮮魚ではなく、冷凍食品を運んでいたかと思います。


金沢市場輸送の仕事を始めた時分から守田水産輸送と言えば青森定期便というイメージが強かったのですが、それは大型車の話で、4トン車は冷凍魚を主に運んでいると聞いていました。過積載が当たり前とも聞いていました。


冷凍魚には主にイカの冷凍関係と、鱈のようなすり身の冷凍がありました。すり身の冷凍はカマボコなどの練り製品の原料となるもので、冷蔵庫の他、直接、カマボコ工場に持って行くこともありました。富山にもありましたし、金沢の市場の正面前あたりにもありました。


それは金沢市場輸送でも時たまする仕事でしたが、多くある仕事ではなかったです。すり身は東京の冷蔵庫から運んだり、仙台の冷蔵庫から運んだこともあったかと思います。あるいは逆に仙台の冷蔵庫に持って行きました。


まだ書いていないと思いますが、昭和59年当時金沢市場輸送の4トン車のメインの仕事が新潟への鮮魚の定期便であったことは書いていると思います、その仕事は金沢の丸中水産の仕事でした。当時は金沢市場輸送の数の多くない定期便の一つでしたし、毎日に近かったのはあれだけかもしれないです。


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