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2015年6月29日 (月)

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年03月05日

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年03月05日
復帰寮の出入り口というのは長い通路の突き当たりになっていました。通常の通路沿いの居房であれば、左右の見通しに限界があるので、他の受刑者と話をしているときに職員に見つかるリスクも高かったです。


決まった場所や方法以外の受刑者同士の会話は「通声」ということで懲罰対象の規律違反になっていました。決まった場所とは食堂やレクレーションの講堂や運動場、決まった方法とは作業中における作業上必要な会話で、職員に許可を受ける必要がありました。


実際のところ、工場の作業中でも同じ班であれば、喋り放題に近いものがありました。「あげられる」と言いましたが、懲罰の前段階で取り調べに連行されることもありましたが、空気を読まなかったというかその場の状況で周囲が納得するようなタイミングで、職員に連行されていました。


居房内での通路越しの通声は、余りやらないことでもありましたが、見つかった場合は連行される可能性も高かったと思います。職員としても見逃しにくい状況と考えられるからです。工場ではほとんどが、お目こぼしでした。


私が金沢刑務所を満期で出所したのは平成13年12月31日でした。満期の場合は刑期満了日の翌日に出所することに決まっていると聞いていました。


満期日というのは判決が確定し、未決囚から受刑者の処遇になった段階で、具体的な日付が知らされていたと思います。私はずっとそれを平成13年12月21日と思い込んでいたし、そのように他の受刑者にも話していたと思います。


実際は出所する半月か20日ぐらい前になって、12月31日が出所の日になると知らされました。大事な日付なので間違って憶えていたはずもないのですが、紙に記録するようなものではなく、各自が頭で憶えていたものだと思います。


前もって満期日がわかっていれば、出所する当日に待ちかまえる人間が出てくる可能性のあるので、その辺りを配慮して職員が違った日付を私に教えていた可能性もあると思いますが、知らされたときは10日ぐらい損をした気分になって腹も立ちました。


金沢刑務所は再犯刑務所でした。大半が暴力団関係者とも言われていました。福井刑務所は初犯刑務所だったので、同じ刑務所でもいろいろな点で、まったく違うようなことがありました。


金沢刑務所ではハガキという習慣のようなものもありました。先に出所した受刑者が出所後の連絡を取るため、連絡先を書いたハガキを金沢刑務所に郵送するのです。郵送されたハガキは、出所の当日に、出所する受刑者に交付されます。


金沢市場輸送で長く一緒だった人物で、金沢刑務所で再会した人を以降Xと表記したいと思います。年下なので話しやすい相手でもありました。被告訴人HTNとは運転手をする前から面識があったようでした。更生の可能性もあるので、人一倍プライバシーの配慮も必要かと判断しました。


Xは、私が出所する2ヶ月か3ヶ月前に仮釈放で出所していきました。復帰寮にいたので通声をすることもありましたが、相手の方は仮釈放の取り消しにもなりうるので、私の方からも少ししか話をしませんでした。短い会話でしたし、何を話したのかも現在は憶えていません。昔話をすることはなかったです。


平成11年の事件では判決が確定したのが平成12年の9月の20日頃ではなかったかと思います。その後、分類審査を受け、金沢刑務所での受刑が決まってからも、2週間の新入教育がありました。5工場に配役されたのは、その年の11月の10日ぐらいだったように思っています。


私は11月生まれなのですが、金沢刑務所には誕生会というものがありました。その月が誕生日の受刑者が講堂に集まって、1時間程度の録画のテレビの放送を映画のスクリーンで見て、その時にコーヒーのような飲み物と、どら焼きのような饅頭も出たように思います。


刑務所では移動の際、必ず職員が付き添いましたが、それだけではなく、通路を歩くときは普通に歩くのではなく、行進をすることになっていました。一人の時は掛け声まではしなかったように思います。福井刑務所では一人の時は行進をしなかったようにも思います。


私は5工場でした。最近では見かけなくなりましたが、以前は一般社会でも割と見かけるような作りの工場らしい建物でした。その建物自体が2分されていて、通路から手前の方が5工場で、奥の方が6工場になっていました。


工場への出入り口は別になっていたはずですが、工場の中にも大きな仕切りの壁の間に扉があって、職員が6工場に出入りすることはありました。まともに6工場の中をのぞき見する機会はなかったのですが、そう広くはなく、全体の建物の3分の1か、4分の1のスペースかという感じでした。


私がいた6工場はだいたい60人前後で推移し、多いときで65人ぐらいだったと思いますが、金沢刑務所の中では一番人数の多い工場だと聞いていました。ミシン作業をする工場でした。


6工場の方は溶接作業をする職業訓練の工場だと聞いていました。人数も少なく、金沢刑務所の中で一番人数の少ない工場と聞いていたかもしれません。十数名と聞いていたようにも思います。


講堂からの誕生会の帰り、まず5工場の前で行進が立ち止まりました。職員が工場の出入り口の扉の鍵を開けるにも多少の時間が掛かります。その時に後ろから指でツンツンするような合図を受けて、振り返ったところ、Xがニコニコと笑っていたのです。


これは本当に驚きでした。まさかなぜこんな場所で、という疑問符で頭も混乱しました。Xに関する情報は、そのあとすぐに得ることが出来ました。


半年ぐらいと聞いたようにも思うのですが、何ヶ月か前までXは同じ5工場にいたと聞いたのです。福井刑務所も同じでしたが、同じ工場の受刑者が同じ雑居房で生活をするようになっています。


班が違っていましたが、以前Xと同じ雑居房で生活をしていたという受刑者からもXについて話を聞くことが出来ました。


誕生会というぐらいなので、その11月生まれの誕生会があったのは、平成12年の11月中であったと思います。工場での生活が始まったすぐあと、ということになりそうです。


そのあとだったと思いますが、どれぐらい後であったかは憶えていません。5工場内で、福井刑務所の2工場で一緒だったT班長が、6工場にいるとか6工場に入ったという話を聞きました。その後、運動会やソフトボール大会の時も注意深く見ていたのですが、直接T班長の姿を確認することはなかったです。


ソフトボール大会というのは工場対抗の催しでした。当然に運動場で行われるので、姿を見つけるというのは多少の無理があったような気もするのですが、6工場は人数も少ないので選手として出ていた可能性は高いとも思います。


離れたところからはそれらしい姿を見ていたことも考えられますが、間近に見たという記憶は全く残っていません。


他にバスケットボール大会というのもあったように思います。あるいは卓球大会というのもあったかもしれません。どちらも講堂で行われるので、探し出して姿を確認するのは、運動場よりはるかに容易だったと思います。講堂はかなり狭かったです。


そういうことも加味して考えるとT班長が6工場に入ったという話を聞いたのは平成13年の秋以降であったかもしれません。しかし、その話を聞いてからXが仮釈放で出るまでは、けっこう期間があったような気もします。


Xの仮釈放についても事前に情報を得ていたように思います。本来、同じ工場内での会話や情報のやりとりは容易でしたが、別の工場となると機械も大幅に限られていたと思います。たとえば各種講座の機会でしたが、それも一月に1回しかなかったように思います。


別のルートでの情報の流れはあったと思いますが、金沢刑務所の方が福井刑務所より難しいようにも思えていました。福井刑務所では講座の機会も多く、工場単位ではなく、舎房の階数単位でのレクリエーションの機会もあったからです。


福井刑務所が雑居の南寮と独居の北寮という建物に分かれていたことは既に書いているはずです。また、南寮の4階は2級生が生活するということにもなっていました。つまり3級生と4級生は同じ舎房に生活していましたが、2級生になると4階に上がって別の舎房に移ることになっていました。


北寮も4階建てでしたが、4階は特別な区画で準1級者生活する場所があり、親和寮と呼ばれていたように思います。累進処遇制度では1級まであると聞いていましたが、これは例外中の例外で福井刑務所には一人もいないと聞いていました。名古屋刑務所では少数いるとも聞いたことがあります。


親和寮の準1級者のほとんどは外部の一般の工場に通勤しているとも聞いていましたが、私がいた2工場で初めから長い間、雑役をしていた人は親和寮にいる準1級者でした。仮釈放の本面接から半年以上工場にいるとも聞いていました。


本面接から2週間ぐらいで釈前教育に入るのが相場とも聞いていたように思います。あるいは3週間です。釈前に入ると2週間後には仮釈放で娑婆に出られることが約束されていると聞いていました。


仮釈放にはカリメンと呼ばれる仮面接とホンメンと呼ばれる本面接がありましたが、ホンメンに入る前にはパロールと呼ばれる、アンケート用紙のような書面の記入と提出がありました。雑居房にいるとき現物を見たことがありました。夏休みの宿題のような感じで、記入の分量も多くなかったです。


福井刑務所では、そのカリメンだけを受けました。病気なのかとも思いましたが小学生のような体の大きさの若い面接官でした。再審の請求をやっているというだけど、驚いたような呆れたような顔をしていました。言いたいことをぐっとこらえたようにも見えましたが、真意は測りかねました。


金沢刑務所ではカリメンすらなかったと思いますが、ちょうど刑務所の収容過剰が社会問題のピークになっているような時期で、再犯刑務所でも現役の暴力団員以外は、積極的に仮釈放の恩典を与えられているという感じでした。


現役の暴力団員であっても脱退届を出せば、仮釈放の対象になるという話で、個別に脱退のための相談や指導も行われていたようです。私の場合は、出所後の生活についてもなんの相談もないまま、仮釈放の話が出ることもなかったです。


もともと他の受刑者と立場が違うと言うことは刑務官の側でもよくよくわかっていたと思います。特別な意味のあるような演出や講堂も続き、警察のスパイではないかと疑いを掛けられることもありました。


そういう中には暴力団の組長という人も何人かいましたが、普段から会話をすることも多かったので、目的は被告訴人TSKらにあると思います。外で調べればすぐにわかると思いますと、説明していました。あえて注目を集めるような立場にも置かれていたのだと思います。


金沢刑務所は金沢市内にありますので、地元の暴力団と金沢刑務所で服役した他の都道府県の暴力団員との交流という話も聞きました。暴力団員の出所祝いには大勢で出迎えをするとも昭和57年の頃から具体的な話を聞いていました。


一方で地元の暴力団員と他の地方の暴力団員の間にトラブルがあったとも刑務官に聞かされていました。それまで工場内での自由時間のようになっていた休憩時間が、2階の食堂に集まって席に着いた状態で行われるようになっていて、そんな理由があると聞かされていたのです。


同じ金沢刑務所でも5年ほど前とは、処遇がずいぶんと変わったという話も受刑者から聞いたように思いますが、施設毎の違いだけでなく、上になった人の考えや方針でも、処遇がまるっきり異なることがあると、刑務官からも聞かされていました。


福井刑務所の北寮ですが、1階は金沢刑務所の2階建ての建物と同じようになっていました。ただ、昼夜独居というのは見かけなかったと思います。精神的に問題が大きいと判断される場合が多いとも考えられるので、医療のために医療刑務所に送られることが初犯の場合はより多かったのかもしれないです。


北寮の一階は「キタイチ」と呼ばれていました。取り調べや懲罰の代名詞のようになっていましたが、奥の方は満期釈放前の釈前のための独居として使われ、私も満期前はそこで生活をしていました。多少の教育もありましたが、ほとんどは独居の中でテレビを見て過ごしていました。


仮釈放の場合は、親和寮と同じ北寮の4階で生活すると聞いていましたが、私には縁のない話でした。ただ、一度だけ何かの機会に、北寮4階の中には入ってことがありました。通路に入っただけだったので、部屋の中を見ることはなかったです。


福井刑務所に移送されたのは平成6年の3月17日であったように記憶しています。1週間か10日、あるいは2週間の間は分類審査として、北寮2階の奥の方の独居房で生活をしていました。カーテンのカタログにサンプルの生地を貼るような作業をしていました。


そのあとに新入教育がありましたが、4人で受けていたと思います。1工場の中で軽作業をやりながら、色々と教育を受けていました。ここでも行進の訓練が多かったと思います。レクリエーションの時間は、他の受刑者と同じように過ごしていました。


レクリエーションは一般社会では全く聞いたこともないなじみのない言葉でしたが、運動を含めた自由時間です。天気が良ければ外の運動場で、雨など降っていれば講堂で行われていました。冬の間は、風邪の流行防止もあったのか、全く外には出れなかったようにも記憶しています。


金沢刑務所の方では冬でも運動場の土の状態がよければ、外に出ていたようにも思います。思えば、福井刑務所の方が風邪になる人が多かったように思います。風邪で薬をもらうと、禁止ではないと聞きましたが入浴を辞退させられることになっていました。


福井刑務所の方が保護的にも思えそうですが、金沢刑務所とはとんでもない違いが一つありました。それは免業日と呼ばれる休日に行われる理髪でした。日曜日と決まっていたようにも思います。3週間に1度ということにもなっていたと思います。


バリカンで坊主頭にするのですが、舎房に戻ってから中の水道で頭を洗ってもよい、ということになっていました。雑居房にいたのは半年の間だけで冬でもなかったですが、理髪の後、頭を洗わないという人は見かけなかったです。


使い回しのバリカンで頭を刈るということもあり、私は必ず頭を洗っていました。独居の場合は水の出方も弱く、洗面台も小さかったので、余計に時間も掛かりましたが、真冬のどんな寒い日でも、水道の水で頭を洗っていました。洗面台と言っても便所の手洗いと同じです。


金沢刑務所では入浴の直前に、講堂で理髪を行っていました。福井刑務所の場合はバリカンを持つ人も決まっていましたが、金沢刑務所では各自で相手を見つけて刈りあっていました。すぐに入浴も出来るので、言うことなしでした。


金沢刑務所の入浴場は講堂の前にありましたが、広くて新しい浴場でお湯の出方も抜群だったように思います。福井刑務所の方は古くて狭い、まるで保育所のプールのような浴槽でした。全体的なお湯の量も少ないためか、垢かフケのようなものが、銀輪のように大量に煌めいていることもありました。


しかし、不思議とそういう不満というのは耳にすることもなかったです。なかにはご飯に小蠅が交じっていても刑務官に申し出ることもなく、よけながら食べている人もいました。学校での坊主頭が人権侵害だと弁護士が騒いでいる時代にも近かったと思います。


金沢刑務所の新入教育は教育のための部屋で行われていました。7人ぐらいいたような気がします。ちょっとしたお堂のようなイメージのある部屋でしたが、なかにトイレもありました。水の節約のために小便は全員で行い最後の人が水を流すようにも指導を受けていました。


本当は全員が同じ雑居の居房で生活していたようですが、私だけは別の独居で生活していました。御庁つまり金沢地方検察庁に提出するための上申を作成していたからという理由もあったとは思います。


拘置所も同じでしたが上申書のような書面を作成するためには、認書(にんしょ)作成、という許可が必要でした。許可が必要なことは他にもいろいろありましたが、「願箋(がんせん)」という定型の用紙に書いて提出するのがお決まりになっていました。


まだ分類審査中に認書作成の願箋を出していたのだと思いますが、新入教育が始まってすぐに許可がおりたというのも、普通はあり得ないことかと考えていました。


認書の作成はその後も何度もやっていたと思いますが、再審請求をしたようには憶えていないので、その全ては御庁への上申書ではなかったかと思います。


認書の作成には50枚が一冊になった縦書きの全罫紙を使っていたと思います。カーボン紙を使って控えをとるようなことは一度もなかったと思います。私の手元にもなにも残っていません。


まとまった記述が出来るのは土日祭日の免業日だけでした。一日に何枚ぐらい書いたか今は思い出せなくなっていますが、とにかく文字の隙間なくびっしりと書き詰めていたと思います。読みづらいのはわかっていましたが、一文字の追加も出来ないようにしました。


Xの仮釈放の釈前教育は3人だったと思います。前に少し触れているはずですが、一人は金沢中警察署の留置場で同じ部屋で生活していた人でした。金沢中警察署に逮捕されたのは平成11年8月12日だったと記憶しています。


初めの20日ぐらいは東京の山口組の暴力団員の人と二人で同じ部屋にいました。その人が不起訴で出て行って、まもなく入ってきたのがその人でした。実名を書くつもりは当然ありませんが、考えてみたところ長く思いだすこともなかったので、名前が浮かんでこなくなっています。


思いだしました。金沢近郊のある地名と同じ3文字の名前でした。年は私よりけっこう上だったようにも思いますが、見た感じも若くて余り年の違いを感じずにいたように思います。元暴力団とも聞きましたが、刑務所も5回目になるというような話だったと思います。


多少関連する可能性もあるので外せないですが薬物関係の人でした。どこかサウナにいたところいきなり逮捕されたような話でしたが、警察の都合と気分次第で逮捕されたようにも思えるような話で、本人もしっくりこない逮捕だったようです。


初めは冤罪とか言っていましたが、薬物反応が出たと刑事に言われると、すっかり観念した様子でした。二人っきりで同じ部屋にいた時間も長かったので、いろいろと会話もありましたが、今となってはほとんど記憶にも残っていません。


平成4年の事件に比べて残っている資料も少ないので、はっきりしたことはわかりませんが、金沢刑務所の拘置所に移送されたのは9月の20日頃ではなかったかと思います。不本意ではありましたが、一度行って慣れてもいるし、今回は人の命の問題もなかったので、気も楽に拘置所に入ったと思います。


福井刑務所にいた体の大きな刑務官に会ったときは、少々驚きましたが、そういえば逆に金沢刑務所の拘置所でよく見かけていた刑務官が、福井刑務所に来たと言うこともありました。すっかり忘れていましたが、ふと思いだしました。


金沢中警察署で一緒だった人のことを仮に、「金沢中警察署で一緒だったT」と表記することにしたいと思います。少々長くもあるので、文脈で通じる場合は、省略するか単にTと表記したいと思います。書くことは多くないです。


Tさんとは拘置舎でも1,2度顔を合わせるようなことがあったと思いますが、集団の運動にでも一緒にならない限り、会話はできず、受刑者より監視ははるかに厳しかったので、片言の言葉を交わすのも難しかったと思います。


受刑中、なにかの機会で姿をみることがあり、同じ金沢刑務所での服役になったと思っていたのですが、ある機会に割と長い話をすることが一度だけありました。


その部屋は、受刑者が購入した本や雑誌の仕分け作業にも使われている部屋でした。何度か入ったことのある部屋だったのですが、そこで床に体育座りをするような場面があったのです。かなりの数の人がその場にはいたと記憶しています。


人数も多かったので、近くによって目立たないように会話をすることも出来たのです。そういう部屋の中で体育座りをするような機会は他になかったと思うのですが、なぜそこに集まったのかを含め、前後のことが思い出せません。


何年の刑を受けたというような話を聞いたようにも憶えていますが、会話といってもそんな内容でした。何工場にいたのかも当時は知っていたと思いますが、今はそれも思い出せなくなっています。


そういえば当時の金沢刑務所では同じ工場で、ホンメン後1週間で釈前に入ったという人もいたように思います。


釈前に入るときは、それらしい温厚そうな刑務官が迎えに来て、担当が本人を呼んで荷物をまとめされるというのが、福井刑務所でのお決まりのパターンでした。刑務作業中の工場で、人知れず迎えに来た刑務官とともに去っていくというのがよくある光景でしたが、見落としていなくなっていたということも。


金沢刑務所ではまるで事情が違っていました。刑務官の迎えがあるのは同じでしたが、その場所と時間が決まっていました。昼食の後の昼休み時間の間でした。場所は屋根裏部屋のような工場2階の狭い食堂です。


誰かに促されるようなことはなく、当然のように階段の出入り口の前に立って、最後の挨拶をするのが恒例でした。長くでも30秒以内だったようにも思います。簡潔な挨拶でしたが、同じように大きな拍手で見送られていました。仮釈放も満期出所も同じです。


Xがそろそろ仮釈放になるという情報は事前に知っていたように思います。同じ頃に同じ5工場から仮釈放になるという人もしっていました。年は同じぐらいで埼玉県の人だと知っていましたが、ほとんど言葉を交わしたことのない人でした。無口なタイプでもありましたが、私のことも知っていたはず。


ちょっと気になる話も耳にしていましたが、人のプライバシーに触れるのは必要最低限にしたいと考えています。ただ、その後のXとの関係については、


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