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2015年6月29日 (月)

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年03月03日

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年03月03日
あらためて長い時間思いだしてみたのですが、M君の父親の仕事についてははっきり思いだせないです。仕事でトラックの運転手をしていたということは間違いないですが、荷物を配達するような仕事ではないというイメージでした。ゴミ回収については割り引いて半々かなと思います。


仲のよい親子という印象も強かったですが、ずいぶんと大人しく優しい父親という印象もできあがっていました。実際に見た憶えはないので、全てM君の話から伝わるものであったと思います。母親の話は余り聞いた憶えがないですが、不満を口にするようなことはなかったと思います。


M君の妻は毎日のように車で送り迎えしていたので、それで顔を合わすこともあったと思いますが、車の中に乗っている姿を見たり、注意深く観察したことはありませんでした。


それでも一度は被告訴人KYNの家に上がって、話をしていたことがありました。女性としてはかなり大柄で、体型的にも女子プロレスラーにいそうな感じでしたが、デブという感じではありませんでした。愛想よくニコニコと話していましたが、客商売で慣れたような感じにも見えました。


実際に水商売というか飲み屋で働いていたという話も聞いたようにも思いますが、現時点では記憶に確証は持てないです。M君は妻との出会いというか馴れ初めについても話していたことがあったようにも思いますが、そこにも飲み屋が出てきたような気がします。


具体的な店の名前を挙げていたような気もするのですが、聞いた時点でも知っているような店ではなかったように思います。ただ、これも記憶に自信は持てませんが、間明のスナックのように受け止めたような印象もかすかに残っています。


被告訴人KYNの黒田一丁目の自宅兼事務所から自分が住んでいた北安江の借家に帰るのに、間明を通ることがほとんどだったとも思います。朝は違った道を通ることがあったようにも思うのですが、朝の方が時間も早く車も空いていました。7時の出勤ではなかったかと思います。


大きな交差点の渋滞を避けるために間明を通ることが多かったように思います。間明自体が大通りの野田専光寺線に面していますが、そうではない住宅地などがある路地の方です。


M君の妻は実家が、その間明か東力あたりにあると聞いていました。これもはっきりしたことが思い出せなくなっていますが、あるいは入江です。いずれにしても高岡中学校の校下であることは間違いなさそうでした。


校下という言葉に聞き覚えがあって使ったのですが能登ではなく金沢で聞いたように思います。ネットで調べたのですが学区とか校区というのが本来的な言い方で、校下は金沢弁の方言であるような情報も、検索結果に見られました。


M君の妻というのはM君より二、三年上と聞いたようにも思います。私自身計算をしてみたのですが、被告訴人YSKと被告訴人TTKのいずれかと同級生ではないかと思いました。


現在の私の記憶ではM君の当時の年齢もはっきり思い出せないのですが、24歳だった可能性が最も高く、ついで25歳ではなかったかと思います。26歳以上と言うことはまずなかったと思います。20代前半だったという印象が割と強く残っています。


被告訴人YSKは家が東力だと聞いていました。平成10年頃には大きな本屋が出来ていましたが、家はちょうどその裏あたりにあるようでした。供述調書に住所があったので少し調べたこともあったのですが、家までは特製しませんでした。


被告訴人YSKの年は、被害者AAさんと同じだと聞いていたので、私より6つ年下だと思っていました。供述調書でも生年月日まで確認していなかったようにも思いますが、昭和45年生まれだと思います。学年としては昭和46年の3月までの可能性はあるかと思いますが、46年とは見かけていないとも。


被告訴人YSKは供述調書を作成した平成4年4月の時点でも21歳になっていたと思います。昭和45年8月生まれの被害者AAさんも21歳になっていました。


同じく平成4年4月に金沢西警察署で供述調書を作成した被告訴人TTKは19歳になっていたと思います。もともと被告訴人YSKより二つと下だと聞いていました。平成3年の時点でも被告訴人TTKは自ら19歳だと話していました。


金沢弁(校下) http://www.sakane.net/kanazawaben/kouka.htm ← やはり金沢独自の言葉であるようです。文化や伝統的にも私の育った能登とは、色々と違いもあると思います。まず、中学校の生徒の規模がまるで違うと聞いていました。


被告訴人TTKは知り合った頃より間明に家があると話していました。もっとも被告訴人TTKに関しては、事前に被告訴人YSNに仕込まれていたというか聞かされていた情報が多かったです。


すでに書いていると思いますが、被告訴人YSNが市内配達の仕事を始めた頃、被告訴人TTKは免停中で、同乗しながら配達コースの指導をしていたからです。内灘・高松コースと聞いていました。これだけ見ると金沢市ではなく河北郡でした。


そういえば2,3日前のテレビの石川県内ニュースで、市町村合併のさきがけとなった「かほく市」が10周年とやっていましたが、その時初めて、宇ノ気町、七塚町、高松町の3つが「かほく市」になったとしりました。以前は津幡町もかほく市になったのかと勘違いしていたこともあったと思います。


本書を作成しながら一月ほど前にふと思いだしたことですが、金沢市場輸送に被告訴人MHKが来た頃、七塚町の出身とか、七塚町の人間だと聞いたことがありました。


私が高校を中退して初めて金沢に出てきた昭和56年の夏、知り合った女友達の一人が、七塚町と話していました。家はどこというような問いかけに対する答えでしたが、七塚町というのを知ったのもそれが初めてだったと思います。


今初めて気がついたのかわからないですが、同じ七塚町だという女友達は、被告訴人MHK社長と同じ姓でした。徳川幕府の殿様によく出てくる名前なので全国的にも多い名前だと思いますが、金沢では他に聞かなかったと思いますし、能登でも聞いた憶えはありません。


以降、その女友達のことを七塚のMKという表記にしたいと思います。年は私より一つ年上で、知り合った昭和56年の8月当時、17歳でした。もともと被告訴人OSNの知り合いというか友達だったようですが、近くの小さな家をたまり場にする暴走族の一員でした。


より正確に言うと、ある暴走族のレディースの一員でした。サブリーダーとも聞いていました。その後摘発された新聞では、暴走族の服を着た姿で首から下の写真が掲載されていました。


七塚のKYは知り合った頃から、東金沢の方に家のあるMSと特に仲がよくいつも一緒にいました。MSは被告訴人OSNと付き合うようになったのですが、まともな男女の付き合いではなかったようです。それでもたまに連絡を入れたりはしていたようです。


私が金沢市浅野本町のアパートに住んでいたのは昭和57年の1月から4月頃の3ヶ月ぐらいだったと思います。その頃には何度か被告訴人OSNと二人でアパートに来ることもあったし、割と近いところの喫茶店で働いていたので、何度かその店に行くこともありました。


実家に近い場所の喫茶店で、その頃からすっかり落ち着いた生活をしているという印象でした。私も忘れた頃に、家に電話を掛けて話をすることがありました。会うこともありましたが、二人っきりで会うことはなかったです。


一方の七塚のKYですが、その後もヤクザの情夫のような生活を続けていたようです。住んでいる増泉のアパートに一時期被告訴人OSNらと何度か行ったことがありましたが、ヤクザと同棲しているという話でした。


ちょうど、その頃に共通した昔の友達というか知人が、入江の王様の本の前で起きた死亡事故に関連するということもありました。死亡した人間が運転していたように偽装したことが発覚したとかで、新聞にもニュースとして出ていたように思います。


七塚のKYがヤクザというか暴力団員と付き合い、同棲していることは聞いていましたが、具体的にどこの組員とか構成員という話は聞いていなかったと思います。根っからそういうヤクザの世界が好きな女とも思いました。


七塚のKYもそうだったと思いますが、東金沢のMSが私が知り合うより前に、被告訴人HTNと付き合いがあったということも被告訴人OSNから聞いたことがありました。


「王様の本」というのは金沢周辺に数店舗ある大型書店でしたが、平成17年ぐらいに全部が倒産しました。私が羽咋市に住んでいることで羽咋の店にもよく行っていたのですが、ある日店が閉まっていて破産管財人のような弁護士の張り紙があったので驚きました。


KYの増泉のアパートに行ったりしていたのは昭和57年の春頃かとも思います。その年の秋には私は名古屋に行っていたので、やはりそうなるかと思いますが、しっくり記憶の整理ができない部分もあります。


同じ頃ではなかったかと思いますが、宇出津の後輩らを連れた被告訴人OSNらが金沢で、流浪のような生活をしていた時期がありました。私も一緒にいたこともあるのですが、随分とお腹を空かした記憶も残っています。ちょっと前に栄養失聴者が出たという観音堂での被告訴人YSNとの生活以上でした。


とんでもない生活だったので私は極力それを避けるようにもしていたのですが、金沢の入江あたりで被告訴人OSNらがガソリンを盗んでいて警察に捕まったという話を聞きました。結局、お咎めなしで放免されたように聞きましたが、関係した人の口が重い雰囲気で、詳しいことを聞くことはなかったです。


被告訴人OSNは当時まだ試験観察中とも聞いていたので、よく警察が返してくれたものだと思っていましたが、周囲が異様に口の重い雰囲気で、相当のことがあったのかと想像しました。警察の度肝を抜くような謝り方をしたとか、そんな感じです。


その頃だったと思いますが、被告訴人OSNは同級生で被告訴人HTNと同じ真脇のSといつも一緒に行動するようになっていました。真脇のSさんは、水産高校小木分校の一つ先輩でもありました。学校時代は真脇の家にも何度か遊びに行った憶えがあります。


私個人としては部活も違うし、さほど親しい間柄でもなかったので、誰かと一緒に行っていたと思うのですが、それも思い出せなくなっています。同じ小木分校だった被告訴人KYNの方が、学校時代は親しい感じではあったと思いますが、卒業後の付き合いというのは記憶にないです。


民宿やまじゅう - Google マップ http://bit.ly/1bZVHho ← こちらの店だったと思います。ストリートビューでみたところ、右手の方に「海宝」という海鮮レストランか居酒屋のようなお店が見えますが、この建物は平成20年頃にも見ていなかったような気がします。


もう少し羽咋市の方に行った右手にパチンコ屋があって、その手前に弁当屋がありました。羽咋市から金沢市に行くときや帰り道に、その弁当屋で弁当を買って車の中で食べるということが何度かありました。


「やまじゅう」という店の名前も全く記憶になかったので以前は別の名前になっていたのかもしれません。ちなみに、「やまじゅう」というのは東北便の塩釜における荷物に多かった練り製品の会社だったので・・・。いや、それは「なべじゅう」だったかも。まあ、似ているので印象にも残ったかと。


やはり、なべじゅう、ではなく、やまじゅう、だったような気もするのですが、商品の箱には「津久浦水産」とも書いてあったように思います。おでん種の練り製品でしたが、カマボコ類では荷物の量も一番多かったように記憶しています。目立つパッケージでもありました。


次いで記憶にあるのが水野水産ですが、こちらは現在もどんたく宇出津店で商品を見かけています。店に売っているおでん種では一番、高級感もあり値段も高いという感じの商品です。


Googleマップで調べたところ「やまじゅう」という民宿になっていますが、私の記憶ではこのように大きな民家の一階が広い店になっていたというイメージです。海鮮をメインに強調している店ということは、外から見てもわかりましたが、中にはいるとほとんどが座敷で、居酒屋という感じでした。


その店に入ったのは一回だけでした。平成9年1月18日、福井刑務所の満期出所に迎えに来た被告訴人OSNが運転するワゴン車でその店に入ったのです。私の母親の都合で羽咋市内まで送ってもらうところでした。


気になったのはその前の彼らの行動でした。店は唯一の主要道とも言える国道159号線沿いにあったはずなのですが、初めに海の方に向かって入っていったのです。漁村の中の大通りから外れた道という感じでしたが、珠洲市の蛸島とよく似た風景でした。


何かを探している様子だったのですが、被告訴人OSNと被告訴人OKNと被告訴人KYNの3人の間で、あれこれ言葉を交わし、国道の方に戻って入ったのが、その店でした。食事のための店を探しているという話も、事前には出ていなかったと思います。


福井から高速道路である北陸道に乗っていたと記憶していますが、どこのインターで降りたのかは思い出せなくなっています。羽咋市に最短で向かうのであれば金沢東インターで降りていたと思います。


金沢東インターを降りてすぐのところにトラックステーションがあってなかにレストランもあったと思いますが、一般の人は余り入らないような店だったとも思います。そのまま津幡方面に国道8号線を走れば、店の数もありますが、遠回りにもなるので普通は選択しない道です。


農面道路を走って宇ノ気で国道159号線に出たと思います。少し走ると道路が大きく右にカーブしていて、そこを直進すると能登有料道路の白尾インターでした。カーブして直進すると、しばらくの間は片側2車線の広い道が続いていました。


そして対面通行の絞り込みが始まるあたりに、その海鮮の店がありました。しかし、その片側2車線の区間は平成9年1月の時点ではまだ出来ていなかったことも考えられます。


どこをどう通ったのかも憶えていないですが、漁村のような狭くて古い町並みの道路に出てから、海鮮の店のすぐ近くの国道に出たことは印象的に憶えています。とりあえず海鮮の店としましたが、大漁旗の飾りが店の前にあるようなずいぶんと目立つ店でした。


そういう店というのは他にも見た憶えがなかったのでずいぶん珍しく思いました。4年10ヶ月ぶりにいわゆる娑婆に出た直後でもありましたが、それだけ印象に強く残っています。店の中も客が多く、昼間だというのに随分と賑わっているのも印象的でした。


もう少し金沢寄りの宇ノ気は、クチ能登、とも聞いていました。これは福井刑務所にいるとき被告訴人YSNの知り合いでもあるY班長に聞いて初めて知ったことなのですが、能登の入り口という意味だと聞きました。


羽咋市内ですら能登という感覚が乏しかったのですが、高松を含む河北郡内灘町が能登と考えたことはなく、管沢の郊外のように考えていたので、それだけ意外だったのですが、歴史的には宇ノ気が能登路の玄関になるようです。


いずれにせよ高松あたりからの国道159号線はうらぶれ感も強かったので、あの派手な海鮮の店は意外でした。なお、能登の観光自体が昭和40年代辺りをピークに、ずいぶんと廃れています。廃墟になった店も国道沿いに散見されていました。


海鮮の店では何かのフライを食べたような憶えもありますが、食欲もなかったし、余り食べなかったと思います。支払いの代金は被告訴人OSNが払っていたような気もします。一応の出所祝いなのかと、感謝すべきとは思いました。


天候もどんよりしていたと思いますが、雨も降っていなかったように思います。ただ、福井刑務所の前で彼ら3人と会ったときから、理解のできない重苦しい空気を感じていたので、食欲も出なかったのかもしれません。


尋常でない重苦しさがありましたし、そもそも事前に被告訴人OSNらが迎えに来るとも知らされてはいませんでした。今思えば、木梨松嗣弁護士の接見にも似ていたと思います。連絡なしのいきなりです。


そもそも出所前には刑務所の職員から鉄道の切符を受け取っていました。国の制度的な補助で切符が出るような話は少し耳にしていたこともあったので、驚きはしませんでしたが、切符の行き先には、疑問を感じました。和倉温泉駅になっていたからです。


和倉温泉駅は七尾駅の次だったと思いますが、急行も止まる主要な駅だったと思います。しかし、七尾駅のように乗り換えの路線はなかったと思います。当時はまだ、宇出津駅まで鉄道がつながっていました。平成17年辺りに穴水駅より先が全て廃線になりました。


普通免許を取って車に乗るようになってから鉄道に乗ることはほとんどなかったと思います。水産高校小木分校に通学していた頃は、まだ国鉄だったと思います。列車も5両編成が普通だったと思います。


5両編成の昭和50年代でも、宇出津から金沢への直通というのはなかったか、あるいは少なかったと思います。穴水や七尾で乗り換えていたと記憶しています。


鈍行と急行がありました。鈍行は各駅停車で金沢まですべて鈍行で行った場合、昭和56年当時で1500円ではなかったかとも記憶しています。


私の方から申請をしたつもりも全くなかったのですが、出所する数日前に職員が来て、切符を渡す手続きをしました。そのまま居房内での所持は出来ないので、渡されたのは出所の時だったと思いますが、同時に必要ないだろうと言われ、没収のようなかたちになったとも思います。


満期出所の場合は出所する一週間前に工場を出て、釈前に入ったと思います。仮釈放の場合は2週間前で、2人から4人ぐらいのグループで、特別な区域に入り、そこで教育を受けながら、比較的自由な生活を送っていたようです。


これは金沢刑務所も同じでした。まだ書いていないと思いますが、金沢刑務所では金沢市場輸送の運転手仲間であった一人と再会し、私より先に仮釈放で出て行きました。一緒に釈前を受けていたのは、金沢中警察署で一緒だった元暴力団員でもありました。


金沢刑務所では新入時の新入教育の時も私は雑居房での集団生活を送らず、独居房で生活していましたが、工場に降りてからも独居房で生活していました。夜間独居とも呼ばれる生活です。これは希望者も多いと聞く生活でしたが、受刑者本人の希望で許可がおりるものでもなかったはずです。


福井刑務所の場合、舎房は大きく南寮と北寮の二つに分かれていました。通路でつながった別棟でしたが、どちらも4階建てで、南寮の方は雑居房ばかり、北寮の方は独居房ばかりになっていました。


金沢刑務所の方は建物が5つぐらいの棟に分かれていました。1階建てから4階建てまで、拘置所のある拘置舎の方から、高さが順番に違っていました。拘置所で生活していた頃は、東南アジアかネパールの遺跡の建造物のようにも見えていたのですが、受刑するようになってよく理解できました。


拘置舎に近い1階建ての建物は病舎だったと思います。この間にはけっこう広いスペースがあり、拘置舎側の手前の方は拘置所の運動場もありました。運動場といっても鉄線のような柵で囲んだ砂場のようなスペースでした。そういえば昔よくあった鉄線のような柵はまるで見なくなりました。


手前の方には扇形の個室の運動場がありました。問題ありと判断された未決囚は、集団ではいる運動場ではなく、個室の方で運動をするようになっていました。私も保護房に入れられてからは、ずっと個室に入る扱いを受けていました。


金沢刑務所の拘置舎は3階建ての建物でしたが、一階の手前の方に女子の収容スペースがあり、なかほどに職員室と隣に狭い取調室があって、その隣にあるのは集団ではいる浴場でした。その奥に雑居房が3つ並んでいたと思いますが、あるいは2つです。


二階には手前の階段の横から雑役の作業室のような狭い部屋があって、それから一人用の浴場が二つ並んでいたと思います。その隣には理髪の部屋がありました。その隣からだったと思いますが、独居房が26室並んでいました。一番奥にも右側に降りる階段がありました。


三階も二階とほぼ同じ作りだったと思います。理髪室がもう一つあったとは考えにくいですが、浴室の数も独居房の数も同じだったはずです。3階にはたまに入浴で行くことがありました。ほとんどは2階の浴場に入っていたのですが、同時進行で早く終わらせる場合に、割り振られることがあったようです。


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