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2015年6月29日 (月)

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年01月19日

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年01月19日
付き合いが悪くなった原因には子供や家族との時間を優先させたということもありますが、漁師との付き合いは酒のはいることも多く、少年時代先輩に無理に酒を飲まされてひどい目にあったという経験もあったので、酒の席は避けるという傾向もあったかと思います。飲めはしましたが好きではなかったです。


自分で缶ビールなどを買って飲むようになったのは昭和62年か63年頃からだと思います。限られた仮眠時間の調整として早く寝入るため、いわば睡眠薬の代わりような感じで読むようになりましたが、市場の仕事の付き合いとして飲む機会も増えました。おごってもらうことが多かったです。


漁師時代のHSが最後に私のアパートに遊びに来ていたのは昭和60年の終わりか61年の初め頃かと思います。小木の一つ年下のHKといつも一緒にいるという感じでした。小木のHKは他のグループとともに大阪の方に行ったとも聞いています。比較的最近聞いた話です。


大阪に行ったグループも仕事は鳶職と聞いたような気もするのですが、はっきりとは思い出せません。昭和60年頃、金沢市場輸送で4トン車に乗務していて岐阜県内の山奥でトラックを崖下に転落させ、そのままとんずらしたというOTも一時期、大阪にいたと話に聞いたことがありました。


OTは私の二つ年下でした。被告訴人OSNが金沢市の高畠のアパートに住んでいた頃も、ちょくちょく顔を出していた様子で、岐阜から逃げたという話も直接、顔を合わせて話を聞いたような気がします。当時、金沢市場輸送の社長だった被告訴人TSKは、探し出す懸賞金を掛けるという鼻息でした。


OTは私が昭和59年の10月に金沢市場輸送をやめただいぶんあとに、金沢市場輸送に入社したと聞いていたように思いますが、姫のNKさんは、入れ替わりにも近いような感じで金沢市場輸送に入社し、けっこう長い間、金沢市場輸送にいたように聞いていたようにも憶えています。


姫のNKさんは4トン車の長距離でしたがその後市内配達で2トン車に乗るようになり、10トン車に乗ることはなかったようです。野々市の運送会社でも4トンの長距離に乗っていると聞いていた時期がありました。


その後、さきほど書いたように昭和63年の8月の終わりか9月の初め頃から金沢市場輸送で市内配達の仕事を古い2トン車の持ち込み運転手としてするようになったのですが、会社ではとにかく不思議なぐらい寡黙でした。声を聞くことすらなく、横を見る姿もなかったような気がするぐらいです。


二口町の金沢市場輸送の運転手の休憩室で姿を見る機会は多かったです。テーブルに座って長い時間もくもくと伝票の整理をしていました。そういう姿が印象的でしたが、昔、一緒に遊んでいた当時の面影はまったくなかったです。それだけまじめに仕事に打ち込んでいるようにも見えましたが。


姫のNKさんについて気になることは他にもあります。平成15年頃のことと思いますが、なんどか被告訴人UHKの自宅に電話を掛け、話を聞くことがありました。そんなとき、かなりわざとらしい感じで、NKさんの名字を出し、宇出津の人間として会社にいたと思わせぶりな話を始めたことでした。


気になって調べたところ、宇出津の小棚木という私と同じ町内に、同じ苗字の家があったので、そこの家に電話をして家族や親戚に市場急配センターで仕事をしていた人がいないかと訪ねたぐらいです。だいたいの家の場所は今でも憶えているので、あるいは直接家まで出向いたかもしれないです。


その同じ町内の人は全く関係がないと話していました。宇出津には他に聞いたことのない苗字でしたが、姫ではよくある苗字だったと思います。小木、姫、宇出津ともにその一部の地域だけに多い名前というのがいくつかありました。たとえば姫では桜井という苗字も多かったです。


全国的には桜井という苗字は珍しくないと思いますが、小木や宇出津では聞かない苗字で、そういうのが他にもありました。また、小木の蟹や行泊など、他の地域では全国的にも滅多にないような名前もありました。


いっぽうで干場など能登ではあちこちで見られるような名前もありましたが、特定の名前だとある地域の可能性が高いという名前がけっこうあったと思います。宇出津でも40近い町内に分かれているはずですが、正式な住所にはない地元の人しかしらないような町内名です。


宇出津も大きく分けると、棚木、新村、新町、町になるかと思います。自分が子供の頃は4月の春祭りにはこの4つの地域ごとに曳き山を出していました。現在は棚木と町だけです。棚木は白山神社、町は酒垂神社という一面もありますが、あばれ祭りの神輿は、それぞれの神社から2基になっています。


私自身、インターネット上の情報などで比較的最近になって知ったことですが、もともと宇出津の町というのは町という魚市場のある辺りが中心だったとのことです。自分が子供の頃は、マチという話し言葉だけで耳にしていました。漁師が多いと言うこともありますが、輪島の海士町にも似たところが。


昔ほど、その傾向が強かったらしく、子供の頃はよく母親からマチの子供とは遊ぶなときつく言われていました。やぐさい、という方言かと思いますが、粗暴とか野蛮という意味合いが強かったと思います。現在では全く耳もしなくなった昔話のようでもありますが、そういう時代でもありました。


とにかく宇出津の町全体が、昭和の時代とは激変しており比較すら難しいぐらいです。まずは人の数が少なくなりましたし、過疎化も進み、子供の姿を見ることも少なくなっています。正月やお盆ですら、さほど普段と変わりがあるようには思えず、スーパーに行くと人の数は多いぐらいです。


私が子供の頃、マチでは○○という苗字が多かったです。漢字で書くと二文字とも画数が少なくわかりやすい名前なのですが、宇出津以外では聞いたことがありませんでした。ところが姫に同じ漢字の名字で、別の読み方の苗字の人がいると聞きました。違うのは漢字の一文字目の読み方です。


その人物のことを姫のOさんということにしておきたいと思います。姫の出身だと聞いていましたが、そもそも能都の出身者という面影は感じられず、まるで都会の人になり切っていたという感じでもありました。東京を含め関東に親戚がいない自分には珍しいタイプの人でもありました。


それは昭和57年の春頃のことではなかったかと思います。被告訴人OKNの家は宇出津で自動車修理工場とプロパンバスの販売をやっていました。家の大通りに面した部分ではガス器具の販売もやっていたと思います。縦に長い家の5分の1ぐらいの部分だったでしょうか。


町内は大橋組でしたが、宇出津の町の中心部の通りに面し、川沿いに長い家でした。現在は跡形もなくなくなっています。梶川という小さい川ですが、町では唯一の川らしい川であり、現在もそうですが、あばれ祭りで神輿を川に落とす見所の場所でもありました。


最近になってインターネット上の情報で確認できたことなのですが、私は昭和50年の3月まで宇出津に隣接した辺田の浜というところに住んでいました。住所は藤波になっていました。藤波は辺田の浜、柳倉、間島に分かれ、宇出津に一番近いのが辺田の浜でした。現在は宇出津新港にも隣接しています。


私は昭和39年11月26日生まれですが、宇出津の小棚木にある中沢病院という小さい産婦人科の医院で生まれました。生まれて1歳ぐらいの時、父親がタイヤ屋の店舗を兼ねた住宅を辺田の浜に建て、そちらに移り住んだと聞いています。


父親は私が3歳ぐらいの時に、酒を飲んで帰ってきた玄関先で死んでしまったと聞いています。私自身の一番古い記憶は、玄関先で死んでいる父親を起こそうとしていたことです。そのうち母親の泣き叫ぶ声を聞いたようにも憶えていますが、記憶は全体としてぼんやりしています。


父親は働き者だったらしく死んだときには借金を完済し、何百万円かのお金を残していたと聞きます。200万か300万だったような気がするのですが、はっきりとは憶えていません。母親の手元に残ったのは100万円と聞いたように思います。小さい頃、繰り返し耳に入ってきた話でした。


廣野というのは宇出津にある名前ではなく、父親が養子に行った東京の家の名前だと聞いていました。父親は太平洋戦争にも従軍し、沖縄県の宮古島で終戦を迎えたものの、2年ぐらいの間は終戦を知らずに島で生活をしていたとも聞いていました。


その後のことはほとんど知らないのですが、辺田の浜に移る前は宇出津の中心部で小さなタイヤ屋をやっていたと聞きます。それらしい写真も家にはあります。現在も続いている茂平食堂のとなりだったとも聞きます。新町という宇出津の中心部の通りですが、町内は大橋組だったはずです。


被告訴人OKNと最初の付き合いがあったのは幼稚園児の頃ではなかったかとも思います。幼稚園の卒業写真にも彼の姿があります。前後のことは記憶にないのですが、一度辺田の浜の私の家に彼が遊びに来たことがありました。


私の家には当時のテレビ人気アニメ、タイガーマスクのキャラクターの人形数体とリングがありました。私自身、誰にいつどこで買ってもらったのか記憶にないのですが、その場面と、その後OKNにずいぶん強い感じで嫌みを言われていたことを憶えています。


小学生の低学年の頃もお祭りなどで、もらえる小遣いや買ってもらうオモチャの代金は千5百円以内という決まりがあり、金額を超える野球盤のゲームを買ってもらったところを、同級生に目撃され、先生に告げ口をするといわれて、しばらくの間不安な気持ちでいたことも憶えています。


昭和40年代のことですが、いろいろと現在とは違うきまりや価値観もあったかと思いますが、小さい頃のOKNは人一倍正義感というか、こだわりの強い一面もあったかと思います。中学生の頃も不良になった兄のことを毛嫌いし、ずいぶんと悪口を聞かされた憶えがあります。よほど不満も強かったみたい。


中学生の頃は勉強も熱心に頑張っているという感じでした。彼の家の大通り(国道249号線)を挟んだ向かい側には、宇出津で一番大きい書店がありました。漫画の本を立ち読みしたり、勉強の参考書を買うこともありました。


千間書店という店でしたが、数年前に梶川の橋の大きな工事があり、周辺の建物は取り壊しの立ち退きになって、書店の方も別の場所に移っていますが、新しくなってからは一度も店に入ったこともなくなっています。


夕方に千間書店で顔を合わせ、話をしたり、そのまま彼の家に遊びに行くこともあったと思います。泊まり込みで彼の家に勉強に行ったこともありました。成績が優秀という話は聞いたことがなかったですが、悪いとも聞いておらず、兄とは違い問題児でもなかったと思います。


兄の被告訴人OSNの方は小学生の頃よりけっこう問題を起こしていたようです。中学生の頃も素行が悪かったと思いますが、入学した水産高校の本校をやめてからは、さらに不良化が進んで髪型も服装も派手になっていました。家はたまり場で、家の建物が大きかったこともあり、人の出入りも多かったです。


宇出津の中心部の川沿いにたまり場の家があったので、それでなくても目立つ存在でした。私自身が付き合いをするようになったのは、昭和56年の6月頃のことでした。ちょうど小木分校を中退した頃でした。自分のヘルメットが欲しいと言うことで、私の一つ年下の二人ぐらいが予備に来たのです。


同じ町に住んでいたので顔なじみではありましたが、それまで付き合いというものはなかったです。弟のOKNの方に中学生の頃、愚痴を聞かされていた程度でしたが、家には私より二つ年下の妹の友人関係も含め、ひっきりなしに多数の少年少女が出入りをしていました。


OSNと初めに遊んだ日は早朝だったと記憶しています。私を呼びに来た一つ年下の2人を含め4人で、宇出津の町の外れにあるオオデラにクワガタムシをとりに行ったことを憶えています。オオデラは最近になって看板を見たことで大平と感じらしいと知ったのですが、ずっと大寺と思っていました。


OSNが水産高校にいた期間は短くてすぐにやめたと聞いていましたが、細かいことは憶えていません。長くて3ヶ月程度という話であったような気もします。彼が1年生の時の3年生だったのが被告訴人YSNでした。


当時は電車通学がほとんどでした。電車ではなく汽車と呼ぶのが普通でしたが、ずっとあとになって汽車というのは蒸気機関車のことだと誰かに言われたことがあったので、電車と呼ぶ人は誰もいなかったと思いますが、とりあえず電車としておきます。


昭和50年代はまだ国鉄だったと思います。電車は5両編成ぐらいが普通だったと思います。鉄道が廃線になったのも平成17年頃ではなかったかと思いますが、その頃は1両の電車以外はなかったような記憶です。能登でも穴水までは電車が残っています。


被告訴人OSNの家は国鉄の宇出津駅にも近く、電車の待ち時間で集まる学生も多かったと考えられます。私も、小木や姫の同級生の家でよく電車の待ち時間をつぶしていました。水産高校は珠洲方面から通う学生もけっこういたと思います。


水産高校には寮もありました。大棚木の赤灯台の近くでした。輪島市内や羽咋郡富来町辺りから来る生徒が寮に入っていて、少しですが金沢市内から来る生徒もいました。


珠洲市大谷のYSさんも寮に入っていたと思います。私は中学校1年生の頃から彼のことを知っていました。能都中学校で相撲部に入っていたからですが練習のほとんどは、水産高校の相撲部に通って行われていたからです。YSさんは私が中一の時の高校1年生でした。学年で言えば3つ年上です。


珠洲市でも大谷は輪島市内との境に近い町でした。観光地としては珠洲市の真浦海岸に近く、その真浦海岸の隣が観光地として知られている輪島市内の曽々木海岸でした。


YSさんについても、本書において昨年中にいくらか書いていることがあると思います。姫のNKさんと宇出津のK村さんの二人が一緒に金沢市場輸送で市内配達をするようになってどれぐらいでしょうか。現在では具体的に思い出すことが出来なくなっていますが、早ければ一月後、長くて半年後ぐらいか。

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