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2015年6月29日 (月)

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年01月18日

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年01月18日
被告訴人YSNから連絡があったんは平成3年の4月の終わり頃であったと思います。現在の記憶ではなんとなくですが、ちょうど4月の終わり頃に金沢市場輸送への入社が決まったように思います。一方で、彼が仕事をするようになったのは5月の連休の後であったような気もします。


私が金沢市場輸送の長距離の仕事で最後の運行になったのは神戸市内の港の方で、たしかミールをおろし、帰り荷がなくって空車で戻った運行でした。輪島のYと一緒でした。彼は大型保冷車の払い下げを受け傭車の持ち込み運転手として、金沢市場輸送の仕事をしていたはずです。


保冷車にミールを積むということは余りないことでしたが、たまにはあることであったと思います。今考えると、2台とも空車で戻ったというのは、どうかという気がします。


神戸市内の四国行きのフェリー乗り場から会社に帰り荷のことで電話をしていました。側で、電話で別れ話の喧嘩をしているような若い女性がいました。ドラマのような迫力で印象的だったので、これまでの記録なかでも何度か書いていると思います。魚崎だったかもしれません。


細かいことは思い出せないのですが午前中には荷下ろしが終わり、帰り荷のことで何度か会社に電話を掛けながら神戸で待機をしていたはずです。ずいぶんのんびりしていたと思うのですが、夜中には福井県の敦賀にいました。国道8号線沿いのガソリンスタンドで給油した憶えもあります。


道路上に金属の固まりのような物体が落ちていて走行中に危険な思いをしたということもありました。敦賀ではガソリンスタンドの近くで食事をした憶えもあるのですが、会社に着いたのは翌日の朝だったと思います。家には寄らず、神戸から直接会社に着いたように思いますが、現在記憶はないです。


その場で金沢市場輸送の社長であり配車係の被告訴人MTKの挑発的な言動があって、私は会社を辞めるといい、その場で家に帰ったように憶えています。すぐに九州の方に走るように言われたのが原因でしたが、繰り返しで積もった不満や、会社内におけるトラブルで愛想が尽きたのです。


書いているうちに思い出したのですが、これは被告訴人YSNが金沢市場輸送に入社して市場急配センターで市内配達をするようになった後のことだったと思います。


金沢市場輸送の会社内におけるトラブルというのは、被告訴人東渡好信が率先して行ったストライキで、古参の社員運転手が同調していました。私も形の上ではストライキに参加する者と同じように会社を休んでいたと思いますが、辞めるということも決心を固めつつ口にしていたように思います。


Tという当時45歳ぐらいの金沢市場輸送の社員運転手がいて、当時二十歳ぐらいかあるいは未成年の女の子と同棲していたのですが、彼のアパートにも一度だけ遊びに行ったことがあり、ストライキを実行中の東渡ら4,5人ぐらいがその場に集まっていたことを憶えています。


Tは見た目も性格も年齢よりはかなり若い感じでしたが、仕事の働きぶりは芳しくないような話も聞いていました。比較的中央市場にも近い場所のアパートで、中央市場と同じ西念か、その外れに隣接した南新保のアパートでした。


どちらを先に行ったのかはっきり思い出せないですが、被告訴人HTNのアパートもそのすぎ近くにあり、そちらの住所は南新保でした。彼の供述調書の住所も南新保になっていたはずです。初めにHTNのアパートに行ったのは昼でした。夕方に近い、仕事が終わった後の時間だったと思います。


HTNに誘われて行ったように思いますが被告訴人YSNが一緒だったと思います。さらに後になって姫出身のNKさんが来ました。NKさんはその年の3月頃まで、市場急配センターで持ち込みの運転手をしていたと聞いていましたが、不義理のようなかたちで独立というか、別の業者の専属になったと。


NKさんについては昨年中に本書においてもいくつか触れていると思います。被告訴人MHKが新しくなった二口町の金沢市場輸送の事務所に姿をみせるようになった直後、古い2トントラックを持ち込みで、市内配達の仕事をするようになっていました。


昭和63年のことと思います。自分の記憶ではその年の7月の初め頃に、金沢市場輸送の事務所が西念町から二口町に移転しました。MHKの姿を初めて見たのは、その年の8月の終わりか9月の初めだったように憶えています。NKさんの姿を見るようになったのもほぼ同時期でした。


姫のNKさんに初めて会ったのは昭和56年の12月頃のことで、宇出津の白山神社の近くに住んでいた私の二つ年下の友達の家でした。小木の漁師で漁が終わったところだと聞いていました。


厳密に言うと、当時は珠洲郡内浦町小木にあるのが小木港で、能都町姫にある漁港も同じく北洋の遠洋漁船の港でした。姫の船に乗船していても、余り区別せず、小木の船に乗っているとか小木の漁師だと呼ばれていました。


厳密にいえば小木にも姫にも地場で漁をする小さな漁船はいるのですが、小木の漁師だという場合は決まって北洋の遠洋漁船のことでした。厳密に言えば、イカ漁とか中部船と呼ばれるサケマス漁の違いもありましたが、小木といえば遠洋の港でした。


基本的に小木の遠洋漁船は12月に帰港し、5月や6月に出漁すると聞いていました。昭和56年頃の時点では二百海里問題の起こる前でもあり、休漁中は、遊び回っている人が、少なくとも自分の周りの若い漁師には多いと聞いていました。


私などもそのような休漁中の漁師と一緒によく遊び回っていたのですが、漁師の共通点はほぼ例外なく酒好きで、飲み歩くことの多い人もいました。十代で酒の飲み過ぎで肝臓を壊したりする人も何人かいたようです。


NKさんは私より4つぐらい年上と聞いていたように思いますが、はっきりした年はわからなかったです。実際の年齢よりかなり年長者にも見えていました。直接連絡を取り合ったりする仲ではなかったですが、共通の友人が多く、遊びに行った先で一緒になったり、一緒に行動することも多かったです。


私は昭和55、56年と一年ちょっと石川県立小木分校に通学していたこともあり、小木とも姫ともなじみはありました。電車通学の真脇駅と小木駅の中間ぐらいに学校があったので、どちらの駅も利用していました。駅のあるのは小木の町ではなく市ノ瀬という九十九湾の遊覧船乗り場の近くでした。


内浦町の中心は小木ではなく松波というところでした。宇出津からだと十八束という山沿いの国道で行くことが多く、小木を経由の場合は海沿いの遠回りになります。現在でも珠洲行きのバスは、二通りのコースがあります。


平成17年だったと思いますが、珠洲郡内浦町と鳳至郡だった能都町と柳田村は市町村合併で、鳳珠郡能登町になりました。現在でも能都中学校、小木中学校、松波中学校に分かれているのではと思います。能都町には他に鵜川中学校がありました。


被告訴人YSNはこの能都町鵜川の者でした。いずれも中学校も親戚でもない限り、交友や付き合いというのはほとんどなかったと思います。交友の場が一気に広がったのは、高校に入ったり、中学校を卒業した後のことでした。


当時、宇出津から行く人の多い高校は、宇出津高校、石川県立水産高校本校、同じく小木分校、珠洲市内にある珠洲実業高校、飯田高校、柳田村の柳田農業高校でした。


例外的に輪島市の町野高校に行く人もいました。町野高校は柳田村から行く人も多く、輪島市内から来る人も多いと聞いていました。私の周りでは一つ年上のTYという人が町野高校に行っていました。彼とは中学生の頃も別の友達を介した付き合いがあり、その後も多少付き合いがありました。


町野高校に行っていたTYは、輪島市内の暴走族ともつながりがあるとも聞いていました。金沢市内で活躍していた輪島の暴走族のリーダーKTとも同級生かと思います。


現在ではそのような話を耳にすることも全くなくなったのですが、当時の輪島といえば、海士町(あままち)という特別な地域があって、それ以外の輪島の人と区別されていました。海女漁の町でもあり、江戸時代からの特別な伝統もある地域なのですが、当時は暴力団に近いようなイメージが強かったです。


漁師町で気が荒いと言うこともあったと思いますが、近親婚を繰り返した血脈や団結心が異常に強く排他性があって攻撃性が強いと聞いていました。うわさ話が先行したような部分も大きかったと思いますが、お祭りのヤクザの屋台でもぶちこわすという話でした。


昔の小木も似たようなところがありました。こちらは事情が違って、父親が遠洋漁業で不在であることが多く、暴力性に影響を与えていたという話もありました。父兄が真摯な取り組みをした結果、ずいぶん改善されたとも聞いていますが、良くなったのは私の3つ年上のあたりとも聞きました。


小学校の高学年で町中でタバコを吸っている児童がいましたし、小学校のトイレで先生の横でくわえタバコをしていた生徒が注意を受けて、先生に暴力を働いたという問題もありました。自分が小学校の低学年の頃だったと思います。自分は親戚もいなかったので小木に行く機会は滅多になかったです。


とにかく小さい頃から小木というのは暴力的で怖い町というイメージがありました。宇出津でも似たようなことはあったのですが、当時は今とは比較にならないほど、暴力性があったり、いろいろと人間関係の厳しさも強かったような気がします。上下関係もきつさや難しさがありました。


別の見方をすると漁業の町として勢いと活気があった時代でもあったと思います。姫も小木とは似たようなところがありましたが、姫の生徒は真脇小学校から宇出津の能都中学校に来ていたので、中学校になった頃から交遊がありました。姫の同級生の家は立派で部屋も豪華なものが多かったです。


姫は住宅の新築率が石川県で1位という時代もあったと聞きます。宇出津でも小木の船に乗る人が多く、地場の漁も盛んだったので、崎山台地が開けてからは、新築の住宅が多くなりました。自分が小さい頃は一面の畑ばかりで、民家というのはほとんどなかったという記憶もあります。まもなく造成でした。


小木の漁師になる友達も多く、漁の話もいろいろ聞いていたのですが、耳で聞くだけでよくわからないところもありました。はっきりしていることは生死の危険をともにする仲でもあり、結束の強い独自の人間関係もあったということです。丘の人間とは違うと言うことを口にする人もけっこういました。


なかには逆に仲が悪くて海に落として殺したのではないかという話を聞くこともありました。基本的に作業中に海に落ちると、落ちるところを見ていても停止、旋回して落ちた場所に戻ることが難しく、潮の流れも速いので救出できる可能性はとても少ないと聞いていました。


いじめというのか、暴力を伴った厳しいしごきも新人のうちは当たり前だと聞いていましたし、血を吐くほどの船酔いや、時化では生きているのが不思議なぐらいのもの凄い状況になると聞いていました。小さい船だとなおさらひどいという話でした。


そういう言葉としての話だけではなく、実際に漁を経験して戻ってきた友達は、数ヶ月ほどの間に、手のひらがまるでグローブのように分厚く大きくなっているのを目で見ることもありました。機械も発達していなかったのか、相当な重労働でもあったようです。


小木の漁師の間では船頭という言葉を聞くことも多かったです。出漁前にまとまった額の前借りをしたという話や、身内の話としていろいろ言っていましたが、部外者にはわからない話でした。船頭の他に漁労長やボースンとかいう役職のような言葉もあったので、船頭というのは船主のことかもしれません。


船主というか船を所有する水産会社は小木にいくつかあったようですが、なかには金沢市の駅前のホテルや、パチンコ店をやっている小木の水産会社もあると聞いていました。駅前のホテルは、都ホテルのことかと思います。


パチンコ店は石川郡野々市町のシーパレスという大きなパチンコ屋でした。野々市町は現在は野々市市になっているじゃないかと思います。金沢市に隣接していて金沢工業大学があったり、学生の街という雰囲気もありました。


いつころか憶えていないですが、そのシーパレスというパチンコ屋にヤクザのダンプが突っ込んだという事件というかニュースもありました。パチンコ屋の業界に所属せず、出玉も多くして繁盛していたため、被害にあったという話でした。パチンコ屋のほとんどが在日の韓国人か朝鮮人という時代かと。


もともと石川県というのは暴力団というかヤクザの多い地域だったと聞いています。特に加賀の温泉は山口組の有力な資金源とも聞いていました。昭和の時代勢力を2分していたのも、小松市に本拠を置くという紺谷組と能登の七尾市に本拠を置く福島組でした。七尾市には和倉温泉があります。


暴対法が実施される前、ヤクザというのは身近な存在で、服装も一見してわかるようなものであることがほとんどでした。数年前から新聞でもテレビでも石川県内の名前を聞くことは皆無に近いと思います。地下に潜っているのかも、情報がないのでさっぱりわかりません。トラブルという話もきかない。


暴対法の実施が何時頃であったのか、自分の現在の記憶でははっきり思い出せないですが、平成に入って頃にはヤクザ風の人の姿を見かけることは少なくなっていたような気がします。福島組はその後、昭成会と呼ばれるようになっていましたが、平成11年頃にも名称は聞いていたような気もします。


また、昭和50年代後半、特に小木の漁師など宇出津近辺の人は暴力団やヤクザを嫌う傾向がすこぶる強かったと思います。被告訴人HTNが暴力団員になったのは昭和55年か56年かと思いますが、暴力団員である間は真脇の実家に一度も帰らなかったという話も、人から聞いていたように憶えています。


被告訴人HTNは金沢でやっていた暴力団員をやめてから小木の漁師をするようになったはずです。昭和56年の秋の時点では金沢で暴力団員をやっていました。その後、覚醒剤で捕まり小立野の少年鑑別所に入ったと、うわさで聞いていました。組の方は捕まったことで破門になったと聞いていました。


昭和60年の5月か6月には、姫の漁港に出漁の見送りに行ったことを憶えています。4,5人ぐらいであったかまとまった数の友人が同じ船に乗っての出漁でした。300トンという小木や姫では最大級の漁船と聞いていたようにも憶えています。HTNもそのうちの一人だったような気もするのですが。


その姫の漁港の出漁の後、私は昭和61年の3月に結婚したという事情もあるのですが、以前の漁師の友達とも疎遠になっていきました。彼らのほとんどもその1,2年の間に漁師をやめ、数人のグループは大阪の方に行ったとも聞きましたが、音信不通になりました。


被告訴人HTNがまだ漁師をしている頃、特に仲良くなっていたのが宇出津のHSでした。彼は私の同級生であり付き合いは小学校の頃からありました。小学校は4組、中学校は5組だったと思いますが、同じクラスの時の付き合いが多いという傾向もあったと思います。


特に親しくなったのは高校1年の頃でした。彼は水産高校の本校でした。校舎は現在の能登高校としても残っていますが、グランドの奥の波返しにあった海の大半は、昭和の終わりか平成の初めに大規模な埋め立て工事があり、現在の宇出津新港になっています。


HSとは仲が良かったというか、とにかく一緒にいる時間、一緒に遊ぶ時間が長かったです。仲がよいとか意識することはなく、お互いにけなし合いをするような間柄が、少年時代ほど多かったと思います。友人関係は他にも多かったので、仲がどうとか特に意識することもなく付き合っていました。


次第に距離を置くようになったのは私の方からだったとも思います。長距離運転手という仕事柄も、普通の生活とはリズムが異なり不規則なので、会う機会も少なくなりましたが、子供が出来てからは付き合いが悪くなっていきました。HSにも不満を与え気分を悪くさせたと思うこともありました。


先ほど0時を15分ほど過ぎた辺りで一度気がついていたのですが、すぐに忘れてしまい、項目の日付を変えることをし忘れていました。

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