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2015年6月30日 (火)

平成3年春、被告訴人YSNの再会と妻となる彼女の不可解な行動について 2013年11月8日

平成3年春、被告訴人YSNの再会と妻となる彼女の不可解な行動について 2013年11月8日
昨日に書いたとおり、金劇の飲み屋で3人で酒を飲んで以来、被告訴人YSNから連絡というのはほとんどなく、数年の間一度も会っていなかったと記憶しています。なお、そのスナックのような飲み屋は金劇のビルの地下の方にあったように思います。


そのスナックには二人の女性が働いていました。店を任されているという感じではなかったかと思います。その頃には親しい付き合いはなくなっていたのですが、昭和56年の11月頃に知り合った女友達で、宇出津に住んでいた期間も長かったです。


二人とも年は私より一つ年下ではなかったかと思います。あるいは同級生で誕生日が早かったのか知り合った頃は16才だと聞いていました。金沢市内で一人は末町、もう一人は瓢箪町に実家があるという話でした。


昭和58年の初め頃だったかと思いますが、ある日の朝、二人の少女が住んでいた片町の近くのアパートに遊びに行ったことがありました。するとその時、昨夜ここで遊んでいた友達がアパートを出た後、南町あたりで大事故を起こしたと驚いた様子で話をしていました。


タクシーと衝突したとかで、死人こそ出なかったものの3人だかが意識不明の植物人間状態だと聞いたのは、その事故を起こしたというUH本人からであったかと思われます。昭和58年の秋から冬頃、彼女と二人でよく観音堂のアパートに遊びに来ていたUHでした。


UHの姿を被告訴人YSNの部屋で見たという記憶も余りないのですが、気さくに話をする間柄ではありました。UHが顔を出していたのは珠洲市鵜飼あたりが出身と聞くYHでした。YHはその後、中央市場の鮮魚関係の山水運輸で働くようになりました。


先に山水運輸でトラックに乗るようになったのは同じ珠洲市のSKという男で私とは同級生だったと思います。当時は金沢市神田のアパートに、小松市の女と同棲していました。同じアパートにもう一組の男女の友達がいて、それが被告訴人YSNが昭和61年の12月頃、ヤクザになって人が変わったと話していたKという男。


神田のアパートに遊びに行った頃、昭和58年の秋だったと思いますが、Kは遠洋漁船に乗って一儲けしてくると抱負を語り、彼女は涼んだ様子で部屋にうずくまっているように見えたのが印象的で、被告訴人YSNからそんな話を聞かされてもいました。


Kの彼女にはいつも一緒にいる女友達がいて、二人とも下の呼び名は憶えていますが書かないです。先の金劇のスナックの二人の元少女とも関係が似ていたので、よく憶えています。金劇の方は二人ともフルネームを記憶しています。


Kの彼女の相方は、珠洲市蛸島のSMという男と付き合っていました。被告訴人YSNとは同級生でもあり、ちょくちょく被告訴人YSNのところに遊びに来ていました。読売新聞の勧誘をやっているという話だったと思います。金沢で「暴狂悪女」とかいう暴走族に入っていたような話も聞きました。


昭和58年の春頃、被告訴人OSNが宇出津で一時期乗り回していたハコスカという改造車も、そのKが所有し改造した車だと聞いていましたし、顔見知りでもあったとは思います。珠洲方面の同世代との付き合いは以前は多かったとも聞いていましたし、珠洲市三崎のHMもその一人でした。


細かく書けば他にもいろいろつながりはあるのですが、他の人間の付き合いの程度や関係の有無というのは、ほとんど把握できないものです。親兄弟以上に密接な関係だったのが疎遠になったり、その逆も十分ありうるとは思います。


能登の宇出津というのは一つの中心で、当時は石川県立水産高校があったのも人間関係の上で影響があったと思います。珠洲市大谷出身のYSさんも水産高校でしたが、私は相撲部にいた関係で中学校1年生のころから知っていました。大谷というのは珠洲市でも輪島市に近いところです。


思えば昭和59年の春か夏頃も、YSさんを金沢市場輸送に紹介したことがあったような気がします。入社してもすぐにやめたと思いますが、短期間東力のアパートに滞在していたこともあったかと思います。


彼はその後、佐川急便関係の長距離トラックの仕事をしていた時期もありました。一度、野々市のマンションのような自宅に遊びに行ったこともあったのですが、当時金沢市保古町のアパートに住んでいた前出のAKさんが一緒だったような気もします。昭和60年か61年頃のことかと思います。


能登の人間関係には当時もう一つ大きなつながりがありました。それは小木港の遠洋漁船でした。小木は現在は宇出津と同じ能登町ですが、確か平成17年に、市町村合併する前は珠洲郡内浦町小木でした。小木は現在でも中型イカ釣り漁船がいますが規模は遙かに縮小しています。当時は鮭鱒漁もありました。


内浦町小木には宇出津同じく能都町の姫という地区が隣接していますが、こちらも小木港と同じような遠洋漁業をやっておりました。姫というのは半島のような地形になっているのですが、主要道路沿いだと小木の隣は真脇という感じかもしれません。


姫も真脇も高倉地区と呼ばれていました。小学校は真脇小学校でしたが、中学校は宇出津にある能都中学校でした。小木には小木中学校があるので、親戚でもない限り交流や付き合いが始まるのも、中学校卒業以降のことでした。当時は中学を出てすぐ遠洋漁船にのる少年も何人かいました。


どちらかといえば、高校を中退して遠洋漁船にのる少年の方が多かったと思います。当時は稼げる仕事でもあったのですが、昭和59年あたりに二百海里問題が起こると、状況は一転して悪化し、小木や姫の船がソ連や北朝鮮に拿捕されたとか、操業停止になったというニュースが多くなりました。


姫は住宅の新築率が石川県内一と聞いたこともありましたが、姫や真脇の同級生の家に遊びに行くと、宇出津の友達の家とはまるで違うぐらい裕福そうでした。漁業がふるわなくなると、家も建たなくなり大工が廃業、地域の経済そのものが著しく悪化して、宇出津でも自殺や夜逃げが増えていると聞きました。


福井刑務所で同じ班だったTKとYKは、確か口をそろえるような感じだったと思うのですが、金沢市場輸送の社長だった被告訴人TSKが能登など田舎の方で金貸しをして儲けている、あるいは儲けていたという話をしたこともありました。どこまで本当の話かわかりませんが、


TKは被告訴人YSNのことを知らないと、はっきり言いました。あらかじめ用意したように返事が早かったので、この時は逆にどうかとは思っていました。あいまいな感じの受け答えで探りを入れているように感じられることもあったからです。


私が被告訴人YSNと一緒に市場急配センターの市内配達の仕事をするようになったのは、平成3年の6月か5月の下旬のことです。私自身の記憶では5月なのですが、拘置所で入手した金沢市場輸送の運行表によると5月中から6月前半は金沢市場輸送の長距離運行があったので、6月になりそうです。


朝一番の仕事は、夜中に山水運輸が中継をやっているあたりの売り場で積み込みをやっていました。市場の敷地内には高瀬商店というパンやおにぎりを売っている小さな売店のような店があって、毎日のようにその店に行っていたのですが、その店から積み込み場所に歩いて戻る途中、


被告訴人YSNが突然、自分がバーテンで働いていた片町の店が、薬物売買の事件で警察の摘発を受けたとか言う話を始めたのです。唐突に切り出したという感じもありましたが、話の内容が要領を得ない感じで余り理解できなかったと記憶しています。聞き流した程度で、尋ねることもなかったと思います。


あるいは店の客が摘発を受けたとか、店が警察の捜査を受けたような話であったかもしれませんが、探りを入れて反応をうかがう気配も感じられなくはなかったです。ただ漠然と彼自身が薬物に手を出すことはないだろうと判断したようには思います。また、売人ということまでも考えなかったはずです。


被告訴人YSNがシンナーで発狂し精神病院に入ったいたことは前にも書いていると思います。本人の話によると一週間ほど昏睡状態で生死の境をさまよったということでした。これは昭和56年の12月か昭和57年の1月頃のことだと思います。


彼はその後にも、シンナーに手を出し、すぐにおかしくなったそうですが、自覚があって自分から病院に行ったような話でした。それにその2回目の時は、入院の期間も短かったようです。あれこれ事実を当てはめていくと、彼は二度目に精神病院に入ってから金沢市場輸送で市内配達の仕事をしていたことが考えられます。


消火器の仕事で出張中にシンナーに手を出したような話で場所は新潟市と聞いたような気もします。新潟の精神病院にいたという話は聞いていないので、だとすると自分で金沢に戻ってから病院に行ったことになりそうです。それとは別に、消火器販売で警察に連れて行かれたという話も聞き、


それも場所が新潟市だったような気がするので、私の方で記憶を混同している部分もあるのかもしれません。彼が消火器の仕事を始めたのは昭和58年の10月頃だったと思います。その年一杯ぐらいはちょこちょこ会ったりしていたのですが、そのうち連絡もなくなり付き合いもなくなっていました。


私が被告訴人YSNの観音堂のアパートを出たのは昭和58年の11月の10日頃だったと思います。彼は消火器の仕事に専念するようになり、出張と称して県外に出ることが多くなっていました。詐欺に近いような訪問販売でした。


先輩に消防署の方から来ましたというのは、消防署の方角から来ましたという意味なので、いざというときはそう言い張れば通用すると言われ、まったく受け入れている様子でした。理解に苦しむところがあり、感覚的にもついて行けないと思うようになり、疎遠になっていきました。


本人は違法という自覚も全くない様子で、むしろ防災のための社会貢献をしているという自負心さえ持っている様子で、充実した仕事としていきいきとやっていたようです。消火器は一本1万5千円で売りつけていたのではと思います。くわしいことは忘れましたが、一本売ると、


7千円以上の現金収入にはなるという話であったと思います。いいときは一日で10万円ほど儲けたという話もあったように思いますが、被告訴人YSNが始めた頃は、社会問題として認識されつつあり販売がやりにくくなって、余り売れなくなっているという話でした。


全国各地で消火器を売り、その場所のホテルに宿泊し、トルコ風呂に行って遊ぶというのがお決まりのパターンだったようです。ソープランドという名前になったのはもう少しあとだったように思います。会うたびに、そういう話をしていました。


彼はそのうち、金沢市増泉の通称「いっさか」というあたりに新しいワンルームのアパートを借りて住むようになっていました。増泉の一部と野町の一部にまたがるそのあたりは、昔、遊郭があったという伝統もあるらしいのですが、売春街のような界隈でした。


そのあたりはもう何年も行ったことがないので、現在はどうなっているのか知らないですが、当時は古くて小さな飲み屋が多く建ち並んでいる小路で、夕方明るい時間から店の前に、ど派手な女の人が立っているのが当たり前の光景でした。


詳しくはしりませんが、その「いっさか(たぶん石坂)」でも野町の方は、西の茶屋街とかで現在は観光地でテレビで紹介されたりもしているようです。金沢市場輸送の社長であった被告訴人TSKの家も野町のその辺りにあると聞いていました。謎の多い人物でしたが、ヤクザの組長をしていたという


話もあります。運転手の間で野町の家に行ったとか見たという話は一度も聞いたことがなかったですが、どのような暮らしぶりをしていたものか、今となれば気になるものです。


被告訴人TSKの夫人は、昭和59年頃は片町で飲み屋をしていると聞いていました。夜に飲み屋の仕事をして、昼は事務所で経理の仕事をしているという感じでした。かなりぎすぎすした感じで無愛想、机に座って机の上だけを見てもくもくとソロバンをはじいているという印象でした。


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