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2015年6月30日 (火)

平成3年春、被告訴人YSNの再会と妻となる彼女の不可解な行動について 2013年11月7日

平成3年春、被告訴人YSNの再会と妻となる彼女の不可解な行動について 2013年11月7日
ずいぶん間をおいた書面作成の再開になります。他にも早めに書いておきたいことがあるので、今回はおおまかな流れを説明することで、問題点を指摘しておきたいと思います。ざっとみたところ9月5日以来の記述ということになるのかもしれません。


被告訴人YSNから電話で連絡があったのは平成3年4月の下旬だったと思います。4月末からのゴールデンウィークに入る少し前でした。彼から連絡があったのも半年以上間があいていたと思います。その前回は、連絡だけではく金沢市の繁華街片町で直接会っていました。


片町で被告訴人YSNと会ったのは数年ぶりのことでした。彼とはほとんど連絡のない状態が長く続いていました。すぐに思い出せるのは昭和62年の春先頃のことで、確か片町の金劇の中にあるスナックで、私より二つ年上のAKという人と3人で飲んだことを憶えています。


その席は被告訴人YSNの送別会のようなものでした。支払いは被告訴人YSNが持っていたはずです。暫く当分の間会えなくなるような感じで、被告訴人YSNの一大決心のような話も聞かされたような気がするのですが、細かいことは思い出せません。


その場にいた二つ年上のAKさんは、被告訴人OSNと被告訴人OKNの家でプロパン配達の仕事をしていたこともあり、また、その後は長くOSNの鳶職の会社で働いていたとも聞いています。作業中に一緒に作業をしていた仲間が落とした鉄パイプが太ももに突き刺さる怪我をしたとも聞きました。


その鳶職の仕事中の怪我については、平成10年頃、配管の仕事で世話になっていた被告訴人KYNから聞いていたと思います。すでにその時は被告訴人OSNの会社を辞めたと聞いていたと思いますが、直接会う機会もなかったと思います。


彼は姫のNとも親しくしていたはずですが、その後の友達づきあいなども私にはわかりません。被告訴人YSNとの関係も同じです。このような公開の場では書くのをためらうようなつながりや接点もあるのですが、被告訴人YSNとのつきあいが続いていたという可能性もあるかとは思います。


二つ年上のAKさんは、私と同じ宇出津で被告訴人OSNと同じく一つ年上の女の人と結婚していました。彼女も被告訴人OSNとは特に親しい間柄でしたが、平成3年12月21日の夜、被告訴人HTNに連れて行かれた片町の飲み屋で働いていた二人の女性の一人もこの女の人でした。


被告訴人YSNが珠洲市飯田のシーサイドの近くでブルーバード510を横転させ、ギンギラギンにさりげなく、と歌をうたい始めたという話も既に書いているかと思いますが、その車に同乗していたのも、その飲み屋の二人の女性だと聞いています。


二つ年上のAK夫妻は、昭和62年頃、金沢市保古のアパートに住んでいました。私の東力2丁目のアパートとは歩いても行けるぐらいの距離だったので、何度か遊びに行ったこともおぼえています。当時彼は、川元急送というような会社で2トン車に乗務して市内配達の仕事をしていました。


昭和61年の夏から秋、私が金沢市場輸送で市内配達の仕事をしていた頃、配達先でちょこちょこ顔を合わすこともありました。ニュー三久(さんきゅう)というスーパーで会うことが多かったと思います。


今、こうやって書きながら当時のことを思い出していると、自分の仲間内で金沢市で市内配達の仕事を始めたのは二つ年上のAKさんがさきがけだったとも思えますが、運送会社の性質や仕事の内容は違っていたとも思えます。


川元急送というのはけっこう大きな会社でトラックの数も比較的多かったと思いますが、私個人としてはどういう会社なのか話を聞くこともなく、余り知らないという事情はありました。メインの仕事もわからなかったですが、スーパーの配達が多いという感じでした。


ニュー三久の専属の運送会社という感じでした。最近のことは知りませんが、金沢市近郊では店舗数の多いスーパーでした。金沢市場輸送の配達でも荷物は多い方でした。本多町、城南店、三ツ口店、淺の川店などが自分の配達先でした。


金沢市場輸送が市内配達の仕事を始めたのは昭和60年頃のことですが、もとはといえば、石川日通、鷺富、小林運送などの運送会社も2トン車一台ずつぐらいの割合で参加していました。自分が市内配達をしていた昭和61年のことです。


はじめは共同事業のような感じでやっていたそうですが、トラックの数が多く、配車係のような責任者を置くのが金沢市場輸送でした。もとはといえば寄せ集めから始まり、もめ事もあったと聞いたように思いますが、金沢市場輸送に一本化した上で、独立したのが市場急配センターでした。


金沢市場輸送というのはもともと長距離一本の運送会社でしたが、昭和60年頃から金沢中央市場の市内配達を手がけるようになり、市場内の仲買など中央市場の関係者から出資や援助を受けているような話も聞いていました。自分が知らない経緯もあるかと思うのですが、意外に感じることもありました。


昭和63年頃、金沢市場輸送の10トン車で鮮魚の長距離輸送をしていた頃、夜中に荷下ろしが終わって、市場の中にトラックを止めたまま食事に行っていると、フロントガラスに大きな張り紙で駐車禁止の注意書きを受けることがありました。


聞いた話によると、金沢市場輸送だけがちょっとした会費の支払いを拒んでいるため、中央市場に出入りする業者では金沢市場輸送だけがそういう扱いを受けているというとのことでした。当時のT社長の一存で拒んでいるという話でした。


金沢市場輸送には昭和59年当時、ちょこちょこ会社に顔を出す、上出という年配の人物がいて、周囲からは株主だと聞いていました。彼はその後、加賀能登の物産展の仕事を手がけるようになったようです。この物産展の仕事は金沢市場輸送がよくやる仕事の一つで、トナミ航空の請負になっていました。


全国各地のデパートでやる物産展の道具や商品を運ぶ仕事でした。私自身、平成4年の1月13日頃には東京の池袋のデパート。三越ではなかったかと思いますが、金沢から荷物を運び。同じく1月の終わり頃には、同じ池袋のデパートから荷物を引き上げる仕事をしました。


いつ頃かははっきり思い出せないですが、岩手県の盛岡のデパートから荷物を引き上げる仕事の時、上出がいたことを憶えています。その頃になると会社で上出の姿を見ることはなく、金沢市場輸送や市場急配センターとの関係も不明でしたが、癖のある人物でもあり、あえて関係性を目立たせなくしている


のか、と考えることもありました。宮崎県のデパートでも顔を合わせたかもしれません。都城だったような気もします。青森市内のデパートでも顔を合わせたような気がするのですが、だとすれば青森が最後に見た姿だったような気がします。平成3年の頃かとも思います。


上出のことは昭和59年当時、ちょくちょく事務所に来ていたのでよく知っていたのですが、その後は不思議に思うぐらい、話を聞くこともなくなっていました。金沢市場輸送とは縁を切っていたことも考えられますが、市場急配センターの被告訴人MHK社長の関係など気になる人物です。


金沢市場輸送の事務所が中央市場前の西念町にある頃は、午後、事務所の入っている建物の前の大通りにトラックを駐車させ、そこでワゴン車などに運ばれてきた物産展の荷物を積むことがほとんどだったと思います。


だいぶん説明が逸れてしまったので、被告訴人YSNの話に戻しますが、被告訴人YSNは昭和60年の夏頃、金沢市場輸送が市内配達の仕事を始めた頃に、市内配達の仕事をしていたと聞きます。人伝の話だったので、細かいことも憶えていないですが、長くて3ヶ月程度ではと思われます。


氷の運搬の仕事が多かったような話も聞いたように思います。この氷の仕事は私も昭和59年の夏頃、長距離の仕事の合間にちょこちょこやらされていました。白菊町の冷蔵庫や金沢港の漁連に氷の固まりを運ぶ仕事でした。一つ100キロ以上ある氷の固まりをポンコツのトラックで運んでいました。


どういう経緯で、被告訴人YSNがその時、金沢市場輸送で仕事をするようになったのか、要領を得るような話は聞かなかったと思います。本人に直接尋ねたはずですが、それでも誰それの紹介とか、はっきりした説明はなく、あるいは職安に求人が出ていたので、応募したという話だったかもしれないです。


被告訴人YSNとの間には、珠洲市三崎出身のHMという男がいました。年は私の一つ上でした。昔は被告訴人OSNと兄弟のように仲が良くいつも一緒に行動をしていた時期があると、聞いたこともあり、名前だけは昭和56年の頃から聞いていたと思います。京都に行ったとも聞いていたと思います。


私が珠洲のHMと初めて会ったのは昭和58年の9月か10月頃でした。場所は被告訴人YSNの金沢市観音堂のアパートでした。そのアパートに彼がちょくちょく顔を出していたのです。彼は観音堂に近い金沢市寺中町に事務所のある中西水産輸送で4トン車で長距離に乗務していました。


一度、誘われて長距離の運行に同行し、山口県の宇部市まで行ったことがありました。帰りは大阪まで国道2号線を走り、広島から積んだ荷物を静岡県内でおろし、山梨県から長野県、新潟県の糸魚川に出て、富山県から金沢に戻ってきました。


彼はその後、金沢市黒田にワンルームのアパートを借りて住むようになり、そのアパートにも何度か遊びに行っていました。彼は私が金沢市場輸送を昭和59年の10月中頃にやめる、半月か一月ほど前に入社し、同じく4トン車の長距離に乗務していました。一応、私の紹介というかたちの入社だったと。


彼はその後、守田水産輸送にいましたが、輪島屋鮮冷との間を、行き来していたはずです。金沢市場輸送と守田水産輸送は1年半ぐらいの間、仕事のやりとりが多く、私も青森の鮮魚の定期便をやっていました。


金沢市場輸送の事務所が西念町から二口町に移転してからも、およそ半年ぐらいの間は、仕事のやりとりが続き、守田水産輸送のトラックは金沢市場輸送の事務所で給油までやっていました。その後仲違いしたのか、仕事のやりとりもなくなりましたが、詳しいことは忘れました。


珠洲のHMは、短かったですが、私の紹介で中西運輸商に戻り、しばらく4トン車に乗務した時期もありました。短かったですが、当時住んでいた黒田のアパートと、YTの妻が働く店が近かったこともあり、短期間に親しくなったような様子でした。喫茶店のような店でしたが夜はスナックのような話でした。


このYTについては、本書においても既に触れているかと思います。元々は佐川急便のホームで、作業のアルバイトに来ていたのを誘って、運転手になり、免停か取り消しがきっかけで配車係になって、その後は金沢市場輸送の配車係にもしていた人物です。年はたぶん、私の一つ年下ではなかったかと思います。


そういえば免停中であったのか、警察の検問を突破しようとして警官に軽い怪我を負わせ、10日ほど留置場に入っていたということもありました。金沢市場輸送にいた頃だったと思いますが、はっきりした時期は憶えていません。


それから暫くした頃かと、思いますが、請負で市内配達の仕事をしていた被告訴人HTNが、片町で酒を飲んでいるときに喧嘩をして、相手に頭蓋骨骨折の怪我を負わせ、同じく10日ほど留置場に入っていたという話を聞いていました。詳細不明ですが、罰金で済んだような話だったかと思います。


YTは平成3年頃になると、守田水産輸送に手形の裏書きをしてもらったような話で、3台ぐらいの10トントラックを保有し、子会社のようなかたちで、守田水産輸送の仕事をしていたような話でした。都商事という名前だったと思いますが、同じ名前で守田水産輸送は、鮮魚の中継の仕事もしていたはず。


中継というのは九州や四国など遠方からの荷物を、富山、高岡、福井のような別の行き先の荷物を小口として運ぶ仕事でした。最低でも一箱50円の運賃という相場だと聞いていたように思います。


金沢の中央市場では、山水運輸、ウロコ運送、守田水産輸送が鮮魚の中継をやっていました。金沢市場輸送でも石巻・塩釜の定期便で高岡行きの荷物は、守田水産輸送に中継を出していました。福井は自社便が出ていて、そのうち市場急配センターの仕事になりました。


はじめに市場急配センターの事務所が更地の状態として利用が決まった頃は、YTとFHの二人は、ここで中継を始めると断定的に話していました。FHは中西運輸商でトレーラーの運転手をしていた人物ですが、確か免許取り消しになり、YTと同じ頃、同じように配車係をするようになり、


YTが金沢市場輸送に来ると、すぐに後を追うような感じで金沢市場輸送に来て、同じく配車係をするようになっていました。当時の運送会社の社員としては年配で、50代になっていたような気もします。


更地で中継の仕事をすると聞いたのは平成2年の3月ぐらいではと思います、金沢港のイワシの運搬の仕事もダンプを除きなくなりかけた頃であったかと思います。


金沢港でイワシの運搬の現場監督のようなことをやっていた市場急配センターの社員、小林健一が暇を持てあますようになったのも同じ頃からでした。金石街道から中央市場方面に入ってすぐのところに、掘っ立て小屋のようなラーメン屋があり、そこでよく一緒に食事をしたのですが、


昼間から焼酎を煽っていたような気もするのですが、市場急配センターの社長であった被告訴人MHKに対する不満や愚痴を口にすることが多くなっていました。当時はかなり珍しかったパソコンにデータ入力する仕事もやらされ、他にできるものもいないと話していました。


これは私の事件の被害者となったAAさんが、受け持ちとする仕事であったので、彼女が入社する前であったことはほぼ間違いないと思います。小林健一はまもなく会社から姿を消したのですが、ちょうど入れ替わりのようなかたちで、彼女の姿を金沢市場輸送の事務所で見かけるようになりました。


YTとFHが事務所から姿を消したのも、それに近い時期であったと思いますが、小林健一より一月ぐらい後だったように思います。なんとなく6月頃だったという記憶が残っています。AAさんの姿とはしばらくの間、同じ金沢市場輸送の事務所内でみることがあったような気がします。


YTが金沢市場輸送に来たのは昭和63年の12月頃だと思います。その12月の20日頃に、10トン車に同乗させて一緒に宮城県の石巻に行ったことがありました。ハローなんとかいうチェーンのおもちゃ屋に、新規開店の商品を運ぶ仕事でした。同じ店の仕事で、四国の高知市に行ったこともあったので、


ほぼ全国にチェーン展開している店で、あったと思います。金沢市内でも八日市のあたりに、同じ系列の店があったように思います。当時は珍しい感じのチェーン展開のおもちゃ屋でした。


YTは金沢市場輸送に来る前、私に連絡を寄越し、金沢市場輸送で配車係をしたいので紹介してほしいと、かなり強い希望という感じで話を持ちかけてきました。国道八号線沿いで松任市(現在の白山市)の寺井町より最果てにあるような団地にも、妻子と一緒に行ったことを断片的に記憶しています。


YTの目的は、中西運輸商の仕事の中心として請け負っていた佐川急便の広島九州便を、中西運輸商に取って代わって請け負うことでした。だいぶん前から中西運輸商は事故も多くて佐川から切られるのは時間の問題という話は聞いていました。


私は昭和59年12月から昭和61年3月、昭和62年1月から同年4月頃まで、中西運輸商にいました。先に入ったときは年齢の制限にも掛かっていたので、普通免許で4トン車に乗務。二度目の入社では大型免許で10トン車に乗務していました。この時は、YKもFHも運転手をやっていました。


仕事の中心が佐川急便の広島九州便であったことは同じですが、広島県東広島市にある西日本運輸興業という会社の請負だと聞いていました。その後、この親会社が倒産したとも聞いたのですが、細かいことは憶えていません。


そのうち中西運輸商がついに佐川から切られたという話は聞きましたが、広島九州便は九州運送がやるようになったと聞いていました。


YTは金沢市場輸送に来てまもなく、九州から運転手を7人か8人ぐらい連れてきました。結局、慣れない雪道の東北便が多いと言うこともあって、ほとんどはすぐにいなくなってしまったと思います。一人だけ残った運転手がいて平成3年の春頃も、金沢市場輸送で姿を見かけていた覚えがあります。


だいたいの名前も憶えていますが伏せておきましょう。確か北九州市でちょっとした事故を起こし、相手が悪くてずいぶんともめているという話を耳にすることがありました。この時も、事故のトラブルは市場急配センターの社長であった被告訴人MHKが担当しているような話だったと思います。


被告訴人MHKは中古車販売の店を経営していたこともあり、事故の保険に関してはずいぶんと慣れているような話で、金沢市場輸送の事故の処理も任されていたようです。私が初めて市場急配センターの事務所に入ったのも、金沢市場輸送の同僚運転手のつきあいでしたが、事故処理の話でした。


私はさいわい保険を使うような事故は昭和61年の入社以来は起こさなかったので、直接、被告訴人MHKと保険の話をするような機会はなかったです。相当に顔が広く、口が利き、やり手だという印象は持っていました。


金沢市場輸送で佐川の仕事をすることについて、配車係から金沢市場輸送の社長になった被告訴人MTKは当初から乗り気ではないという感じでした。それでも私自身、一度は金沢支店から九州便の仕事を金沢市場輸送のトラックでやったことはありました。中西運輸商の仕事としてやったような気もします。


被告訴人MTKが金沢市場輸送で配車係をするようになったのは、昭和61年の12月頃からだったと思います。それまでは運転手でしたが、配車係の藤村さんが手術のため数ヶ月入院することになり、さんざん頼まれて仕方なく引き受けたと言っていました。私がちょうど大型免許を取った頃のことです。


ついでに書いておくと、女性事務員として被告訴人IHKの姿を見るようになったのも同じ頃で、被告訴人UHKの姿を市内配達の運転手として見るようになったのもだいたい同じ頃かと思います。


被告訴人MTKが配車係として仕事をするようになったのは、ちょうどバブル景気の景気上昇とも重なっていたはずです。当時社長であった被告訴人TSKに拝み倒されて配車係をするようになったが、給料の面でも満足な待遇は受けておらず、運転手の時より悪くなったと、繰り返し話していました。


当時の金沢市場輸送の給料システムでは基本給が10万円で、年間1万円のベースアップがあり、8年目の彼は他の運転手と比較してずいぶん恵まれていたような話をしていました。歩合というのも他とは変わっていて、荷物を積んで走った距離に大型車だと20円を掛けるような計算でした。


その後、事務所が二口町に移転してから給料の計算方法が変わり、距離ではなく運賃の売り上げを計算するものに変わりましたが、基本給の部分が大きくなり、歩合の幅は逆に少なくなったような気もします。


給料というのは理解のできないような計算結果になっていましたが、総額で50万円を超えていることはなかったように思うのですが、手取りは最高で43万円を超えることもありました。給料計算上の休みというのはほとんどなしでした。


予定している運行を行かないと言われるのが一番困るので、会社としてはそういう曖昧な基準で休日の計算をしていたのだと思います。丸一日の休みとなると少なかったとは思います。


市場急配センターにおいては基本給が50万円ということになっていましたが、手取りで40万円を超えることは一度もなかったと思います。離婚したので税金の引かれる額は増えたのだとは思いますが。どうかと思う明細ではありました。


金沢市場輸送においては4トン車や大型車に乗りたての頃の方が、仕事もきつく、給料も安かったと思います。高速道路の利用もずいぶんと制限されていました。一般道だと2,3倍の時間が掛かることもあります。道路事情も大幅によくなり整備されていきました。


YTとFHの二人は、事務所で暇を持てあますような姿を見ることが多く、荷物の積み替え作業を手伝ったり、雑用に近いような感じに見えていました。被告訴人MTKが配車係としての仕事を手柄を独占していい気になっているような話は、比較的若い女性事務員の口から話を聞くこともあり呆れた風でした。


銭湯に行って中断していましたが、銭湯の中で考え事をしながら思い出したことがいくつかあります。一つは、YTの姉の旦那という義理の兄が、金沢市場輸送で10トン平ボディ車に乗務していました。結構長かったと思います。あるいはやめる前に自分の方が市場急配センターに移動したかもしれないです。


もう一つはYTの父親のことです。父親の話というのはYT本人から余り聞いてはいなかったように思いますが、他の運転手からYTの父親がイワシの運搬をするようになったと聞き、それらしい人の姿を北陸ハイミールの台貫場で何度か見かけていました。遠目にしか見たことがなく顔の認識もないです。
YTの父親のことをしったのは、平成3年の12月からのイワシのシーズンだったと思います。比較的小型のダンプに乗務していたように思います。小型と言ってもダンプはすべて10トン車でした。ダンプもトラックも大型化するほど総重量が増え、法定の積載量は少なくなっていました。

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